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    ものみの塔 1982 | 2月15日
    • 献身とその象徴

      1 西暦前607年にエルサレムが滅ぼされる前の誠実なユダヤ人の場合のように,人の身分を示すしるしは,どのように良いものとなり得ますか。

      人の身分,あるいは公の立場を示す印や象徴は良いもの,必要なものであることがあります。例えばエルサレムが西暦前607年に滅ぼされようとしていた時のこと,正しい心を持つイスラエル人を虐殺から守るよう,その額に印を付けるべく象徴的な一人の「人」が派遣されました。神の聖都であるはずの場所のただ中で『行なわれている嫌悪すべきこと』に義憤を感じていた少数の人だけが,救いのための印を付けられました。―エゼキエル 9:1-7,新。

      2 啓示 7章には身分を明らかにするどんな要素が論じられていますか。これらはどのように救いと関連していますか。

      2 今日,「大患難」が全世界を襲おうとしています。そのため啓示 7章1-8節によると,地の四隅に位置する「四人の使い」は,神のお選びになる一定の数の人々の額に証印が押されるまで,四方の風が吹いて極めて破壊的なあらしである「患難」が生じないよう,その風を押さえていなさい,という指示を受けています。このことにより,「大群衆」がこの「大患難」に生き残るにふさわしいものとみなしていただけるよう,自分自身を「子羊の血」で洗うための時間が与えられることになります。―啓示 7:9-14。マタイ 24:21,22。

      3,4 ユダヤ人の大祭司の場合,そのターバンの上の『献納の象徴』は何を思い出させるものとなりましたか。

      3 古代イスラエルには祭司職が設けられました。モーセはエホバから与えられた特別な指示に従い,大祭司用の独特な衣服を製作しました。ターバンに関してはこのように記されています。「彼らは自らの聖なる献納の象徴[しるし]として純金のばら飾りを作り,その上に印章上の刻み込みとして『主に対して神聖な』[『ヤーウェに対して聖別された』,エルサレム聖書]と書き込み,それから彼らはターバンの上部にそれを固定するため,その上にすみれ色の組みひもをしっかりと付けた」a ― 出エジプト 39:30,31; 29:6,レビ 8:9,新英訳聖書,新世界訳聖書。

      4 この『献納の象徴』は,大祭司が献身した民を益する神聖な奉仕のため神によって「聖別され」た,あるいは献納されたものであるということを大祭司および見守るすべての人に思い出させたことでしょう。大祭司や仲間の祭司たちは率先して人々に教育を施し,罪を贖う受け入れられる犠牲をささげましたが,そうしたことは彼らが神への献身にふさわしく生活するための助けとなったでしょう。これは,この国民の献納された聖なる身分に寄与したことでしょう。もしエホバを離れるなら,今度はエホバが彼らから離れ,彼らを敵の手に渡されるとの警告を受けていたからです。―申命 28:15,25,63。

      5 今では,コーヘーンという名のユダヤ人でも自分がアロン系の大祭司であると証明することはできませんが,わたしたちの場合絶望的でないのはなぜですか。

      5 イスラエル人の悲惨な歴史は,彼らが神の命令と,神に対して献納された自分たちの奉仕から離れたために被った災いで満ちています。西暦70年に生じた,エルサレムおよびその神殿の2度目の滅びの後,ターバンに献納の象徴を付けていた大祭司は姿を消しました。今日では,コーヘーン(“祭司”を意味する)という苗字を持つユダヤ人といえども,自分がイスラエルの大祭司であると証しすることはできません。ではわたしたちの状況は絶望的なものでしょうか。そうではありません。栄光を受けた神のみ子に関して次のように記されているからです。『このような大祭司,忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ,もろもろの天よりも高くなられたかたこそわたしたちの必要にかなっていたのです。彼はただ一度かぎりご自身をささげられました』― ヘブライ 7:26,27。

      6,7 イエスは,イスラエルの祭司の部族に生まれましたか。イエスはどのように大祭司になることができましたか。

      6 イエスは神の子であったので,神の祭司となるためにレビ族,あるいはアロンの祭司の家系の一員となる必要はありませんでした。エホバ神のすばらしい取決めによりそれが可能になったのです。ダビデ王は神の霊感を受けて,この優れた子孫に関する預言を行ないました。この子孫は自らの王家の父祖たちよりも高い地位に就きます。「わたしの主に対するエホバのお告げはこうです。『わたしがあなたの敵をあなたの足台として置くまでは,わたしの右に座していよ』。あなたの力の杖をエホバはシオンから送り出して,こう言われます。『あなたの敵のただ中で従えてゆけ』。あなたの軍勢の日に,あなたの民は進んで自らをささげます。神聖さの光輝のうちに[聖なる軍勢のうちに],夜明けの胎から,あなたは露玉のような若者の隊を得ておられます。エホバは誓いをお立てになりました。(そして悔やまれません。)『あなたは定めのない時に至るまで,メルキゼデクのさまにしたがう祭司である!』」― 詩 110:1-4,新世界訳,アメリカ訳。

