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  • 善良さを示して造り主を覚えなさい
    ものみの塔 1967 | 8月1日
    • をなして,なお長生きするものがあるけれども,神をかしこみ,み前に恐れをいだく者には幸福があることを,わたしは知っている。しかし悪人には幸福がない。またその命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである」― 伝道 8:11-13。

      16 聖書の教えに照らして,わたしたちはどう結論すべきですか。

      16 それで,悪しきわざに対する刑の執行が遅れても,善を行なうことをためらう必要はありません。

      17 私たちが直面している時代のことを考慮に入れるのは,良い実を結ぶうえにどう役だちますか。

      17 わたしたちが生きている時代のことも考えねばなりません。今は暴力と不法と利己心のはびこるむずかしい時代であり,テモテへの第二の手紙 3章1-3節のあげることがらが現われる時代です。「しかし,このことは知っておかねばならない。終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は……善を好まない者……となるであろう」。それで,人々が善を好まない者となっていても,悪を行なってはならず,いよいよ善良の実を生むことに努めねばなりません。

      18 クリスチャンもクリスチャンでない人もこれからどんなことを学びますか。

      18 個々のクリスチャンは聖書に従って何をすべきかという観点でこの主題をさらに発展させましょう。クリスチャンであってもなくても,あなたは真のクリスチャンの道として聖書が何を示しているかを見ることができるでしょう。

      行なうべき良いことはたくさんある

      19 行なうべき良いことは数多くありますが,どんな定義がそのことを示していますか。

      19 個々のクリスチャンが日毎に行なうべき正しく良い事柄は数多くあります。これらが結果として善良という実を結びます。基本的に言えば,善良さとはふさわしさです。「われらの神をほめうたうことはよいことである……さんびはふさわしい」。(詩 147:1)善良であるということは,神の標準から見て,創造者のしもべにふさわしく,似つかわしい事柄です。良い事柄は良い目的,適当でふさわしい目的のためになされます。神のことばはどんな事柄が良く,善良さがどんなものから成り立つかをクリスチャンに教えます。申命記 12章28節は述べています。「〔エホバ〕が見て良いとし,正しいとされる事を行(え)」。(〔文語〕)ウエブスターの「第三新国際辞典」(英語)は英語の「良い」という語の基本的な意味として「よく合う,ふさわしい,似つかわしい,適切な」をあげ,「善良」の意味として「道義上の美質」をあげています。しかし聖書のギリシャ語で「良い」とは「可能な,役だつ,品性のすぐれた」という意味であり,聖書のヘブル語では,「(あらゆる意味で)よい,快よい,有用な,有能な,美しい,正しい,道義的によい」という意味であるとしています。これらの定義に合う事柄は多く,クリスチャンのすべきことは多いと言わねばなりません。―ヤコブ 3:17,18。

      ことの良しあしをいかに決めるか

      20 (イ)あることが良いか悪いかをどのように決められますか。(ロ)そうした判断に役だつのはどんな知識ですか。

      20 これは良い質問です。(適当な質問)わたしたちの行為,あるいは言ったり,支持したりすることが良いか悪いかをどのように決めることができますか。自分が邪悪さでなく善良さを示しているかどうかはどうしたらわかりますか。一つの方法は自分が考えあるいは行なっている事柄について自問することです。こうたずねてごらんなさい。それは真のクリスチャンにふさわしいだろうか。それは不適当ではなかろうか。造り主はそれを是認されるだろうか。真のクリスチャンはある事柄がキリスト・イエスの追随者たる者にふさわしいかどうかを見きわめることができます。クリスチャンの使徒パウロはほかのクリスチャンに言いました。「わが兄弟よ,われはなんぢらが自ら善に満ち,もろもろの知識に満ちて,互に訓戒し得ることをかたく信ず」。(ロマ 15:14,文語)善意に満ち,神のみことばとご要求に対する知識に満ちているなら,クリスチャンはある事柄が良いか悪いか,自分の行為が霊と光の実つまり善良さを生み出すかどうかを判断できます。ここでわたしたちは真のクリスチャンが慎重に考慮すべき事柄を幾つか順に取りあげましょう。まず考えるべき影響は,

      21 わたしたちの判断いかんがエホバへの崇拝を左右することを述べなさい。

      21 エホバ。エホバに喜ばれますか,喜ばれませんか。その行為また言行はエホバのほまれとなり,善であり正義であられる神と一致するものですか。もしそうでないなら,それが良いことであり,ふさわしいことであるとは言えません。神のみこころにそわないことがらにどうして道義上の美質を求めることができますか。クリスチャンが行ない,口にする事柄にはエホバへの崇拝がかかわっています。「この世にならふな,神のみこころの善にして悦ぶべく,かつ全きことをわきまへ知らんために心をかへて新たにせよ」。(ロマ 12:2,文語)つぎに考えるべき点は,

