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  • 神への忠実を保つて救われる
    ものみの塔 1957 | 12月15日
    • ものを私たちに与えられました。それは何ですか。御子イエス・キリストの完全な政府の支配する約束された新しい世です。私たちが,創造者にして保護者に対する忠実の中に歩くということは,つまり書かれた御言葉の中で神が置かれている真理と原則に従つて歩くということであつて,それ以外のことによつてはなされません。私たちの知るごとく,神の全創造は彼の置かれた法則に従つて動き,運営しています。それですから,神は万事において原則の神にちがいありません。神の恵みを受けて,終りのないその新しい世で幸福な生命を持つためには,私たちは忠実を保つ者と証明しなければなりません。

      9 それでは,私たちはどんな原則の人でなければなりませんか。

      9 しかし,このことをするためには,自分自身の立てた原則の人であつてはなりません。私たちは神の原則の民でなければならないのです。といつて,初歩の事柄を意味するものではありません。たとえばヘブル書 5章12節(新口)に述べられているような神の書かれた御言葉の基礎的な事柄とかは根本的な教えではありません,『あなた方は……もう一度神の言葉の初歩を,人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。』

      10 (イ)ここで,『原則』とは,特にどういう意味ですか。(ロ)この見地から,ヤコブとパウロはクリスチャンに何と言うことができましたか。

      10 記憶しなければならないものに,次のことがあります,すなわち原則は行為についての設立された規則,行動を支配する法則,人の行為を絶えず指示する行為の規則,生命と振舞について指示の影響を行使する信仰または態度ということです。(ウエブスター)それで,原則は秩序立つた生活を意味する故に,ヤコブは使徒パウロにむかつて『あなたはまた律法を守つて,秩序正しく歩いている。』と言うことができました。(使行 21:24,新世)パウロ自身もキリストにある兄弟たちにこう言うことができました,『達し得たところに従つて,同じ道に秩序正しく歩みつづけよう。』そして『この行の規則に従つて秩序正しく歩くすべての人々の上に平和とあわれみがあるように。また,神のイスラエルの上にもあるように。』(ピリピ 3:16。ガラテヤ 6:16,新世)神の原則に従つて生活するためには,私たちをみちびいて統御するために神の置かれた規則に一致しつつ,秩序正しく歩くことが必要です。神の御子イエス・キリストは,地上に居られるあいだ,御父であるヱホバ神の原則に従つて生活することについて完全な模範を残されました。それで,私たちは『この世の初歩の事柄に従つて』歩いてはならないと警められているのです。それは『キリストに従うものではない。彼(キリスト)の中に,満ち満ちた神の性質はみな宿つている。』― コロサイ 2:8,9,新世。

      神権的な原則

      11 (イ)神の原則は,なぜすべての被造物に適用されねばなりませんか。(ロ)私たちの多くは,どうして情欲に大きく支配されるようになりましたか。

      11 ヱホバから与えられた行為の原則もしくは規則に従つて考えたり,語つたり,また行つたりして私たちの忠実を保つとき,私たちは真実に神権的です。ヱホバは最高の神なる支配者であるという意味で唯一つの神権者です。彼は,天と地にあるすべての生物や事物を支配し,力を行使します。彼は唯一つの生ける真の神だからです。そのわけで行為と制御についての原則なる規則は,人間でも霊者でも理知のある被造物すべてに適用しなければなりません。私たちの創造者なる神は,神の像にしたがい,神の状にならつて最初の人間アダムを完全につくりました。最初の人間は,天の御父のように原則を守る人になり,単なる本能とか又は人間としての感情によつて制御されるとか動かされる者でない,と当然に期待されました。アダムの妻が最初の蛇であるサタンに欺かれたとき,アダムは非神権的な行をしました。彼は天の御父をよろこばして御父の律法につき従い,忠実を保つて全き行をするよりは,誤まちを犯した自分の妻をよろこばすことに決めたのです。今日の私たちをも含めてアダムにあるすべての子孫たちは,原則からの大きな脱落を受けるようになり,情欲に大きく支配されるようになりました。情欲といつても,男性と女性のあいだの性的な欲情だけを意味しているのではありません。私たちに良い感じを与えさせるものに対する強い愛着,あるいは神の御意に一切の顧慮も払わず,私たち自身の個人的な関心事とか快楽を利己的にすすめるものに対する強い愛着,という意味です。

      12 (イ)神の原則とは,どんな種類のものですか。(ロ)神の原則の知識が人間に失われないようにするため,神はどのように取り極めましたか。

      12 神は,被造物をよろこばすために,自分自身の原則から外れることをしません,彼の原則は完全で変ることなく,そのすべての中に彼の愛,公正,知恵,そして力が考慮に含まれているのです。神の道徳の原則と宗教的な原則は,一般の人々からは知られて居らず,また認められていません。彼らはこの古い世の哲学と原則に従うからです。大いなる神権者ヱホバは,御自分の原則が失われることのないようにするため,そして正しい原則を愛するすべての人が学び得るために,その原則を聖書の中に書き録させました。聖書の中にあるそれらの原則を読んで研究することができます。クリスチャン時代よりも1513年以前に,神御自身も,その力によつて10の基礎的な原則を石碑の上に書き録しました。神はそれを予言者モーセに与えましたが,それはモーセが自分の兄弟たちであるイスラエルの国民にそれを示して,教えることができるためです。神は,仲保者モーセを通してその国民に与えた一組の律法に,他の多くの原則を附加いたしました。ヱホバ神は,後日の予言者たちを通して数多くの他の原則や,また将来についての予言を述べられました。この聖なる歴史や,これらの原則とか予言が書き上げられたものが,聖書となりました。かつてはユダヤ人であるイスラエル人だけが聖書を持つていたのです。また,クリスチャン時代の33年に始まつたクリスチャン教会なる会衆の持つていた聖なる書とは,その聖書だけでした。

      13 テモテ後書 3章16,17節によると,聖書はどんな種類の本ですか。私たちがその内容にどんな立場を与えねばならぬとペテロと他の使徒たちは示しましたか。

      13 その聖なる書を念頭に置いた,使徒パウロは次のように書きました,『聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであつて,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である。それによつて,神の人が,あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて,完全にととのえられた者になるのである。』(テモテ後 3:16,17,新口)聖書は原則の本であるという意味です。そこに記録されている原則は,原則のないこの古い世すなわち非神権的な原則を持つこの古い世にいるクリスチャンたちを導く規則,または正義の力ということです。神の新しい世で生命を得るためには,神の書き録された御言葉の原則やいましめの方を,『この組織制度の神』サタンの支配下にあるこの古い世の原則やいましめよりも重んじなければなりません。(コリント後 4:4,新世)クリスチャン使徒であるペテロやその仲間の使徒たちは,この行為の規則を言明した者です。すべての人は,そのことに気をつけるべきでしよう。エルサレムにあつた最高の宗教法廷がペテロと他の使徒たちに対し,新しく学んだキリスト教の基礎的な教えの伝道を中止するよう命じたとき,使徒たちはみな,次のような答を宗教法廷に述べました,『人間に従うよりは神に従うべきである。私たちの先祖の神は,あなた方が木にかけて殺したイエスをよみがえらせ,そして,イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために,このイエスを導き手とし救主として,ご自身の右に上げられたのである。私たちはこれらのことの証人である。神がご自身に従う者に賜わつた聖霊もまた,その証人である。』― 使行 5:29-32,新口。

