ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 神の目的とエホバの証者(その36)
    ものみの塔 1962 | 4月15日
    • は強制労働をさせられました。彼らは建物の基礎を掘ったり道をつくったり,石炭を運んだり,荷物部屋で重いトランクや箱を扱かったり,バラックを建てたり,他の多くの仕事をさせられました。そのような仕事は,栄養失調で,十分の衣服を身につけず,虐待されてきた人々にはとうていできないほどつらいものでした。495人のエホバの証者は,弾薬箱の製造を拒絶したため,彼らは8週間の暗所入獄を宣告されました。(窓のない独房に監禁されるという意味)h

      忠実な証者たちは,看守や他の囚人から極悪非道の苦しみをうけましたが,苦しみはそれだけではありませんでした。アウシュビッツ収容所で生き残ったひとりの婦人の証者は,ほとんど形容不可能の状態を次のように述べています,

      ラベンスブルックの収容所に3ヵ月居て後,私は約100人の他の姉妹といっしょに1942年6月アウシュビッツ収容所に転送されました。その旅行は汽車で二日かかりました。私たちはボロ布の衣服を身にまとい,木靴をはいていました。この収容所にはしらみがいっぱいいて,のみによる害は言葉には表わせないほど悪いものでした。

      もし病気の者がいるなら,ただバーケナウに送られるだけでした。そこは,実に悲惨なところでした。ひとりが死ぬと,他の病人はただちに同じベッドに寝かされました。なにもかもしらみで一杯であり,排せつ物でおおわれていました。付そい看護は,信用できない囚人たちによってなされました。この収容所は「死」の収容所と呼ばれました。なぜなら,幾万という人々がそこで死んだからです。ユダヤ人の子供たちは生きながらに火の中に投げこまれました。ユダヤ人たちは,自分の妻や子供たちをガス室に追い込むことを強制されまた。6週間かかって彼らは大きな墓を掘り,それから無意識状態の女たちをそこに投げこみました。そして,なにもかも火で燃されてしまったのです。墓を掘った者たちは6週間後は自分が投げこまれるということを知っていました。その墓は,昼も夜も燃えました。アウシュビッツにも五つの火葬所がありました。

      しかし,チフスで死んだり,「火葬される」ことは,ねずみに食べられて死ぬより,はるかに幸福な死でした。それを考えるだけでも血のこおる思いがします。エホバの証者の中のある者は,生きていても体力がひじょうに弱くなっていたので,自分のからだを守ることができず,ねずみにかじられて死んでしまいました。可愛想なことは,生きながらにねずみに食べられた忠実な証者たちは,貧乏で,力のない婦人でした。きがと拷問のため,ひじょうに弱くなっていて,この最も憎むべき敵ねずみに対して自分の身を守ることができなかったのです。i

      たがいの福祉を求める

      エホバの証者は,真のクリスチャンに要求される正義の原則に献身しています。それで,収容所でも信用の地位を与えられるにふさわしいことがすぐに認められました。

      エホバの証者がもっとも勤勉で,良心的な人々,そして正直な人々であることは,収容所内でひろく知られていました。この理由の故に,司令官や他の士官たちは,証者にひげをそってもらいました。なぜなら,エホバの証者がひげを剃りながら彼らのくびを切るようなことをしないことを,彼らは信じたからです。エホバの証者が彼らの安全をおびやかさないということも彼らは知っていました。それで,証者たちは逃走の危険のあるところでも用いられたのです。……ほとんどすべての証者たちは証言をする十分の機会を持っていました。それで,見張りから司令官にいたるまで,また収容所内の他の囚人たちは,エホバの証者の希望について十分に知りました。j

      多くの場合,兄弟たちは信用されたので,たとえ看守たちが残酷な仕打をしても,彼らはその信用を裏切ろうとしませんでした。その点を示すひとつの経験談があります。

      1943年12月22日,私たちは有蓋貨車にのせられて,オランダとベルギーを経由して北フランスのセント・マロに送られました。この旅行中,オランダからの一兄弟は次のような経験をしました。この兄弟の仕事は汽車が止まっているとき,いろいろの車輛に食物をはこぶことでした。とつぜん,汽車は出発して,彼は乗りそこねました。それで彼はオランダに取りのこされました ― 彼の住んでいたところからあまり遠くないところでした。彼は何をするべきですか。逃げますか。しかし,SSが聖書研究生のひとりが逃げたと知るなら,汽車にいる他の兄弟たちには何が生じますか,彼は汽車を追いかけることにしました。保線工夫の家に行ってまず十分の食物を取ってから,トロリーで追いかけ,貨車が止まったとき,それに飛びのりました。そのときまでSSは,彼がいないことに気づきませんでした。これは良い証言になり,彼の行為は他の兄弟たち全部の立場をかたくするのに役立ちました。セント・マロに,数日滞在して後,私たちは舟に乗り,チャネル・アイランドのアルダニイに連れて行かれました。k

      ブッシェンバルト,ラベンシュブルック,ザクセンハウセン,ダカウ,ベルセン,その他のような収容所で,エホバの証者はとうてい耐えることのできないような待遇を受けました。ところが,そのような場所は,エホバの証者の国際大会の会場にもなりました。なぜなら,ドイツのエホバの証者,ロシア,ポーランド,チェコスロバキア,オランダ,ベルギー,フランス,ノルウェー,その他の国々からの捕虜がそこにいたからです。ドイツの兄弟たちは,こっそり輸入した「ものみの塔」を利用して霊的な交わりを保ちました,そして,「ものみの塔」を順番に手渡して行ったのです。ドイツの兄弟たちは刑務所や収容所にいるドイツ人でない同僚たちにたいし,愛の援助を与えることができました。共に苦境になやむ証者たちが国際的な家族関係を保つことによって,収容所内の奉仕の特権に霊的に目ざめることができました。また,解放の日が来たあかつきには,神の神権的な崇拝を拡大する計画も立てられたのです。