      22 (イ)クリスチャンはどんな仕事をもっていますか。(ロ)それはわたしたちの判断とどのように関係していますか。

      22 御国の事柄。クリスチャンはキリスト・イエスを王とするエホバの御国の事柄に関する奉仕をゆだねられています。御国の事柄を忠実に果たすクリスチャンの仕事は指導者キリスト・イエスの預言的な命令に基づいています。「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。(マタイ 24:14)御国の福音の伝道は進められますか。それとも妨げられますか。それは,天使の指導下にクリスチャンが伝える「永遠の福音」にふさわしいですか。(黙示 14:6)これに関連して次の点も考えねばなりません。

      23 クリスチャンが他の人に与える影響という観点で自分の行動を見守らねばならないのはなぜですか。

      23 他の人々。クリスチャンの行動は他の人の益にも害にもなり得ます。永遠の福音は「地に住む者,すなわち,あらゆる国民,部族,国語,民族」に伝えられねばなりません。それは,「神をおそれ,神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを伏し拝め」ということを,すべての人に呼びかけるものです。(黙示 14:6,7)エホバの証人はこの偉大な造り主に自ら仕え,他の人も仕えることをすすめていますから,他の人またその人とエホバとの関係に与える影響という観点から自分の行動を見守らねばなりません。自分が伝える福音にふさわしく日を送ることにより,クリスチャンは他の人がエホバ神の恵みと善意を得るのを助けることができます。またクリスチャン各自にきわめて身近な人々のことがあります。

      24 クリスチャンはどこでだれを大きく助けられますか。

      24 愛する人々。クリスチャンは自分の愛する人々がエホバ神に対してもつ関係に心を配ります。そして家族という親密な間柄にある者として,互いを大いに助けることができます。ここであてはまるのは「自分の骨肉に身を隠さない」という原則です。(イザヤ 58:7)ついで考えるべきものは,

      25 クリスチャン会衆のためにできる良いことを幾つかあげなさい。

      25 会衆。「だから,機会のあるごとに,だれに対しても,とくに信仰の仲間に対して,善を行おうではないか」。(ガラテヤ 6:10)クリスチャン会衆を支持し,会衆の益と幸福に注意するのは良いことです。会衆の集会に出席し,集会の始まる以前に会場に行き,機会に応じて集会に参加するのは適当なことです。親が年齢によらずすべての子供を会衆の集会に伴い,人の妨げにならぬよう集会の間しずかに聞くようにさせるのは神の霊の実です。そうすれば,おとなも子供も,御国会館に来た者すべてが,備えられた霊的食物の益に十分あずかれるでしょう。所有する御国会館またその設備に必要な手入れをするのは良いことです。そして,必ず考えるべきことは,

      26 善良さを示すという主題全体はどんなことを扱うものですか。

      26 自分とエホバとの関係。エホバとの良い関係と悪い関係について聖書は述べています。「愛する者よ。悪にならわないで,善にならいなさい。善を行う者は神から出た者であり,悪を行う者は神を見たことのない者である」。(ヨハネ第三 11)善良さを示して自分の造り主を覚えるという主題全体は,実際には偉大な造り主エホバと自分との関係を扱うものです。

      27 若者に対しても年配者に対しても,聖書はどんなことを明らかにしていますか。

      27 このことは,子供,若者,おとな,老人など,あらゆる年齢の真のクリスチャンにあてはまります。親も子供も聖書の大切な真理のことばを心にとめるべきです。「幼な子でさえも,その行いによって自らを示し,そのすることの清いか正しいかを現す」。(箴言 20:11)ごく幼い子供もそうですか。そうです。子供を持つ人々にはすばらしい機会があるではありませんか。自分の子供のすることが清さと正しさを現わすようにすることができるのです。

      28 以上のことを心にとめ,わたしたちは次に何をしますか。

      28 わたしたちは日常生活において,どんな道をとるか,どんな聖書の原則に従うかについて決定を迫られることがありますが,次の記事の中では,そうした生活上の諸問題に前述の聖書の原則をいかにあてはめるかという点をとりあげましょう。つまりここで学んだ事柄を個々の場合にあてはめるのです。どうぞ次の記事を見てください。

  • 「目ざめている」
    ものみの塔 1967 | 8月1日
    • 「目ざめている」

      ◆ アーモンドの木(シャーケード)のヘブル語名は「目ざまし」という意味である。アーモンドは冬の休眠に続いて一番早く開花するものの一つであり,パレスチナでは1月下旬か2月上旬に花をほころばせるので,この名前は適切である。聖書のエレミヤ書 1章11,12節には,「あめんどう」(シャーケード)につづいて「見張って」(ショーケード)という表現を使った言葉のしゃれがある。「〔エホバ〕の言葉がまたわたしに臨んで言う,『エレミヤよ,あなたは何を見るか』。わたしは答えた,『あめんどうの枝を見ます』。〔エホバ〕はわたしに言われた,『あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ』」。

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