      14 (イ)それらの使徒たちは,そのように答えたり行つたりしても,なぜ暴動や反乱をはかる者ではありませんでしたか。(ロ)それで,最高法廷の次のいましめについて,彼らは何をしましたか。

      14 ペテロや他のクリスチャン使徒たちは,このように答えて行つたとしても,暴動や反乱を謀る者ではありませんでした。神は人間の法廷や交配者よりも上なる支配者であると言明し,また最高支配者として神に徒つたことは全く神権的なことでした。それで,忠実な使徒たちは,最重要のクリスチャン原則の側に立ちました。このようにすることにより,彼らは宇宙の主権者ヱホバ神への忠実を保ちました。その宗教法廷は,その原則を認めずその拒否を示すものとして使徒たちを罰しました。『使徒たちを呼び入れて,むち打つたのち,今後イエスの名によつて語ることは相成らぬと言いわたして,ゆるしてやつた。』ペテロや他の使徒たちは,その最高法廷のいましめに従いましたか。神の書き給うた御言葉は,その答えとして次のように述べています,『使徒たちは,御名のために恥を加えられるに足る者とされたことをよろこびながら,議会から出てきた。そして,毎日,宮や家で,イエスがキリストであることを,引きつづき(中止しないことに気をつけて下さい)教えたり宣べ伝えたりした。』― 使行 5:40-42,新口。

      15 (イ)ペテロよりもずつと以前に,神はモーセを通して同じ原則をどのように述べましたか。(ロ)一人の質問者にたいして,イエス・キリストはこの言葉の原則をどのように再び述べましたか。

      15 その時から19世紀が経過しました。しかし,その昔ペテロや仲間の使徒たちがその宗教的な法廷で語つた言葉は,今日でも私たちを制御する原則であります。ペテロの時代よりもずつと前に,神御自身も予言者モーセを通してイスラエルの国民に同じ原則を述べられました。神は次のように語られています,『ヱホバは御自分の御名に専心されておられる故に,あなたは他の神を拝んではならない。ヱホバは専心の献身を求める神である。』(出エジプト 34:14,新世)これは,神がイスラエルと結んで書かれた契約の同意中にある数多くの律法の一つ以上のものです。それは,永遠にして宇宙的な一つの原則の言葉または行為の規則です。そして,天と地上のすべての被造物に適用するものです。イエス・キリスト自身も,『師よ,律法の中で最大のいましめは何ですか』という問に対して,その原則を再び述べました。彼は次のように答えたのです,『心をつくし,魂をつくし,思いをつくしてあなたの神であるヱホバを愛さねばならない。これは一番大きな第一のいましめである。第二のいましめもこれと同じ様に「自分自身のごとくに隣人を愛さなければならない」これら二つの命令にすべての律法と予言者たちはかかつている。』(マタイ 22:35-40,新世)そこに,律法と予言者とを含む聖書全部に貫いている主要な原則を知ります。

      16 (イ)私たち自身および私たちの隣人とくらべて,私たちはどのように神を愛すべきですか。(ロ)税金問題についてのイエスの答は,この要求にどう合いますか。

      16 原則を神権的なものにしている人間は,神なる支配者として,または神権者としてヱホバを愛します。ヱホバの愛を受けて,新しい世における永遠の生命という恵みを頂くためには,私たちは彼を愛さねばなりません。御子なるイエスによつて述べられたヱホバの最大のいましめによると,私たちはヱホバを愛さねばなりません。自分自身を愛するとか,隣人を愛すると同じ様に愛するということではなく,私たちは自分自身や隣人以上にヱホバを愛さねばなりません。まつたくのところ,私たちの国民全部や隣人以上に愛さねばならないのです。私たちは,私たちのすべてでもつてヱホバ神を愛さねばならぬとイエスは言われました。この事実によつて,『カイザルに税金を納めてよいでしようか,いけないでしようか』という狡滑な質問に対して答えられたイエスの言葉の意味が良く理解できます。税金の貨幣の上には,カイザルの肖像が刻まれていたことから,イエスは次のように言われました,『それでは,カイザルのものはカイザルに,神のものは神に返しなさい。』(マタイ 22:15-21,新口)さて,これらの二人の支配者について言えば,その中のどちらの支配者が私たちの心や,私たちの魂や,私たちの思を私たちに与えましたか。それは政治的なカイザルでしたか。あるいは神でしたか。カイザルではありません。神は,私たちの理智ある生活に肝要なこれらのものを私たちに与えました。それで,私たちはこれらのものを神に帰すべきであつて,カイザルに帰すべきではありません。それらのものは,カイザルの税の貨幣よりもはるかに貴重なものであり,それ以上を包含しているものです。

      17 (イ)カイザルのものを,どのように払いますか。神のものをどのように払いますか。(ロ)神のいましめによると,私たちの標語はどんなものでなければなりませんか。

      17 政治政府はキリストの弟子たちに奉仕をしています。その奉仕に対して,カイザルの税金を払うことは適当です。しかし,神のものをどのように神に払うことができますか。宇宙の最高のいましめにたいして神権的に従い,そして私たちのすべての心,魂,そして思いをつくして,私たちの正しい神ヱホバを愛することによるのです。それで,イエス・キリストの述べた二つの最大のいましめの基礎的な原則に従い,私たちの標語は,神と国のため,というのでなく,ヱホバのため,そして自分自身のごとく隣人のため,というものでなければなりません。私たちの隣人が第一ではなく,私たちの神ヱホバが第一です。私たち自身よりも隣人が上というのでなく,私たち自身や隣人よりも神は上なのです。

      18 (イ)イエスは,税金を払うことによつて,カイザル・テベリウスを神格化しましたか。(ロ)イエスは,国家を神格化しないよう,自分の弟子たちに,どう命じましたか。

      18 忘れてならないことに,ローマのカイザルは,ローマ人により地上の神にされ,神格化されました。しかし,イエス・キリストが,人間なる一ユダヤ人またはイスラエル人として,カイザルに税金を払つたとき,カイザル・チベリウスを神と認めたということではありません。イエスはローマ皇帝や政治国家を神格化しませんでした。イエスの弟子たちは,この古い世の政治国家を神格化しないようにと,彼は命じました。カイザルの帝国に仕える兵士によつて杭に釘づけられる前夜,イエスはその命令を告げられたのです。その夜,彼はパンと葡萄酒でもつて主の夕食を制定し,それから忠実な使徒たちにこう告げました,『異邦の王たちは,その民の上に君臨し,また権力をふるつている者たちは恩人と呼ばれる。しかし,あなた方はそうであつてはならない。かえつて,あなた方の中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように,指導する人は仕える者のようになるべきである。食卓につく人と給仕する者と,どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし,私はあなた方の中で,給仕をする者のようにしている。』― ルカ 22:25-27,新口。

