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    ものみの塔 1958 | 2月15日
    • 正しい者の確信

      『知恵のある者と共に歩むものは知恵をえ,愚かなる者の友となる者はあしくなる』― シンゲン 13:20

      1 ダビデは自分の忠実をどのように考えましたか。そして誰を表わしていますか。

      古代イスラエルの正しい王ダビデは,創造主すなわちダビデがヱホバと呼んだ神に全く依り頼みました。罪深い不完全な人間として,その生涯の年月のあいだに多くのあやまちを犯したことを,ダビデは良く知つていました。しかし,彼の心と思いの中にあつた第一のことは天にいます彼の生命の与え主の御心を行う事であつて,ダビデはそのことを知つていたのです。ヱホバ神に献身した民族の指導者であつたダビデは,忠実の問題に心を寄せました。『されど我はわが完全によりてあゆまん』(詩 26:11)ダビデはこの事をなそうと忠実に努めました。彼はその治めた人々すべての手本であり,また偉大なるダビデすなわち神の新しい世の栄光の王イエス・キリストの真の追随者を予言的に表わす人でした。

      2 なぜ,ダビデは忠実のうちに歩んだことを確信していましたか。そして,どのように裁かれることを願つていますか。

      2 詩篇 26篇には,自分の忠実を述べて神の調べを乞うダビデが示されています。神の戒しめに従つて生活し,正しい道に歩んできたことを彼は確信していました。正しい事を行おうと常に願つたダビテはヱホバにこう述べました,『我をなんぢの真理にみちびき我をおしえたまえ』(詩 25:5)真理のうちに歩んできたことを確信して,ダビデは確信のある言葉を述べています。『ヱホバよ,ねがわくは我をさばきたまえ,われわが完全によりてあゆみたり』(詩 26:1)この詩篇全体を読むと分るように,喜びつつヱホバを崇拝したダビデは,罪深い者の悪しき生活と彼自身を対照しています。それらの人々と同じ類に入れられることをダビデは欲しませんでした。そして,人間の生活の標準によつて裁かれることを欲しなかつたのです。自分がどんな者であるか,つまり,真理と正しい事を愛する者であることをダビデは知つていました。ダビデは正直で責むべきところがなく,その唯一の願いはヱホバに専心の献身を捧げることでした。神の標準が何であるかを知つていたダビデはそれによつて裁かれることを欲し,次のように願い求めています。『わが神ヱホバよ,なんぢの義にしたがいて我をさばきたまえ,わが事によりてかれら(敵)に歓喜をえしめ給うなかれ』(詩 35:24)このように正しい裁きはダビデに幸福を与えました。彼は心から満足しました。忠実のうちに歩んでいることをダビデは確信していたのです。今日,私たちはダビデと同じく,自分の忠実を確信していますか。

      3 ダビデの願いはヱホバを喜ばせることでしたが,どんな方法で彼はその事を示しましたか。

      3 若者であつたときに,ダビデはヱホバに選ばれて王となりました。予言者サムエルによつて油注がれた時から,ダビデには特別な責任がありました。彼は常にヱホバを求めつつ,その責任を果しました。多くの試錬と艱難を経てのち,ダビデはヱホバのくらいに据えられてイスラエル民族の上に立ちました。彼の大きな喜びの一つは,契約の聖なる櫃をエルサレムの聖なる都に携えてきて,そこにヱホバ崇拝の場所を設立することでした。シオン山の上にヱホバの祭壇は築かれ,イスラエルの全部がそこでヱホバを讃美しました。ダビデはその場所についてこう述べています,『ヱホバよ なんぢの帷幄のうちにやどらん者はたれぞ,なんぢの聖山にすまわんものは誰ぞ。直くあゆみ義をおこない,その心に真実をいうものぞその人なる』(詩 15:1,2)この要求にかない,また弱さと不安定の代りに強くなることがダビデの願いでした。そこで彼は神に依り頼まねばならなかつたのです。『我たゆたわずヱホバに依頼めり』(詩 26:1)ヱホバに対するダビデのの信頼と信仰は固くて動かされることなく,平静なものでした。「ヱホバの家の住まいを愛する」者にふさわしく歩んだダビデには,動揺することが全くなかつたのです。

      4 今日の真のクリスチャンが,ダビデと同じく忠実を確信する事を助けるものは何ですか。

      4 キリスト・イエスの追随者である今日の真のクリスチャンも,この同じダビデの神を信じ,『なんぢ(ヱホバ)が栄光のとどまる処』において崇拝したいと望んでいます。(詩 26:8)クリスチャンの持つ神の言葉はダビデの持つていたものと同じであり,ただ,ダビデよりも多くを持つているのです。ダビデの死後,大勢の予言者が神の選民の許に遣わされて,彼らの述べたことは私たちが学んで教訓とするため神の言葉の中に書きしるされました。それに加えて,キリストの生涯,使徒行伝,弟子たちの書いたもの,があり,今日の完成した聖書,神の御言葉の全部はこれら多くの聖書の本から出来上つています。これは全人類の従うべきものです。このような備えをもつ今日のクリスチャンは,『義を行い,真理を語る』と共に,ダビデと同じくヱホバに忠実であるという確信を持つべきであり,またそうすることができます! 神の言葉を学んで理解し,それによつて生活する人は,動揺しないという確信を持つ筈です。

      確信のないキリスト教国

      5,6 忠実を確信しているキリスト教国について,どんな的をついた質問に答えねばなりませんか。

      5 しかし,ある人は言います,『キリスト教国を見てごらんなさい。何億という動揺した,不信仰の人々はキリスト教国の教会に出席しています。いろいろな教会の名簿に載せられている人々は,確信をもつて次のように言えますか。「ヱホバよ,われを糺しまた試みたまえ,わが腎とこころとを練りきよめたまえ」これはどうした事でしよう。ダビデが予影した信仰の人々は今日どこにいますか。』

      6 このような質問を更に尋ねることができます。キリスト教国は試みに耐え得ますか。ヱホバはキリスト教国の中に信仰を見出し得ますか。キリスト教国の指導者は,ダビデと同じほどに清い良心を持つていますか。祈りのうちにヱホバに近づき,彼らを調べ試みて清めるようにヱホバに願うことができるでしようか。ヱホバが御自身の御言葉である聖書の中に定められた標準にふさわしく行つているという確信を持つていますか。彼らは聖書の教えをすべて信じていますか。牧師に教えられている今日のキリスト教国の何億という人々は,ダビデと同じくヱホバへの忠実を確信できますか。このすべての質問の答は否です! しかし,神の御心を行う奉仕に献身したのであるなら,彼らはダビデの信仰を持つべきです。キリスト教国とその支持者たちは忠実であると主張して居り,彼らは聖書を信ずると言つて自身をクリスチャン ― キリストに似るもの,と呼んでいるのです。願うと否とに拘りなく,彼らはヱホバ神の御前で裁かれつつあります。

      7 キリスト教国は,どのように神の言葉を否認してきましたか。誰を支持するために? キリスト・イエスとはどのように似ていませんか。

      7 全能の神ヱホバの裁きから逃れて後に退くことはできません。キリスト教国は自らの教えによつて神の御言葉を棄ててしまいました。そして,この悪い世の政治と行動を共にしてきました。それを支持しているからです。国際連合制度を全く支持しているキリスト教国は,明らかに神の御国にくみしていません。キリスト教国はイエスに似ていません。イエスはピラトにこう語りました,『わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば,わたしに従つている者たちは,わたしをユダヤ人に渡さないように戦つたであろう。しかし,事実,わたしの国はこの世のものではない』(ヨハネ 18:36)キリスト教国を試みてそれを清くすることはできません。その中には真実に価値ある良いものが一つも無いのです。神の御国はこの世から来ません。しかもキリスト教国はこの古い悪しき世と妥協を重ねてきました。ダビデの書いたことに注意して下さい,『ヱホバよ,なんぢは我をさぐり我をしりたまえり。なんぢわが心をこころみ,また夜われにのぞみたまえり,斯くてわれを糺し給えど我になにの悪念あるをも見出たまわざりき,わが口はつみを犯すことなからん』(詩 139:1; 17:3)キリスト教国はこれを言うことができますか。できません!

