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パナマのインディアン ― 遠い過去の生活をしのばせる人々目ざめよ! 1971 | 12月22日
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他の二人が,イエス・キリストの弟子としてバプテスマを受けた。こうして彼らは,神への奉仕に献身している他の多くのパナマのインディアンたちの仲間入りをした。
バプテスマのあと,私たちは昼食をとった。インディアンの猟師たちは野生のブタをとってきた。ほかの者たちはやりをもって海中にもぐり,魚を取ってきた。ある家族はニワトリを,また他の家族は飼いブタを持ってきた。畑から米や料理用バナナ,バナナ,ユッカなどを持ってきた家族もいた。出席者の大部分が地面や,新しい集会所の中にすわって,手で食べた。
そのあとで,私たちは献堂式のためにまた集まった。四方から人々がやってきて,出席者はついに189人になった。私の旅行友だちと私を除けば,あとはみなグアイミ族であった。「神は偏ることをせず,いづれの国の人にても神を敬ひて義をおこなふ者を容れ給ふ」ということに対して,私たちはともどもに創造者エホバに感謝をささげた。―使行 10:34,35。
パナマのインディアン訪問は,遠い過去の生活を見ているようである。しかしグアイミ族の訪問を終えて帰途についたとき,私は神のみことばの理解が,異なる背景や習慣を越えて人々のあいだに生み出しうる一致と兄弟愛を考えずにはいられなかった。
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血はだれのものか目ざめよ! 1971 | 12月22日
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血はだれのものか
● 今日,動物や人間の血は多方面に用いられている。輸血に用いられるほか,ある種のノリや食品の製造に血を使用する企業もある。しかし,動物もしくは人間から取られた血はだれに属するのであろうか。その動物の所有者にか。血の取られた人に属するのであろうか。読者はどうお考えだろうか。
ボリビアの3歳になる一幼女はその答えを知っていた。幼女のクリスチャンである両親は,その子に聖書を教える際,エホバ神は血が命を表わすものとみなしておられることを教えた。血がからだから取り出された場合,それを食べたり売ったりしてはならず,地に注ぎ出されねばならなかった。こうして血は事実上,命の源である神に帰されたのである。―レビ 17:11-14。
その幼女の母親はある日のできごとについてこう語った。「わたしは何人かの近所の人と同じ中庭を共同で使っていますが,その人たちは,わたしが聖書について話しても決して関心をもって聞こうとはしませんでした。ある休日,それら近所の人たちが,ごちそうを作るため,1頭の羊がほふられた時,たまたま近くに居合わせたうちの3歳になる娘が,羊から血が流れるのを見るなり『血はエホバのものよ。血はエホバのものよ』と叫びました。近所の人たちはそうしたことを一度も聞いたことがなく,エホバがだれなのかも知らなかったので,あ然としていました。娘の叫び声を聞いたわたしが,何事かと思って中庭へ急いで行ってみると,娘がおとなにまじって,『さわっちゃだめ。さわっちゃだめ。それはエホバのものよ』と言っていました。隣人たちから説明を求められたわたしは,急いで家に行って聖書を取り出し,娘の言ったことが神のみことばに基づいていることを示しました。今ではそれら隣人たちはわたしといっしょに定期的に聖書を学んでおり,近いうちに,バプテスマを受けてエホバの奉仕者になりたいと願っています」。
血に関する読者のお考えや行動は,この幼女が持っていたと同様の正確な知識と,血を尊重する気持ちとを反映するものであろうか。
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