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ニカラグアからの手紙ものみの塔 1973 | 5月1日
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のです。わたしの考えでは,協会の支部事務所は全市で一番被害の少ない建物だったと思います。
「日曜日の正午前にエルサルバドルからさらに物資が届きました。エルサルバドルの兄弟たちも,何が必要かをしきりに尋ねたので,一覧表を作りました。国境は,救急活動のための車輌を通せるよう,ずっと開かれていました。査証は必要とされませんでしたから,兄弟たちは敏速に往復できました。昨日,つまり日曜日の朝,救援部門を支部の王国会館に設けました。知らせを受けた兄弟たちは到着しはじめました。昨日の夜までに,578人の兄弟たちに2日分の食糧を配ることができました。また,マナグアの外部からトラックで水を運び,2日分の飲料水を配ることもできました。医療物資は必要ではありません。こちらに十分ありますし,入手することも可能だからです。
「兄弟たちの約8割が家を失いました。王国会館が9軒全壊またはそれに近い状態に陥りました。当市では現在疎開が行なわれています。下町の地区全域を完全に破壊して,15区画幅の細長い地帯を作る作業が行なわれています。同地区ではいまだに多くの死体が発見されています。悪臭がかなり強くなっています。汚染の危険があるので,すべての人はこの地区を立ちのくよう勧められています。総合病院は損壊がひどいため,患者は屋外の地面に移されました。ですから,地震の被災者たちは手当てを受けることができず,多くの人はそのまま帰されてしまいました。今では,もっと手当てを施すため,テント小屋が病院の外に建てられていると聞いています。政府はこうした膨大な仕事をまかなっていくために,たいへんな重圧を受けています。
「わたしたちは,どのような方針を取るのが最も実際的かを見定めるため,とにかく待たなければなりません。しかし,兄弟たちは平静で,行動する前に指示を待っています。
「手もとにはいくらかのお金がありますが,支部のお金はほとんどが銀行にあずけられており,銀行はあいていません。銀行があくまでには数日かかることでしょう。しかし,こちらでは兄弟たちを援助するお金が手にはいらず,金銭的な援助を確かに必要とするようなことがあれば,わたしはホンジュラスのアリンジャー兄弟(支部の監督)とコスタリカのシェップ兄弟に連絡し,わたしたちへの救援物資をそちらのお金で購入して送ってもらいます。そして,こちらのお金が引き出せるようになり,そうでなくても,さらに良い方法で事態に対処できるようになったなら,それを当支部に請求してもらいます。あるいは,わたしたちが必要な物をこちらで買える場合は,おそらくお金だけを送ってもらえばよいでしょう。しかし,今後どうなるかを知るにはまだ早すぎますので,しばらく様子を見て,現在の一般的な情勢のもとでできるだけの努力を尽くすつもりです。
「わたしたちは,宣べ伝えるわざに引き続き活発に携わり,霊的な強さを保ち,エホバに信頼するよう,みなさんを励ましています。兄弟たちは,受けている物質面の援助に対して涙を押えることができません。世界の他の土地に住む兄弟たちの愛と気づかいをほんとうに感謝しています」。
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覚えていますかものみの塔 1973 | 5月1日
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覚えていますか
あなたは最近の「ものみの塔」誌を注意深くお読みになりましたか。そうでしたら,次の点を覚えておられるでしょう。
● どのように『憐れみは裁きに勝ち誇り』ますか。
ほんとうに情け深いクリスチャンが,もしほんの一時の失策をして万一むずかしい事態に陥っても,憐れみ深い態度で他の人を扱った当人の記録は,不利な裁きに『勝ち誇る』からです。というのは,そうした記録は,イエスのあがないの犠牲を通して今その益にあずかれる備えを,神がその人に寛大に適用できる正当な理由となるからです。―746,747ページ。a
● 最初の人間は,あらゆる行動の導きとなる広範な法典をなぜ必要としなかったのですか。
エホバ神は彼らの内に良心という機能を植え込まれ,またご自分の性質や方法や標準を創造のわざを通して啓示して,彼らを導く原則を備えられた。―749ページ。
● どうすれば他の人びとの良心に訴えることができますか。
神のみことば聖書から真理を知らせ,それと同時に,誠実さや正直さ,純粋な動機や無私の愛をあらわすことによって。(コリント後 4:1,2)―758,759ページ。
● ゼカリヤ書 9章12節で,「希望を持つ捕われ人」が帰るよう勧められている「とりで」とはなんですか。
それは,ゼカリヤの時代にエルサレムの都によって表わされた,神のメシヤの王国のこと。そのエルサレムではかつて,ダビデの王統の王が「エホバの位」と呼ばれた王座に座していた。―22ページ。b
● 真のクリスチャンはなぜ賭博を是認するわけにはゆきませんか。
賭博は一種の貪欲の表われであり,聖書は貪欲とむさぼりを偶像崇拝と同列に置いている。(コリント前 6:9,10。コロサイ 3:5)また,賭博は,自分と同じように隣人を愛すべきであるとか,人はまじめで,生産的な仕事をして利益を得るべきであるという聖書の教えと衝突する。―45ページ。
● 服装に関して,『おのおの隣人の徳を建てんためにその益を図りてこれを喜ばすべし』という,ロマ書 15章2節の勧めにどのように従えますか。
