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宗教上の不一致 ― 英国におけるその歴史目ざめよ! 1985 | 6月22日
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であるとみなす清教徒<ピューリタン>,すなわち低教会員がいました。清教徒の中には,強い反感を抱いたために,故国を後にして船で“新世界”へと向かった人々もいました。最初の一行は,1620年9月16日,メイフラワー号に乗って出帆しました。
1642年には,3年にわたる内戦が勃発しました。神からの権威によって支配すると主張したチャールズ1世は議会を解散させ,独裁的な支配を行ないました。国教会派の人々は王を支持しました。もう一方の側には議会と清教徒がおり,オリバー・クロムウェルが首尾よく彼らをまとめ上げていました。1649年に清教徒はチャールズの首をはね,国は護国卿を頭とする共和国になりました。続く10年間に議会は英国国教会を廃止して,国教会の崇拝様式を厳格なカルビン派の長老教会の様式に変えました。戦後も残存していた教会や修道院は閉鎖されたり取り壊されたりしました。
クロムウェルは国教会とローマ・カトリック教会の典礼を禁止しましたが,それ以外の点では信教の自由を認めました。その結果,多くの宗派が起こり,その大半はしばらく活動した後消滅しました。しかし中には,成長して今日の宗教団体になっているものもわずかながらあります。すなわち,バプテスト派,クエーカー派,および組合派などがそうです。そして,1738年には,ジョン・ウェスレーがメソジスト主義を興しました。
清教徒とその長老派主義はやがて人気を失ってしまいました。人々はその厳格な礼拝方式にうんざりしていたのです。そして1660年,クロムウェルの死後間もなく,チャールズ2世が亡命先から招かれて,王位に就きました。チャールズ2世と国教徒は,慎重に行動しながらも積極的に事を進め,議会を説得して2年がかりで英国国教会を再建しました。やがて1829年にはローマ・カトリック教徒の市民権が完全に回復されました。
このように,1534年から1829年までのほぼ3世紀間は,英国にとって宗教上の紛争と分裂の動乱期でした。それは分極化の時代で,さまざまな宗教団体が形成されました。その後今日までの2世紀間というものは,各教会がそれぞれ独自の道を歩んだので,比較的に穏やかでした。しかしこの20世紀に入って,再び和合することについての本格的な協議が行なわれるようになりました。何が起きたのでしょうか。
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英国の諸教会は一致するだろうか目ざめよ! 1985 | 6月22日
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英国の諸教会は一致するだろうか
英国国教会がローマ・カトリック教会と決別した時,それは一国の国民教会でしかありませんでした。他方,ローマ教会は既に国際的地位を占めていました。しかし,大英帝国がその版図を広げるにつれて,英国国教会も世界の至る所へ運ばれて行く結果になりました。今日,英国国教会から派生した教会は,20以上の国に見られます。いずれも独立してはいますが,“聖公会連合”の一部として母体教会と結ばれています。こうして,英国国教会も国際的地位を得,バチカンと交渉をするのに有利な立場に立ちました。
それほど古い話ではありませんが,カトリック教会は三つの教義を公布して,プロテスタント諸教会との間の壁を高くしました。すなわち,マリアの無原罪の御宿り(マリアは罪のない者であったとする教義)(1854年),マリアの肉体の被昇天(1950年),および法王の教示の不謬性(1870年)がそれです。これは実際,ほかの教会との一致を阻む障害物となっています。
英国国教会とローマ・カトリック教会との間で払われた努力
1966年に法王と,一般に英国国教会の霊的頭と認められているカンタベリー大主教との間に,英国国教会・カトリック教会国際委員会の設立に関して合意ができました。1970年以来12年をかけて,一致を阻む諸問題が検討され,可能と思われる解決策が提示されました。委員会は双方から10人ずつの学者を出して構成され,論争点となっている三つの事柄,すなわち権威(法王の首位権と不謬性を含む),カトリックの聖体礼拝,および聖職者の叙任の問題に特別の注意が払われました。
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