      8 ヱホバに愛と奉仕を捧げない人々に対して,すべてのクリスチャンはどんな態度をとるべきですか。

      8 世界のどこにいてもクリスチャンと名乗る人はすべてダビデやキリスト・イエスと共に次のことを言い得なければなりません。『ヱホバよ,われは汝をにくむ者をにくむにあらずや,なんぢに逆いておこりたつものを厭うにあらずや。われ甚くかれらをにくみてわが仇とす。神よ,ねがわくは我をさぐりてわが心をしり,我をこころみてわがもろもろの思いをしりたまえ。ねがわくは我によこしまなる途のありやなしやを見て,われを永遠のみちに導きたまえ』(詩 139:21-24)正義を愛する者,真のクリスチャンは清い人々の清い世界に住みたいと望んでいます。これは今日どのように出来ますか。忠実な男女,義を行い心に真実をいう人々と交わるのです。―詩 15:2。

      9,10 (イ)試練に遭つて忠実を守つたどんな昔の例がありますか。(ロ)現代において,そのように忠実を守る人々が見られますか。

      9 忠実の試錬はかならず来ます。ダビデの先祖アブラハムが受けた試錬を見てごらんなさい。『是等の事の後,神アブラハムを試みんとて』(創世 22:1)アブラハムはその独り子イサクを犠牲に捧げるように命ぜられました。アブラハムが忠実を表わして従つたゆえに,ヱホバはイサクの代りとなる小羊を与えられたのです。後に御自身の民イスラエルの荒野の旅を導かれたとき,ヱホバはイスラエルの民を試みました。『汝おぼゆべし汝の神ヱホバこの40年の間汝をして荒野の路に歩ましめたまえり是汝を苦しめて汝を試み汝の心の如何なるか汝がその戒しめを守るや否やを知らんためなりき。……汝の先祖等の知らざるマナを荒野にて汝に食わせたまえり是みな汝を苦しめ汝を試みて終に福祉を汝にたまわんとてなりき』(申命 8:2,16)試みは必要です。しかし,忠実と忍耐は幸福な報いです。今日,献身した神の民の幾人が今の悪い時代に忍耐し,最後まで忠実を守るでしようか。誠実を保ち忠実を守る人々は救われます。イスラエル人の場合のように,外の何物にもまさるヱホバへの愛を証明するための40年間は長い年月です。私たち各人を考えたとき,それだけ長い試みに耐え得る人がいますか。ヱホバの裁きの日である今日においても,多くの人はそうしてきました。忠実の試練に耐えることは生命を意味します。それゆえにアブラハムは息子の生命を長らえさせたのです。イスラエル人は乳と蜜との流れる土地に入りました。あなたは神の新しい世に生きるでしよう。

      10 あなたは熔鉱所の金のように精錬されて,純粋の金だけが残るようにカスを取り去つてもらうことを喜びますか。ある人々はその過程を経て最後に『宜いかな,善かつ忠なる僕』と是認されました。他の人々はマラキが述べたように今なお清められつつあります。『かれは銀をふきわけてこれを潔むる者のごとく坐せん彼はレビの裔を潔め金銀の如くかれらをきよめん而して彼等は義をもて献物をヱホバにささげん。その時ユダとエルサレムの献物はむかしの日の如く又先の年のごとくヱホバに悦ばれん』(マラキ 3:3,4)何千人のヱホバの証者は,ダビデが述べマラキが描写したような清め,焼きつくす火による清めを経てきました。ロシヤ,ポーランド,チエコスロバキヤ,その他どこでも鉄のカーテンの背後で共産主義の全体主義支配の下で迫害に苦しんでいる人々と同じく,あなたは熱に耐え忍ぶことができますか。カトリックの支配するドミニカ共和国のヱホバの証者を見てごらんなさい。彼らは神の御国を伝道し,ヱホバの証者としての立場をとつたために,打たれ,苦しめられ,投獄されたのです。ドイツ,イタリー,ノルウエーその他,ナチスやフアシストの支配者の破壊的な軍勢に侵略された国々において,他の人々は忠実を守り抜き,また今でも守つています。この世界のどこに住んでも,真のクリスチャンであることは安易なことではないのです。私たちの忠実を破ろうと,敵はさまざまな手だてをつくしており,私たちはそれに耐えねばなりません。

      11 今日,私たちの忠実を強く確信させるのに役立つものは何ですか。

      11 むかし,ダビデは彼をしらべ,こころみ,清めて下さいと彼の父に求めました。今日,私たちは自分の真直ぐなこと,自分の忠実をそれほどに強く確信していますか。ダビデのように物事を見ているなら,また,キリスト・イエスの足跡に従つているなら,そうあるべきです。そして,次のように言うことでしよう,『そは汝のいつくしみはわが眼前にあり,我はなんじの真理によりてあゆめり』(詩 26:3)ヱホバの御業,ヱホバの御心のうちにある御目的,ヱホバがなされたこと,なされていること,御自分を愛する人々の祝福のためになされようとしていること,人がこれらの事を認識するとき,ヱホバの過分の御親切を本当に感謝します。人類を贖うため,天から独り子キリスト・イエスを地に遣わされたヱホバの愛をごらんなさい。しかし,イエス・キリストは贖う以上のことをされました。イエスは忠実を保つことによつてヱホバの御名を立証し,正義の新しい世の王とされたのです。望むなら,あなたはその新しい世に住むことができます。どのように? 聖書に親しみ,その真理を注意深く読み取り,真理によつて生活するのです。キリスト教国の何百万人が祈り求めてきた神の御国に生命を得るため,これは必要です。『御国がきますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように』(マタイ 6:10,新口)ヱホバの御国を常にあなたの眼の前に置き,真理の中に歩みなさい。そうすれば,あなたは神の新しい世で生命を楽しむでしよう。

      12,13 ヱホバの御前にあつて,罪のない状態を保つため,誰と交わりますか。また,誰を避けますか。

      12 できるなら何時でも,何処でも御国の良いたよりを伝道し,教えなさい。そのことをしている人々と交わりなさい。そのとき,あなたは悪しき人々から離れているでしよう。あなたは忠実を守るのに忙しく励んでいるからです。すべて真理を学んで正しい道をとり,以後生命をヱホバの奉仕に捧げる人は,ダビデが為したと自ら語つていることをします。『われは虚しき人とともに座らざりき,悪をいつわりかざる者とともにはゆかじ。悪をなすものの会をにくみ悪者とともに坐ることをせじ。われ手をあらいて罪なきをあらわす,ヱホバよ斯てなんじの祭壇をめぐり』― 詩 26:4-6。

      13 忠実なクリスチャンはその歩む道を定めています。彼らは虚偽の人と共に座らず,御国を伝道する以外には,この世の人と長く論議しません。ヱホバの証者はこの世の関心事を彼らの関心事にしませんでした。彼らには為すべきもつと大きな,もつと重要な業があります。悪しき者の謀りごとに歩み,その企てを支持する人々の終りは常にみじめな滅びです。『悪しき者の謀略にあゆまず,つみびとの途にたたず嘲るものの座にすわらぬ者はさいわいなり。かかる人はヱホバの法をよろこびて日も夜もこれをおもう』(詩 1:1,2)あなたはこれと同じ道を定めましたか。あなたは何れの道を歩みますか。忠実の道をとりなさい。

      憎まれた『悪しき者のつどい』

      14,15 牧師の多くは,忠実でないことをどのように示してきましたか。ヱホバの御手から受ける彼らの報いはなんですか。

      14 今日のキリスト教国の指導的な学者たちが聖書の翻訳から神の御名を取り除いてしまつたことを御存じですか。ヱホバという真の名を人々から隠すことは,真の崇拝を取り除こうとすることです。今日,多くの牧師は,教会の説教壇に立ち,創世記の創造の記録を否定します。彼らはむしろ好んで人々に進化論を教えるのです。なかにはキリスト・イエスの犠牲の価値を否定し,それには何の贖う価値もないと言う牧師さえあります。彼らは神聖らしく見せかけて人々から称讃を受けることを好みますが,ヱホバの祭壇をめぐることを望みません。イエスは次のような言葉で彼らのことを述べました,『あなたがたは自分の父,すなわち,悪魔から出てきた者であつて,その父の欲望どおりを行おうと思つている。……彼は偽り者であり,偽りの父であるからだ』(ヨハネ 8:44,新口)この類の人々を知つていたダビデは適切な言葉を述べました。『人はみな偽りをもてその隣と相語り,滑らかなる唇とふた心とをもてもの言う。ヱホバはすべての滑らかなる唇と大いなることを語る舌とを滅ぼしたまわん。彼らはいう,我ら舌をもて勝をえん,この唇はわがものなり誰かわれらに主たらんやと』(詩 12:2-4)彼らはヱホバの御名を隠して,その為していることを誇つているのです。しかし,彼らは何という報いを受けることでしよう!

      15 大多数の牧師とその追随者は,ヱホバの御名を妄に口にしてきたか,あるいは全く捨てました。このような聖書の翻訳者が出エジプト記 20章7節を翻訳したとき,一体何と考えたことでしよう。『汝の神ヱホバの名を妄に口にあぐべからずヱホバはおのれの名を妄に口にあぐる者を罰せではおかざるべし。』牧師たちはかならず罰せられるでしよう。彼らを心において詩篇記者は祈りました,『かれらの顔に恥をみたしめ給え,ヱホバよ然らば彼ら汝の御名をもとめん』― 詩 83:16。

      16 (イ)世の友となることは何を意味しますか。それで,クリスチャンは何をしなければなりませんか。(ロ)その正体を隠そうと努めているキリスト教国は,誰にたとえられていますか。

      16 真のクリスチャンがダビデのような忠実を持つには,キリスト教国やこの組織制度と決して交わつてはならず,この世の友となつてはなりません。イエスの弟子,ヤコブは述べました,『不貞のやからよ。世を友とするのは,神への敵対であることを,知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は,自らを神の敵とするのである』(ヤコブ 4:4,新口)次のことがはつきりと述べられているのも,これが一つの理由なのです。『わたしの民よ。彼女から離れ去つて,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ』(黙示 18:4,新口)偽善のキリスト教国は,イエス時代の宗教指導者がしたように,その正体を隠そうと努めています。『偽善な律法学者,パリサイ人たちよ。あなたがたは,わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが,内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず,杯の内側をきよめるがよい。そうすれば,外側も清くなるであろう。偽善な律法学者,パリサイ人たちよ。あなたがたは,わざわいである。あなたがたは白く塗つた墓に似ている。外側は美しく見えるが,内側は死人の骨や,あらゆる不潔なものでいつぱいである。このようにあなたがたも,外側は人に正しく見えるが,内側は偽善と不法とでいつぱいである』(マタイ 23:25-28,新口)彼らはその正体を隠そうと努めました。キリスト教国の指導者も今日同じことをしています。彼らを避けなさい。

      17 詩編記者と似て,真のクリスチャンの態度は何ですか。

      17 次のことを述べた詩篇記者のようでありなさい。『あしき人また邪曲を行う者とともに我をとらえて曳きゆき給うなかれ。かれらはその隣に平和を語れども心には害いを抱けり』(詩 28:3)真のクリスチャンが持たねばならない態度は『悪をなすものの会をにくみ』ということです。―詩 26:5。

      18 『われ手をあらいて罪なきをあらわす,ヱホバよ斯てなんぢの祭壇をめぐり』と言い表わしたダビデの言葉はどのように意味深いものですか。

      18 ヱホバの祭壇の前で崇拝できるように,ダビデ王はヱホバの前にあつて清い手と罪のないことを欲しました。『われ手をあらいて罪なきをあらわす,ヱホバよ斯てなんじの祭壇をめぐり』と言いあらわしたダビデは,祭壇の近くに置かれて祭司が手足を洗うのに用いた銅の鉢を心に考えていたのでしよう。神の律法は祭司について述べていました,『彼らは集会の幕屋に入る時に水をもて洗うことをなして死をまぬかるべし。また壇に近づきてその務めをなし火祭をヱホバの前に焚く時もしかすべし。すなわち斯その手足を洗いて死を免かるべし。これは彼とその子孫の代々常に守るべき例なり』(出エジプト 30:19-21)しかし,ダビデは,神の真理によつて清められた道徳的に清い手を持つことを望んだのです。

      19 今日,真のクリスチャンはどのように手を洗つて罪のないことを表わしますか。

      19 ヱホバの祭壇によつて表わされていた崇拝の場所に今日来る人は,誰でも清くなければなりません。この世の生活とその汚れた活動に染まつて汚れていてはなりません。ヱホバの祭司たちが昔にしたことの実体を,真のクリスチャンはいま行わねばならないのです。ヘブル人のクリスチャンに清さのことを話したとき,パウロはこう語りました。『心はすすがれて良心のとがめを去り,からだは清い水で洗われ,まごころをもつて信仰の確信に満たされつつ,みまえに近づこうではないか。また,約束をして下さつたのは忠実なかたであるから,わたしたちの告白する望みを,動くことなくしつかりと持ち続け,愛と善行とを励むように互に努め,ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか』(ヘブル 10:22-25,新口)クリスチャンはこの終りの日に集まらなければなりません。しかし,常に清い崇拝を行わねばならず,それは,一生にわたる毎日の生活を含むのです。

      20 どのように,ヱホバの証者は正しい清い道に歩みつづけますか。

      20 ヱホバの証者のなす崇拝は,一週にただ一度集まつて愛と善い業に励まし合うことだけに限られていません。集会に出席していても御国会館から離れていても,一日中そして毎日彼らは神を崇拝する者でなければなりません。クリスチャンとなつて後,人はキリスト・イエスの血によつて洗い清められたのですから何時も清くしていなければなりません。二度目に洗い清めるために,キリストが再び死なれるという事はないのです。クリスチャンとなる多くの人々は淫行,偶像崇拝,貪欲,泥酔などを行つて悪しき者と共に歩んでいました。しかし,パウロはコリントの会衆に述べています,『しかし,あなたがたは,主イエス・キリストの名によつて,またわたしたちの神の霊によつて,洗われ,きよめられ,義とされたのである。』(コリント前 6:11,新口)ダビデのように,私たちは清い心をもつて手を洗い,悪魔の組織から離れて清いこと,真の崇拝に献身していることを誰にでも示さなければなりません。私たちは世にいますが,世の一部ではなく,世の罪の汚れを持つことはできません。ピラトでさえも,キリスト・イエスの死に対して責任を負うことを欲しなかつたのです。怒り立つているユダヤ人の群衆を前にして,ピラトは当時の宗教家に罪を負わせました。ピラトは水をとり,不義を愛する者たちの前で手を洗つてこう言ったのです,『この人の血について,わたしは責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい』(マタイ 27:24,新口)しかし,彼はダビデのように清い心を以て手を洗うことが全くできませんでした。

