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  • 「それからはずっと幸せに暮らしました」
    目ざめよ! 1984 | 5月8日
    • 「それからはずっと幸せに暮らしました」

      「むかしむかし,雪が空から羽のように舞い降りてくる冬のさなかに,一人のおきさきが窓辺で縫いものをしていました。……おきさきには,雪のように白い肌をしたかわいい娘がいました。……それでその子は白雪姫と呼ばれました」。

      ドイツのグリム兄弟はこの話を19世紀の初めに記録し,彼らの書いた有名な童話集の中に入れました。1934年に,ウォルト・ディズニーはまさにこのおとぎ話を映画にする具体的な構想を考え出しました。ディズニーはミッキー・マウスの漫画映画でアニメ映画制作者としての名声を得ていました。しかし今度は,動物だけでなく人間もアニメ化した長編映画を作りたいと考えたのです。その結果3年後にできたのが,「白雪姫」でした。読者も,この映画を見た幾百万もの人々の一人かもしれません。

      白雪姫の単純な物語がこれほど大勢の人々を魅了するのはなぜでしょうか。この話が悪と純真さとの間の根本的な戦いを扱い,純真さの最終的な勝利を描いているからかもしれません。悪い継母であるおきさきが美しい白雪姫を無き者にしようと計画的に試みるとき,子供たちがその悪いおきさきに対してどんな反応を示すかを見てごらんなさい。最後には,白雪姫を守ろうとする小人たちの努力のかいもなく,悪いおきさきが国中で「いちばん美しい人」になるという目的を遂げたかに見えます。悪知恵を使って,おきさきは白雪姫に毒入りリンゴをひと口食べさせ,その結果白雪姫は死んでしまいます。おきさきに対抗する者はとうとういなくなりました。ところが,白雪姫は生き返り,ハンサムな王子様が白雪姫と結婚します。悪いおきさきは罰せられます。

      「でも,ほかの人たちは,王子様も,王女様になった白雪姫も,7人の小人も,それからはずっと幸せに暮らしました」。

      そしてこの結びの言葉に,子供たち,そして時には大人をおとぎ話に引きつけるかぎがあります。大抵の人は,「それからはずっと幸せに暮らし」,めでたく終わる結末をこいねがうのです。多くの映画制作者たちは,人類の大半に見られるこの願望に気づいており,アニメ映画の中でそれを用いてきました。

      では,これらの映画は幸せを伝える点で本当のところどの程度まで成功しているのでしょうか。読者もこの種の娯楽で時を過ごしたことがあるに違いありません。それで幸せな気持ちになりましたか。それは真の幸福感でしたか。それとも,ファンタジーによるつかの間の感情にすぎなかったのでしょうか。真の永続する幸福を味わうことは可能ですか。この一連の記事の3番目は,映画の専門技術者によるもので,真の幸福を得るまでの経験が載せられています。

      しかしそれはさておき,アニメ映画がどのようにしてできるのだろうかとお考えになったことがありますか。「目ざめよ!」誌は,専門のアニメ映画制作者にインタビューをして,どのようにしてアニメ映画ができるのか説明してもらいました。

  • 鉛筆を使って“命”を与える
    目ざめよ! 1984 | 5月8日
    • 鉛筆を使って“命”を与える

      世界で最も有名な映画スターの中に,人間でないものがいることをご存じでしたか。それでも,100本を超えるハリウッドの映画や無数のテレビ番組のスターです。この映画スターはだれですか。イタリア語ではトポリーノ,中国語では米老鼠<ミーラオスー>,スペイン語ではエル・ラトン・ミゲリト,そして英語では単にミッキー・マウスと呼ばれています。

      ミッキー・マウスはどのようにして“命を与えられた”のでしょうか。デビュー作は,1928年のウォルト・ディズニーの映画,「蒸気船ウィリー」で,それ以来歴史上最も著名な漫画の主人公となってきました。もちろん,世界的に有名になったアニメ漫画の主人公はほかにも数多くいます。少し名前を挙げるだけでも,トムとジェリー,クマゴロー,ピンクパンサーなどがいます。そうした漫画映画やその主人公を描く人たちは,アニメ制作者と呼ばれています。そうした人たちがどのようにして仕事をするのかを知るために,「目ざめよ!」誌は,米国カリフォルニア州ハリウッドに住むビル・クロイヤーというアニメ制作者から話を聞きました。

