-
神の目的とエホバの証者(その51)ものみの塔 1962 | 12月1日
-
-
に行くと,別のところに行って数分間,伝道し,再び元のところに戻ってその区画を終えることが必要である。エホバ神の霊と力に支えられていなければ,これは耐え難い,つらい苦しみであろう。
狂気じみたカトリックの指導者は,これらクリスチャン奉仕者を逮捕するために,警察と密接に協力している。悪名高いケベック市において,聖心連盟は縦9インチ横12インチの紙片にフランス語で,エホバの証者を狩立てるため,警察と協力するように全カトリック信徒に呼びかけた。大仰な広告のスタイルと太い黒の活字で,次のような警察署長の言葉が述べられていた,「最後の一人に至るまでエホバの証者を狩り立てることは,かつてないほどに激しく行なわれている」。また「エホバの証者を往来から一掃するため」,だれでもラジオ警察を利用してほしい。そしてラジオ警察の電話番号が大きく印刷されていた。これはローマカトリック教会が「異端」を狩立てて審問所に送る現代版のやり方である。h
権利への請願
しかしこのような方法も,良いたよりの伝道を阻止することはできませんでした。カナダの支部の僕の報告にもう一度耳を傾けて下さい。
敵のこの激しい攻撃にも,最高者の真の僕たちは動じなかった。彼らは勇敢な兵士と同じく困苦に耐え,固い立場を守った。戦いをつづけるため,正義の軍隊が再び招集され,3月2日,国中の会衆が特別な公開講演「ケベックにおける崇拝の自由への戦い! カナダの人々を事実に目ざめさせよ!」を開くか,支持することになった。我々の戦いに関する事実がそのとき公にされ,我々は国中の注目の的となった。この問題は国中のほとんど全部の新聞に採り上げられ,宗教家が我々に有利な新聞の論調に怒る一方で,善意者は事実を見直してきた。ケベックの新聞の多くは,「泡を吹いた」が,戦いはつづいた。3月2日の講演を契機として,言論と崇拝の権利の保証を政府に請願するようにカナダの人々に呼びかける運動が始められた。これは戦いの一部である。この国に市民の権利があるとすれば,それは目こぼしに過ぎない。権利の保証はないのである。権利が宣言されるならば,崇拝の自由の戦いを更に進めることが可能であり,また長期にわたってつづけることができる。請願の運動は,零下の厳しい寒さをついて3月中行なわれ,50万人以上の署名が集められた。これはカナダの議会に提出された最大のものである。この請願のことが国中に報道され,権利の保証を求める何千通の手紙が議員に送られた結果,政府はこの問題を検討するための委員会を遂に設置した。上級裁判所に上訴する適当な方法のないことも,困難の一因となってきた。ケベックにおいては,市の裁判所が終審で上訴できない。最高裁判所へ上訴する権利を拡張しようとする努力がつづけられている。エホバの証者の忠実な行いによって,市民の自由の問題は全国的な問題に発展し,自由を愛する何千人のカナダ人が法の不備に気づくようになった。
また我々は,上級裁判所に上訴するため,あらゆる合法的な手段を用いつくしてきた。その多くは実際に知られていないものである。ひとつの法廷で保護を与えられなくても,我々は上訴した。カナダの最高裁判所にさえ訴えの受理を求めたが,最高裁判所は我々の事件を審理する権限を持たないと回答してきた。それは市裁判所に差し戻されたが,主の民は熱意を失わず,戦いは再び始まる。裁判になったすべての事件に対して,訴訟,上訴,令状,裁定申請,特別な賠償が求められた。弁護にあらゆる手をつくさないうちに,放棄した事件はひとつもない。
ケベックの役人の中で激しい憎しみを抱いて反対した人々の手によって,文書の配布を禁ずる力を市町村自治体に与える特別法が設定された。これはビラ1枚配布しても,3ヵ月の禁固あるいは100ドルの罰金を課せられるというものである。彼らは今度こそエホバの証者は袋の鼠であり,一見したところ無力な兄弟たちの息の根を止めたと考えた。しかし我我々は窮せず,敵は出し抜かれた。ケベックの奉仕者は,家から家に行って言葉だけで福音を伝え,できるところではドウエイ訳聖書を使うように指示された。いま兄弟たちはケベックの汚い刑務所で時を過すかわりに,全時間をあげて福音の伝道にまい進している。主の導きの下に,我々は勝利を得るであろう。全能者に敵して立つことのできる者はないからである。この国においてエホバを崇拝する自由のための戦いは,終っていない。それは始まったばかりである。
-
-
なぜ教会に行かないかものみの塔 1962 | 12月1日
-
-
なぜ教会に行かないか
多くの人々が教会に出席しないのにはそれ相当の理由があります。彼らはそれをこう説明します。
キリスト教国の「クリスチャン兵士」の大軍隊は,いま何百万といって撤退しつつあります。スカンジナビア,米国,カナダ,アメリカおよび世界の他の場所から,憂うつな気分の牧師たちが,無断で欠席する教会員の著しい数を報告しています。アメリカだけでも3000万から4000万の教会員が,日曜礼拝に欠席します。牧師たちは途方に暮れて,いったいどういうわけかと頭をかしげています。
ある調査の示すところによると,教会に行かない人々には,もともと二つの種類があります。一つは,教会に一度も属したことがないために教会に行かないグループで,もう一つは教会に属していながら欠席するグループです。牧師は最初のグループを「外部の人々」と呼びます。後者は道に迷った羊と言われていますが,皮肉なことに,そう言われている人々の多くは,教会こそ迷える羊だと考えています。
最近行なわれた調査によると,「外部の人々」が教会によりつかないのは,その必要を感じないからだということです。とはいっても,そのうちで無神論者は非常に少ないのです。教会にはいらなくても神に近づくことはできると彼らの多くは言います。多数の人は,どの特定の教理にもあてはまらない,自分独特の宗教哲学を持つことを好みます。酒を飲んではいけないとか,たばこを吸ってはいけない,ダンスをしてはいけないというような,枝葉末節ばかり強調する説教に憤りを感ずるという人々もあります。「外部の人々」は,教会員に見られる「われは汝よりも清し」という態度があまり好きではないのです。自分は天に行き,隣人は地獄に行くと決めているように外部の人々には思えるのです。またある「外部の人々」は,お金を倹約する意味で教会を避けます。3年にわたって行なわれた。統一長老教会の調査でこれだけのことがわかりました。そしてその調査の結果は,すぐる2月15日に公表されました。
牧師はそれに対抗して,「外部の人々」は,教会の深い宗教的意義に気づいていないのだと主張するかも知れません。教会は,人と仲間づきあいをする機会と,倫理をちょっぴり加味した慰安を提供してくれる社会学上の機関くらいにしか彼らは見ていないというわけです。仮りにそれが事実であるにしても,長年教会に通った何百万もの教会員が,いまになって日曜日に教会以外のところにいるのを好む理由の説明にはなりません。彼らは教会の「深い宗教的意義」をいつも教えられていたのに,なぜ教会に戻ってこないのでしょうか。
彼らの言い分
もしもあなたが,家にばかりいる人に,なぜ教会に行かないかを尋ねるとするなら,多くの場合彼らは,こんなふうに自分の苦情を述べるでしょう。
『私は以前教会の仕事をとても活発に行なっていました。会員であれば,委員会とか,電話をかけたり,プログラムを作ったり,人々を出席させたりすることなどでとても忙しいのです。それがいやだったのです。牧師も会衆も,募金とか,ボーイスカウトとかその他私たちの救いとは無関係の事柄にかまけすぎ,世俗の事柄が第一にされていたことは,日曜日の説教にもよく表われていました。
『私たちの牧師は,だれにもひけを取らない雄弁家でしたが,私は牧師がもっとわれわれに分かるようなことを話してくれるのをいつも願っていました。1時間たってもおぼえていられるような事を話すのはごくまれでした。時にはイエスやパウロの言葉も説教壇で引用されましたが,彼らには多くの競争者がいました。その牧師はバートランド・ラッセル,レインホールド・ニーバー,ノーマン・ビンセント・ピール博士その他の人々の言葉も説教壇から話したからです。