      21 キリスト・イエスに匹敵する業をなして,今日ただ一人目立つているのは誰ですか。彼らの音信は何ですか。

      21 その悪しく汚れた生活によつてヱホバの崇拝を汚したことに対しては,キリスト教国もまた全責任を負わねばなりません。しかし,ヱホバの証者について言えば,彼らは手を洗い,真のクリスチャンとしてキリスト教国と何の係わりも持たないでしよう。ヱホバを真に崇拝することができるために,彼らはこの立場をとらなければならないのです。偽りの崇拝を行う者から離れることによつて,私たちは『感謝のこえを聞えしめ,すべて汝の奇しき御業をのべつたえん。ヱホバよ,我なんじのまします家となんじが栄光のとどまる処とをいつくしむ』ことができます。(詩 26:7,8)エデンの園における人間の創造から楽園の地に全人類が回復するに至るまでのヱホバのすばらしい御業を,ヱホバの証者は感謝の心を抱きながら喜んで知らせています。すべての宗教から離れていたキリスト・イエスは,天の御国が近づいたことを宣明したという点で並ぶ者がありませんでした。それと同じく,今日神の御国を宣明しているのはヱホバの証者だけなのです。ヱホバの証者が世界に告げていることは,今がこの悪しき組織の終りの日であつて,義をもつて治める新しい政府が始まるという事です。良いたよりをすべての善意者に知らせるためには,人々の家で多く伝道し,家の人自身の聖書を用いて教えることが必要です。その人々と研究し,彼らの「感謝の声を聞えしめ」て下さい。

      罪人と共に取り去られることを避ける

      22 罪人の最後はどんなものですか。聖書の歴史はこのことをどのように証明していますか。

      22 ダビデは語りました,『願わくはわが魂を罪人と共に,わが生命を血を流す者と共に取収めたまうなかれ。かかる人の手には悪しきくわだてあり,その右の手は賄賂にてみつ』(詩 26:9,10)聖書を研究する人が明瞭に理解しているように,ヱホバは悪しき者を滅ぼそうとされています。ヱホバは以前ノアの時代にも滅びをもたらしてこの事をされました。そのとき,ヱホバは人々の罪深さのゆえに洪水をきたらせて堕落した人々を滅ぼされたのです。また,ソドムとゴモラにいた人々を拭い去りました。神はイエス時代の学者,パリサイ人を裁いて罪に定めました。彼らは血を流す者であつたからです。ユダの右の手は賄賂にみちていたために,彼はゲヘナに罪せられました。後にアナニヤは偽りのために打たれて死にました。そして,ユダは『不信仰な人々が……わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え』と書きしるしています。(ユダ 4)今日,大抵の人々そして彼らの支配者は,生命の神聖さをもはや尊重していません。大企業に支持されている牧師や政治家は,平和,平和!と叫びながら,一方では戦争の準備をますます大規模に行つているのです。人類の滅亡はこの時代における彼らの話題となつています。このような組織制度と少しでも関係を持つことは賢明ではありません。『愚かなる者の友となる者はあしくなる』からです。(シンゲン 13:20)血を流し,放縦で賄賂を愛するこのような者の終りは,ハルマゲドンの戦いにおける滅びです!

      23 他方,正しいことを確信している人々に対する約束は何ですか。

      23 他方,自分が正しいという確信をもつ人々は,ダビデや献身してキリスト・イエスの真の追随者となつた人々と同じようです。彼らは次のように言えます,『されどわれはわが完全によりてあゆまん。願わくは我をあがない我をあわれみたまえ』(詩 26:11)これは,我を悪しき者から救い,我をあわれみたまえ,と言うのにも似ています。神はモーセを通してイスラエルの人々をエジプトから救い,つまり贖われて,彼らを約束の地に導かれました。ヱホバはより大いなるモーセ,キリスト・イエスを人類に与えられました。人々を贖うためのヱホバの賜物としてイエスを受け入れるなら,キリスト・イエスは全人類の贖い主です。キリストが地上にあるあいだ行われた奇蹟を見るとき,私たちは,御国の準備の下で人間が楽しむ更によい完全な生命のことを考えます。地上のキリストが病気の人をいやし,盲人の眼を開き,死人さえも甦えらせたのであるなら,天にも地にもすべての力を持つキリストは御父の御心に従つて完全な新しい世をたしかに作ることができます。

      24,25 救いの軌跡はいつ起こりますか。神の真の僕たちは何を待ち望んでいますか。

      24 ハルマゲドンの戦いのとき,大きな奇蹟の救いがなしとげられるでしよう。そのとき,ヱホバは悪しき組織制度を完全に滅ぼされ,それと同時に忠実な人々の生命を守ります。ヱホバはそれらの人の愛のある親切な行いのゆえに彼らを記憶されます。今日,忠実を守る神の僕たちはネヘミヤと同じように感じています。私たちは神の民を清める時に生きているからです。ネヘミヤは語りました,『わが神よ此事のために我を記念い給え。我が神の室とその職事のために我が行いし善事を拭い去り給わざれ』― ネヘミヤ 13:14。

      25 神の真の僕すべてが望むことは,正しい崇拝をつづけ,忠実を保つてハルマゲドンの戦いに贖われる,すなわち救われることです。彼らの望みは,不和,戦争,利己主義,腐敗がもはやない時,そしてすべての人がヱホバ神を讃美し,ヱホバ神を祝福する時が来るのを見ることです。全能の神の大いなる日の戦い ― ハルマゲドンの後に,そのことは完全に見られるでしよう。すべて真のクリスチャンは,信仰によつてその幸福な日を待ち望み,それを目ざして励み努めます。しかし,その日の標準に従つた生活をいま始めるのです。

      26 国々は互にどんな態度をとつていますか。このような態度は,なぜ愚かなものですか。

      26 すべての人は諸国家の中にあつて苦しい世界に旅をつづけています。諸国家は憎みあい,そのすべては全く国家主義的で自分の国が他のどの国よりもすぐれていると考えているのです。自分の国だけが存続する権利を持つとさえ考えている国があり,従つて彼らは他の国家を滅ぼそうと狙つています。なぜ,人間は皮膚の色,言葉,体の大きさの違いを越えて隣人と一つになることが出来ないのですか。私たちすべての創造主は御一人であり,私たちはすべて兄弟であつてアダムとエバの子孫なのです。そしてすべての人はやがて唯一の神を崇拝するのです。私たちは唯一の神を見出さねばなりません! 神の言葉,聖書をひもとき,神について読むなら見出すことができます。ヱホバの証者は人々にヱホバを知らせようと真心をもつて努力しています。そして,知らせることができるなら,神を知るようになつた人々が間近い新しい世において幸福な新しい生命を得ることになるのです。

      27 ヱホバの証者にとつて,今はどんな時ですか。

      27 忠実を守る男女が『平坦なるところ』に立つ時は今です。それは開けた場所であつて,つまづく恐れはもはや無く,真の崇拝をつづけることの出来るところです。ゆえに神の民のすべてと共に,全く幸福な彼らはダビデと同じように言えるのです。『わが足は平坦なるところに立つ,われはもろもろの会のなかにてヱホバを讃めまつらん』― 詩 26:12。

      28 この心の態度を持つヱホバの証者は,世界の有様についてどんな見方をとりますか。彼らはどのように確信を示しますか。

      28 今日,ヱホバの証者は164の違つた国,土地,海洋の島々に散らばり,良いたよりの伝道者は70万人以上を数えています。彼らは平らなところに立つており,この悪しき組織制度が最終的に滅ぼされて神の正義の新しい世が全く設立されるのを待ち望んでいます。その日がくるまで,彼らは集まつた群の中にあつて平らなところに立ち,ヱホバを讃美します。悪しき者の手によつてどんな災や迫害が来ようとも,彼らはこう言いつづけるでしよう,『されどわれはわが完全によりてあゆまん』(詩 26:11)彼らは地のはてにまで行き家から家に歩いて伝道するばかりでなく,人々の家に招じ入れられた時には,そこで人々に真理を教えます。彼らの願いは全国民の中から正義を愛する羊のすべてを集めて,その人々もまた集まつた群の中でヱホバを讃美するのに加わることだからです。これらの人々も自分が真直ぐであるという確信を得なければなりません。1958年のあいだ,あなたの忠実のうちに歩んで,あなたはこれらヱホバの讃美者の一人となりますか。

