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光の子どもとして歩みつづけるものみの塔 1979 | 9月15日
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た。お酒がふんだんに振る舞われ,ダンスはひどく奔放な精神を反映したものでした。多くのお客は,どうして神権的な良い結婚式のあとに世のものを持ち込んで台なしにしてしまうのだろう,と言っていました」。
クリスチャンたちがくつろぐときや,レクリエーションを楽しむときには,どんなことができるでしょうか。建設的な事柄がたくさんあります。次の記事には,娯楽の分野の中でも本当に心身をそう快にするものと考えられている娯楽がいくつか載せられています。要するに,わたしたちのすることは,わたしたちが「光の子ども」であること,そして神の霊の影響の下にあって「世の霊」の影響の下にはないことを反映していなければいけないということです。―コリント第一 2:12。
すべての人が良いことに影響力を用いる
17 「霊的な資格」を持つ長老たちや他の人々は,娯楽の分野で「誤った歩み」をしているかもしれない人たちを,どのように助けることができますか。
17 世の圧力が増すにつれ,会衆内に入り込む世の霊をくじくための用心も必要になってきます。長老たちの影響は神の霊の流れを促進するものでなければなりません。そのためには,平衡を失っている人々の考え方を「再調整」することが必要な場合もあるでしょう。この世的なものが会衆内にしみ込むのを心配したある長老から,次のような手紙が来ました。「わたしたちは長老として共に責めを負わねばなりません。一部の長老は,必要な時に助言を与える段になると弱く,正しいことを支持しないきらいがあるからです」。しかし,長老たちばかりでなく,「霊的に資格のある[「霊的な人たち」,王国行間訳]」人はみな進んで,「柔和な霊をもってそのような人[「誤った歩み」をする人]に再調整を施す」べきです。そういう「柔和な」助言は,一歩の「誤った歩み」が,これから先ずっと続く勝手気ままな道となって災いにつながるのを,あるいは防げるかもしれません。―エフェソス 4:11-14。ガラテア 6:1。
18 平衡を保つことはなぜ必要ですか。
18 娯楽を選ぶにも,好みが様々に異なることはだれもが認めるべきです。『義に過ぎる』と言えるほどまでに極端に批判的になるのではなく,むしろ望ましい事柄を勧めるようにします。聖書に記されている規準を用いてください。そして神の言葉の真の力が,「誤った歩み」をしている人の心に触れるようにしてください。―伝道 7:16,新。
19 親は子供たちの益のために自分の権威をどのように用いることができますか。
19 親は特に子供たちを助ける非常によい立場にあります。使徒は父たる者に対し,「子どもをいらだたせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」と命じています。「育てる」と訳されているギリシャ語には,子供に対する温かい思いが含まれています。というのは,この語根は,自分の子供たちを『慈しむ,乳をふくませる母親』に適用できるからです。―エフェソス 6:4。テサロニケ第一 2:7。
20 (イ)懲らしめを与える必要があるのはなぜですか。(ロ)ある若い人が言ったことからすると,親は何をすべきですか。そのことは後に子供たちから感謝されますか。
20 そのような関心が親にあれば,子供の娯楽の選択に無関心になることはないでしょう。子供への愛が深ければ,時にはき然とした態度をとり,『懲らしめをもって子どもを育ててゆく』でしょう。子供は特に仲間の圧力を受けるために,娯楽の分野などでは親が加える何かの制限に抵抗するかもしれません。信仰の厚い両親に育てられた21歳になるある全時間伝道者は,自分の十代の時のことを振り返ってこう語りました。
「私は自分の受けた訓練が自分の益になっていることに,何年もたって初めで気づきました。でも当時は親に負けたと思っていました。親にしてみれば,強く出ると子供は離れて行くと考えるかもしれません。でも子供は離れては行きません。親は物事を長い目で見なければなりません。おわかりと思いますが,もし子供が,『でもママ,スーザンはあんなことをしているのにまだ真理の中にいるでしょ。それなのにどうして私は真理から出て行くなんて考えるの』と言うなら,それは親にとっていやなことに違いありません。『ノー』と言うことはむずかしいかもしれません。しかし大きくなり,何年もたって,うしろを振り返って見るときに初めて,『エホバよ,両親が決然たる態度をとる勇気を持っていたことをあなたに感謝いたします』と言うことができるのです」。
21 親は子供がどんな大事な関係を築くように助けるべきですか。なぜですか。
21 しかし,外部からの力または懲らしめだけでは完全な解決策とはなりません。使徒パウロは『エホバの精神の規整』について述べています。これの原語の文字通りの意味は,エホバの思いを,支配的または規整的影響力として内に入れる,ということです。すべての悪行は言うに及ばず,人を堕落させる種類の娯楽も避けるように,子供が神との関係を築くのを助けることに努めてください。その関係を深めていったある若い人は,「それは私と親との関係というよりも,私とエホバとの関係です」と言いました。
22 光の子どもたちとして歩みつづけることにより,どんな希望を心に抱くことができますか。
22 わたしたちすべてにとって,それはわたしたちとエホバとの間の関係です。ですからエホバの民はだれも,自分の立場,つまり「光の子ども」の立場を忘れてはならないのです。ですから引き続き世を照らす者として歩みながら今幸福で満足のいく生活を楽しみ,また間もなく実現する,励ましに満ちた,道徳的に優れた新しい体制における幸福な永遠の前途を待ち望むことにしましょう。
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本当に心身をそう快にするレクリエーションものみの塔 1979 | 9月15日
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本当に心身をそう快にするレクリエーション
「我々は祝宴や歌や遊戯をもって陽気に神々を崇拝するが,お前たち[クリスチャン]は,こうした楽しみを持つ者たちが喜ばすことのできない十字架にはりつけにされた男を崇拝している。その男は喜びを忌みきらい,楽しむことを禁じている」。二世紀のキリスト教に敵対したある人物はこのように語りました。a しかし,これはなんと不当な評価なのでしょう。初期の弟子たちは生活に真の喜びを見いだしていました。
彼らの指導者であり,「幸福な神」の子であるイエス・キリストは,「喜びにあふれて」おられ,「幸福な……大能者で」あると描写されています。また,イエス・キリストは,地上におられた時,ご自分の追随者たちが「[彼の]喜びを自分のうちに存分に持つ」よう祈りました。―テモテ第一 1:11; 6:15。ルカ 10:21。ヨハネ 17:13。
彼らの喜びは一時的なお祭り騒ぎや娯楽に根ざし
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