『説教の種類は,火といおうの地獄から,緊張やストレスの克服の仕方に関する精神安定剤的な説教に至るまで,極端から極端にわたっていました。成功とか心の安定」に重点を置いた説教が私には気にくわなかったのです。美徳を求めるよりも,精力,体力,活力の旺盛な方が望ましいものに思われるようになりました。応用心理学も,私たちに神のことを教えるために雇われている者の口からいつも出てくると,誤用されているように思えます。私が自分の宗教について討論するのを避けたのは当然なのです。自分の宗教のことをあまりよく知らなかったのです。日曜日の礼拝から,霊的にあき足らない気持ちを抱いて帰ってきたことは一度ならずありました。なんだか非常に変な気持ちがしました。
『ある教会の宣教師は,私たちはひそかに入りこんだ仏教思想におかされているのだと言いましたが,それはほんとうでした。信じている限りどんな宗教でもよいという考えを徐々に持つようになっていたからです。その宣教師の言うところによると,仏教徒も同じことを言うそうです。つまりあらゆる宗教は,同じ目的地に通ずる異なった道にすぎないというわけですね。もしイエスが,私たちの教会で復活されて,「命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない」ともう一度くりかえして言われたなら,イエスの復帰が歓迎されるかどうかは疑わしいものです。―マタイ 7:14,新口。
戦争の君
『イエスは,平和の君という称号をもっておられるので,私たちの教会はイエスにふさわしいものではありませんでした。イエスが好むと好まざるとにかかわらず,私たちの教会は彼を戦争の君に仕立てました。私たちのキリスト教は,骨の髄まで国家主義でした。さいわいに私の教会が属していた政府は,いままでに戦ってきた戦争で,いつでも道徳的に正しい側にいました。少なくとも私たちはそう教えられました。しかし,敵の軍隊が,自分の教会も含めて,同じような教会の会員で成り立っていることを知って悩みました。ひとりの牧師は,戦争というものは,天の人口を満たすための神の手段であるといって私たちを安心させました。私はそのことは疑問に思っていましたが,しかし何百万という犠牲者が地からいなくなっていったことは疑う余地がありません。私たちの教会で,キリストが平和の君に戻るのは,12月25日だけでした。好戦的なキリスト教など私にとっては全く無意味です。
『牧師は,私たちが世の光であるべきことを1,2回思い出させてくれました。私たちは,自分の町を照らすほどの熱意をもっていなかったのです。実際のことをいうと,教理的な見地から見て,教会そのものの中がすでにうす暗い状態でした。どうも要領を得ない三位一体という教理が大きな原因だったのです。三位一体は奥義であるから,それで満足すべきだと教会は言いました。牧師は時折,特に復活祭の日曜日に,復活について話をするのが常でした。ところが,家族の葬式の時には,魂が不滅であることや,魂が天に行ったという点を強調しました。それも私には解せないことでした。キリストにせよ,ほかの者にせよ,不滅の魂をもっていたなら,そのうえに復活を必要としたでしょうか。それは矛盾のように思えました。復活によってキリストのからだは,彼の不滅の魂と一緒になって,どちらも天に行ったと牧師は言ったのですが,あとで,それは不可能だということを聖書が述べているのを知りました。(コリント前 15:50)。牧師は,永遠の生命よりも,もっと緊急な問題をとりあげる必要があると考えていたので,説教壇で聖書のことが論議されるのを聞くことはあまりありませんでした。確かに聞いた教理でも,分からない点がたくさんありました。
『もう一つ私の心の中でいまだにクエスチョン・マークになっているのは,神が人間を試みるために,そして天に行く資格があるかどうかを見るために,人間を地上に置いたという教会の教理です。ということは,この地球は,その試みの場所となる以外に何の目的も持たないことになります。しかし,天の御使たちが,アダムの子孫とこの苦労を共にしなくとも,彼らの領域に向くように創造されたのはなぜですか。また,もしこの悪い世界が,神の希望された通りのものであったとするなら,もう一つの次のようなめんどうな質問が生じます。私たちはなぜ,神のみこころが天で行なわれる通り地でも行なわれるようにと祈ることを子供たちに教えているのですか。イエスは,現在の組織が変わることを祈り求めよと私たちに告げられているように思えるのですが,教会は,いつでもこの地を去れるように準備することこそ私たちのなすべき仕事だと主張しつづけてきました。教会は私の霊的飢えを満たしてくれなかったので,教会がなくても結構やっていけるという気持ちになったのです。それでついに行くのを止めてしまいました』。