      19 私たちはカイザルや国家をどのように神格化することになりますか。私たちは,ヱホバ神へのどんな義務を破つていることになりますか。

      19 それで,イエスは自分自身を神格化しようとはしませんでした。まして,税を集めるカイザルを神格化しようとしなかつたことは言うまでもありません。イエスの忠実な弟子たちは,ヱホバへの忠実を保つために,イエスに倣つてこの同じ原則に従い,カイザルを神格化すべきではありません。私たちは,カイザルには税金を支払う義務だけを有しているのです。キリストに倣うクリスチャンが,カイザルや政治国家を神格化して,カイザルにそのすべてのものを捧げ,そして神の代りにカイザルを崇拝したり,カイザルを愛するならば,ヱホバ神への献身を破ることになります。

      獣を崇拝すること

      20,21 (イ)黙示録 14章6節の絵は,今日誰によつて成就されていますか。そして,どのように。(ロ)その絵の後には,カイザルなる政治国家を神格化することに対して,どんな警告が与えられていますか。

      20 黙示録 14章6節は,18世紀以上のむかしに,『永遠の良いたより』が今日どのように良い知らせとして地上のすべての国民,種族,言語,そして国民に告げ知らせられるかを予言的に表わし示しました。今日では,ヱホバの証者は全地にわたつてマタイ伝 24章14節のイエスのいましめに従つています。たしかに,彼らは神の御国が1914年に設立されて,キリストが御座に即き,天界で王位を取られたという良いたよりを伝道しています。全地にわたつてそのような永遠の良いたよりを伝道した結果,ハルマゲドンの来るべき宇宙戦争で全国民が終る以前に,すべての国民は証を受けているのです。全国民に永遠の良いたよりを宣べ伝えるということが示されていますが,その後には別の予言的な絵が黙示録 14章に出ています。それは,カイザルである政治国家を神格化してはならないと,クリスチャンを警めるものです。その聖句はこうです,

      21 『ほかの第三の御使が彼らに続いてきて,大声で言つた。「おおよそ,獣とその像とを拝み,額や手に刻印を受ける者は,神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた,神の激しい怒りのぶどう酒を飲み,聖なる御使たちと小羊との前で,火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり,そして,獣とその像とを拝む者,また,だれでもその名の刻印を受けている者は,昼も夜も休みが得られない。ここに,神の戒めを守り,イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある。」』― 黙示 14:9-12,新口。

      22 この『獣』はどんな種類の動物ですか。救を得そこなう人々は,この獣に対して何をしますか。

      22 その前の章である黙示録 13章1-8節によると,獣は海から上つてきます。しかし,それは水棲動物ではなく,陸上の動物であつて豹と熊と獅子の特色が合わせられています。それらの特色が合わせられている実際の動物ではあり得ません。支配者の座位を持ち王冠を着けると言われているからです。それは,神と,その名前,および神の御住居に対して冒瀆の言葉を語り,神の聖徒に対して戦争をしかけます。そして,あらゆる種族,人々,言語,および国民に対して権威を得ます。この理由の故に,地上に住む人間はこの獣を拝みます。しかし,そうする者は,みな神の新しい世における救を得ることができません。

      23,24 ローマ・カトリック権威者の註解によると,黙示録 13章1節の獣は,何を象徴しますか。

      23 この獣が私たちの時代に表わし示すことについて,與味深い註解がなされています。その中でも,ローマ・カトリック権威者たちの註解があります。エフ・エイ・スペンサー・オー・ピー著,シー・ジェー・コーラン・オー・ピーとジェー・エイ・マツクハー・オー・ピー・編集(1946年)の『我らの主と救主イエス・キリスト』という翻訳の中で,黙示録 13章1節についての註解は次の通りです,『この最初の獣は,キリスト教に敵対する政治権力を代表するように見える。』1941年クリスチャン教理の組合監督委員後援のカトリック学者編集の『ラテン・バルゲートから訳出した我らの主と救い主イエス・キリストの新約』という別の翻訳では,この同じ節についての註の中で次のように述べています,『最初の獣の絵は,ダニエル書の第7章に基づいている。この獣は,この世の王国を表わし示す。すなわち,情欲と利己主義にもとづく王国であつて,それらは何時の時代でもキリストに敵対して居り,神の僕たちを圧迫しようと努める。ローマ帝国は,この権力を代表する。』

      24 1931年版『聖書のウエストミンスター訳』第4巻の一般編集者であるエス・ジエー・カスパート・ラッテイとエス・ジエー・ジョセフ・キーテイングは,黙示録 13章1節についての脚註の中で次のように述べています,『黙示録の中で「獣」は,ダニエルの記述した四つのいろいろの「獣」または帝国の権力を結集する。それは政治的な権力,物質の力を象徴するもので,この世は神の僕たちを圧迫するために,龍にその力を委ねる。その力は,ローマ帝国内に含まれていると表わされる。』この節についてのもう一つのローマ・カトリックの註解は,その証言をこうつけ加えています,ジェイム枢機官ギボン賛同,そしてローマ法王管区出版者ジョン・マーヒイ会社出版の聖書ドーエイ訳のマーヒー版は,その脚註の中で次のように言つています,『七つの頭と十の角を持つこの最初の獣は,おそらく世の初めから終にいたるまでの不信者の群全体のことであつて,神の民に敵対する者,迫害する者であろう。七つの頭は七人の王である,すなわち帝国の主要な七つの王国である。これらの王国は,神の民に対して専横の力を行使したか,または行使するであろう。その中,五つは滅亡していた,すなわちエジプト,アツシリヤ,aカルデヤ,ペルシヤ,そしてギリシヤの王国であつた。その一つであるローマ帝国は,そのとき存在していた。そして,第七番目の最主要のものは,将来に来るもので,大いなる反キリストとその帝国であつた。十の角とは,それよりも小さい十の迫害者と理解できよう。』

      25 そのわけで,獣の崇拝は何を表わし示しますか。それで,これは誰に対する警告となりますか。

      25 前述のローマ・カトリック註解全部によると,黙示録 13章1-8節と14章9節にある獣の崇拝は政治国家の崇拝以外の何ものをも意味しません。獣は特定な政治制度を象徴するものでなく,むしろすべてのものを一つの世界制度に結集し合同します。それで,国家崇拝というこの描写は,地上のすべてに適用します。特定な政治制度はその象徴的な『獣』の中に直接ふくまれていることもあり,またはその政治的な同盟国だけの場合もあります。そのわけで,このことは真のクリスチャンになりたいと欲する全地のすべての人にとつて警告になつているのです。そして,私たちはそのことを全く真剣に採り上げます。