他の人が見て気持ちよく感じるような身なりをすべきである。それは,だらしのない身なりや,不必要に他の人を不快にさせる身なりを避け,同時に,自分自身の身なりのために他の人に劣等感や恥ずかしさを感じさせるような服装をしないことを意味する。―90ページ。
● わたしたちがキリストを通して神に献身することは,なぜ,『〔正しい〕良心の神に対する要求』となりますか。
わたしたちが罪を悔い改めて身を転じ,あるいは転向し,神に献身する時,神は,清める効力を持つキリストの贖いの犠牲の血を適用することによって罪の定めからわたしたちを解放し,神に対する正しい良心をわたしたちに与えてくださるから。―125ページ。
● モーセの時代に建てられた幕屋と,後代になってそれに取って代わった神殿は何を表わしていましたか。
エホバの偉大な霊的神殿,すなわち,罪を贖うイエス・キリストの犠牲に基づいてなされる贖罪と崇拝のための事物の機構を表わしていた。この霊的な機構は西暦29年に存在するようになった。―143-147ページ。
● 幕屋および後代になってエルサレムに建てられたエホバの神殿の至聖所,「聖なる所」,祭司の中庭そして祭壇は何を表わしていましたか。
至聖所は,なだめられるべき神としてのエホバがご自分の聖なる住まいを持っておられる天のその部分を表わす。「聖なる所」は,なお肉のからだで存在している時の,イエスと14万4,000人の油そそがれたクリスチャンの霊によって生み出された状態を表わす。祭司の中庭は,イエス・キリストと14万4,000人の霊的な従属の祭司が肉のからだの点で取っている正しい立場を表わす。祭壇は神の意志,すなわち,イエスの人間の犠牲を喜んで受け入れようとする神の志を表わす。―153ページ。
● ヘロデ王によって再建された神殿の,「異邦人の中庭」は何を表わしていましたか。
受け入れられる仕方で神を崇拝するために全人類が取るべき正義の立場。―153ページ。
● 人はどうすれば,ミカ書 4章5節にしるされているように,「エホバの名によりて歩(む)」ことを決意できますか。
エホバ神の献身したしもべになり,み子イエス・キリストが示された模範に見ならう道を選ぶことによって。―177ページ。
[脚注]
a 1972年の「ものみの塔」のページ数をさします。
b 以下は1973年の「ものみの塔」のページ数をさします。
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読者からの質問ものみの塔 1973 | 5月1日
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読者からの質問
● 黙示録 14章3節には次のようにしるされています。『かれらは新しき歌を御座の前および四つの活物と長老たちとの前にて歌う。この歌は地よりあがなわれたる十四万四千人のほかはたれも学びうる者なかりき』。もしこの箇所および黙示録 4章4節に述べられている長老たちが,天の王なる祭司14万4千人全体を表わすとすれば,14万4千人がそれら長老たちの前で歌を歌うことがどうして可能でしょうか。―エクアドルの一読者より
黙示録を理解するかぎは,黙示録の冒頭のことばの中に備えられています。『これイエス・キリストの黙示なり。すなわち,かならず速かに起こるべき事を,そのしもべどもに顕わさせんとて,神の彼に与えしものなるを,彼その使いをしもべヨハネに遣わして[しるしにより]示し給えるなり』。(黙示 1:1,[新])現実には不可能なことでも,しるしや象徴という手段を用いればそれを描写することができます。たとえば,人は自分自身の前で歌を歌うことはできませんが,自分の写真の前に立って歌うことはできます。ですから,14万4千人が,彼ら自身を表わす,あるいは象徴する何かの前に立っているという描写には,実際になんの矛盾もありません。
幻を見ていた者,すなわち使徒ヨハネの背景は,黙示録 4章4節に述べられている「二十四人の長老」がどういう意味で,しるし,または象徴であるかを決定するのに役だちます。ヨハネはユダヤ人でしたから,『イスラエルの長老たち』が,民全体を代表し代弁したことを知っていました。(出エジプト 3:16,18; 19:7)現在では,油そそがれたクリスチャンの会衆全体が霊的イスラエルの「聖なる国民」を形成しています。そしてクリスチャンの「年長者たち」もしくは「長老たち」はその「国民」全体を表わす,または象徴するかもしれません。(ペテロ前 2:9,新)それと一致して,座位に座している「二十四人の長老」は,14万4千人全体を象徴するでしょう。24という数字は,ヨハネに,ダビデ王が神殿での奉仕のために設けた24組の祭司を思い出させたでしょう。(歴代上 24:4)このことは,14万4千人の「聖なる国民」が「王なる祭司」として働くという事実とぴったり符合します。
また,ヨハネはここで,将来のできごと,「後おこるべき事」の幻を与えられていたのに注意してください。(黙示 4:1)したがって,「二十四人の長老」の幻は,エホバ神が天に設けられる取決めを予示するものでした。使徒ヨハネがその幻を見た時には,14万4千人の集団のうちひとりのメンバーも天にはいませんでした。その集団に属する人たちで,死の眠りについていた人びとは,復活を待っていました。(コリント前 15:20-23,51,52)しかしながら,「二十四人の長老」が幻の中に見られた事実は,長老の地位が,それにつくべく定められた人たちによって占められることを保証するものです。
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