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光の子どもとして歩みつづけるものみの塔 1979 | 9月15日
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は完全な解決策とはなりません。使徒パウロは『エホバの精神の規整』について述べています。これの原語の文字通りの意味は,エホバの思いを,支配的または規整的影響力として内に入れる,ということです。すべての悪行は言うに及ばず,人を堕落させる種類の娯楽も避けるように,子供が神との関係を築くのを助けることに努めてください。その関係を深めていったある若い人は,「それは私と親との関係というよりも,私とエホバとの関係です」と言いました。
22 光の子どもたちとして歩みつづけることにより,どんな希望を心に抱くことができますか。
22 わたしたちすべてにとって,それはわたしたちとエホバとの間の関係です。ですからエホバの民はだれも,自分の立場,つまり「光の子ども」の立場を忘れてはならないのです。ですから引き続き世を照らす者として歩みながら今幸福で満足のいく生活を楽しみ,また間もなく実現する,励ましに満ちた,道徳的に優れた新しい体制における幸福な永遠の前途を待ち望むことにしましょう。
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本当に心身をそう快にするレクリエーションものみの塔 1979 | 9月15日
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本当に心身をそう快にするレクリエーション
「我々は祝宴や歌や遊戯をもって陽気に神々を崇拝するが,お前たち[クリスチャン]は,こうした楽しみを持つ者たちが喜ばすことのできない十字架にはりつけにされた男を崇拝している。その男は喜びを忌みきらい,楽しむことを禁じている」。二世紀のキリスト教に敵対したある人物はこのように語りました。a しかし,これはなんと不当な評価なのでしょう。初期の弟子たちは生活に真の喜びを見いだしていました。
彼らの指導者であり,「幸福な神」の子であるイエス・キリストは,「喜びにあふれて」おられ,「幸福な……大能者で」あると描写されています。また,イエス・キリストは,地上におられた時,ご自分の追随者たちが「[彼の]喜びを自分のうちに存分に持つ」よう祈りました。―テモテ第一 1:11; 6:15。ルカ 10:21。ヨハネ 17:13。
彼らの喜びは一時的なお祭り騒ぎや娯楽に根ざしていたのではありません。初期クリスチャンたちは次の古代の箴言(14:13,新)をよく知っていました。「笑いの中にあっても心が痛んでいることがある。そして悲嘆は歓びの終わり着くところである」。彼らの最大の喜びはキリスト教の原則に従うことでした。その喜びは彼らの心に達するものでした。今や,彼らは,全能の神との貴重な関係と仲間のクリスチャンとの親交を得ていました。また,他の人が真理を学ぶのを助けることや,自分たちにとって真の喜びの源となる子供を育てる上での心暖まる経験を味わっていました。
『余暇』を活用する
聖書的な責任を果たし,キリスト教の音信を他の人に分かつ業に携わるのは重要なことですが,目を覚ましている時間のすべてをそのために費やすわけではありません。彼らの主人は,心身をそう快にするものや休息のために幾らかの時間を取るのがふさわしいことを自らの模範をもって示されました。イエスはご自分の弟子たちにこう語りました。「『さあ,あなたがたは自分たちだけで寂しい場所に行き,少し休みなさい』。来たり去って行ったりする者が多く,食事をする暇もなかったからである」― マルコ 6:31。
『休む』(動詞の中間態)に相当するギリシャ語の同じ動詞が,フィレモン 20節では『新たなものにする』(動詞の能動態)と訳出されています。ですから,「暇」は,いつもの決まった仕事を続けられるよう気分転換を図ったり,気分を新たにしたりするために用いることができます。これら初期のクリスチャンは,王国の音信を宣べ伝える業を第一にして,それに熱心かつ活発に携わる一方,時折気分転換のための時間を見いだし,真のさわやかさを得ていました。
彼らは互いを訪問し,共に食事をしたに違いありません。また,これらの弟子たちやその子供たちが楽しんだと思われる様々な形のふさわしい娯楽もありました。キリスト教時代以前に,若者などが楽器を奏でていたことが記されています。(サムエル前 16:18。列王上 1:40。哀歌 5:14。ルカ 15:25と比べてください。)子供たちが遊戯や踊りをしていたことも言及されています。(マタイ 11:16,17)当時,「少しの事」に益がある「身体の訓練」のうちどんなものがあったにせよそれとは対照的に,行ないに表わされる敬神の専念は「すべての事に益があ(り)……今の命ときたるべき命との約束を保つ」ものでした。当時のクリスチャンは何を行なったにせよ平衡を保ち,クリスチャンでない人たちのように,それに夢中になっておぼれることはありませんでした。自分たちの喜びの真の根源である「敬神の専念」を曇らすようなことは決してしなかったのです。―テモテ第一 4:8。
幾つかの家族が現在行なっている事柄
今日のクリスチャン家族も気分転換のひとときを共に楽しんでいます。彼らは物事を共に行なうことによって,とりわけ神の王国を他の人に告げ知らせることによって,親交を深め,真の喜びを見いだしています。それでも様々な形のレクリエーションなど,他にも共に行なえる事柄があります。どんな種類のレクリエーションがありますか。大勢の子供を首尾よく育てたある父親は,種々の築き上げる活動について語った後,こう付け加えました。「子供に体力を使わせる挑戦となるようなレクリエーションが最も成功を収めるようです」。
十代の子供を四人持つあるクリスチャンの父親はレクリエーションを楽しむ機会のなさそうな地域に住んでいました。家族にとって有意義なレクリエーションを見いだす上で問題がなかったかとの問いに,その父親はこう答えました。「レクリエーションを備えることは少しも問題ではありませんでした。克服しなければならないものと言えば,各自がその機会を見いだし,それに満足を得ることぐらいです。水泳やハイキング,客をもてなすことなど簡単な事柄を楽しむことが最も満足をもたらすようです。私たちは気分転換のために費用のかかるレクリエーション施設やぜいたくな装備などは必要でないことを学びました。むしろ,だれでも利用できるものをやってみることです」。
聖書の知識を他の人に分かつ業に携わっている時にも,レクリエーションのための機会が開かれることに気付く人は少なくありません。四人の子供を持つ前述の父親はこう書きました。
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