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あなたは神に関する真理を認めますかものみの塔 1975 | 7月1日
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聖書に基づく資料を掲載しています。世界中あらゆる所に住む,真理に飢えている幾百万もの人々は,そのような記事を読むのを非常に楽しみにしています。
「とこしえの命に導く真理」と題する本を,それが出版された国に対する偏見のゆえに読まなかった若者を見倣ってはなりません。むしろ,「出版された場所は,本当に問題となるだろうか」と自問してみてください。資料そのものを偏見を持たずに調べてください。そして,箴言 2章4,5節の霊感を受けた次の助言に従ってください『銀の如く[神についての真理]を探り 秘れたる宝の如く これを尋ねば 汝エホバを畏るることを暁り神を知ることを得べし』。
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読者からの質問ものみの塔 1975 | 7月1日
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読者からの質問
● 聖書にかなった道を歩もうとするがゆえに,クリスチャンが逮捕され,世の権威によって罰金の支払いを命じられる場合,それに応じることは妥協した行為となるでしょうか。また,罰金刑と服役刑のどちらかを選択する自由が与えられる場合,それによって事情は異なってきますか。
イエス・キリストは,ご自分の追随者たちが『地方法廷に引き渡され……証しのために知事や王たちの前に立たされる』であろうと予告されました。(マルコ 13:9)クリスチャンたちに対して当局がこうした処置を取るのは,クリスチャンが王国の良いたよりを宣べ伝えたためか,あるいはクリスチャンとしての良心が関係している他の何らかの行為のためかもしれません。(使徒 4:1-3,18-21; 5:27-40,ペテロ第一 4:15,16と比較してください。)法廷は,クリスチャンに対し罰金の支払いを命じる不利な裁定を下すかもしれません。その罰金は,唯一の刑罰として課せられることもあるでしょうし,服役刑の代わりに任意に選択できる刑罰として,あるいは服役刑と罰金刑とを含む刑罰の一部として課せられる場合もあるでしょう。
エホバの証人はこれまで,宣べ伝える業が関係している場合には,一般に罰金の支払いを拒否する立場を取ってきました。罰金を払うことは,実際に不法行為を行なったことを認めたものと一般にみなされるのではないかと考えたからです。また,罰金の支払いを拒否し,その代わりに投獄されるなら,そのこと自体,「良いたよりを擁護して法的に確立する」上で好ましい結果をもたらすことになるとも考えてきました。(フィリピ 1:7)多くの場合,こうした態度は数々の望ましい結果を生みだし,神に仕えるわたしたちの決意の堅いことを当局者に印象づけるものとなりました。そして,エホバは明らかにそうした態度を祝福されました。一般の情勢を考えると,今日でも,ある場合にはそうした決定に従うことは賢明であるように思われます。しかし,ここでわたしたちが主に関心をいだいている質問は,罰金を支払うことが聖書から見てふさわしいかどうかという点です。
罰金に関する記述は聖書の中にも見いだされます。律法契約のもとでは,罰金は罰則つまり刑罰の一形式として採用されていました。(申命 22:19。出エジプト 21:29-32,箴言 19:19; 21:11と比較してください。)エズラ 7章26節が示すところによると,「罰金」(新)が,懲役,流刑,死刑などとともに刑罰の一形式として昔のペルシャの当局者により挙げられていました。また現代では,1973年版のワールドブック百科事典が述べるように,「罰金は,多くの場合軽犯罪(軽微な犯罪)に対する刑罰とされ」ています。
ですから,犯罪者が投獄を免れようとして企てる“買収”行為とこの罰金とを混同すべきではありません。罰金は,知事フェリクスが使徒パウロから得ようと腐心し,結局はパウロに拒否されたわいろとは異なるものです。(使徒 24:26,27)ですからクリスチャンは,自分に課せられた罰金を刑罰の一種と正しくみなすことができるでしょう。そしてたとえ,自分は何の悪行も犯しておらず,神のことば聖書に一致した行動を取ったにすぎないと確信している場合でも,この世の,上にある権威に服すという立場から,その人の良心は罰金の支払いに応じることを許すかもしれません。(ローマ 13:1,2。ペテロ第一 2:13,14)わたしたちが罰金を払うのを見て,中にはわたしたちの側に罪があったと考える人がいるのは事実ですが,投獄される場合にも,大抵の人がそれと同じ印象を抱くことも事実です。わたしたちは,世の人々からどうみなされるかではなく,神がどう見ておられるかという点に主な関心を抱いています。罰金を支払うにしても,懲役刑に服すにしても,わたしたちがそうした処罰を受けるのは,『支配者として人間より神に従う』態度を堅持するからにほかなりません。―使徒 5:
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