      26 すべての人は,獣の崇拝を拒絶しまた刻印を受けることを拒絶することにより,忠実を守るでしょうか。私たちは,どのように知りますか。

      26 どの人もみな獣とその像の崇拝を拒絶し,額と手に刻印を押されることを拒絶して,ヱホバ神への忠実を守るでしようか。クリスチャンと口先で言う人々全部が忠実を守るわけではありません,また唯一つの生ける真の神を崇拝して,すべての心,魂,そして思をつくして神を愛するという原則につき従うわけではありません。黙示録 20章4節は,忠実を保つて報を受ける者が誰であるかをこう述べています,『我またイエスの証および神の御言葉のために首切られし者の魂また獣をも,その像をも拝せず,己が額あるいは手にそのしるしを受けざりし者どもを見たり。彼らは生きかえりて千年のあいだキリストと共に王となれり。』第6節は,次のように言葉をつけ加えています,『幸福なるかな,聖なるかな,第一の復活にあずかる人。この人々に対して第二の死は権威を有たず,彼らは神とキリストの祭司となり,キリストと共に千年のあいだ王たるべし。』これらの者たちは,神のいましめとイエスの信仰を守りながら最後まで耐え忍ぶ聖徒です。この終りの日には,善意を待つ仲間の大群衆がいます。

      27 忠実を保つために,彼らは何から救われますか。彼らは,誰に捧げる奉仕で自分の生命を犠牲にしますか。

      27 これらの者は,みな忠実を保つ故に,象徴的な『神の怒りの杯』を飲むことから救われ,そして『聖なる御使たちと小羊との前で,(象徴的な)火と硫黄とで苦しめられる』ことから救われます。黙示録 13章15-17節に予め述べられているごとく,神だけに専心の献身を捧げよという原則を破らせようとする圧制に対しても,彼らは従うことを拒絶します。彼らは神と小羊イエス・キリストの為に生命を犠牲にしますが,獣とその像の奉仕に生命を犠牲にしません。第六番目の頭で表わされた獣は,イエス・キリストを殺し,その後には帝国内にいる真のクリスチャンたちを迫害しました。斧で首を切つたり,その他の残酷な方法で苦しめたり,殺したりしたのです。ローマ帝国の現代版の国は,キリストに従うクリスチャンに対してそれと同じ悪意の精神を表明しつづけます。

      28 キリスト教が初めてもたらされたとき,百卒長のコルネリオは誰に奉仕していましたか。そして,彼は洗礼を受けた後に軍役を辞しましたか。

      28 コルネリオにキリスト教が初めてもたらされたとき,彼は『イタリヤ隊と呼ばれた部隊の百卒長で』,獣の第六番目の頭に仕えていました。神の御使が幻の中に彼のところに現われ,人を遣わして使徒ペテロを呼ぶようにと告げたとき,彼は戦場の奉仕をしていたのではなく,カイザリヤの自宅で祈りをしていました。また,それから4日の後にペテロはコルネリオやその親族や,親しい友たちに伝道しましたが,その場所は同じくコルネリオの家でした。そのような状況の下にあつて,神はコルネリオや,彼と共に音信を信じた他の者たちに御霊を注がれたのです。コルネリオや他の新しい信者たちは聖霊によつて洗礼を受けていましたが,しかしペテロの命令に従つて水の洗礼を受けました。(使行 10:1-48)その後に百卒長のコルネリオが何をしたか,ローマの百卒長としての軍役を止めたか,どうかについては,使徒行伝の書は述べていません。

      29 (イ)ペテロがコルネリオに辞するよう指示したならば,何が起つたでしようか。(ロ)聖書が直接の指示を与えたならば,聖書には何が生じたでしようか。

      29 次のことには疑いありません,すなわち神の聖霊の働きの下にあつてコルネリオは自分の個人的な事柄や関係にキリスト教の原則を適用しました。彼はその後の『数日のあいだ』ペテロと共にキリスト教の原則を討議したのです。コルネリオは割礼を受けたユダヤ人ではなく,またローマの百卒長でしたから,それよりも幾世紀も昔のヌンの子ヨシュアや,巨人ゴリアテを殺したダビデの場合とは異り,神権的な戦争をしていたのではありません。(ヨシュア 10:1-11,23。サムエル前 17:4-54。サムエル後 8:6-14)ペテロがコルネリオに向つて辞するようにと告げたならば,彼は『獣』の第六番目の頭の軍事計画に妨害をなしたとの理由で告訴されたでしよう,そして妥協せずに神の音信を宣べ伝えつづけたという理由で処刑されなくても,その理由の故に処刑されたことでしよう。同様に,神の書かれた御言葉,特に霊感を受けたクリスチャンの書いた新約と呼ばれる部分が,象徴的な獣の第六番目と第七番目の頭の軍役に召集された際の献身したクリスチャンたちに対して,何をすべきかを直接に告げたならば『獣』の支配下にある各地で聖書が禁ぜられることは疑いありません。特に兵役の問題についての聖書の指示が,その理由とされるでしよう。

      30 それで,この事柄において聖書はどんな援助をクリスチャンに与えますか。そして,決定をつくる際には,誰が責任を取らねばなりませんか。

      30 それで,ヱホバ神の智恵によつて,その霊感を受けた聖書は,直接の助言を与えていないのです。ヱホバ神の聖書は,クリスチャンを支配する神権的な原則を述べるだけです。そして,それらの原則を個人の場合に絶えず適用して,その責任をとらせ,そして神への忠実を保つことは,コルネリオのような献身したクリスチャンに委ねられたのです。一人のクリスチャンまたはクリスチャンの群は,神の御言葉の中にある真実の聖書的なクリスチャン原則が何であるかを説明し得ます。しかし,それ以外のことにおいては,他のクリスチャンにむかつて,この事柄で何をせよと直接に教える任務とか責任を神から受けていません。何を為すべきかについては,各人めいめいが決定すべきです。

  • 忠実を守つた者たちの例
    ものみの塔 1957 | 12月15日
    • 忠実を守つた者たちの例

      1 獣の第三の頭の世界支配のあいだ,獣の崇拝を拒絶したどんな顕著な例がありますか。

      ローマ・カトリックや他の聖書註解に説明されているごとく,黙示録 13章1-8節の『獣』の中には,第3番目の世界勢力である古代バビロン,すなわちカルデヤが含まれています。しかし,象徴的な獣である第3番目の頭バビロンについての聖書の歴史の中には,2500年むかしの獣の崇拝を拒絶した人々に関する顕著な例が記されています。ダニエル書 3章1-30節の告げるところによると,忠実を守つた3人の名前はシヤデラク,メシヤク,アベデネゴ(ドーエイ訳では,シドラク,ミサク,そしてアグデナゴ)でした。敵共は,バビロンの皇帝ネブカデネザルの前で彼らを告訴したときに,それらの者共を『ユダヤ人』と語つていました。ネブカデネザル王は,予言者ダニエルの要請に従つてこの3人をバビロン州の事務を掌らす高職に即けました,一方ダニエル自身は王宮にいて,バビロン全州の支配者となり,バビロンのすべての知者たちを統轄する者の長になりました。―ダニエル 2:48,49。

      2,3 それらのユダヤ人たちは,異教の政治政府の高職について奉仕していても,なぜヱホバとの契約を破つていたことになりませんか。

      2 しかし,仲保者モーセを通してヱホバ神と結んだ国家的な契約下にいたこれらのユダヤ人が,異教の政治政府の高職に即いていたとは,どういうわけでしたか。モーセを通して十のいましめを与えた神との契約を破つていたことになりませんか。そうではありません。なぜ? なぜなら,彼ら自身のユダヤ人の政府,すなわちエルサレムの王国は,その時には存在していなかつたからです。ネブカデネザルの軍隊は,クリスチャン時代よりも607年前に,ユダヤ人の政府を亡ぼしました。その滅亡よりも11年前に,ダニエルとその3人のユダヤ人の友たちはエルサレムから連れ去られ,バビロンに流刑されていたのです。それで,エルサレム滅亡前でも,滅亡後でも,こられ4人のユダヤ人たちはバビロンの捕虜であり,奴隷でした。