  • 確信をもつて教えるための資格を備える
    ものみの塔 1958 | 2月15日
    • 確信をもつて教えるための資格を備える

      1 機会が許すに従つて,ヱホバの証者は喜びを与えるどんな事をしますか。

      良い音信から本当の慰めと心の喜びを得たとき,大抵の人はその知つている事を他の人に話したいと望みます。神の言葉に頼つて,それを注意深く研究したヱホバの証者は,神の言葉が良いたよりに満たされていることを見出しています。聖書の66の本,創世記から黙示録までの神の言葉を研究すればするほど,この良いたよりは益々明らかとなつて彼らの心を喜ばせます。クリスチャンは神の御国の良いことについて他の人に話す機会を得るとき,本当の喜びを得ます。人に理解させるために争う必要はないと,使徒パウロは述べています。むしろ,注意深く,そして巧みに表現しなければなりません。教える者は聞く人に新しい事柄を教えようとしているのです。このわけで,パウロはテモテに書き送つたとき,こう述べました,『主の僕たる者は争つてはならないだれに対しても親切であつて,よく教え,よく忍び』― テモテ後 2:24,新口。

      2 伝道について,昔はどんな意見がよく言われましたか。この見方は今どのように変りましたか。

      2 悪魔の組織の終りの日にあつて,個人的に教えることはヱホバの証者の大きな業です。1918年いらい40年間にわたつて,ヱホバの証者は神の御国の良いたよりを伝道してきましたが,今日では益々大きな責任が課せられているのです。それは神の御国について人々に教えるということです。過ぎ去つた時代には,次のような見解がありました。つまり,御国について二,三の言葉を述べ,ハルマゲドンの戦いのことを人々に語りさえすれば万事は足りる,それで証言をしたという意見です。しかし,今日の人々は,神の言葉を全く知らず,暗やみの中に閉じ込められてきたため,聖書の中に何があるかを人々に思い起させるだけではなくて,それ以上のことが必要です。招じ入れられたときには,人々の家の中に入つて,家の人の聖書を用いながら聖書には何が書かれているか,また人類の唯一の希望である神の御国の真理を何処に見出すかを実際に示すことが必要なのです。ヱホバの証者が今日それほど熱心に伝道し,人々を教えているのも,尤な理由があるのです。彼らが家から家に行くことは,聖書から支持されています。(使徒行伝 5章42節,20章20節を見て下さい)また,詩篇 96篇2節の聖句は日毎にそれをすることを命じています,『日ごとにその救をのべ伝えよ』それは確かに良いたよりです。それは地上のすべての人を祝福して健康な生活と楽園とを与える神の御国を知ることです。

      3,4 (イ)この組織制度の終りの兆について弟子たちが質問したとき,イエスはどのように答えられましたか。(ロ)イエスの御命令を今日,遂行しているのは誰ですか。

      3 このような音信を持つヱホバの証者は,毎日あるいは毎週できるだけ何回も家から家に行つてヱホバが人類のために備えられた救いを告げたいと望んでいます。ダビデは当時の人に伝道することを意図しましたが,イエスは地上にあつた間,伝道することを強調されました。イエスは弟子たちに対して,彼らのなすべき事を極めて明らかに告げられています。マタイ伝 24章には,弟子たちがイエスの許に来て,この世の終りのしるしを尋ねたことが記録されています。弟子たちはこの事に深い興味を持つていました。それで,イエスがエルサレムの直ぐ外のオリブ山の山腹に坐つておられた時,4人の弟子はひそかにイエスの許に来て言いました,『お話しして下さい。これらのことは何時起るのですか。あなたの臨在とこの組織制度の終りの兆はどんなものですか』― マタイ 24:3,新世。

      4 そこでイエスは,この組織制度が終極に達する終りの時の地上の状態,またイエスの見えない再臨在を確信させるどんな出来事が見られるかについて,彼らにくわしく説明されました。戦争,疫病,ききん,人々の間の非行,諸国家の同盟が作られることなど数多くの事柄の中でも,イエスは極めて顕著な出来事が御自身の人々だけでなく全世界の人に認められるであろうと言われました。それはこの事です,『そしてこの御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである』(マタイ 24:14,新口)ヱホバの証者,クリスチャンの組織が外のどの宗教組織よりも活発に御国の良いたよりを宣べ伝えてきたという事は今日否定できません。事実を前にして憚らずに言うなら,人類の唯一の希望として神の御国を宣べひろめ,また,宗教の支持と商業の支援を得た政治的組織に頼る今日の人間のすべての努力が失敗することを宣明しているのはヱホバの証者だけなのです。神の御国こそ人類を祝福する唯一のものであることを全世界に宣明しなければなりません。私たちはそう考えます。この伝道の業が成し遂げられたときに,この組織制度の終りが来るとイエスは言われました。

      5 真のクリスチャンはマタイ伝 28章19,20節にあるどんな命令に従いますか。その結果,彼らはどんな確信を示しますか。

      5 イエスは昇天の直前に極めて明確な命令を弟子たちに与え,こう言われました。『それゆえに,あなたがたは行つて,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によつて,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいつさいのことを守るように教えよ。見よ,わたしは世の終りまで,いつもあなたがたと共にいるのである』(マタイ 28:19,20,新口)たしかにキリスト・イエスはいま御自身の民と共におられます。そして御国のこの良いたよりが伝道され,教える方法によつて弟子とする業が全地に遂行されるように導かれているのです。人々は教えを受けつつあります。人々は御国について伝道を受けるだけでなく,その家で研究が取極められて神の言葉を教えられます。パウロはテモテに告げました,「あなたは教える資格を備えねばならない」それで,同じことをするため,ヱホバの証者は自ら備えなければなりません。クリスチャンの各個人は少しでも早く教える者となるのですから,聖書をよく知らねばなりません。よい業と研究と奉仕によつて自分自身の忠実を立証しなければならないのです。そしてダビデのように何時か次のことを言い得なければなりません。『ヱホバよねがわくはわれを裁きたまえ,われわれが完全によりてあゆみたり』

      教える者には忠実が要求される

      6 ヱホバの証者は,どのように忠実を証明しますか。彼らはどんな種類の人々を探し求めていますか。

      6 今日,ヱホバの証者の一人一人は忠実を証明しなければなりません。ヱホバ神とヱホバ神の地上の制度に対して各人が個人的に持つ責任とは,最後の終りが来る前にこの伝道と教える業をなし遂げることです。ヱホバの証者は今日最も早く成長する宗教組織であると言われてきました。そうであるとすれば,なぜですか。これは彼らが最も早く成長する宗教組織になろうと努めているからでない事はたしかです。しかし,これが真実であるとすればその理由は彼らが責任を担い,それを受け入れるからです。その責任とは神の群の羊をすべて集めることです。真理と正義を愛する人々,血を流す者と共に生命を取り去られることを望まず,悪い行いの者と交わることを望まない人々は,ヱホバの真の民を求めようとしています。世に行われる憎むべきことのために歎き悲しむこれらの人を見出そうとして,ヱホバの証者は一生懸命に努めているのです。その人々を見出すために,彼らは家から家に行かねばなりません。そして,くる年もくる年も何回となくそうするのです。家主や旅館の所有者がヱホバの証者の入ることを許さない孤立した処に住むのでなければ,ヱホバの証者はあなたの家を既に何回も訪問したかも知れません。しかし,ヱホバの証者があなたの家に行くことができて,迎え入れられるならば,あなたにお話しするでしよう。しかも,心から喜んでそうすることは間違いありません。

      7 ダビデが感じた責任を,今日のヱホバの証者はどのように感じでいますか。彼らは誰の手本に倣つて伝道しようと努めていますか。

      7 ヱホバの証者はダビデが感じたと同じ責任を感じています。それは忠実を保ち,悪に反対して義のために固く立つこと,人類を堕落させるこの古い組織制度と交わらないという事です。手に聖書を持ち,聖書によく通じているヱホバの証者は,教える備えができていると自ら感じており,それゆえに人々の家に入つて聖書の知識を教えようと努めるのです。同時に,彼ら自身も会衆の集会において研究しつづけ,教えるためのより良い資格を備えます。彼らの指導者イエス・キリストは地上で古今最大の教える人であつたことを,彼らは心に留めています。イエス・キリストは弟子たちの心の中に真理を教え込むことができました。イエス・キリストの言われたことは聖書によつて支持されていたゆえに,聞いたことを強く確信した彼らはイエスを信じたのです。彼らはイエスの弟子になりました。

      8 キリスト・イエスの生徒は,どんな要求に適わねばなりませんか。忠実を守る人は今日大勢いますか。

      8 キリスト・イエスの追随者は彼の誠実な生徒であつて,教える人の言葉を知ろうと願わなければなりません。教える人の考えを悟るために,生徒は教訓を与える人に興味をもち,その人を愛さねばなりません。教訓を与える人に機会があつてその熱心な生徒と長く一緒にいるなら,その生徒は間もなく教訓を与える人に似て同じ話し方,同じ生活の仕方をするようになります。キリスト・イエスの弟子にまさしくこの事が起りました。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。……わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい」と言われたとき,イエスは生命のすべての難事と問題については時間をかけて弟子たちに説明し,御自身が世に勝たれたように弟子たちが世に勝つのを助けることを意味されたのです。(マタイ 11:28,新口)忠実を守る人はごく僅かです。しかし,地上には何時もヱホバの真の証者が幾人かいました。ヱホバの証者に機会を与え,彼らがあなたの家に来て話し,カトリック,新教,ユダヤ,あるいはどの翻訳であつてもあなた自身の聖書を用いてあなたと一緒に研究することを許すなら,あなたは御自分の問題,人類のすべての問題に対して聖書に解答があることを知るでしよう。

      9 真のクリスチャンの採るべき積極的な態度について,詩篇 25篇4,5節は如何に示していますか。知識を求める人々に対してどんな申し出がなされていますか。

      9 しかし,あなたは10分間ですべての事を理解しないでしよう。といつても,あきらめないで下さい。時間をかけてヱホバの証者と研究し,すぐには教えに同意しなくても,せめて知識を得て下さい。それでダビデのような態度を持たねばなりません。ヱホバよなんぢの大路をわれにしめして,なんぢの道を我に教えたまえ。我をなんぢの真理にみちびき我をおしえたまえ,汝はわが救いの神なり』(詩 25:4,5)ヱホバの証者に機会を与えて下さい。そうすれば1週間に一度,1時間か1時間半のあいだ,あなたの御都合のよいときにあなたと聖書を研究するため,ヱホバの証者はあなたの家に参ります。さつそく聖書の研究にとりかかつて下さい。研究するとき出て来る聖句を調べて下さい。そうすれば6ヵ月の間に驚くほどのことを学ぶでしよう。しかも,研究は無料です。ヱホバの証者とまだ研究したことがないなら,あるいは研究したことがあつても今は止めているのを再び始めたいと思われるならば,東京都港区芝三田豊岡町一番地,「ものみの塔聖書冊子協会」にハガキを出して『聖書研究を望みます』と知らせて下さい。そうすれば,間もなく誰かが訪問して,あなたがヱホバの御言葉を学ぶのを助けるでしよう。あなたを探すことができるように,御名前と住所を忘れずに知らせて下さい。自分自身の家でヱホバの証者と研究した何十万人の人々は真理を学び,今はキリスト・イエスの追随者となつてヱホバ神の真の崇拝を行つています。

      10 イエスの教えはなぜ新しいものではありませんでしたか。忠実を守る人々に与えられる報いは何でしたか。忠実を守らない人々には?

      10 イエスが地上を歩んで教え始められたとき,多くの人は新しい教えと言いましたが,新しいことではなかつたのです。イエスは律法の真髄を人々に伝えられたのです。それは,神を愛せよ ― 隣人を愛せよ,ということでした。イエスは永遠の生命への道を人々に示されていたのです。イエスはすべての人,すべての民族,すべての部族,国語の人のために道を開かれていました。神の言葉の真理すなわち神の律法はもはやイスラエル民族だけに限られることなく,間もなくすべての人に機会が与えられようとしていました。イエスは律法を毀つために来たのではなく,かえつて律法を成就し,その価値をすべての人に示すために来られたのです。イエスは神の言葉を十分に悟り,神の言葉によつて生活されました。それで次の事を言われたのはイエスでした,『それだから,これらの最も小さいいましめの一つでも破り,またそうするように人に教えたりする者は,天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし,これをおこないまたそう教える者は,天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言つておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさつていなければ,決して天国にはいることはできない』― マタイ 5:19,20,新口。

      11 学者,パリサイ人の行いは何を表わしていましたか。今日彼らに似ているのは誰ですか。なぜ?

      11 弟子たちを訓練したイエスは,ヱホバの戒めを守りそれによつて生活することを弟子たちに教えました。学者,パリサイ人の教えと生活を観察したイエスは,彼らが神の言葉の教えよりも,彼ら自身また他の人間の伝説を提唱しているのを見ました。むかし遣わした予言者を通してヱホバは彼らに神の言葉を書き与えられていたのです。今日のキリスト教国についても同じことが言えます。キリスト教国の宗教教職者は人々に聖書を教えていません。彼らは自分自身の伝説,自分自身の考えを持つており,殆んど全部の牧師は神の御国よりも国際連合を指して人類の唯一の希望であると言うことでしよう。この一事だけを見ても,彼らは人類を神の言葉からひき離したのです。彼らはヱホバとヱホバの御子とヱホバの御国を拒絶しました。それゆえに,彼らはもはやクリスチャンすなわち神の言葉の奉仕者であると称えるべきではありません。彼らは『決して天国にはいることはできない』のです。

      12 キリスト教国は真理をあいまいなものにしてしまつた故に,本当の真理を求める人は何をすることが必要ですか。

      12 キリスト教国は聖書の真理を極めてあいまいなものにしてしまつたため,クリスチャンと名乗る各人が真理とは何かを理解することは困難となつています。イエスは言われました,『わたしは真理についてあかしをするために生れ,また,そのためにこの世にきたのである』(ヨハネ 18:37,新口)ゆえに,聖書に帰り,真理を見出しなさい。人間の伝説に聞くのではなくて,各個人が神の言葉そのものに頼り,聖書が何と述べているかを知ることは極めて必要です。クリスチャンの教えの最初の源にまで辿りなさい。すぐれた奉仕者でキリストの追随者パウロがエペソの会衆に与えた助言に従つて下さい。彼は述べました,『そこで,わたしは主にあつておごそかに勧める。あなたがたは今後,異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり,その内なる無知と心の硬化とにより,神のいのちから遠く離れ,自ら無感覚になつて,ほしいままにあらゆる不潔な行いをして,放縦に身をゆだねている』― エペソ 4:17-19,新口。

      ヱホバに教をうける

      13 永遠の生命を得るための要求を大要しなさい。

      13 イエスはすばらしい教師でした。そして教える業をどのように遂行するかを弟子たちに教えられました。第一に,何時も聖書を用いなさい。そのようにして,真の神のヱホバについて人々に教えることになります。人が永遠の生命を得るためには,生命の創造主である父と父の教えを学ばねばなりません。その教えは彼御自身の御言葉,聖書の中に示されています。ヱホバは聖書を書かせて私たちの時代まで保存されました。それは私たちの教訓と教えのためです。イエスは言われました,『私を遣わされた御父が引かないならば,何人も私のところにくることは出来ない。私は終りの日に彼を復活させる。予言者たちの書に「彼らはすべてヱホバから教えられるであろう」と録されている。父の教えを聞き,知つた者はすべて私のところに来る』(ヨハネ 6:44,45,新世)これから分るようにヱホバが先ず言われることを聞き学ぶことは極めて必要です。そして,ヱホバの言われることを聞くには,ヱホバの御言葉を読み,研究しなければなりません。人がヱホバ神の教えを学ぶとき,その人は当然にキリスト・イエスに導かれます。そして聖書から学んだゆえに,その人はキリスト・イエスが人類の唯一の贖い主であり,キリスト・イエスは御自身の犠牲の価値によつて生命を与え得る方であることを知ります。キリストは『(信ずる者)を終りの日によみがえらせる』でしよう。―ヨハネ 6:54,新口。

      14 今日のクリスチャンにとつて価値あるどんな助言を,パウロはテモテに与えましたか。

      14 クリスチャン宣教を始めた人が,後になると自分に従う人々を真の神,ヱホバ崇拝からひき離す者があることを,パウロは悟つていました。それゆえにパウロは助言したのです,『されど妄なる話と老いたる女の昔話とを捨てよ,また自ら敬虔を修行せよ。体の修行もいささかは益あれど,敬虔は今の生命と後の生命との約束を保ちて凡ての事に益あり。これ信ずべく,正しく受くべき言葉なり。我らは之がために労し,かつ苦心す,そは我ら凡ての人,殊に信ずる者の救主なる活ける神に望を置けばなり。汝これらの事を命じ,かつ教えよ』― テモテ前 4:7-11。

      15,16 (イ)知識を得る唯一の方法とは何ですか。ヱホバの証者と聖書を研究することはどんな価値がありますか。(ロ)ある人々はなぜヱホバの証者と研究することを止めますか。それでも,ヱホバの証者がクリスチャンの原則を曲げて妥協できないのは何故ですか。

      15 敬虔を目ざして自分を訓練する唯一つの方法は,神の言葉を研究することです。人が聖書を読み,聖書の研究に訓練を積んだ他の人と一緒に注意深く研究するとき,その読んだことは信ずべく,正しく受くべきであることが分るでしよう。ヱホバの証者が一生懸命に働き,励んでいるのは,彼らが望みを保ちまた他の人々の生活の中にこの希望と信仰を建て起すためなのです。人々と一緒にその家庭で研究するヱホバの証者は,たとえ聖書の真理が人の個人的な考えと衝突しても神の戒めに固くつき従い,それを教えます。神の正義の律法は学ぶ人個人にとつて,時に心を乱すものであり,その人々は研究をやめます。研究するなら大きく生活を変えなければならないと言うので,研究しようとしないのです。しかし,私たちはその人々と妥協して,しかも引き続き確信をもつて教える資格を保つことはできません。

      16 『義は不義とどんな係り合いを持つのか。光は暗やみとどんな交わりを持つのか。キリストとベリアルとなんの調和があるか,信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。私たちは,生ける神の宮である。神がこう仰せになつている,「私は彼らの間に住み,かつ出入りをするであろう。そして私は彼らの神となり,彼らは私の民となるであろう。」だから,「彼らの間から出て行き,彼らと分離せよと,ヱホバは言われる。そして汚れたものに触れてはならない。」「そうすれば私はあなた方を受け入れよう。」「そして,私はあなた方の父となり,あなた方は私の息子,娘となるであろう。」全能者なるヱホバがこう言われる。』(コリント後 6:14-18,新世)ヱホバから教えを受ける人々を,ヱホバは受け入れて彼らの父となり,彼らは永遠の生命を得ます。これ以外に,永遠の生命を得る道はありません。神の言葉を求めてそれを読みかつ学び,弟子となることが早ければ,それだけ早く人は慰めと喜びと祝福を得ます。そして,敬虔な献身のために訓練しているのです。パウロがテモテに語つたように,それは『今の生命と後の生命との約束を保ち』ます。

      17 教える者となるまでには,どれ位長く待たねばなりませんか。

      17 今日,神の言葉の真理を未だ何百万の人に教えねばなりません。それにひきかえ,教える資格を備えた奉仕者は十分にいないのです。ヱホバの証者の多くは真理に新しく,他の人を教えるという責任をまだ引受けていません。家から家に伝道していますが,教える者の務めをまだ引受けていないのです。教える者となるには,どれほど長く待たなければなりませんか。それを決めるのは難しいことではありません。神の言葉の基礎の教えを知るならば,少くともその真理を早速他の人に教え始めるべきであると,パウロは示しています。その人が円熟するにつれて,進んだ研究においても他の人を援助できます。しかし,それ以前にも教える者となれるのです。野外で証言する際に会う他の人が,神の言葉について何も知らないか,あるいは僅かしか知らないとき,新しい御国奉仕者は教科書として聖書を使いながら,自分の知つているだけの事を少くともその生徒に教えることができるでしよう。

      18 (イ)怠けて教えることをしなかつた当時の人々を叱つて,パウロはどのように言いましたか。(ロ)このことは今日のクリスチャンにあてはまりますか。

      18 知識を持つていても,知つていることを他の人に告げることをしなかつた人々に対して,パウロは極めてはつきりとこう告げました,『あなたがたは,久しい以前からすでに教師となつているはずなのに,もう一度神の言の初歩を,人から手ほどきしてもらわねばならない始末である』(ヘブル 5:12,新口)この事について,あなたはどれほど長い間,ヱホバの証者の一人,すなわちクリスチャンであると主張してきましたか。クリスチャンであると公けに言う人で,円熟の域に達してクリスチャンの教えに成長しているなら,今では教える者となつているべきです。「牧師が私の代りに聖書を研究してくれます」と言つて,クリスチャンが自分の責任を避けることはできません。キリスト教国の牧師は会衆の監督であると主張していますが,パウロはこのような監督に対して語つているのではありません。パウロは,クリスチャンであると公けに言うすべての人に話しているのです。あなたは神の言葉を他の人に教えていますか。『あなたがたは,久しい以前からすでに教師となつているはず』であると,パウロは述べています。あなたは既に長い間,神の会衆に行つていますから,真理とは何かを知つているはずです。では,なぜ他の人に真理を教えていないのですか。それで,ヱホバの証者にあてはまることは,キリスト教国のすべての人にも適用されます。彼らは神の御国のこの良いたよりを伝道して教えるべきだからです。さて,あなたは神の会衆と一緒に学ぶことによつて円熟に進んでいますか。そして,あなたの会衆の外にいる他の人のところに毎週行き,あなたの学んだ事をその人々と共に研究していますか。

      神の命に従つて教えること

      19 議会の宗教家たちは,なぜ使徒たちの伝道に反対しましたか。これは使徒たちにどんな影響を与えましたか。

      19 ヱホバの証者は良いたよりを伝道しているゆえに,世界の多くの場所でヱホバの証者を圧迫する迫害が起つています。しかし,迫害のために彼らが不活溌になることはありません。ペテロも彼の時代において,非常に熱心に神の御国の良いたよりをひろめました。病気の人々をいやし,また伝道したために,ベテロは投獄されたのです。当時の宗教家,すなわち議会<サンヘドリン>は,使徒たちがキリスト・イエスについて人々に教えることに強く反対しました。使徒たちが人々に聖書の教育を与えて建設的な業を行つたゆえに,宗教家たちは『彼らを呼び一切イエスの名によつて語り,また教えざらんことを命じたり』(使行 4:18)しかし,使徒たちは人に指図されたからといつて,伝道を止めませんでした。支配者が使徒たちを投獄したとき,使徒行伝 5章20節の記録が示すように,ヱホバの天使は牢獄の扉を開いてこう告げました。『さあ行きなさい。そして,宮の庭に立ち,この命の言葉を漏れなく,人々に語りなさい。』初期の使徒たちに対するヱホバの天使の言葉は,今なお神の言葉の一部であつて,今日のクリスチャンにも等しく適用されます。この生命と来るべき生命に関する言葉は,今なお地の極にまで宣べ伝えられねばなりません。当時の宗教家はその言葉が宣べ伝えられることを望みませんでした。それは彼らの仕事の妨げとなつたからです。朽ちつつある既成の宗教から離れて,キリスト・イエスの新しい真実の宗教に従う人々は余りに多かつたのです。

