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  • 物質主義か霊的生活 必要なのはどちらか
    ものみの塔 1961 | 9月1日
    • 一部でしたから,祭司は宮の境内の「異邦人の庭」に屋台店や仮小屋を建てることを許しました。そしてそこで外貨を交換し,犠牲の動物を買うようにしたのです。献身した祭司たちの承認するこのような神聖な環境の中で,一体だれがこれらの取極めに異議を申し立てるでしょうか。そのようにすることは便利であるばかりか,宗教的な目的にもよくかなうものではありませんでしたか。外見はすべて非常にりっぱに見えました。ところがイエスがやって来て,彼らの両替の台をひっくり返してしまいました。そして彼らの貪欲さを暴露し,その崇拝の形式は自らを正しとする浅薄で形式的な見せかけにすぎぬと言いました。―マタイ 21:12。

      人気のある宗教が,真実の霊的生活に対するしっかりとした土台を据えることに失敗したため,今日の青少年は,物質的な快楽の方に心を向けてしまいました。英国ロンドンのティンエージャーのグループを代表して,19歳の青年はこう言いました,「ティンエージャーは,教会に続けて行こうという根気がないんだと思います。ものぐさなのかもしれません。でも一体,行って何になるんです? 淋しかったり,何かが欠けている時に,宗教にすがればよいと思うんです。ティンエージャには何も欠けていません……私たちは非常に物質的な生活をしています。ティンエージャーに神はいりません。自分自身の神を持っているのですから」。しかし,青少年とおとなの両方にたいして言えることですが,彼らが物質主義の宮で崇拝しても,求める幸福は得られていませんし,将来に対する確かな希望も与えられていません。真の霊的生活のみが,それを成し遂げることができます。

      真の霊的生活を取り入れる

      真の霊的生活は,肉欲主義あるいは世俗的であることの反対です。それは神の是認を受けたいというまじめな願いであり,神の御心を行ないたいという願いです。真の霊的生活を取入れるには,人々の間で名声やほまれを得たいという利己的な思いに打ち勝たねばなりません。イエスはユダヤ人に対してこう言いました,「わたしは人からの誉を受けることはしない。しかし,あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。わたしは父の名によってきたのに,あなたがたはわたしを受けいれない。もし,ほかの人が彼自身の名によって来るならば,その人を受けいれるのであろう。互に誉を受けながら,ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは,どうして信じることができようか」。(ヨハネ 5:41-44)自分自身に誉を求めようとするのは,世俗的なことであり,唯一の真の神からの誉を求めようとするのは,霊的生活です。

      それで,真の霊的生活というのは,神の御言葉の正確な知識からくる動的な力です。そしてその力は人生の目的を変え,人生にすばらしい目的を与えるものなのです。使徒パウロが言ったごとく,全人格を変えることができます,「古い人格をその行いと共に脱ぎすて,正確な知識により……新しい人格を着なさい」。―コサロイ 3:9,10,新世。

      世界にわたり,真の霊的生活はあなたにこの雑誌を配布した者,つまりエホバの証者の中に見られます。エホバの証者の新世社会には,人種的,国家的,宗教的分裂がありません。新世社会の道徳的水準は,神の新しい世で生命を得る者すべてに,聖書が要求しているところのものです。それで真の霊的生活は,正しいことを信ずるというだけでなく,神の御言葉と一致した正しい行動をするということも要求します。エホバの証者は,必要な物質の便利品から顔をそむけてしまうわけではありません。しかし,日々の生活においてエホバの証者は,神の御言葉を学んでそれを行なってゆくということに,重きを置きます。真の霊的生活を守ってゆくために,読み物の選択も必要だと認めています。なぜなら,この世の読み物は腐敗しているからです。そして精神主義を高揚するどころか,それを打ち砕いてしまうからです。たとえば,はやる小説と言えば性か暴力をその題材としています。あるいは両方を取り上げています。ひとりの権威者の言葉によると,「〔本の〕印刷会社が一番望む小説の内容は,性のことをあらわに描写したもの」だということです。