      3 ヱホバ神は,ネブカデネザルを御自分の僕として用い,不従順な民たちの上に特定な裁きを執行しました,そしてエルサレムの祭司たちや人々に『バビロンの王に事えよ,さらば生べし』と告げたのです。しかし,彼らはその言葉を拒絶して,刑執行者により殺されてしまいました。偽りの予言者であるゼデキヤとアハブは,ネブカデネザルに帰順することに反対の謀事を立てました。この故に,バビロンの王はそれらの反対の王たちを火焙りにしたのです。(エレミヤ 27:16,17; 29:21-23)しかし,ダニエル,シヤデラク,メシヤク,そしてアベデネゴは,ネブカデネザルの捕虜および奴隷となり,ネブカデネザルに従順に仕えていました。ところが,ネブカデネザルが彼らの神の最高至上の律法と違反するようなものを要求して,そのものをネブカデネザルに払わねばならないとき,彼らは当時の地上にいたこの最高支配者に従うことを拒絶しました。彼らはペテロや他の使徒たちのように行いました,人間に従わず,むしろ支配者なる神に従つたのです。―使行 5:29。

      4 なぜネブカデネザルは,ドラの平地に金の像を立てましたか。ダニエルの3人の友は,何をしていないと敵どもは非難しましたか。

      4 バビロン州のドラの平地に,ネブカデネザルは高さ90フイート,巾9フイートの金の像を立てました。それがネブカデネザルの気に入りの神マードックの偶像か,どうかは述べられていません。すくなくとも一つの事はたしかです,それは帝国の全国民を一つの共通の崇拝に結合させ,彼らをみな皇帝の臣下とならせて『獣』を崇拝させるという皇帝の目的を表わしていました。偶像の落成式の時にはネブカデネザルは,帝国全州のすべての官吏を召集しました。多数の楽器の奏せられるとき,すべての者は俯伏し,一致してこの金の像を拝めと伝令者は呼ばわりました。もし,そうしないなら彼らは火の燃える炉の中に入れられてしまうでしよう。国歌かどうかは分りませんが,楽隊が楽器を奏すると,『諸民,諸族,諸音みな俯伏し,ネブカデネザル王の立たる金像を拝したり。』ところが,その場に居たダニエルの3人の友たちは,そうしなかつたのです。カルデヤ人は,このことについてネブカデネザルにこう訴え出ました,『この人々は……汝の神々にも事えず,汝の立てたまえる金像をも拝せざるなり』

      5 おどすことによつて,ネブカデネザルは3人のユダヤ人官吏に何を破るよう命じましたか。

      5 ネブカデネザルは,3人のユダヤ人の官史を召し寄せました。彼は3人を脅かして,十のいましめの最初の二つを破るように命じました。それはこうです,『我はなんじの神ヱホバ,汝をエジプトの地その奴隷たる家よりみちびき出せし者なり。なんじ我が面の前に我のほか何物をも神とすべからず,なんじ己のために何の偶像をも彫むべからず,また上は天にあるもの,下は地にある者,ならびに地の下の水の中にあるものの何の形状をもつくるべからず,これを拝むべからず,これに事うべからず,我ヱホバ汝の神は嫉む神なれば』(出エジプト 20:2-5)それら3人の奴隷たちは,このことから判断して国家の支配者なる奴隷所有者にどう答えましたか。

      6 この3人は,国家の元首に,どのように答えましたか。

      6 彼らはいましめの中に述べられている原則にかたくつき従い,ヱホバ神への忠実を保つたのです。彼らは,このように言いました,『ネブカデネザルよ,このことにおいては我ら汝に答うるに及ばず。もし善らんには,王よ,我らの事うる我らの神,我らを救うの力あり。彼その火の燃ゆる炉の中と汝の手の中より我らを救い出さん。たとえしからざるも王よ知り給え,我らは汝の神々に事えずまた汝の立たる金像を拝せじ。』

      7 その3人は,火の燃えた炉に関してどんな経験をいたしましたか。そのとき,ネブカデネザルは彼らの神について何を認めましたか。

      7 ネブカデネザルは,偽りの神マードックの崇拝者で,その信心は極めて深いものでした。そして,この3人のユダヤ人の大胆不敵さに激怒いたしました。烈火のごとく怒つた彼は,特に7倍も熱くした炉の中に,彼らを縛つたまま投げ入れました。それは,彼らに対して,ネブカデネザルがどのくらい熱く怒つているかを示すためです。3人を投げ入れた者たちは,過度に熱せられた炉の火焔で焼けてしまいました。それであるなら,ヱホバの3人の崇拝者も焼けてしまつたにちがいありません! ところが,そうではなかつたのです! かなり離れたところから見ていたネブカデネザルは,こう言いました,『今われ見るに四人の者繩目解けて火の中に歩みおり,すべて何の害をも受けず,又その第四の者の容は神の子のごとし。』驚きあわてた彼は,神の子のような第四番目の者に声をかけず,ヱホバの3人の崇拝者に声をかけました,『至高神の僕……よ,なんじら出できたれ』と言つたのです。3人が出て来たとき,まわりにいた人はみな『これらの人々の身は火もこれを害する力なりき。またその頭の髪は燥ず,その衣裳は傷ねず,火の臭気もこれにつかざりき』という状態を見ました。すると,当時の地上で最高の力を持つ支配者は,彼らの神を讃めました,『彼その使者を送りて己を頼む僕を救えり。また彼らは己の神の外には何の神にも事えず,また拝せざらんとて王の命をも用いず己の身をも捨てんとせり。……是のごとく救を施す神他にあらざればなり。』この言葉を述べたネブカデネザルは,十のいましめを与えたヱホバ神を意味したのです。

      8 それら3人のユダヤ人たちは,皇帝や国家崇拝に反対の立場を採つたために,誰の福祉を危険にするように見えましたか。しかし,彼らの忠実な立場は,今日にいたるまで神の民にどう影響しましたか。

      8 彼らはヱホバに忠実を保つた故に,ヱホバは彼らを救いました。この世の皇帝と国家崇拝に対して,妥協をきつぱり断る勇敢な立場を採つたために,彼らはバビロンに捕われていた他のユダヤ人全部の福祉を危険にするように見えました。奴隷となつていたそれら3人の官吏は,そのことを知つていました。しかし,ユダヤ人の隣人に外面的な恩恵が施されるからという理由でもつて,彼らは神よりも低い支配者と妥協しませんでした。彼らは自分自身や隣人よりも神を愛しました。その忠実な立場は,ユダヤ人の隣人を真実に励まし,他のあらゆるものにもまして神を愛させるようになりました。他のユダヤ人の奴隷や隣人,および今日に至るまでの真のクリスチャンはみな,それから励ましを受けて神なるヱホバに忠実を保ち,政治支配者が設立して崇拝を命ずる偶像に対して崇拝を捧げません。この中にはまた象徴的な獣とその偶像の崇拝も含まれています。

      9 ダニエルやその3人の友が誰の証者であつたと,私たちは聖書的にどう知りますか。

      9 ダニエルやネブカデネザルの奴隷であつた他の3人のユダヤ人の官吏は,おそらくヘブル書 11章33,34節の中で信仰の人として特に意味されている人々です。彼らは,『ししの口をふさぎ,火の勢を消し』た人々でした。ヘブル書 11章1,2節(新世)は,こう述べています,『信仰……昔の人々はこれによつて自分自身に証を立てた。』ヘブル書 11章が,『自分自身に証を立てた』むかしの数多くの信仰の人々の名前を記して述べて後に,ヘブル書 12章1節は,『私たちはこのような多くの証人に雲のように囲まれているのである。』とクリスチャンに告げています。ダニエル,シヤデラク,メシヤクおよびアベデネゴは誰の証人でしたか。イザヤ書 43章10-12節のいましめに従うヱホバの証者でした,『ヱホバ宣給わく,なんじらはわが証人……われは神なり。』

      10 それでは,私たちは今日,誰の例に従わねばなりませんか。特に,例として誰を見つめるべきですか。

      10 献身したクリスチャンである私たちは,みな使徒と同じく,雲のように多い証人で取り囲まれています。私たちは,これらの者の例に従わねばなりません,特にヱホバの証者の中でも最大の証者であるイエス・キリスト『信仰の導き手であり,またその完成者』を見つめねばなりません。(ヘブル 12:1,2,新口)イエス・キリストは,『獣』を崇拝しなかつたのです。

      11 誘惑の下にあつても,イエスはどのように『獣』のごとき行をしませんでしたか。私たちを統御するために彼は,そのときどんな原則を述べましたか。

      11 イエスが水による洗礼を受けて直ぐ後に,彼は神の御霊の働きで荒野に導かれました。神の御霊は,イエスのところに下つて彼に油注いだのです。イエスは,荒野でサタン悪魔の試練を受けました。サタンは,象徴的な龍で,獣をして海から上らせ,獣に『自分の力と位と大いなる権威とを』与えたのです。(黙示 13:1,2)この龍からの誘惑を受けたイエスは,その獣のような行をせず,神の御国,天の御国についての神の目的に一致する行をいたしました。悪魔は,イエスを誘惑するために,『またたくまに世界のすべての国々を見せて,言つた「これらの国々の権威と栄華とをみんな,あなたにあげましよう。それらは私に任せられていて,だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで,もしあなたが私の前にひざまずくなら,これを全部あなたのものにしてあげましよう。』『獣』は,すこしの理解もなしに,この古い世の国々を求めましたが,イエスは獣とはちがいヱホバの崇拝の原則をかたく守り,神の天の御国につき従つたのです。キリスト教の指導者なるイエスは,『この組織制度の神』にきつぱり答え,そして彼の行動およびクリスチャンである私たちの行動を制御する特別な原則を述べました,『あなたは,あなたの神ヱホバを崇拝し,彼のみに聖なる奉仕を捧げねばならない。』― ルカ 4:5-8,新世。申命 6:13。

      12 イエスの求めた御国は何でしたか。

      12 そのわけでイエスは政治に介入せず,またこの世的な野心や,政治的な野心を持たなかつたのです。彼の御国は,カイザルのもとから出たのでもなければ,象徴的な獣のもとから出たものでもありません。(ヨハネ 18:36)カイザルの課税や支配から昔のイスラエルを自由にするためとか,地上に政治的な国家を設立するため,イエスが軍隊を集めるようなことはなかつたのです。彼は生来のイスラエルの滅亡を予めに語り,そして西暦70年のエルサレムとその宮の滅亡の際に,ローマ・カイザルの軍隊がイスラエルを滅ぼすことを許しました。なぜ? なぜなら,イエスは霊的なイスラエルを支持されたからです。彼の求めた御国は,霊的な天の御国でした。彼はその御国を伝道し,そして古い世の終りの時にその御国を伝道せよと真の追随者たちに命じました。―マタイ 24:14。

      13 イエスが坐ろうと欲した『ヱホバの座位』とは何でしたか。

      13 油注がれた支配者としてイエスが坐ろうと欲した『ヱホバの座位』は,ダビデ王がかつて座り,そしてネブカデネザル王がキリスト前607年に覆した座位ではありません。それは,最高の天にあるヱホバの真の座位であり,その場所はヱホバの右にあつてイエスのために保たれました。―詩 110:1,2。ヘブル 10:12,13。

      14 私たちのすべてをもつてヱホバを愛するなら,私たちはまた誰を愛して倣わねばなりませんか。そして,なぜ?

      14 私たちのすべての心,魂および思でもつてヱホバを愛せよと命ぜられています。故に,ヱホバの生ける像,イエス・キリストをも愛さねばなりません。(ヘブル 1:2,3。コロサイ 1:15。ヨハネ 14:9)それですから,クリスチャンはその指導者なるイエス・キリストに倣わねばなりません。彼に倣うことは,献身した追随者の生活の中で指導的な原則でなければなりません。私たちは正しい崇拝の民でなければならないのです。私たちが,そのような者であつてこそ救われるでしよう。

      新しい世の交わり

      15 (イ)詩篇 26篇の中で,ダビデは,ヱホバ崇拝の原則の中に歩んだことを証明するため何と言いましたか。(ロ)それで,彼に対しては何をしないようにと,ダビデはヱホバに祈ることができましたか。

      15 ダビデは,ヱホバの御国代表者として,ヱホバを崇拝する原則の中に歩きました。ダビデはそのことを証明する次の言葉を述べています,『私はあなたの真理の中に歩きました。私は偽りを語る人々と共に坐らず,自分の実体をかくす人々と交わりません。私は悪を行う者の会衆を憎み,悪しき者と共に坐りません。ヱホバよ,私は手を洗つて罪のないことを示し,あなたの祭壇のまわりを廻つて感謝の言葉を声を高くあげ,あなたのすばらしい業をことごとく宣べ伝えます。罪人とともに私の魂を取らないで下さい。それらの人々の手にはふしだらな行があり,その右の手は賄賂で充ちています。』(詩 26:3-7,9,10,新世。)ダビデ王は,その生存中,そのような人々と交わることを欲しなかつたのです。彼らが支配者であろうと,政治の役人であろうと,または普通の市民であろうと,それらの者と共に死ぬことさえも欲しなかつたのです。この欲求を心に有した彼は,その生涯中彼らを避けました,そして偽りや偽善,流血やふしだらな行,そして賄賂を受けたり要求したりすることから遠ざかりました。このわけで,彼は罪深い人や流血の罪を持つ人と共に,彼の魂と生命を取らないようにと,神に願うことができたのです。そのような罪人や流血の罪を持つ人々には,神の御手から亡びが来ます。彼はそのような亡びから救われることを欲しました。彼の支配したイスラエルの神権的な王国は中東にあつて,この世の中にありました,しかしダビデ王は彼の国がこの世の一部になることを欲しなかつたのです。