      7 したがって栄光を受けたイエス・キリストは現代に至るまで,献納を象徴する物質を身に付けていた古代イスラエルの祭司長たちよりも地位の高い,王なる大祭司であられます。イエス・キリストは,レビ族の祭司であるからではなく,エホバ神の誓われた誓いによって職務に就いておられるのです。

      『進んで自らをささげる』人々のための象徴

      8 今はなぜキリストの「軍勢の」日なのですか。今進んで自らをささげるこれらの人々は,この点でどのように前進してゆきますか。

      8 王なる大祭司であるキリスト・イエスの弟子たちは今,その「軍勢の日」に「進んで自らをささげます」。彼らはこの王なる大祭司の名においてエホバ神に献身し,その献身の象徴として水のバプテスマを受けます。「大患難」がぼっ発する前,最終的に全員に証印が押されなくてはならないのはこれらの人々です。彼らは「大群衆」という仲間と共に,正に露玉のように,救いに関する神のさわやかな音信を人々にもたらすことに「進んで自らをささげ」ます。―啓示 7:2-4,9,10,14。

      9 ローマ 12章1,2節でパウロは油そそがれたクリスチャンたちにどんな助言を与えていますか。

      9 使徒パウロは1900年前に弟子たちに手紙を書き,こう述べています。「兄弟たち,わたしは神の情けによってあなたがたに懇願します。あなたがたの体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲としてささげなさい。これがあなたがたの理性による神聖な奉仕です。そして,自分をこの事物の体制に合わせてはなりません。むしろ,思いを作り直して自分を変革しなさい。それは,神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らはっきり知るためです」― ローマ 12:1,2。

      10,11 (イ)したがってパウロは,どんな論議に続くものとして,ローマにいた異邦人のクリスチャンたちに訴えを行なっていますか。(ロ)この取決めは,どんな点で神の側の大いなるあわれみの表明でしたか。

      10 上述の懇願は,象徴的なオリーブの木に関するパウロの論議の直後に出てきます。園のオリーブの木の枝のように,献身したイスラエル国民は神の「友」アブラハムの生来の子孫でした。そうした事情のため彼らには,アブラハムに対してなされた約束により,まず最初に「アブラハムの胤」となる資格がありました。(創世 12:3; 22:17,18,新。ガラテア 3:16,29。ヤコブ 2:23)しかしイエスをメシアとして受け入れ,地的なアブラハムの生来の胤から大いなるアブラハムであるエホバの霊的な胤へと移されたのは生来のユダヤ人の残りの者だけでした。(ローマ 11:5,7)そのほかの者たちは「枝」のように切り落とされました。彼らに代わるものとして,神はいわば象徴的な野生のオリーブのような非ユダヤ人に目を向けられたのです。それは,十分の数の「枝」を切り取り,すべての祝福の源,大いなるアブラハムであられるエホバ神を根とし,14万4,000の枝で構成されることになっていた霊的な園のオリーブの木に接ぎ木をするためでした。―ローマ 11:13-33。啓示 14:1。

      11 したがって,そのローマの人々や他の無割礼の非ユダヤ人たちのすべてが,神の王国によって地の全家族を祝福するアブラハムの霊的な胤の一部になるということは,神の側の大いなるあわれみの表明でした。(エフェソス 2:12。ガラテア 3:26-29)これは彼らに自己犠牲の道を課するものとなりました。しかしこれは,神がその時人類に差し伸べておられた唯一の特権でした。しかもそれは特別にすばらしい特権でした。使徒パウロは適正な限界を踏み越えることなく,手紙の中で彼らに次のように述べました。「自分を死人の中から生き返ったものとして神にささげ,また自分の肢体を義の武器として神にささげなさい。律法[モーセの律法]のもとにではなく過分のご親切のもとにある以上,罪があなたがたの主となってはならないからです」― ローマ 6:13,14。

      12 「自分を死人の中から生き返ったものとして神にささげなさい」と告げられた時,霊によって油そそがれたキリストの弟子たちにとってそれはどんなことを意味していましたか。

