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世界展望目ざめよ! 1974 | 12月22日
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世界展望
飢きん対策
◆ 米国が自国のための緊急用食糧保存体制を設立すべきかどうかについて審議がなされているが,ヒュバート・ハンフリー上院議員は,自分の論議を支持するものとして古代の知恵を引き合いに出した。ウォール・ストリート・ジャーナル誌は次のように報じている。「凶年に備えて穀物を蓄えることをエジプトのファラオに説得したヨセフに関する聖書の話を幾度も持ち出しながら,同上院議員は,その立法によって政府は……過剰時に蓄えを取得できるようになると述べた」。しかし,米国農務省の八月中旬の推計によると,1974年の余剰穀物はきわめて少ない。
餓死の倫理
◆ 現在,権威者たちは,世界の食糧不足状態に対する自分たちの“倫理”を調整し直している。この問題は,米国マサチューセッツ工科大学の最新の研究の中で扱われている。その研究は戦場で負傷者をより分ける際にしか使われなかったフランス語「トリアージュ」について長々と論じている。トリアージュとは,助かる見込みのある者には即時手当てを施すが,どちらにしろ死ぬと見なされる者には援助を与えないことである。そして,この研究は,食糧が関係している問題で「国家的トリアージュ」を考慮しなければならない,としている。そのような政策下では,限られた救援物資は,それを有効に使える国にのみ向けられることになる。不運な国についてはどうだろうか。それはただ餓死するに任されるのである。
米国大統領について初めての事
◆ 1974年8月9日,副大統領ジェラルド・R・フォードは米国の38代目の大統領になった。彼は任命されて副大統領の地位に就いていたので,米国の200年の歴史上,一般投票によらないで行政府のこの地位に就いた最初の大統領となった。その就任式について,ニューヨークのデイリー・ニューズ紙は次のような見出しを掲げた。「フォード大統領,真実と平和と安全を宣誓」。フォードの就任式に先立ってもう一つ史上最初の事があった。それは,リチャード・M・ニクソンが,その地位を辞任したこの国初の大統領であったことである。
教会内の政略
◆ イエズス会士であり,米国大統領の演説草稿筆者でもあるジョン・マクローリンは,最近の記者会見で,教会内での政略行為は『俗世界でなされているものを子どもの劇のように思わせる』と述べた。彼は次のように語った。「力の誇示という面でわたしが経験した最もひどく最も低級なものは教会内でのものであった」。
「創造の業」
◆ 「我々は,始まりに関する証跡を何も見いだせない」。これは,近代地質学の父とされるジェームズ・ハットンが地球の年齢について書いたことばである。それは18世紀のことであった。しかし,よくあるように,科学は変わってきた。ゴッダード宇宙研究所のロバート・ジャストロー所長は,ナチュラル・ヒストリー誌に次のように書いている。現代の計器類と研究とは「地球の歴史が,創世記に書いてあるとおり,突然に,急激に,そして創造の業によって始まったものであることを示している」― 1974年8,9月号,80,82ページ。
三兆円の“消化不良”
◆ 石油の輸入に対して支払う十分の資金を調達できないでいる国が多いが,幾つかの石油輸出国ではそれと反対の問題をかかえている。今年の石油の値上げでベネズエラがたなぼた式に得た100億㌦(約三兆円)は,同国に“経済上の消化不良”を起こし得る,とベネズエラの開発相は述べた。用意のできていない経済に大量の金銭を送り込むことから来る急激なインフレを,当局者たちは恐れている。前石油担当相ホワン・パプロ・ペレス・アルフォンソは次のように言明した。「この100億㌦は我々を押しつぶそうとしている。この状態が5年も続けば,我々はかつてないひどい事態に陥るであろう。……すべての人はどうしたら自分の分け前を取れるかと躍起になっているであろう」。
教会と売春婦
◆ 圧迫があるにもかかわらず,メソジスト派の主教R・マービン・スチュアートは,米国の売春婦たちがその第一回全国大会を開いたサンフランシスコ・グライド・メモリアル教会の牧師を,とがめも解任もしなかった。その牧師は次のように言って売春婦たちを歓迎した。「あなたがたは,世界を変革して人類の新しい社会を作ることに寄与している」。一方,サザンプトンの英国教会教区牧師と平信徒伝道者隊の“隊長”は,登録制売春宿を設ける運動を支援している。「人々は,売春行為が生活上の事実であり,社会に定着したものであることを認めるべきである」,とこの牧師は述べた。伝道者隊の隊長はそれに同意して次のように述べた。「売春婦たちに,外に赤い電燈を取り付けることを許すようにすればよいであろう。ふさがっているときにはそれを消しておくのである」。