      漫画映画がアニメと呼ばれるのはなぜですか。

      アニメという語のもとになっている英語,“アニメート”には,「命を与える」という意味があるからです。そして,わたしたちがしているのはまさにそういうことなのです。どんなものでも動かして,うまくゆけばそれを生きているように見せることができます。ディズニー・スタジオで働いていたときには,主として人間や,おしゃべりをする動物をアニメ化していました。でも,テレビのコマーシャル用に,自動車のエンジンがダンスをするアニメを作ったり,健康増進用の映画のために,歌をうたう果物や野菜のアニメを作ったりもしました。どんなものでも,お望みのものを動かしてごらんに入れます。

      アニメ漫画の登場人物が動くように見えるのはどうしてですか。

      普通の映画で物が動いているように見えるのと同じ現象によって,動いているという錯覚が生じます。映画をごらんになるとき,実際には毎秒24枚の静止した画像が目の前を走り過ぎるのを見ているのです。一つ一つの画像は,人間の目の中の光を感知する部分に,ほんの一瞬の間しかとどまらないので,すべての画像が混ざり合って,滑らかに動く連続した映像に見えるのです。アニメの場合に,私たちがそれら24枚の静止した画像を一枚一枚描いてゆくのです。

      たいへんな数の絵を描かなければなりませんね。

      そのとおりです。わずか1分間の映画を作るのに1,440枚です。

      しかしその割合でゆくと,「白雪姫」のような長編映画には100万枚を超える絵が必要になりますね。

      いいえ,その数は200万枚近くになります。

      どうしてそんなに多くなるのですか。

      その絵の大半は決して人目にふれることがありません。そうした絵は企画の段階で描かれ,最終的な作品で使われるのはごく一部にすぎないからです。アニメ映画の場合,話の構想は字で書くのではなく,絵で描きます。絵を描く人のチームが小さなスケッチを幾百枚も描き,ストーリーボードと呼ばれる大きなコルク板にピンで留めます。絵の下には各場面での動きやせりふを説明した小さなメモがあります。絵を描く人たちは,筋が出来上がるまでこうしたスケッチをかき続け,整理し直してゆきます。この作業が終わると,ストーリーボードの上に,その映画の筋全体が1冊の大きな漫画の本のように絵で示されることになります。

      それから,登場人物を動かしにかかるわけですね。

      いいえ,まだです。まず,絵を描く人たちから成る別のチームが特定のデザインの様式に従って,映画の舞台をデザインします。時には,ディズニーの「ピノキオ」のように,映画の舞台を古いヨーロッパのような所にしたいと思うことがあります。別の時には,現代的な舞台設定をすることもあります。ですから,デザイナーたちが調査をして,映画の中の登場人物や衣装,建物などを決めます。次に,監督がストーリーボードを幾つもの場面に分けます。各場面に割り付け用の絵が与えられます。それにはその場面の背景と登場人物がその場面ではどこにいるかが示されています。そこで,私の出番となります。

      ある場面の作業を始める際に,いちばん最初に行なうのはどんなことですか。

      その場面の“絵コンテ”をよく調べます。絵コンテというのは,その場面がどれ位続き,効果音や音楽やせりふなどすべてがどこで入るかを示している図表です。

      クロイヤーさんが絵を描き始める前に,映画のサウンドトラックはもうすでに録音されているということですか。

      もちろんです。そうすれば,フィルムの各コマでどんな音が入るか前もって分かります。私の描く場面の15コマ目に,登場人物が「イタイ」と言ったとすれば,そのコマでは登場人物の口を大きく開けて描きます。このようにして登場人物は話をするようになるのです。

      何を使って絵を描くのですか。ペンですか,鉛筆ですか,絵筆ですか。

      軟らかい鉛筆を使います。変更を加えたり消したりするのが簡単だからです。そして,特別な種類の紙 ― 動画用紙 ― に描きます。この用紙の下の端には幾つかの穴が開いていて,それがトレース台の出っぱりに入るようになっています。1枚の絵から次の絵へと順番に重なり合うよう紙を留めておくのがこの出っぱりの役割です。私のトレース台でもう一つ変わっているのは,穴が開いていることです。その穴はガラスで覆われていて,その下に光源があります。絵を描きながら,透けて見える紙に描かれた絵を幾枚か重ねて,それらを透かして見ることができます。それらの絵がきちんと合っているかを確かめるためです。私は描き始めのときには,非常に大ざっぱなスケッチだけ,登場人物の基本的な形だけを描いていきます。そうすれば,細かいところを描かずに速く仕事ができ,なおかつ自分の望む動きを思い浮かべることができます。

      すべての絵を大ざっぱに描くわけですか。

      申し上げておかなければなりませんが,一つの場面に使われる絵すべてを自分で描くことはほとんどありません。そんなことをしていたら,時間を取られ過ぎてしまいます。アニメ制作者は,一つの場面の主な絵だけを描くのが普通です。それらの絵は原画と呼ばれ,その場面の中での登場人物の主な姿勢や位置を示しています。これらの主な絵を指の間にはさんでぱらぱらめくることにより,動きがどのようなものになるかを目で見ることができます。それから,アシスタントが,間に入る絵を描きます。

      登場人物の動く速さは,原画と原画の間に何枚ぐらいの絵が入るかにかかっています。例えば,左側を向いている顔と右側を向いている顔を描くとしましょう。その二つの間に10枚の絵を入れると,その登場人物はだれかが歩いて行くのを眺めているかのように,顔を左側からゆっくりと右側に向けることになります。この二つの原画の間に絵を1枚だけしか入れなければ,その登場人物は車が勢いよく走り去って行くのを見ているかのように,素早く顔を左から右に向けることになります。

      でも,間に入る絵の枚数はどのようにして分かるのですか。

      それには練習と,さらに研究が求められます。アニメ制作者は絶えず自分の周りの世界を注意深く見ており,物がどのように動くか観察しています。まばたきをさせるのに何コマが必要であるかご存じでしたか。あるいは,アニメ化するのがいちばん難しいものの一つは,普通に歩く姿であることをご存じでしたか。よく調べてみると,前に倒れかかってから次にバランスを取り戻すという繰り返しであることが分かります。しかも,二人の人が全く同じ歩き方をするようなことは決してありません。また,犬の歩き方と猫の歩き方と象の歩き方ではそれぞれ大きな違いがあります。

      鉛筆で絵を描き終えたら,どうなるのですか。

      それをフィルムに収めます。この白黒フィルムは鉛筆テストと呼ばれています。このフィルムを何度も何度も見て,動きやタイミングを改善する方法を見いだすようにします。それから,絵を修正して,もう1度鉛筆テストをします。その場面ができるだけ完全に近くなるまで,何度でも必要なだけこれを行ないます。この職業には,「映画になってしまえば自分の描いた場面は永遠に残るのだから,今良いものにしておけ」という言い習わしがあります。最後の鉛筆テストが終わるまでに,アシスタントと私は大ざっぱな下書きを,細かいところまで美しくきちんと描かれた鉛筆画に仕上げています。しかし,それを皆さんに決してごらんいただけないのは残念なことです。

      決して見られないですって? なぜですか。

      それらの絵は私たちが“トレースと彩色”と呼ぶ工程を経るからです。絵は1枚1枚,セルと呼ばれる透明のアセテートの上にインクでトレースされ,それからアセテートに着色できる特殊な絵の具で色がつけられます。各場面ごとの割り付け用の絵のことを覚えていますか。その絵に色がつけられます。それから,セルを1枚ずつ背景画の上に置いて,それを撮影します。セルを使うので,場面全体をフィルムの各コマごとに描き直し着色する必要がありません。動く部分だけ描き直せばよいのです。