      12 パウロは,すでに献身していたクリスチャンたち,つまり「聖なる者たち」に手紙を書いていますが,彼らが命をささげるに当たって最初に行なったことを見過ごすことなく,『自分を死人の中から生き返ったものとしてささげなさい』と述べています。しかし彼らはこの自己犠牲の道において,この献身にふさわしい生き方をしなければなりません。そうしないなら,代わりの枝としての彼らも,やはり切り取られてしまうでしょう。(ローマ 1:7; 11:21,22)さらに,霊感のもとに書かれたこれらの言葉は,イエス・キリストの将来の弟子たちによって読まれ,彼らが献身しバプテスマを受けたこの関係を神との間に持ち,またその関係を保つのに必要とされる段階をすべて経るよう,強い励ましを与えるものとなります。一度築かれた,神に献身した関係を保つために,彼らは自分たちの肉の肢体を罪の支配に服させるのではなく,義の武器とする闘いを絶えず行なうことになります。それは次のイエスの言葉に従うことです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて絶えずわたしのあとに従いなさい」― マタイ 16:24。

      献身を象徴する「大群衆」

      13 地的希望を持つ人々が神に献身し,それを水のバプテスマによって象徴するのは正しいことですか。

      13 今日,全地にわたって230万以上の人々が王国の良いたよりを宣べ伝えることに参加しており,そのうちの大部分は自らの献身を象徴する水のバプテスマのために自らを差し出しています。年ごとの主の夕食の祝いの際に,表象物のパンとぶどう酒にあずかり,自分たちが天的な希望を持つキリストの弟子であることを告白する人々はそのうちの1万人足らずです。では,その他の人々も皆献身し,水のバプテスマによってそれを正しく象徴するでしょうか。確かにそうします。彼らも目前に迫った「大患難」に生き残り,神の「新しい地」の一部として相続財産を得るため,立派な羊飼いであるキリスト・イエスを通し,神との正しい関係に入らなければならないからです。―ペテロ第二 3:13。啓示 21:1-4。

      14 立派な羊飼いであるキリスト・イエスの「一つの群れ」の中で,どんな優れた関係が正しく行き渡っていますか。

      14 それで,献身したエホバの証人たちの圧倒的大多数は,天にある王国においてイエス・キリストの共同相続者になるという天的希望を抱いていません。彼らはエホバの霊によって生み出された霊的イスラエル人であるとは主張しません。それでも「ひとりの羊飼い」であるイエス・キリストの下にある「一つの群れ」の成員として,霊的イスラエル人の残りの者と交わり,彼らから離れることがありません。(ヨハネ 10:16)これは彼らの優れたところであり,聖書的にも正しいことです。

      15 (イ)生来のユダヤ人のほかにだれがエジプトを出,最後には約束の地に入りましたか。彼らはそこでどんなものとみなされましたか。(ロ)彼らは今日のだれを表わしますか。

      15 ではここで,聖書のコリント第一 10章18節に勧められていることをしてみましょう。つまり「肉的な面でのイスラエルを見てください」。モーセの指導の下にエジプトを脱出した時,そこを出たのは割礼を受けた生来のイスラエル人だけではありませんでした。「入り混じった大集団も彼らと共に上って行き,加えて羊の群れと牛の群れ……が一緒であった」のです。(出エジプト 12:38,新)イスラエル人が約束の地に入った時,これらの人々は「あなたの門の内にいる外人居留者」となりました。(出エジプト 20:10; 民数 35:15; レビ 19:9,10,新)古代のこの入り混じった大集団は,今日における,立派な羊飼いであるイエス・キリストの「ほかの羊」の「大群衆」を表わしていました。―ヨハネ 10:14,16。啓示 7:9-17。

      16,17 (イ)ひゆ的に言って,「入り混じった大集団」はどんな方法でイスラエル人と共にバプテスマを受けましたか。(ロ)今日の対型的なエジプトから逃れたのはだれですか。紅海における状況と似た状況で滅びを被るのはだれですか。

      16 モーセの時代の非イスラエル人から成る「入り混じった大集団」は,奇跡的なバプテスマを含め,割礼を受けたイスラエル人と同じ経験をしました。このバプテスマについて使徒パウロはコリント第一 10章1-4節でこう述べています。「わたしたちの父祖はみな雲の下にあり,みな海の中を通り,みな雲と海とによってモーセへのバプテスマを受けました。そして,みな同じ霊的な食物を食べ,みな同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らはいつも,自分たちについて来た霊的な岩塊から飲んだのです。その岩塊はキリストを表わしていました」。このように,イスラエル人も「入り混じった大集団」もひゆ的な方法でバプテスマを受けたのです。もっとも彼らは文字通り水にぬれることはありませんでした。