      まったくのところ,心を堕落させるようなこの世の読み物は,真の霊的生活を望む人のものではありません。霊的生活を望むものは,何を心に取り入れるかをはかる際,神の言葉を導きにします。「すべて真実なこと,すべて尊ぶべきこと,すべて正しいこと,すべて純真なこと,すべて愛すべきこと,すべてほまれあること,また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい」。―ピリピ 4:8,新口。

      他の人を助けて霊的生活をさせる

      他の人を助けて,真の霊的生活の必要性を認めさせるよう努めるなら,自分自身も霊的な面で気をくばるようになります。この点についてゲラルド・ゴビンは1959年8月号のカトリックの雑誌「知らせ」の中で,エホバの証者の活動を評して次のように述べています,「カトリックの一般信徒たちは,エホバの証者の会員から,ひとつの大切な教訓を,得ることができる。すなわち彼らは,生活の中でその宗教を非常に大切な要素としているので,自分の知識を深め,そしてそれを ― あたかも生死の問題であるかのように ― ひろめるために,喜んで今よりもっと多くの時間を捧げようとしている」。

      昨年エホバの証者は,1億3100万時間以上を費し,179の国々において50万以上の家庭で聖書研究を司会して,人々を霊的に富ませました。またほかの人々にも神の御国の祝福を語りました。この活動は「先ず神の国……を求めなさい」というイエスの教訓に対する答であり,また,「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう」というイエスの預言に対する解答でもあるのです。―マタイ 6:33; 24:14,新口。

      エホバの証者は喜んで,あなたが真の霊的生活を取り入れるのを助けます。エホバの証者はお宅で,あなたと共に喜んで聖書を検討いたします。さらに,ほとんど毎週の日曜日,御国会館で,霊的に力づけられる聖書の話を聞くことができます。あなたも招待されています。

      霊的生活を追い求めて下さい。束の間の栄光を追い求めて,なぜあなたの生命を犠牲にするのですか。真の神からの誉を求めて下さい。物質主義ですか,あるいは霊的生活ですか。あなたの生命と幸福は,その正しい撰択にかかっています。

  • スワジーランドにて
    ものみの塔 1961 | 9月1日
    • スワジーランドにて

      スワジーランドのほとんどの会衆の区域では家が非常にまばらです。そのような区域に行くのは,なかなかおもしろい経験です。自動車に乗って会衆の区域に行くと,人間は一体どこにいるのだろうかと思います。見えるのはただ,何キロも続いている木の茂みです。しかし,そこここに部落があらわれてきます。伝道者は何キロも歩かねばなりません。そして午前中訪問できるのは,3軒か4軒にすぎません。特にこれは,ほとんどたいていの家族が,ねん土としばでできた自分たちの小屋に伝道者を招き入れるからです。その床にそのまますわるか,草で編んだ敷物の上にすわると,家族全部がまわりにやってきて,おとずれを聞きます。―1961年のエホバの証者の年鑑より

  • 箴言の背後にある考え
    ものみの塔 1961 | 9月1日
    • 箴言の背後にある考え

      箴言は,「わずかな言葉につつまれたたくさんの知恵」と言われています。箴言のヘブル語メシアリムは,比較という意味です。それは,わずかな言葉で周知の真理,あるいは明白な真理を述べる簡潔な文章という意味以上のものを持ちます。

      箴言は穀粒の核になぞらえることができます。核は小さなものですが,拡大増加して幾百万人もの人の食物を供給することができます。箴言はまた貴重なダイアモンドのようです。ダイアモンドは小さなものですが,一財産を構成します。わずかな力しかない子供でもダイアモンドをかくして,持ちはこぶことができます。しかし,そのダイアモンドと同じ価値の鉄とか,他の下等金属をあちこち輸送するのに多くの人の力が必要になるでしょう。同じことは箴言についても言えます。それは精神的な知恵と道徳的な知恵を持つものであって,貴重なものです。それは小さくて持ちはこぶことができるもの,そして記憶力が悪い人でもおぼえることができます。それでいて,教訓的な価値では貴重なものです。

      本の数がすこししかなかった昔では生命と行儀についての戒めは,できるだけわずかな言葉にちぢめられて,記憶

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