      16 したがつて,大いなるダビデに従つている私たちは,誰との交わりを避けるべきですか。このことは,イエスの述べたどんな原則によるのですか。

      16 このことは,大いなるダビデ,すなわちイエス・キリストに従う私たちを導く原則を指し示しています。彼は,肉によつてはダビデの子でしたが,天で楽しむ霊の生命によつて今はダビデの主であります。彼の追随者になろうと主張するならば,私たちはこの古い世との交わりを避けねばなりません。この古い世は,いまはダビデの避けたような人々で一杯なのです。私たちは,他の人間のように血肉の者ですから,この『終りの時』のあいだこの世に生活しなければなりません。しかし,この古い世のものであると同時に,私たちの伝道する神の新しい世のものであることはできせん。イエス自身も,この原則を次のように述べました,『もしあなたがこの世から出たものであつたなら,この世は,あなた方を自分のものとして愛したであろう。しかし,あなた方はこの世のものではない。かえつて,私があなた方をこの世から選び出したのである。だから,この世はあなた方を憎むのである。』この同じ原則に従つてイエスは神に次のように祈り,こう言いました,『私は彼らに御言葉を与えましたが,世は彼らを憎みました。私が世のものでないように,彼らも世のものではないからです。私がお願いするのは,彼らを世から取り去ることではなく,彼らを悪しき者から守つて下さることであります。』― ヨハネ 15:19; 17:14,15,新口。

      17 もし私たちがこの世から取られるのであるなら,私たちは神の支配の下に何をすることができませんか。

      17 私たちがこの世から取られるのであるなら,神であるヱホバの証者になることもできず,1914年以来統治している神の油注がれた王イエスの証者になることもできません。それで,私たちはこの世から取られていず,神の御国に証を立てるためにこの世に止まることが許されているのです。しかし,天の御父が,悪しき者,サタン悪魔から私たちを救われるようにと,イエスは私たちの為に祈りました。彼はいま天からこの地上に追い落されてしまつたのです。

      18 どんな宇宙的な争いにおいて,私たちは中立でいることができませんか。そして,ロマ書 10章9,10節の原則に従い,私たちが中立でないことをどのように示しますか。

      18 叡智を持つ全創造物の前で立証せられる主要な事柄は,ヱホバ神の宇宙的至上権です。それですから,神の御国,すなわち天の御国は神の書かれた御言葉,聖書の中で一番大切な教えとなつています。献身したクリスチャンはみな,最善のたよりとして,その御国を伝道するよう命ぜられています。西暦1914年に天で設立された神の御国と,この古い世の国のあいだには,大きな争いがいま白熱化しているのです。この宇宙的な争いの中にあつて,私たちは中立でいることはできません。たしかにカイザルの終りの時であつても,私たちはカイザルに税を払つてカイザルに属するものを彼に帰さねばなりません。しかし,何時いかなる時であつても,私たちは常にキリストによる神の御国を支持しなければならないのです。私たちは,カイザルや他のすべてのものに神の御国を伝道することにより,御国を支持していることを公けに知らせねばなりません。亡びに面しているこの世の政治政府の中で,御国証言の伝道が閉されている国はひとつもないのです。(マタイ 24:14)復活されたキリストはいま王であることを私たちは心から信じています,同時に救われることを欲するなら,救い出されることを欲するなら,私たちはその信仰を公けに知らせねばなりません。それは,ロマ書 10章9,10節に書き記されている不変の原則です。

      19 ペテロと,更に以前のヨエルは,それと同じ原則をどのように述べましたか。

      19 19世紀前の五旬節の日に,使徒ペテロは同じ原則を次のように述べました,『ヱホバの大いにして輝かしい日の来る前に……誰でもヱホバの御名を呼ぶ者は救われる。』(使行 2:20,21,新世)ペテロが言葉を引用した予言者ヨエルは,ヨエル書 2章31,32節でペテロの時よりも幾百年もむかしに同じ原則を語つていたのです。今日,私たちはこの原則に従つて行うとき,またはヱホバの御名を呼んで公けに宣べ伝えることによつてのみ忠実を保つことができます。

      20 それと同じ原則に一致して行うため,ダビデはどんな家を好みましたか。それで,彼の詩篇はどんな益をもたらしますか。

      20 ずつと以前のダビデ王は,その原則に従つて行いました,そして同時に悪しき者と共に処刑されないように,そしてヱホバ神にあがなわれて恵みを示されるようにと祈つたのです。このわけで彼は悪しき者との交わりや交際よりもヱホバの崇拝の家を好んだのです。彼は次のように言いました,『ヱホバよ,我なんじのまします家となんじが栄光のとどまる処とをいつくしむ。』神の家で崇拝することによつて,彼は神の犠牲の祭壇をめぐり,感謝の言葉を声高く上げ,ヱホバのすばらしい業をことごとく宣べ伝えることができたのです。このことを自分の目的としたダビデは,詩篇 26篇を結ぶにあたつて次のように言いました,『われもろもろの会のなかにてヱホバを讃めまつらん。』(詩 26:8,12)ダビデは公けに宣べ伝えて,それから詩篇の中に書き記しました。それにより,ダビデは救を得て神の新しい世に入ることができます。またダビデの詩篇を読むクリスチャンも救を得ることができます。

      21 良いたよりを伝道する私たちの義務と権利に落度を生ぜしめるため,何が為されますか。なぜパウロは,自分の裁判を上訴する際に賄賂しませんでしたか。

      21 献身したクリスチャンである私たちは,キリストの命じたごとく御国の良いたよりを伝道する責務と権利に落度があつてはなりません。キリストと彼の弟子たちは,私たちにこう警めました,すなわちこの世の政治的な権力や宗教的な権力は,伝道せよとの神から与えられた権利を私たちから取り去るように努めるであろう,そして音信を中止させるようにつとめるだろう,そしてもしそれが駄目なら私たちを殺して私たちの声を沈黙させるように努めるだろう,ということです。この権利に関しては,使徒パウロは妥協しませんでした。主なる神を崇拝すると主張した人々をも含めて,宗教的な人々はピリピや,テサロニケや,ベロアや,そして遂にはエルサレムでパウロに反対を惹き起しました。パウロはついにカイザルに訴え出て宗教家によるこの干渉を中止するよう願い,神の御国を伝道する合法の権利を確立しようとしました。それは妥協という意味ではけつしてありません。それでは,なぜパウロは訴えましたか。一番最終にいたるまで,ローマ帝国の最高法廷にいたるまで戦をなすためであり,敵に命乞いをするとか,また敵に助命を与えることではありません。カイザルの律法でさえも,その時の宗教家が神の御国の伝道に干渉することを認可しなかつたのです。さらに,神の律法はことごとくこの伝道を支持しました。それで,パウロは使用し得る権利のあつたすべての武器を用いて戦いました。自分自身の便宜を図るために,彼は不正な手段を用いませんでした。不正な手段は,論争を未決定にして合法的に確立されない状態のままにするでしよう。それで彼はフェリックス総督に賄賂して,牢から出してもらうことを拒絶しました。―使行 24:26,27。