      17 エホバ神によるこの奇跡的なバプテスマは,彼らを,神がお与えになった指導者モーセに託すものとなりました。それはあたかも彼らが文字通りモーセへのバプテスマを受けたかのようでした。しかしそれは,追跡して来たエジプト人の場合とは異なり,死へのバプテスマではありませんでした。(出エジプト 14:1-15:21)今日わたしたちは同様の状況に近付いています。霊的イスラエル人の忠実な残りの者とその仲間である「大群衆」は対型的なエジプトを後にしました。(啓示 11:7,8)彼らはキリストの千年王国の支配する事物の新秩序へと行進します。大いなるモーセである栄光を受けた主イエス・キリストが彼らを導かれます。その後ろを追跡するのは,そうやすやすとは行かせまいと心に決めている敵の世です。対型的なエジプトは神の戦場であるハルマゲドンに向かっており,そこで彼らは火による,つまり滅びのバプテスマを受けるでしょう。生き延びてその恐ろしい体験を話せる人は一人もいません。(啓示 16:14-16。マタイ 3:11,12)紅海における出来事と同じように,ハルマゲドンにおいて虐殺される人の中には霊的イスラエルや,大いなるモーセの「ほかの羊」の「大群衆」は一人も含まれません。

      18 「大群衆」の人々は,モーセの指導の下でエジプトを出た後の「入り混じった大集団」とどのように似たものとなりますか。

      18 「大群衆」の忠実な人々は,ファラオに相当する悪魔サタンの支配する,災厄の臨んだ対型的なエジプトに戻りたいなどという二心の気持ちを抱いて落伍することはありません。彼らは顔を前に向け,「一つの群れ」のように,霊的なイスラエル人の残りの者と絶えず接触を保ちます。(ヨハネ 10:16)「入り混じった大集団」が紅海を通って生き延びたと同じように,現代の「大群衆」の人々も,「全能者なる神の大いなる日の戦争」の後,救いの岸辺に立つことでしょう。

      19 今日「大群衆」を構成している人々は特にいつから水のバプテスマを受けてきましたか。そしてどのように神に清い崇拝をささげるべく,自分たちの身分を証明するものを清くしてきましたか。

      19 特に1935年以来,現在「大群衆」を構成している人々は,大いなるモーセであるイエス・キリストを通して行なう神に対する無条件の献身を象徴するものとして,水のバプテスマを進んで受けてきました。彼らは自分たちの身分を証明するものとなる長い衣を洗い,それを大いなるモーセである「子羊の血で白く」しました。(啓示 7:9-14)彼らは神に対して清い崇拝をささげています。

      20 「大群衆」の人々はどこでエホバを崇拝していますか。このことはゼカリヤ書 8章20-23節の中でどのように予告されていましたか。

      20 清い崇拝者のこの「大群衆」は,昼も夜も神の霊的な神殿にいます。(啓示 7:15-17)彼らは,預言者ゼカリヤが前もって見ていた人々によって予表されていました。その人々は,西暦前537年にイスラエル人がバビロンから解放されてエルサレムにエホバの神殿が回復された後,その神殿で崇拝を行なっていました。この点に関しゼカリヤ書 8章20-23節(新)にはこう記されています。

      「万軍のエホバはこう言われた。『再びもろもろの民と多くの都市の住民がやって来る。一つの都市の住民は必ず別の都市の住民のところに行ってこう言う,「ひたすら行って,エホバの顔を和め,万軍のエホバを求めよう。わたしも行く」。こうして多くの民と強大な国民がエルサレムで万軍のエホバを求め,エホバの顔を和めようとして,まさにやって来る』。

      「万軍のエホバはこう言われた。『その日には,国々の民のあらゆる言語の者のうち十人が,ユダヤ人であるひとりの人のすそをつかみ,まさにそれを捉えてこう言うであろう。「わたしたちはあなた方と共に行こう。わたしたちは神があなた方と共におられるということを聞いたから」』」

      21 「大群衆」はどんな方法で「ユダヤ人であるひとりの人のすそをつかみ」ますか。そしてどんな理由のために,彼らは「大患難」に生き残る希望を抱きますか。

      21 これら「国々の民のあらゆる言語の者のうち十人」の態度は,唯一の生けるまことの神であられるエホバ神への献身を示すものです。今日このような献身は,かつて地上に存在した最も偉大な「ユダヤ人」,すなわち一度かぎり犠牲にされた「子羊」イエス・キリストを通して神に受け入れられるものとなります。彼らは自分自身を差し出すことだけではなく,彼らの場合にはそれに加えて同じ神に対する専心の献身の象徴として水のバプテスマを受けることにより,忠実にイエスに見倣っています。彼らは14万4,000人の霊的ユダヤ人の残りの者の「すそをつかみ」,その「あなた方」と共に上なるエルサレム,天のエルサレムの下に集まります。まだ地上にいる残りの者が代表しているその霊的な神殿において,彼らは昼も夜も至高者であられる神エホバに「神聖な奉仕」をささげます。彼らの望みは,「大患難」を生き残り,神にささげられた奉仕を地上で永遠に行ない続けることです。専心の献身をし,バプテスマを受けた神の僕として彼らがふさわしく認められることにより,彼らはそれを得ることになります。『父は,霊と真理をもってご自分を崇拝するそのような者たちを求めておられる』と保証されているからです。―ヨハネ 4:23,24。

  • 「わたしがバプテスマを受けることになんの妨げがあるでしょうか」
    ものみの塔 1982 | 2月15日
    • 「わたしがバプテスマを受けることになんの妨げがあるでしょうか」

      1 フィリポは,どんな人のところに遣わされましたか。

      この質問をしたのは,神への愛はすでに持ちながら,「イエスについての良いたより」については啓発を受けたばかりの篤信の人でした。この人はエチオピアの宦官で,ユダヤ教に改宗した人として,「崇拝のためエルサレムに行ってきた」のです。福音宣明者のフィリポが神の霊の導きを受けてこの宦官に近付いたのは,その宦官がエチオピアの女王の用に仕える高官としての仕事に戻るため,エチオピアに帰国する途中のことでした。

      2 フィリポはどのようにしてこの宦官が預言を理解するのを助けましたか。

      2 その兵車と並んで走りながら,フィリポはその人がイザヤ書を声を出して読んでいるのを聞きました。自分の読んでいる聖書の一節,つまりほふられるために連れて行かれる無抵抗の子羊に関するくだりが理解できたかどうかを尋ねられたそのエチオピア人の宦官は,預言者が自分のことを言っているのかほかの人のことを言っているのか分からないことを認めざるを得ませんでした。それはフィリポにとって話を始める非常によいきっかけとなりました。「フィリポは……この聖句から始めて,イエスについての良いたよりを彼にはっきり伝え(まし)た」。確かにイザヤの預言は,「世の罪を取り去る神の子羊」に関する預言でした。―使徒 8:26-35。イザヤ 53:7,8。ヨハネ 1:29。

      3 この新しい理解は,この人にどんな影響を与えましたか。

      3 この宦官は,自分の人生における全く予期しなかった,しかし劇的な事の成り行きからどんな影響を受けましたか。「さて,彼らが道を進んで行くと,水のあるところに来た。すると宦官は言った,『ご覧なさい,水があります。わたしがバプテスマを受けることになんの妨げがあるでしょうか』」,と記されています。この人の生活態度や神の目的に関する理解の仕方が正しく,特に今はそれらがメシアおよび救い主としてのイエスと関係を持つようになったため,バプテスマを受けることを延期しなければならない理由は何もない,とフィリポは理解したようです。兵車は止まり,二人は一緒に水の中に入り,フィリポはこの宦官が罪の許しのためのイエスの犠牲を受け入れたことに基づき,バプテスマを施しました。―使徒 8:36-39。

      あなたはどうですか

      4 エホバの証人と交わっている人々のうちどれくらいの人が,バプテスマの段階を経ていますか。

      4 今日世界中には,エホバの証人と交わってはいてもエホバへの献身の象徴としてまだバプテスマを受けていない人が大勢います。1981年に「良いたより」を宣べ伝える業にあずかった人々の世界全体の最高数は236万1,896人でした(そのうち25%はまだバプテスマを受けていません)。しかし1981年の主の夕食には,全世界で合計598万7,893人の人が出席しました。これは,エホバの証人の何らかの集会に出席している人の半数以上がまだバプテスマを受けていないことを意味しています。これは警告を発する理由となるでしょうか。そうではありません。しかし誠実な関心を示すべき理由とはなります。その中には,交わり始めてからまだ数か月の人たちもいます。

      5 まだバプテスマを受けていない人にとってこのエチオピア人の宦官はどのように良い模範となっていますか。

      5 この雑誌の親愛なる読者のあなたも,まだバプテスマを受けていない方の一人かもしれません。まだバプテスマを受けないことにはもっともな理由があることと思いますが,そうした理由がないのであれば,バプテスマを受けることを延ばさなかったエチオピア人の宦官の優れた模範を注意深く,祈りのうちに考慮なさるようお勧めしたいと思います。この宦官は自分の思いと心を探り,自分がバプテスマを受けるのに妨げとなる要素が何かあるかフィリポに尋ねました。しかし延ばす理由が何もないことが分かったので,すぐさまバプテスマを受けました。

      6 もう少し時間が必要だと考えている人々は,どんな段階を経なければなりませんか。

      6 あなたがバプテスマを受けないのは,正直に評価したうえで,まだ自分にはエホバに心からの献身ができるほど神の言葉に関する十分な理解がないと結論したためかもしれません。無条件の献身をするには,エホバとその目的をよりよく知らなければなりません。そうするのは称賛に値することです。時が日に日に過ぎ去ってゆくことを思いに留めながら,勉強の面で引き続きよく進歩されるようお勧めします。エホバの証人の助けを得て,聖書を個人的に学ぶ機会を十分に活用してください。(テモテ第二 3:16,17)クリスチャンの集会に定期的に出席する習慣も身に付けましょう。集会に出れば重要な教えや,仲間のクリスチャンとの必要な交わりや,彼らからの励ましが得られます。(ヘブライ 10:24,25)この優れた課程に従って勤勉に励むなら,数か月もすれば,水のバプテスマによって献身を象徴する備えができるかもしれません。わたしたちの天の父は,あなたが神とのこの非常に特別な関係に入ることを勧めておられます。

      7 (イ)バプテスマを遅らせている人の中にはどんな考え方をする人がいますか。(ロ)イエスはこの考え方が危険であることをどのように示しておられますか。

      7 恐らくあなたは,エホバの証人の集会に数年間出席しているものの,献身とバプテスマの段階をいまだに踏みかねている人かもしれません。心に秘めている理由を吟味してみるとき,クリスチャンとして生きることは自分に制約を課すことだと考えているために延ばしているということはないでしょうか。バプテスマを受けないでいれば,こうした制約に縛られることなく,古い体制が存続している間,どうかと思われるような事柄を行なうある種の“自由”が得られると考え,最後の瞬間まで待ってから真の崇拝に関する自分の立場を定めようとしていますか。これは危険この上ない,身の破滅を招く考え方です。イエスはこう言われました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい」― ルカ 21:34,35。コリント第一 15:33,34。ローマ 13:11-14。

      8 自分自身を神にささげよとのエホバの愛ある招待を,わたしたちはどうみなすべきですか。

      8 もしあなたが,命を神にささげることによって神の恵みに入るようにとのエホバの愛ある招待に応ずることを,正当な理由もなく延ばしているのであれば,その招待を差し伸べるために許されている時間は,あなた個人の場合には尽きてしまうかもしれません。(コリント第二 6:1,2。ヘブライ 12:25)ですから命の賜物に手を伸ばし,それを感謝のうちに自分に引き寄せるのをためらってはなりません。間もなく滅びてしまうこの体制の魅力を未練がましくいつまでも振り返るようなことをしてはなりません。機会があるうちに神の愛にこたえ応じてください。神はだれをご自分との親密な関係に入らせるかに関して選択をされ,何を行なえ,何を行なえないかに関しても制限を課しておられますが,あなたはエホバを知れば知るほど,神の行なわれることや要求されることが常にあなたの最善の益となることを知るようになります。神は本当に良いもの,あるいはあなたに永続的な幸福を与えるものを何一つ奪い去ろうとは思ってはおられません。(詩 145:16,19)尊敬の念に満ちた従順な息子であれば,自分の地的な父親と共にいることやその父親から教えを受けることをごく当然と考えます。ましてわたしたちの愛ある天の父に対する態度は,それ以上のものであるべきではないでしょうか。―ヨハネ 14:23。

      9 わたしたちは個人的な問題にどのように立ち向かうべきですか。

      9 もちろん,あなたが何らかの肉的な欲望を制御するために真剣に闘っており,心と力を尽くしてそれを征服しようと努めているなら,神があなたを助けて勝利を得させてくださるという確信を持つことができます。ただしそれは奇跡を起こして問題を取り除くという方法ではなく,必要とされる霊の実を生活の中で培うよう神の霊が助けるという方法によってです。そして会衆内においても,年長者たちに相談することにより理解と助けを得られます。彼らはあなたを助けるための神の備えとしてそこにいるのです。―ガラテア 5:22-24。エフェソス 4:11-15。

      10,11 (イ)フィリピ人の牢番とその家の者はどんな立派な模範を示しましたか。(ロ)「救われる」ためには,単にイエスに信仰を働かせる以上のことが関係していましたか。