      アニメ映画はみなこのようにして作られるのですか。

      いいえ,そんなことはありません。異なったテクニックが数々あります。カナダ映画委員会では,絵を描く人たちが小さな絵を直接フィルムにかき込むことによって映画を作りました。英国ロンドンの最も優れたスタジオの幾つかでは,紙ではなくて,直接セルに描くことのほうが好まれています。この方式ですと,原画がそのまま撮影されることになります。それから,全然絵を使わないアニメ映画も数々あります。

      全然絵を使わないのですか。

      そのとおりです。それは,ストップ・モーション・アニメーションと呼ばれています。制作者たちは,操り人形や粘土で作った人形,さらには砂の彫刻などを動かし,それらの物体を一コマずつ写真に収めます。そのフィルムを普通の速度で動かすと,その物体は動いているように見え,生きもののようになるのです。最近,ウォルト・ディズニーの映画の仕事をしましたが,すべてのアニメはコンピューターで作られました。私たちは絵を全く描きませんでした。どんな絵にしたいかをコンピューターにただ説明し,あとは全部コンピューターが行なったのです。

      アニメの将来の見通しはどんなものですか。

      コンピューターの助けを借りた“トレースと彩色”のように,技術的な進歩がさらにあるでしょう。しかし,ディズニー方式では実際の絵を描くアニメ制作者が必ずいることでしょう。登場人物を本物に思わせる微妙な表情をもった,精巧な絵を作り出せるのは人間の手だけです。私が自分の仕事をきちんと行なえば,観客は決して絵を見ることはありません。登場人物を,つまり笑ったり泣いたりして,観客の気をもませる人物を見るのです。「バンビ」という映画の中でバンビの母親が死ぬと,観客が泣くのは絵のためではなくて,実際の登場人物のためなのです。

      どんなアニメ制作者にも,自分の鉛筆テストで初めて見たかわいらしい漫画の登場人物が,スクリーンの上で自分のほうを見ている姿を目にするときがあります。その登場人物は数日前まで紙の上の走りがきにすぎませんでした。そして,そのかわいらしい登場人物が口を開いて話す時 ― それは本当に特別な瞬間です。その瞬間があるので,大変な仕事もすべて報われるのです。鉛筆を使って,その登場人物に“命”を与えたのです。

      しかし,最初の記事の中で提起した質問の答えはまだ得られていません。ファンタジーや娯楽によって作り出される幸福感は本物と言えるでしょうか。それとも,もっと永続する幸福があるのでしょうか。それが全人類にとって現実のものとなることがありますか。ディズニーの専門技術者,ロイ・ブリューワーは,こうした質問に対する満足のゆく答えを学び知りました。次の記事はその経験談です。

      [4ページの図版]

      大ざっぱなスケッチと描き上げられた絵。アニメ制作者は登場人物をどんな角度からでも,どんな姿勢にも描けなければならない

      [5ページの図版]

      優れた登場人物のデザインは,自由自在に縮んだり伸びたり誇張されたりする

      [6ページの図版]

      アニメ制作者は絵を指の間にはさんで“回し”,登場人物の動きを見る

      [7ページの図版]

      照明の付いたトレース台に向かうアニメ制作者

  • 私が永続する幸福を見いだすまで
    目ざめよ! 1984 | 5月8日
    • 私が永続する幸福を見いだすまで

      初めてウォルト・ディズニーをかいま見て,胸の高鳴りを覚えたのは1954年のことでした。私が子供のころから,幸福な人とはこんな人だと考えてきた人がそこにいたのです。ミッキー・マウスや白雪姫やバンビを映画のスクリーン上に連れ出した芸術家です。そして私は,そのときフィルム編集者として雇われ,カリフォルニア州バーバンクにあるディズニーの映画スタジオで働いていました。その後30年間,私はディズニーの作り出したありとあらゆるファンタジーと毎日かかわり合うようになったのです。

      ディズニー・スタジオでの生活は面白くてたまりませんでした。大勢の映画スターや,映画を撮るために作られたすばらしいセットに,畏敬の念をもって目を見はらされる日が続きました。例えば,恐ろしい嵐の雰囲気を作り出すために,音響ステージ全体が水浸しにされ,6台の強力な送風機からの風が吹き荒れるという日がありました。そのさなかで,潜水艦ノーチラス号が海底に沈められないようにするため俳優のカーク・ダグラスが巨大なイカにもりを打ち込みました。「海底2万マイル」という映画を覚えておられるかもしれません。それはジュール・ベルヌ原作の小説をもとにした映画でした。