      22 このことに関して,パウロはどんな目的に専念しましたか。

      22 ローマ市民であつたパウロは,当時の地上における最高法廷権威,カイザルに訴え出ることにより,御国の音信を威厳あるものにいたしました。パウロはクリスチャンとしてそのカイザルに税を払つたのです。(使行 25:10-12)パウロは全く『良いたよりを(伝道する権利を)弁明し,合法的に確立する』ことに専念いたしました。(ピリピ 1:7,新世)この行は,マタイ伝 10章18節に述べられているイエスの予言の成就を果すものです。

      23 それで,パウロのごとく,禁止のされていないところ及び禁止のされているところでは,ヱホバの証者はどのようにいたしますか,そして誰からの救を待ち望みますか。

      23 今日でも私たちは,クリスチャン使徒パウロの従つた正しい原則に則ります。ヱホバの証者に対して禁止がなされていないところでは,税金を払う市民としての私たちは現代のカイザルに訴え出て,カイザル自身の律法により御国伝道の敵を中止させます。禁止のなされている所では,禁令下にいるヱホバの証者は自分の国のカイザルに訴え出ることはでさません。しかし,御国を伝道せよ証と者に告げたヱホバのいましめに関するかぎり,彼らは人間の課した禁止よりも支配者なる神に従います。それらの人間は,神に敵対する者たちであり,現在に朽ち果ててしまうか,又は遅くともハルマゲドンの宇宙的な戦争のときに亡びてしまいます。(イザヤ 51:12)神の新しい世での永遠の生命に達する救は,間もない中に必らず亡びるカイザルを通しては来ません。それは,神ヱホバと統治している王イエス・キリストを通して来るのです。

      24 それでは,詩篇 26篇でダビデの述べるごとく,私たちはどのように行うべきですか。その故に,私たちの祈はどのように答えられますか。

      24 神の御国相続者の残れる者および,神の御国に善意を持つ大いなる群衆の伴で成り立つ私たちは,ヱホバの家の住居と彼の栄光の止まる場所を愛します。ヱホバは私たちのクリスチャン行為をみちびき,支配するため御言葉の中に原則を書かれました。私たちは愛の気持からその原則につき従いつつ,そのところでヱホバを崇拝しつづけます。ヱホバを崇拝する者の集まりの中で,私たちは現在および永遠にわたつてヱホバを讃えます。この古い世の終りにいたるまで,私たちは聖書的に定義された神への忠実を保ちつつ良心的に歩きます。私たちはそうする故に,私たちの祈は彼に受け入れられるものであり,彼はキリストを通して私たちを救われるでしよう。神が,この世の罪人や,また流血の罪を持つ人の魂や生命を取るとき,神は悲惨な終りの中にあつても私たちを生き残らせるでしよう。彼を熱心に求める者を報い給うヱホバは,私たちを救つて約束されたその新しい世に入れられます。それは敬虔な原則と忠実の世です。

  • 苦しみに対する二つの見解
    ものみの塔 1957 | 12月15日
    • 苦しみに対する二つの見解

      1957年2月25日付のニューヨーク・タイムスによると,法王ピアス12世は,バチカン宮殿で500名の医師に向い次のように話しました,『人間から苦しみが完全にとりさられるということはないであろう。』これは一つの見方です。もう一つは聖書の中 ― キリスト・イエスが使徒ヨハネに与えられた黙示の中にあります。カトリック・コンフラタニティ訳の黙示録 21章1,2,3節は,ハルマゲドン後人間の間にみられる状態について次のように言つています。『わたしはまた,新しい天と新しい地とを見た。先の天と先の地とは消え去り,海もなくなつてしまつた。また御座から大きな声が叫ぶのを聞いた,「見よ,神の幕屋が人と共にあり,神が人と共に住まれる。そして人は神の民となり,神も彼らの神として共におられる。また神は人の目からすべての涙をぬぐいとって下さる。もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもない,先のものが過ぎ去つたからである。』

  • 教会の角笛
    ものみの塔 1957 | 12月15日
    • 教会の角笛

      教会の鐘のことはだれでも聞いて知つていることです。英国の人々は最近,角笛が鐘と同様の目的で使われたことを耳にしました。それは,日曜日の朝の礼拝に出席する人が非常に少いのにいらいらした或る牧師が,日曜日に自動車で教区をまわりながら,教区民を起すために角笛を吹いたのです。

  • 囚人が正しい立場を取り実を結ぶ
    ものみの塔 1957 | 12月15日
    • 囚人が正しい立場を取り実を結ぶ

      使徒パウロは,コリント人に次のようなことを思い出させました。即ち,彼らの中の或る者は以前不法な者であつたが,しかしキリストの血と,神の聖霊の力によつて,彼らの生活をすつかり変えてしまつた。(コリント前 6:9-11)これらの要素は,私たちの時代でもまた,正義と実を結ぶことを助長するものであることが,1957年3月に或る囚人から受け取つた報告によつて明白に分ります。

      『私はつい最近,サウス・カロライナ州コロンビアにある州の刑務所から釈放されました。……実は私がどのようにして,ヱホバの証者の一人になつたかをお話したいと思います。

      『私は刑務所内で不従順であつたため,3ヵ月間独房にいれられました。隣の独房にいた囚人が,私に本が読みたくないかどうか尋ねました。どんな種類の本か聞きますと,彼は宗教の本だと答えました。ヱホバの証者である彼の妻が彼にと送つたものです。私は,宗教に関するものならば何でも興味を持つていないと彼に言いましたが,しかし,他に何をすることもなかつたのでその本を受け取りました。それは1949年のヱホバの証者の年鑑でした。私はそれに非常に興味をそそられましたので,この種の本がどこで手に入れられるか彼に尋ねました。すると彼は,私のために,彼の妻にたのんでもう二,三冊持つて来させようと言いました。彼女は,「神を真とすべし」,「これぞ永遠の生命を意味する」とクリスチャン・ギリシャ語聖書の新世界訳を送つて来ました。

      『すべての宗教的書籍を検閲する,刑務所の教誨師がやつて来て,ギリシャ語聖書は持つていても良いけれど,他の2冊の本は,国の法律に反対するものであるから所持することはできないと言いました。しかし私は他の2冊の本をかえしてくれないかぎり,それを受けいれるのを拒絶しました。それから1週間たつて私の独房監禁の期間はおわりましたが,しかし私の本を返してくれるまでは仕事に帰るのをことわりました。そのような立場をとつたため彼らは私をもう少しひどい独房にいれ86日間というものはただ水とパンを与えて呉れただけでした。そのため体重は165ポンドから94ポンドまでに減りました。しかし彼らはついに全部の本を私に返すことに決心しました。私がこのような態度をとつたので,他の二人の囚人が色々な質問をしはじめました。それで私はこの二人と聖書の研究をはじめましたが,今は彼らもヱホバの証者です。ついでに,書籍に反対してあらそつた教誨師は,クリスマスのキャンデーと野球のユニフォームを盗んだので解雇されました。新任の教誨師は真理に興味もありませんが,しかし以前の者より気前がよく,書籍を持ちこむのを許します。

      『私は洗礼を受けました。そして,神の制度内でヱホバにいつまでも忠実を保ち,奉仕しつづけることができるように祈つています。』

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