      20-22 (イ)使徒行伝 5章29節において,ペテロと使徒たちは従順に関するどんな原則を述べましたか。また詩篇 26篇11節においてダビデは?(ロ)ヱホバの証者は,今日どのようにこの原則に従いますか。彼らは確信をもつて伝道する資格があることをどのように示しますか。

      20 使徒たちが牢獄にいないことが分つて後,彼らは『宮の庭に立つて,民衆を教えていることが報告され,彼らは直ちに急いで議会<サンヘドリン>に連れてこられました。聖書の記録はこう述べています,『彼らを連れてきて,議会の中に立たせた。すると,大祭司が問うて,言つた,「あの名を使つて教えてはならないと,きびしく命じておいたではないか。それだのに,なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を,はんらんさせている。あなたがたは確かに,あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと,たくらんでいるのだ」。これに対して,ペテロをはじめ使徒たちは言つた,「人間に従うよりは,神に従うべきである」(使行 5:27-29,新口)使徒たちは支配者を恐れなかつたのです。彼らが神から受けた命令は,教え,伝道することでした。彼らはダビデが予影したイエスのようでした。ダビデは言いました,『されどわれはわが完全によりてあゆまん』(詩 26:11)彼らは言葉と手本によつて誠実さを教えた立派な人々でした。キリスト・イエスを手本として,彼らはひるむことなく,人々の心と思いを固定した偽善の古い宗教から,真理と生命の言葉,神の御国が人類の唯一の希望であることを彼らに教えた宗教へと立ち返らせたのです。

      21 使徒の時代と同じことが今日でも起つています。ドミニカ共和国の支配者は,カトリックの牧師の手引きによつてヱホバの証者を殴打した上に投獄しました。それはヱホバの証者が御国の良いたよりを伝道しているからです。ポーランドをはじめ鉄のカーテンの背後の国々の支配者は,共産主義の教義と牴触するというので真理を宣明してはならぬと言います。それでもヱホバの証者は使徒たちが当時に伝道したと同じ方法で伝道することを止めません。必要ならばヱホバの証者は地下に入つて伝道と教える業を続けます。彼らは人間よりも神に従うのです! ヱホバの証者が自由に伝道する機会のある国々においてさえ,その業は宗教指導者の手によつてしばしば反対に遭います。これらの悪しき者がヱホバの真理の宣明を妨げようと欲するなら,彼らはヱホバの裁きをも受けるべきです。

      22 しかし,真のクリスチャンは神の言葉に従います。それで口をつぐむことをせず,かえつて教える資格があることを自ら証明します。彼は神の会衆の群の集りに行きつづけ,そこで熱心に学んで研究します。それは確信をもつて他の人に真理を伝えるより良い資格を備えるためです。彼はキリスト・イエスの足跡に従つて歩み,伝道し,教えねばならないと知つています。彼は神の言葉に忠実でなければならず,また,ヱホバの御命令を最後まで成し遂げねばなりません。そして,すべてのよい業に備えをなし,教える資格を持たねばなりません。また,初期の弟子たちと同じく御国の宣明に熱心であつて,自分自身の忠実を証明しなければならないのです。

      23 人が真のクリスチャンになるのを助けるものは何ですか。その目的のため,ヱホバの証者はどのように援助しますか。

      23 使徒たちが当時に御国を伝道した方法と,今日ヱホバの証者がその業を行う方法とは何ら相異していません。信仰復興運動,巨大な教会の建設,政治家を動かす宗教家たち,異なつた宗派を一つに合わせることなどによって,国がクリスチャン国家になる訳ではありません。これは人々がヱホバの御目的を理解する上に助けとはならないのです。そうではなく,家から家に行き,憎むべきことのために歎き悲しむ人々を探し出して真理を教えるとき,人々は宗教についての考えを変えます。真のクリスチャンが知らない人の家に行き神の言葉からの慰めを与えることによつて,クリスチャンは効果を収め,その人は生活の仕方を変えるでしよう。力を合わせることによるのではなく,真理がそのことをします。この事を心に留めて下さい,『主の僕たる者は争つてはならない。だれに対しても親切であつて,よく教え,よく忍び,反対する者を柔和な心で教え導くべきである』― テモテ後 2:24,25,新口。

      24 他の人を教えるという点で,偽りの宗教家の用いる方法はクリスチャンの用いる方法とどのように比較できますか。

      24 過ぎ去つた昔には,一つの国が興つて他の国に戦いを挑み,宗教戦争によつて人々の宗教を変えようと図つた事が時にありました。権力者と同じことを人々に信仰させようとして,世界の各地で宗教家は異端審問所を開きました。宗教家たちはインド人また異なる信仰を持つ他の人々に,迫害者の信仰を強制しようとしてきました。パウロは決してそれらの方法を用いず,キリスト・イエスもその事を意図されませんでした。初期クリスチャンは,人々と一緒に坐り,巧みに,我慢強く,静かにまた謙遜に神の言葉を人々に話して真理を教えるという簡単な方法を用いました。柔和に教え導くなら,悪く導かれている人にも真理を教えることができます。聖書に反対している人々でさえも,巧みに近づくなら神の奉仕者に聞くでしよう。

      25 ヱホバの証者はひきつづき何をしますか。真理を求める人々は何をするように励まされていますか。

      25 ゆえに,今日ヱホバの証者は終りが来るまでこの良いたよりを証しのため全世界に伝道しつづけようと努めます。そして,このすべての期間を通して,彼らも次のことを言えるでしよう,『ヱホバよ,ねがわくはわれを裁きたまえ,われわが完全によりてあゆみたり。』神の言葉を彼らと共に学び,聖書から得る知識を実際に用いて下さい。そして賢い人々と共にいて,あなた自身が賢くなって下さい。その場合,あなたは次のことを確かに知るでしよう。すなわち,愚かな者の友となる者は悪くなりますが,知恵はそれを見出す者にとつて生命の木となるという事です。あなたは生命を愛し,天の御国の下にある神の新しい義の世界に住みたいですか。それでは,『平坦なるところに立ち,もろもろの会のなかにて』ヱホバを讃めなさい。そのとき,あなたは何時も次のように言うことを決意するでしよう。『されどわれはわが完全によりてあゆまん』。

  • 異端者の取扱い
    ものみの塔 1958 | 2月15日
    • 異端者の取扱い

      トーマス・アクイナスは,13世紀の人でローマ・カトリック教会の有名な哲学者です。彼の著「サマ・セオロジー」は興味あることに今日でもローマ・カトリックの標準の権威書として不動の地位をしめていますが,異端者の取扱いに関して,質問12の3条,2a,2aeで次のように論じています。『魂に生命を与えるところの信仰を腐敗させることは,一時的な生命を支えるところの貨幣を偽造するよりも遙かに由々しいことである。ゆえに,貨幣偽造その他の悪人が世の支配者によつて直ちに,正当な死に渡されるとすれば,異端者はその異端の罪が証明され次第,破門に留まらず,殺されるのは全く当然であろう。』

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