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この希望からどのように益を得られますか目ざめよ! 1976 | 4月8日
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なユダヤ人の場合ほど大きな問題とはならないでしょう。復活したニネベ人と「南の女王」の示すより良い反応は,実際にイエスが宣べ伝え,教えるのを聞いたイエスの郷里の人々の世代を罪に定めます。過去において,ヨナの時代と「南の女王」の時代のニネベ人は,神のしもべが語った事柄に好意的に応じました。それゆえ,自分たちが偏見を抱いたことのない,神が選ばれた王の支配に彼らが服すのはいっそう容易なことです。
同様に,今日,神のみ言葉の述べる事柄を進んで,また喜んで考慮し,それを自分の生活に当てはめる人々も,裁きの日の期間中に進歩するのがはるかに容易であることに気付くでしょう。ですから人が今行なう事柄は,自分の永遠の将来に影響を及ぼしうるのです。
死からよみがえらされたのち,神の支配に反逆する者はだれでも,とこしえの命の見込みを失います。そうした人は,回復の見込みの全くない「第二の死」を経験します。第二の死に関しては,啓示 20章14,15節にこう記されています。「火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。
誇りや,かたくなな性向が永遠に命を失う結果を招き得ることを考え,一足先に義の道を歩み始めたいと願うべきです。りっぱな特質,つまり裁きの日に神のご要求に従うことをいっそう容易にする特質を,今,培う機会を捕えることをせず,永遠の命を失うならば,それは何と悲しいことでしょう。
しかし,義の道に一歩先んじるためには何ができるだろうか,とお尋ねになるかもしれません。
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命を得るための訓練は今行なわれている目ざめよ! 1976 | 4月8日
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命を得るための訓練は今行なわれている
神は,ご自分がもたらそうとするどんな新しい取決めに対してもいつも準備をされます。多くの苦悩をもたらしてきた現在の体制を神が滅ぼされた後に設立される,事物の新しい秩序に関してもこのことは当てはまります。神は,聖書の原則に従って生活する備えのできている人で,よみがえらされる他の人々を真理の道に教え導くことのできる人々を生き残らせます。これらの人々は,新しい人間社会である「新しい地」の基礎を構成するでしょう。―啓示 21:1。イザヤ 51:16。
それゆえに命を得るための訓練計画が現在進められているのです。訓練を受けている人々は自発的にこの訓練を受け,また楽しんでいます。この訓練にはどんな事柄が含まれていますか。
それは聖書の研究による訓練です。それは神がさせておられる業ですから,イエスが使徒たちに『ただで受けたのだからただで与えなさい』と言われた際に示された原則に基づいて無料で行なわれます。(マタイ 10:8)エホバの証人は,神の言葉を調べたいと思っている人々の自宅で,無償の聖書研究を司会します。では,これはどのように行なわれるのですか。命を願う人々に神が何を求めておられるかを,ご自分の聖書を用いて静かに理性的に考慮することによってです。普通,6か月の課程を通して,神とは誰か,地に対する神の目的は何か,人間はなぜ創造されたのか,そして罪と死はどのように人類に臨んだのか,これはどのようにして除かれるのか,そして,現在神の教えに従って自分の生活を調整する人々はどうすれば汚染のない美しい地上での永遠の生命を確かなものとして期待できるかを知るようになります。
命を得るための教育計画
神を愛する人は他の人々をも愛します。エホバの証人は集まり合うことを楽しみます。そのために,また霊的に鼓舞されるためにも彼らは王国会館と呼ばれる集会所に毎週集まるよう取り決めています。これらの会館は清潔で,きちんとした,魅力的な所で,「くつろいだ気分」になれます。多くの教会と違って凝ったデザインや偉容を誇るものではありません。「もしこれらの集会の一つに出席したとしたら中はいったいどんな様子だろうか」と疑問に思われるかもしれません。
まず親しみやすい人々をそこに見いだされるでしょう。なごやかな雰囲気の中で腰をおろし,感情的な激発を伴わない,簡潔で分かりやすい聖書の話や討議に耳を傾けることができます。あなたは学ぶことができるのです。というのは,エホバの証人が聖書の集会に出掛けて行くのは教育を受けるため,つまり聖書を理解するためだからです。エホバの証人は,あなたもこのことを望んでおられると信じています。恐らくあなたは,大抵の教会でみられるような状態にうんざりしておられることでしょう。すなわち,絶えず金銭が催促されること,必ず回ってくる寄付盆,冷淡で堅苦しい雰囲気,そして特に聖書に関する話が聞けないことなどです。それとも,訪問者を改宗させようとして感情に訴える行為が種々行なわれるために顔をそむけてこられたかもしれません。
しかし,エホバの証人の集会に出席する際,あなたは賓客なのです。暖かく歓迎され,席を与えられ,賓客として扱われるでしょう。あなた個人の権利や信仰は尊重されます。あなたは話を聞きご自分で比較考量することができます。質問がおありでしたら,そこに出席している人々は喜んで聖書を用いてその点を話し合います。
あなたは決して会員になることや寄付をすることを求められたりはしません。エホバの証人は隣人を愛しているので,一緒に聖書を学ぶためだれかがお宅を訪問することを望まれるかどうかをお尋ねする場合もあります。エホバの証人は,自分たちが非常に貴重だとみなすもの,つまり真理を見いだしたのです。彼らが他の人々と分かち合いたいと望んでいるのは良いたよりなのです。