      10 それで,神に喜んでいただくためになすべきであると分かっている事柄を行なうことを延ばさないようにしましょう。パウロとシラスに対し,「皆さん,救われるためにわたしは何をしなければなりませんか」と尋ねたフィリピ人の牢番の立派な模範に従ってください。「主イエスを信じて頼りなさい。そうすれば救われます。あなたも,あなたの家の者たちもです」と告げられて,「彼もその家の者もひとり残らずすぐにバプテスマを受けた」と記されています。

      11 神からの地震は最初この牢番の心に敬虔な恐れを抱かせましたが,今は認識を呼び起こす,神からのこうした奇跡的な業によってわたしたちが本心に立ち返り,ためらう気持ちをぬぐい去ることができると考えるべきではありません。この男の人とその家の者の場合,救われた状態に入れられるということは,単にイエスに対してばく然とした信仰を示すという問題ではありませんでした。また日々クリスチャンにふさわしい生き方をするというだけの問題でもありませんでした。記録が示しているようにパウロとシラスは「エホバのことばを彼に,またその家のすべての者に語った」からです。このことには,贖いの犠牲を受け入れたという根拠に基づいて過去の罪深さをまず許していただくために,エホバを十分に知るようになることが関係していました。明らかに,彼らの場合これは非常に短い時間に,わずか1日のうちに生じました。そのあと彼らは宇宙の主権者なる主エホバ神に心からの献身をし,そのことの象徴としてバプテスマを施されました。そうです,その牢番は「自分が神を信じるようになったことを家の者たちすべてとともに大いに喜んだ」のです。―使徒 16:25-34。

      12 何らかの点に関する完全な理解がないということで,バプテスマを受けることを延ばすべきですか。

      12 ことによるとあなたは,根強い疑いや疑問のためにちゅうちょしておられるのかもしれません。しかし教理に関する何らかの専門的な点が納得できない場合には,識別力を与えていただけるよう神に絶えず祈り,神の言葉に答えを探し求めるべき理由がそれだけあることになります。あなたが神に全き信頼を築くにつれ,神はそれを与えてくださいます。神はあなたが伸ばした手に「石」や「へび」を渡されるようなことはされません。(マタイ 7:7-11)十分に理解のできない事柄が幾つかあるからといって,神に自分の命をささげることを控える口実にすべきではありません。クリスチャンは,神とその目的に関する知識において絶えず成長していくのです。―フィリピ 1:9-11。ヘブライ 6:1-3。

      13 (イ)わたしたちの中にいる年若い子供たちについてどんなことが分かりますか。(ロ)年がまだ若い人は,いつバプテスマを受けるべきですか。

      13 そして最後に,自分は若過ぎるので,理解をもって献身することはできないと思っている人がいるかもしれません。多くの人々にとってはその通りかもしれません。幾千幾万という年若い子供たちがエホバの証人と交わっているからです。それはわたしたちに喜びをもたらすものです。(マタイ 19:13-15)子供たちが,献身とバプテスマの責任を十分に果たせるようになるまで,精神的にも身体的にも円熟するよう成長しつつある間,信者である親によくこたえ応じ従順である限り,神はその子供たちに「聖なる者」としての『しるしを付け』られるとわたしたちは確信しています。(コリント第一 7:14)しかし時間は静止していません。「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって」あなたを育て上げようとする両親にこたえ応じ,家においても会衆においても学ぶことに力を注いできたのであれば,すでにエホバに献身する時が来ているのではありませんか。もしそうであれば,この問題を両親および会衆の長老たちと話し合ったうえ,エホバに自分の命をささげバプテスマを受けるという自分の決定に最後まで付き従うよう勧めたいと思います。―エフェソス 6:1-4。テモテ第二 1:5-7。

      エホバが与えてくださる立場で奉仕する

      14 油そそがれた者たちの「収穫」に関し,今どんな要素に注目すべきですか。

      14 バプテスマを受けた後に,キリストの花嫁の一部となるよう神から召しを受ける見込みがありますか。言うまでもなく裁き主は神であられ,人間ではありません。キリスト教世界のどこかの宗派にいる時に教え込まれたような,人の感情や好みによって左右されてはなりません。(ローマ 8:28-30; 9:16)油そそがれた者たちの「収穫」が足早にその終わりに近付いているということを思い起こすのは重要なことです。(マタイ 13:36-43と比較してください。)過去19世紀の間,召しはただ一つ,天的な召ししかなく,エホバはだれがみ子と共に奉仕し王国政府を構成するかに関して入念な選択を行なわれました。招かれる者は多くても,選ばれるのはごくわずかな人たちだけです。(マタイ 22:2,14)やがて14万4,000という,定められた,しかし有限な数は満たされることになります。その後は,まれなことながら,残っている「選ばれた者たち」の不忠実ゆえに補充が必要になる場合を除き,天的な希望を持つという証しとして聖霊によって油そそがれることはもはやなくなるでしょう。―ローマ 8:16; 11:19。啓示 7:1-8; 14:1-5。