      収容所に入れられていた期間中,兄弟たちは密接な関係を保ち,あらんかぎりの手を打ってたがいのつらさを軽減し,霊的な食物を分かち合いました。ここにひとつの例があります。

      1943年の初期,ラベンシュブルック収容所からの一姉妹はブッヘンワールド収容所に転送されました。それは,外国の王女,ビクター・エマニュエル3世王の次女マハルダ姫の世話を見るためでした。この姉妹には霊的な食物が供給されていないと,私たちは知っていました。私はいわゆる貴族の囚人たちのいる場所を取りかこむ特別なかこみのところに達することができました,そして見張りを説得して,毎週この二人の婦人に会うことを許してもらいました。そのため,兄弟たちから集めた50マルクを払うことが必要でした。そうするため,私はそこで仕事をする特別な許可が必要になりました。

      私は電気技師でしたので,その仕事をする許可をこっそりもらうことができました。このようにしてその姉妹の福祉を守り,王女にも証言することができました。

      1944年8月24日,私たちの収容所は同盟軍の飛行機で空襲されました。空襲の目的物は,囚人たちが使用されていたDAW兵器工場でした。この空襲のため多数の囚人とSSは殺されました。私たち証者たちは,この危険な幾時間をやっと生き残りましたが,工場に近いところに住んでいた姉妹の安否を気づかっていました。後に分かったことですが,彼女と王女と高位の士官たちは,SSの護衛のもとに塹壕の中に連れて行かれました。その日に約600の爆弾が投下されましたが,その一つは,塹壕のすぐ近くのところに,落ちて,塹壕全部をうずめました。私たちの姉妹をのぞいて他の全部の人は殺されてしまいました。私たちは,けがひとつ受けなかった彼女を塹壕から引き出すことができました。なんとすばらしい救いなのでしょう! 私たちは感きわまって泣き,エホバに感謝しました。私たちの仲間の中で死者は二人,けがをした者はわずか12人だけでした。l

  • 読者よりの質問
    ものみの塔 1962 | 4月15日
    • 読者よりの質問

      ● マタイ伝 1章に記録されている系図は,イエスの養父であるヨセフを通してのイエスの先祖に適用しています。それに反して,ルカ伝 3章にある系図は,イエスの母親マリヤを通しての系図になっています。それは,どんな根拠にもとづいているのですか。―アメリカの一読者より

      両方の系図はダビデの名前を述べてから後は,子孫の名前で一致していません。ルカの系図にはマタイの系図よりも15も多い名前が述べられています。両方の系図にはマリヤの夫ヨセフがはいっていますが,同じ系図でないことは明白です。マタイの系図は,ルカの系図と反対の側から始まっいます。ルカはイエスから始まり,アブラハムとアダムのところまでさかのぼります。マタイはアブラハムから始まり,イエスまできます。そして,その間の大ぜいの人の名前をはぶいています。それで,マタイは男性だけの系図に注意を向け,女を間接的に含めていません。系図に女がぜったいに必要であると,彼は思わなかったのです。むしろ名前の述べられていないくさりと考えました。このことは,次の事実からも示されます。すなわち,彼が女性を念頭に置くとき,その名前を端的に言います。たとえば,「ユダはタマルによるパレスとザラとの父」そして「サルモンはラハブによるボアズの父」そして「ボアズはルツによるオベデの父」。タマル,ラハブ,そしてルツはアブラハムの子孫ではありませんでした。それで,系統は彼らの夫を通して,アブラハムから中断せずに続けられたにちがいありません。

      ルカはマタイとことなり,女性の名前を端的に述べていません。すると,女性も系統の中に含まれていると考えれます。その場合,彼らの夫は義理の息子に過ぎず,血統を直接的に引いていないことになります。ユダヤ人の系統は,いつでも婚姻関係の男系でした。そのような場合,義理の息子は,その義理の父の子と呼ばれます。言われなくても理解されることは,ルカの系図のいちばん最初のところで示されています。それは,こう述べています。「イエス......人々の考えによれば,ヨセフの子であった」。ヨセフはイエスの義理の父に過ぎません。神は彼の父で,マリヤは彼の地的な母親でした。マタイはヨセフについて,こう述べています。「ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった」。(マタイ 1:16,新口)しかし,ルカ伝 3章23節(新口)は,ヨセフが「ヘリの子」であると述べています。すると,ヤコブの子,ヨセフは,ヘリの義理の子に過ぎません。なぜなら彼の妻マリヤはヘリの娘だからです。

      イエスはマリヤの子であったため,ダビデの直系の子孫でした。イエスはまたヨセフの養子であったため,ダビデの合法の子孫でもあり相続者でもありました。イエスがダビデ王の合法の相続者になりダビデ王の子孫の中に養子として入れられることだけでは不十分でした。イエスが,ダビデの肉と血の直接的な子孫になることが必要でした。すると,イエスの母親マリヤの系統がダビデからつづいていることが必要でした。ルカはマリヤについてのこの点を証明しています。それで,イエスはダビデの直系の子孫であり,ダビデの座位にすわる権利を持つ者と示しています。マタイの系図は,イエスが合法的な権利を持つにすぎないことを示しています。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする