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  • 死とはなんですか
    目ざめよ! 1971 | 6月8日
    • 問題に関する学術書の書評の中で次のように述べています。「文献は,魂の不滅性を信ずる西洋文明の伝統の衰退およびその結果として生ずる死の世俗化を反映すると同時に,それを証明する資料をあげている。ある優勢な神学的観点に立って,死の問題をさまざまな角度から扱った,『死に対する見方』と題する論文集の中で,L・H・シルバーマンとL・ケックは,魂が不滅であるという観念に聖書的根拠が一つもないことを示している」。―「今日の神学」1970年4月号。

      ところがこうした事実にもかかわらず,キリスト教世界の非常に多くの僧職者たちは,葬式の際,人間の魂は不滅であると教える古い教儀に従った説教を今だにしています。プロテスタントの福音教会または根本主義派の牧師であれば,亡くなった人をその死に際して天の至福に託し,死者がたまたまローマ・カトリック教徒であれば,司祭は彼の魂を煉獄の責め苦に置くのです。

      こうした事柄を考えると,かつてある葬儀屋から聞いたことばが思い出されます。彼はカトリック教徒やプロテスタント,ユダヤ教の信者など数多くの死者をほうむりましたが,葬式の話を聞いた後にエホバの証人を埋葬し,「死んでいる人を埋めたのはこれが初めてだ」とつぶやきました。

      しかし,人間の魂が不滅であるという神話を捨てた,キリスト教世界のそれら僧職者たちは,彼ら自身認めるとおり,一つの問題に直面しています。それで,アメリカ中西部にある一大学の宗教および哲学科の教授ミントン博士は,「死に関する神学の心要」と題する一記事の中でこう述べています。「死を個人的に克服するという問題にまじめに取り組まなければならない。なぜなら,死が『世俗の』人にとって現実に問題であることは,盲人を除くすべての人の目に明らかだからである」。―ザ・クリスチャン・センチュリー,1970年3月25日号。

      そうした『世俗の』僧職者にとって死はなぜ問題となるのでしょうか。文字どおりの天や,人間が不滅であるという神話に対する信仰を拒絶しただけでなく,死者の復活という聖書の与える希望をも拒絶したため,自分の群れの信者たちに提供するものを持たず,したがって,命が彼らにとって現実的な意味のないものになっているのです。しかし,聖書が死者は実際に死んでいるのだと教えているにもかかわらず,聖書をほんとうに信じている人にとって死は少しも問題になりません。なぜなら聖書は死者の復活という希望を差し伸べているからです。

      使徒パウロは,コリント前書 15章で死者の復活を支持するすぐれた論議を展開しています。またイエスご自身も,「これを不思議に思ってはならない。なぜなら,墓の中にいるものすべてが彼[イエス]の声を聞き,出て来る時が来ようとしているからだ」と言われました。―ヨハネ 5:28,29,新英。

      したがって,復活の希望は将来に見込みがあることを示していますから,現在の命を意味あるものにします。人が得た知識や築き上げた正しい行ないの型は,死によってとこしえに消滅するのではなく,復活の際に含められるのです。

  • 思いがけない結果を生む迫害
    目ざめよ! 1971 | 6月8日
    • 思いがけない結果を生む迫害

      ● 迫害はときどき正直な人々を真理の知識に向けさせます。ギリシアのテッサリという町で,男子のエホバの証人13名が,聖書研究のために集まっていたかどで投獄されました。エホバの証人を兄弟に持つある人は,この不当な投獄のことや教区司祭がその張本人であるという事実を知り,それまでは真理に敵対し,かえって司祭の味方であったにもかかわらず,真理に関心を示しはじめました。そして今では司祭の反対を受けながらも,家庭聖書研究や集会の出席を欠かしたことがありません。また,投獄されたエホバの証人のひとりの人は,世俗的な娘を持っていましたが,彼女も聖書研究を始め,「わたしの思いが開かれて,物事を見きわめられるようになりました」とはっきり認めています。彼女は集会に引き続き出席しています。

      ― エホバの証人の1971年度年鑑より

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