      毎日が夢のようでした。私の仕事は,職業というよりは趣味のようなものでした。しかも,それに対して給料をもらっていたのです。また,そこで働く人々にも著しく異なったところがありました。その人たちは自分たちの仕事をしていて本当に楽しそうでした。音響ステージ,絵かきの町,技術および管理用の建物などから成る16㌶の敷地には,一種のチームワークの精神がいつもみなぎっていました。ほほえみをたたえた人々は,ウォルトの世界の一部になっていることに幸福を感じていました。当時私は幸福だと思っていました。しかし,ある日のこと,真の幸福とはいったい何かを悟ることになったのです。

      「魔法の王国」と幸福

      1928年のミッキー・マウスの映画以来,ウォルト・ディズニーは幾億もの人々を楽しませてきました。1937年に,ディズニーは最初の長編アニメ映画,「白雪姫」を完成させました。この映画は大ヒットし,いまだに約7年おきに新しい子供の世代に公開され,子供ばかりか親たちをもすっかり魅了しています。

      ディズニーが手を伸ばした別の分野は,大遊園地を設計することでした。遊園地は,米国のコニー・アイランド,英国のブラックプール,それにスペインのバルセロナのティビダーボなどの各地に幾十年も前からありました。しかし,ディズニーが思いついたのはテーマのある大遊園地でした。1955年に最初に開園を見たのは,米国カリフォルニア州のディズニーランドでした。次いで1971年には米国フロリダ州に,「魔法の王国」のあるウォルト・ディズニー・ワールドができました。1982年にはエプコット・センター(実験的未来都市)が加えられました。1983年以来,日本にも独自の東京ディズニーランドがお目見えしています。

      過去30年間に,3億3,500万以上の人々がディズニーの作った遊園地の入場券を購入し,ディズニーが魔法の王国と呼んだ夢が実現するのを見て大いに楽しんでいます。そして約束されているとおり,ひとたび中に入れば,浮世のうさは忘れてしまうものです。そして,幸福感で満たされます。

      より幸福な王国は実現可能か

      だれしも幸福を望みます。ある映画のプロデューサーは,幸福を買いたいと願う人々にその幸福を提供しようとします。制作にはお金がかかりますが,それでも非常に利益が上がります。しかし,それは真の幸福でしょうか。それは永続しますか。その点を考えてみましょう。

      映画館を出,テレビを消し,遊園地から出てしまえば,そのファンタジーは消えうせてしまいます。厳しい現実が再び襲いかかってきます。数時間の愉快な娯楽は楽しかった思い出になってしまいます。現実の世界に帰ると,経済状態,犯罪,病気,そしてもちろん死などの醜いさまざまな問題がどっと戻ってきます。娯楽は永続する幸福をもたらしません。それはつかの間の出来事にすぎないのです。

      どんな活動に携わっても悩みのない地に招き入れられたとしたらどんなにかよいだろう,としばしば考えたものです。そこでは,人生の楽しい事柄との新たな喜ばしい出会いが毎日あり,人生の悩みは何一つありません。そこは,年を取ることが決してないだけではなく,決して死ぬ必要がなく,本当に「ずっと幸せに暮らす」ことのできる所です。もしそれが可能なら,どれほど多くの人がそのような王国に入るために進んで犠牲を払うでしょうか。あなたはその犠牲を喜んで払いますか。

      実は,そのような場所に住みたいとの願いを既に幾百万もの人々が言い表わしているのです。まだ“青写真”の段階にあるとはいえ,それが築かれることは保証されています。聖書預言によると,そのような勧めを利用するために,限られた時間がまだ残されています。それは「魔法の王国」ではなく,神の王国によって一変するこの地球なのです。神の約束によると,その地球上で幸福は本当に永遠のものとなります。―啓示 21:3,4。テトス 1:2。