集会は家族全員にとって有益なものであることに気付かれるでしょう。どのようにして家族の全員が幸福になれるか,夫と妻と子供の責任,適切な訓練など家族の一致を保つ方法について多くのことが語られます。おとな同様子供たちも注解に参加する集会もあります。その一つの集会である会衆の学校には,交わっている人ならだれでも名簿に載せてもらうことができます。学校に入った人は,聴衆の前で話す短い話の主題を割り当てられます。女の人の場合,聴衆の聞いているところで別の人との対話形式で話をします。これは自分の信仰を他の人々に言い表わしたり,聖書の質問に答えたり,聖書研究を司会したり,また男子の場合には聖書の公開講演を行なったりすることができるようになるための優れた訓練となります。多くの年少者たちはこの学校での訓練から益を得たため,公立学校の国語や話す能力の課目で驚くべき進歩を見せています。―テモテ第一 4:15,16。
これらすべての集会の目的は,各人が生きる道として,聖書を日常の事柄に適用できるようにすることであり,また他の人が良いたよりについて学び,この道に従うのを助けることです。
彼らは神が差し伸べておられる希望から益を得てきたので,他の人々もその益にあずかることを望んでいます。それらの人は現在,最善を尽くして聖書の原則に従って生活し,その結果現在でも,いっそう充実した生活を楽しんでいます。しかしそれだけでなく,復活に対する確かな希望を抱いており,愛する人々が墓から戻ってきて命に至る道を歩むのを目撃することを楽しみにしています。彼らはそうした愛する人々を将来助けるために,現在訓練を受けようとしています。あなたもこの命を得るためのこうした訓練を受けるよう,エホバの証人は心からお勧め致します。
[14ページの図版]
何十万人もの人々は,聖書の教訓的な教えから益を得るためにエホバのクリスチャン証人の週ごとの集会に集まります
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聖書の原則に従って子供を教育する目ざめよ! 1976 | 4月8日
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聖書の原則に従って子供を教育する
今日多く見られる少年たちの犯罪,非行はどうしたら防ぐことができるだろうか。自分の家の子供たちがそのような道に引き込まれないようにするには,親はどのように育てたらよいのだろうか。また,自分の子供は手に負えなくなったと感じている親も今日多くなっているが,就学できる年齢になってから人格を作り始めれば良いのだろうか。多くの経験と研究の結果は,子供に対する訓育はごく幼少の時から始めるべきであることを示している。年少であっても,神のみ言葉である聖書から健全な原則をしっかりと教えられた子供たちは,周囲の圧力や嘲笑に屈しない強さを示すことができる。
横浜に住むエホバの証人のひとりの主婦は次のことを観察することができ,こう報告している。
「聖書によって育てられた息子(当時5歳)は,(それが聖書に起源を持たない異教の祭りであることを知っているので)幼稚園をあげてのクリスマス会に出席したがりませんでした。しかし父親の命令には従って幼稚園には出掛けることになりましたが,子供の喜ぶ劇やおゆうぎまたお菓子が提供され,多くの誘惑やおどしがかけられたにもかかわらず絶対にその会につらなろうとしなかったのです」。
その結果,小さいながら自分の信仰に堅く立った者として園長からほめられ,そのお気にいりになることになった。彼女はその息子について次のようにも書いている。
「京都において100名近くの親族が集まって法事が行なわれた時,クリスチャンである私はよいとしても,息子は本家の唯一の男の子であるから何としても法事に出席し参加させなくてはならないと強制されました。(当時3歳でしたから)母親のまねをしているにすぎないのだから,ひとりだけ引き離せばどうにでもなると親族は考えました。お寺の前に来た時,本人はお寺に入るのはいやだと言いました。大人たちは,おがまなくてもよいから中に入るだけ入れということになり息子は中に入りました。本堂に近づくにつれて大人の考えが分かって絶対に本堂には入らないと言いだしました。大人がなだめても,すかしても,おどかしても無理でした。さわぎがひどくなる一方なので大人たちはついにあきらめ,息子は参加しないですみました。それ以来主人も他の親族も息子に偶像崇拝を決して要求しません」。
こうした子供の態度は単に親にいわれたことを守っているだけのかたくなな信念とはちがう。むしろ,その理由をはっきりと教えられ,それにより善悪に関する明解な反応を示す良心が強められるのである。自分の信仰について説明する機会が与えられれば進んでそうするであろう。
東京練馬の小学校三年の一少女の経験もそのことを示している。社会科の時間に先生は戦争の写真を見せて,戦争についての作文を書かせたとき,次のようなことが報告された。
「父母会の席上,その先生は,優れた内容のもの五つを読ませました。最初の四つは戦争で死ぬこと,家族と別れ別れになることの悲しみをつづったものでした。最後に娘の作文が読まれました。私自身娘の作文の内容に驚きました。他の方々も態度を変えて熱心に聞いていました。それには聖書を使って命の大切さ,戦争の罪悪について書いてありました。先生はその作文から深い感銘を受けたと述べられました。その結果,多くの出席者が,どのようにしつけをしているのですかと尋ね,そのうちの二人の方は聖書の話を聞くようになりました」。
前述の少年は現在9歳ですが6歳のときからクラスの友人のひとりに聖書を教え続けてきました。年若い彼の教え方は簡単ではっきりとしたものです。「第一のものを第一にする様に,そしていつも人間に従うのではなく,エホバに従わねばならない」と言うのです。
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