      15,16 (イ)天的な召しの終了と「大群衆」を集める業についてどんなことが明らかなようですか。(ロ)時間の押し詰まった今,何らかの補充があるかどうかについてどう考えるのは論理的に思えますか。(ハ)しかし,天的な召しを受けているという個人的な主張はすべて,どのようにみなされるべきですか。

      15 エホバが『収穫の時期』にご自分の民をどのように扱ってこられたかを考えると,啓示 7章9-17節の「大群衆」の希望は地的な希望であるという正しい理解が与えられた1935年ごろ,天的な召しは原則的に終了したことが明らかになるようです。エホバがそうなると予知しておられた通りに事が進展したのです。啓示 7章3,4節には,霊的イスラエルの残りの者たちに最終的な『証印を押す業』が行なわれると示されています。しかし「大患難」直前のこの時期に,人数については制限のない「大群衆」が姿を現わします。彼らは天的な命を思い見て『再び生まれる』ことをせず,地上で生きるという自然な希望を抱きます。―詩 115:16。ヨハネ 3:1-8。

      16 時間の押し詰まったこの時期にだれかの代わりに『再び生まれる』可能性について言えば,油そそがれた残りの者のうちから不忠実になって天的な召しを失う者が出る可能性があるとしても,それはごくわずかであることが分かります。彼らの級は,死によって今やわずか何千人というところまで減少しています。補充が必要になった場合,エホバはだれをお召しになるでしょうか。イエスはご自分の使徒として招いた人々に対し,「あなたがたはわたしの試練の間わたしに堅くつき従ってきた者たちです」と言われました。(ルカ 22:28)論理的に言って,エホバは最近バプテスマを受けてイエスの弟子になったばかりの,まだ多くの点で試されていないような人よりも,多年交わってきた,試練の間も忍耐と忠節を示した人々を選ばれるでしょう。独断的に,あるいはだれかの個人的な主張を裁く根拠を提出するためにこう言っているのではありません。交わり始めたばかりの人がせん越になることを避け,彼らを扱われるエホバの方法を確かに知るよう助けるために言っているのです。

      17 献身とバプテスマによってどんな関係が始まりますか。それはどんな報いに至りますか。

      17 王国相続者の「小さな群れ」の一人であろうと,完全になり,幸福のうちにこの地上で永遠に生きるという壮大な希望を持っていようと,こうした関係は,まずわたしたちが父であられるエホバの恵みに入れられることから始まります。(ルカ 12:32)そしてわたしたちはどのように神のみ前に是認された立場を得ますか。知識を取り入れ,キリストの犠牲に信仰を働かせ,この世での以前の歩み方を悔い改め,神のご意志を行なうべく確実に転向し,エホバ神に命をささげ,その象徴としてバプテスマを受けることによって得るのです。そしてもしわたしたちが神との貴重な関係を保つなら,神は忠実に,わたしたちに永遠の命をもって報いてくださいます。それは天のものであれ,この地上の王国の領域のものであれ,非常に価値の高い所有物です。―ヘブライ 11:6。ローマ 6:23。

      18 『印を付ける』業は現在どの方向に進んでいますか。人々は救いのための『印を付けられ』ていることをどのように示しますか。

      18 「羊」と「やぎ」を分ける業は間もなく終わりを告げるでしょう。神が「大患難」をもたらし,「神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者」を一掃される時,中間の立場で残される人は一人もいません。(マタイ 25:31-46。テサロニケ第二 1:6-9)救いのための『印を付けられた』人だけが生き残ってその新秩序に入ります。(啓示 7:3,4,9,14。エゼキエル 9:2-6)受け入れられてエホバ神に献身した関係に入り,それを水のバプテスマによって象徴したゆえに,また命に至る細い道を忠誠に歩み続けるゆえに,救いのためのこの『印』を快く付けてもらう人はなんと幸福なのでしょう。―マタイ 7:13,14。

      復習。次の質問に答えることができますか

      ● エチオピアの宦官はバプテスマを受ける点で,どのような模範を残しましたか

      ● エホバの愛ある招待を受け入れるためには,なぜこの体制の誘惑を退けることを延ばすべきではありませんか

      ● 根強い疑いや疑問があるとき,エホバに対する信頼はどのように助けになりますか

      ● 若い人々は献身とバプテスマをどう見るべきですか

      ● 論理的に言って,霊的イスラエル人の補充が必要になる場合,エホバはだれを選ばれますか

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