      間もなく全地に楽園が回復されます。精力と活力は新たにされ,動物でさえもはや人間を恐れさせたり,人間を恐れたりすることがなくなるでしょう。目覚めている時間は全く幸福に満ちあふれ,物事を成し遂げたという実感を得て,すべての人は喜びを味わいます。ユートピアの夢のように聞こえますか。かつては私にもそう思えました。

      人生に対する新たな見方

      私は以前米国ネブラスカ州グランド・アイランド市の第一クリスチャン教会の会員でした。ですから,1970年にエホバの証人と聖書を研究するようになったとき,地上で永遠に生きるという考えは私にとって新しいものでした。研究が進むにつれて,神への崇拝に慰めを求める人々の振る舞いに関して,神が一定の規準を設けておられることを知りました。そこで,自分の生き方を変え始めました。私と家族の者たちにとって,地球と人類に対する神の目的が明らかになるにつれて,自家用飛行機を飛ばしたり,音楽のコンサートの売り込みをしたり,テニスをしたりすること,また私がどっぷりとつかっていたさまざまな他の趣味がどんどん重要ではなくなってゆきました。

      私のかつての宗教が,神の目的と,神の王国の本当の意味についての真理を教えていなかったことが,聖書から明らかになりました。地獄の火もなければ,死んだ時に体から出てゆく不滅の魂もないのです。神はイエスではなく,全能の創造者であられるエホバです。イエスは神の子であって,子なる神ではありません。―エゼキエル 18:4,20。ヨハネ第一 4:15。詩編 83:18。

      私はまたイエスが政治問題に決して関与されなかったことを知るようになりました。イエスは,死者の復活をさえ見ることになる楽園をもたらすために,やがて人間の政府を取り除くのが神の目的であることをご存じでした。そうであれば,永遠の命を約束する愛ある取り決めを自分が選べるのに,犯罪が多く,健康が損なわれ,経済が破たんし,死が必ず臨むこの退廃した体制を永続させようとする政治家たちをどうして支持し続けることができるでしょうか。私はできる限りすべての人に,神の政府が間もなくすべての生きるものの願いを満たしてくださるということを伝えるようになりました。―ヨハネ 18:36。ダニエル 2:44。ヨハネ 5:28,29。

      大抵の人は,死後の霊の世界にすべての人にとってのユートピアがあると信じています。聖書はそのようなことを教えてはいません。アダムとエバは神に従う道を選んでいたなら,この地上で永遠に生きられたはずでした。その二人の反逆のために神は裁きを執行しなければなりませんでした。不完全さのために悪が一時的に栄え,その頂点に達しますが,その頂点に達した時に不意に断たれます。悪はほぼその頂点に達しています。聖書の中で幾度も述べられている悪の断たれる時は間もなく来ようとしています。―ルカ 21:29-36。

      私のことをスポーツに熱中し,デキシーランド風のトロンボーンの演奏や政治の話が好きな,社交界の最先端を行く人物として知っていた人々にとって,私は一風変わった存在になりました。良い習慣を伴う新しい人格を身に着けようとする私の努力をあざける人々がいることを,こっそり教えてくれた人もいました。しかし興味深いことに,面と向かうと,人々は以前には見せたことがないような敬意を示してくれるのです。中には,口汚いののしりの言葉を聞こえのよい言葉に変えようとして口ごもる人さえいました。私の感情を害したくないと思ったのです。神の言葉は変化を生じさせるようになりました。

      真の幸福はまだ得られる

      私がバプテスマを受けたエホバの証人になってから12年がたちます。妻も3人の子供たちも,皆エホバを愛しています。私たちは,人々が文明と呼ぶこの混乱の中では得られないと思っていた幸福を見いだしました。私たちの人生には目的があるのです。私たちの霊的な必要は十二分に満たされています。これまでに神の真の組織の中で味わってきた数々の祝福に本当に感謝しています。

      つかの間の「魔法の王国」ではなく,一つの政府である義の王国が間もなく全地で権力を執るということを知るのは大きな喜びです。本当にこれまでで最も幸福な王国のもとで,いつまでも幸福に暮らせることを考えると,本当に胸が躍ります。―マタイ 6:9,10。啓示 21:3,4。