教会に行かない多くの人々の言い分はこういうところです。そのような理由で教会に行かない全世界のあらゆる場所の人々も,彼らの生活をさらに変化させる予期しない祝福を得ることがあります。実際につぎのようなことが起きます。それを経験した人はこう話すでしょう。
訪問者
『ある日曜日の朝,おそい朝食をすませてぶらぶらしていると,ひとりの青年が,聖書を手にして私の家の戸口に来ました。彼は,私たちの教会がいつも警告していた,「ばかげた」教理を信じている熱心な人々のひとりでした。失礼なことをしたくないと思って彼の話に耳を傾けたところ,彼はこういうことを言いました,「神は,人間が従順である限り永久に地上に住ませるために地上に人間を置かれました。アダムの失脚で私たち全部に死がもたらされましたが,しかしそれによって,地を楽園にするというエホバの御目的が変わることはありませんでした。イエスの模範的な祈りは,神の御国の政府がこの悪い世を滅ぼして楽園を実現させるように祈り求めよと私たちに告げています。戦争,悲しみ,死などはなくなって,神はすべてのものを新しくされます。これこそエホバの証者が,マタイ伝 24章14節に言われている通り,世界のはてまで携えて行っている良いおとずれです」。―彼は,創世紀 1章28節,ダニエル書 2章44節,ペテロ後書 3章13節,黙示録 21章4,5節を開いて,自分の論点を証明しました。私はその青年を中に招き入れました。
『私はつぎからつぎと彼に質問をあびせかけましたが,そのたびに聖書に基づいた回答を得ました。三位一体は異教の教義で,特にヨハネ伝 14章28節,コリント前書 11章3節などの聖句と正面衝突をするということも彼から聞きました。「人間は魂です。そして聖書は魂が死ぬことを証明しています」とも彼は言いました。(エゼキエル 18:4,伝道之書 9:5,10およびヤコブ 5:20を開いて見せた)「魂は死ぬので,神は正義の新しい世で『復活』させてくださるのです。永遠の生命は,求めなければならないものです。私たちは生まれつきそれをもっているわけではないのです」。―ヨハネ 17:3。
『それ以後この若い奉仕者は何回もやってきて,長いあいだ納得のいかなかった聖書に関する多くの疑問に答えてくれました。降っても照っても彼は約束を守ってやってきました。私はいつも興味ある貴重な事がらを何か学びました。そして,真のキリスト教というものは依然として,自己中心的なものではなく神を中心としたものであることを悟り始めました。真のキリスト教は,成功だとか平和などのきまり文句ではなくて,どんな犠牲を払っても全世界に広めるべきおとずれを依然としてもっています。また,美徳と,行いによって表わされる信仰を要求している点も変わっていません。なすべきあかしも依然としてあり,神の男,女,子供たちを用いて1900年昔と同様にそのことをされています。現在でも当時と同じく,給料をもらってそれを行なっている者はひとりもいません。彼らは,愛の心から,神のみこころを行なうことを自分で決意したのです。そしてこの愛こそ,全世界の兄弟たちの交わりを常に一致させているものです。これはみな,私がエホバの証者たちの間で見聞きしたことです。彼らの御国会館に行けばあなたもご自分でそれを見ることができるでしょう。
『次の日曜日には,以前の教会の友だちを訪ねて見る積りです。いいえ,教会ではなくて彼らの家に行くのです。友だちの多くは,以前の私と同じく,よりよいものを求めているので,教会に行っていないでしょう。それを聖書の中からどのように見つけ出すかを教えてあげるのはほんとうにうれしいことです。エホバが許されるならそうして見ましょう。私もいまはエホバの証者なのですから』。
-
-
訂正ものみの塔 1962 | 12月1日
-
-
訂正
1962年9月15日号「ものみの塔」554頁,10節2行目の「くわを持つ者」は,「それを持つ者」の誤まりでした。
-