“福音宣明における文書”
◆ AP通信の報道によると,最近テキサスで開かれた米国南部バプテスト派牧師会議のさい,カリフォルニア州バン・ヌイの第一バプテスト教会牧師H・L・フィケットは,「福音宣明のためにもっと多くの文書を使うように呼びかけ,エホバの証人をその例として挙げた」。彼は,エホバの証人が自分たちの福音宣明の業を推進するために生産している膨大量の雑誌に言及した。1973年の間,証人たちは,およそ2億3,500万部の雑誌と2,200万冊近い書籍を全世界に配布した。
娼婦の会合
◆ 700人の娼婦の会合が最近サンフランシスコで開かれた。今日,この事だけで眉をひそめる人は少ない。しかし,少なくともある人々は,その娼婦たちがメソジスト教会に集まったことを聞いて驚いたことであろう。クリーブランド・プレス紙に載った一通の手紙には,次のように書かれていた。「それはマフィアが警察の施設で会合を開いているようなものである」。
子どもたちは学校へ行っているか
◆ 「親たちは,自分の子どもが教師の監督の下で安全だと考えている」とロンドン警視庁の古参警官は述べている。しかし,彼はロンドンにおける少年犯罪は,「これらわんぱく小僧たちが,学校で出席だけ取ってとん走する」ので激増している,と述べている。彼は,「無関心な」教師たちにその責任があると述べている。
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聖書の第52番めの本 ― テサロニケ人への第一の手紙目ざめよ! 1974 | 12月22日
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『聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です』
聖書の第52番めの本 ― テサロニケ人への第一の手紙
筆者: パウロ
書かれた場所: コリント
書き終えられた時期: 西暦50年ごろ
含まれている時代: 確定できない
1 (イ)テサロニケ第一の書が書かれたいきさつを述べなさい。(ロ)それはいつでしたか。この手紙はどんな位置を占めていますか。
使徒パウロがマケドニアの都市テサロニケを訪ね,その地にテサロニケ人の会衆を確立したのは,50年ごろ(西暦),彼の二度めの伝道旅行の時でした。その後一年もたたないころ,シルワノ(「使徒たちの活動」の中ではシラス)やテモテと共にコリントにいたパウロは,その地でテサロニケの人々への最初の手紙を書きました。それは彼らを慰め,彼らの信仰を築き上げるためでした。それは西暦50年の終わり,もしくは51年の初めでした。この手紙は,パウロの書いた物のうち最初に聖書の正典になったものであると思われます。そして,恐らくマタイの福音書を別にすれば,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で最初に書かれたものであると考えられます。
2 この手紙の筆者と典拠性についてどんな証拠がありますか。
2 この手紙が典拠の正しいものであり,損われていないものであることは,圧倒的な証拠によって裏付けられています。パウロは自分がその筆者であることをはっきりと述べており,またこの書は,霊感によるみことばの他の部分と内面的な調和を保っています。(テサロニケ第一 1:1; 2:18)この書簡は,ムラトリアン断片をはじめ,霊感による聖書の最古の目録の多くの中に名を挙げられています。a また,初期教会著述家の多くもこの本から引用したり,この本に言及したりしています。その中にはイレナエウス(西暦170年ごろ)もおり,名を挙げてこの書について述べています。三世紀初めのチェスター・ビーティー・パピルス第二番写本はテサロニケ人への第一の書を含んでおり,また,現在フランスのガンにある,三世紀の別のパピルス写本(P30)は,テサロニケ第一,第二双方の断片を含んでいます。b
3,4 テサロニケにおけるパウロの宣教は早く成功を見ましたが,結果としてどのような事が起きましたか。
3 この手紙が書かれる以前の,テサロニケ会衆の短い歴史をひとわたり見ると,この都市の兄弟たちに対するパウロの深い配慮の理由をはっきり理解できます。その発足当初から,この地の会衆は激しい迫害と反対を経験しました。使徒 17章で,ルカは,パウロとシラスがテサロニケに着いた時の事を述べ,「そこにはユダヤ人の会堂があった」としています。三つの安息日にわたってパウロはユダヤ人に伝道し,聖書に基づいて彼らと論じました。パウロはそこにさらに長く滞在したものと思われます。そこで自分の職業を営むだけの時間があり,さらに,会衆を確立し,組織するだけの時間があったからです。―テサロニケ第一 2:9; 1:6,7。
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