      確かに,日ごとの心配事や問題を忘れさせてくれる映画や娯楽センターはあります。しかし,私が見てきたことからすれば,その効果は長続きしません。ですから,私がしたように,あなたもどうしたら悪や悲しみから永遠に解放されるかを調べてみてはいかがですか。

      [9ページの拡大文]

      さまざまなかたちの娯楽は,一時的に幸福な時を過ごさせるにすぎない

      [10ページの図版]

      いつまでも続く幸福は楽園となった神の新秩序で得られる

  • 聖書 ― 極めて貴重な手引き
    目ざめよ! 1984 | 5月8日
    • 聖書 ― 極めて貴重な手引き

      「神の霊感を受けたもの」である聖書は,わたしたちの人生の手引きとして極めて貴重なものです。(テモテ第二 3:16,17)聖書は神のご要求とお目的をわたしたちに告げています。しかし,聖書は別の面でも,つまりその正確さに対する信頼度の面でも極めて貴重な存在です。アトランタ・ジャーナル・アンド・コンスティテューション紙は,最近,イスラエルの考古学者イガル・シロの業績について報道しました。この人は,「エルサレムの実際の旧市 ― ダビデやソロモン,イザヤ,エレミヤなどの時代のエルサレム」の廃虚を発掘しています。「150人の有志と30人の専門家から成るシロのチームは,つるはしやシャベルから先端技術の電子工学に至るまで,ありとあらゆるものを使って」その考古学的発掘を行なっており,「この探索において……聖書は極めて貴重な道具となっている」と同記事は伝えています。

      どんな点で貴重な道具になっているのでしょうか。その記事はこう述べています。「例えば,エレミヤ書(36:10)にはこのように書かれている。『バルクは主の宮……で,……書記シャパンの子であるゲマリヤの部屋で,巻物に書かれたエレミヤの言葉を……読み聞かせた』」。

      シロとそのチームはこの詳細な点を裏付けると思われるどんなものを発見したでしょうか。「書記シャパンの子であるゲマリヤ」という名の刻まれた,パピルスに印を押すのに用いる粘土製の印章で,エレミヤの時代のものです。

      同じ記事はさらに次のように述べています。「小さな物でさえ,聖書に光を当てる。例えば,シロは,ヘブライ人の預言者の時代のものである,豊かな胸の女性の姿をした多産豊穣の偶像を数多く発見した。これは預言者たちの抗議にもかかわらず,一般の人々が容易に偶像崇拝を捨てなかったことを意味している」。この事実は聖書の記述の中で確証されています。例えば,エレミヤ 7章17節と18節には次のように書かれています。「あなたは彼らがユダの諸都市やエルサレムのちまたでしていることを見ていないのか。『天の女王』への犠牲の菓子を作るために,子らは木ぎれを拾い,父たちは火をつけ,妻たちは練り粉をこねている。わたしを怒らせる目的でほかの神々に飲み物の捧げ物が注ぎ出されている」。

      大勢の権威者たちは,「天の女王」をバビロニア人の多産豊穣の女神イシュタルと同一視できることを示唆しています。また,それをカナン人の多産豊穣の女神アシュトレテと同一視する人もいます。(詳細は,「聖書理解の助け」[英文],1363-4ページおよび810-11ページをごらんください。)

      言うまでもなく,考古学者たちがその発見によって聖書の正しさを確証したのはこれが最初ではありません。聖書を利用してその発掘物の位置を定めたことも少なくなかったのです。故ヨハナン・アハロニは,自著「聖書の土地」の中で次のように述べています。「イスラエル時代のパレスチナに関する歴史的な地理の主要な史料は依然として聖書である。その物語や描写は,生じた歴史的な出来事だけでなく,その地理的な環境をも反映している。聖書にはその地方の地名が475ほど言及されており,文脈からその場所の自然,位置,および歴史と関連のある詳細な事柄が分かる場合が少なくない」。確かに聖書は,今日イスラエルの地で発掘をしているときでさえ,極めて貴重な手引きになることに疑問の余地はありません。

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