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共同社会即ち会衆の関心事ものみの塔 1956 | 10月15日
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かたのみわざを,あなたがたが語り伝える。』(ペテロ前 2:9,新口)会衆のこの事柄を為す彼らは,ヱホバの御名の偉大さと卓越さをよろこんで語り告げます。この理由のために,会衆は道徳的にも霊的にも清めを保つことに最大の関心を払います。それは,生ける神ヱホバの御名をそしりを受けずに正しく負うためです。
13 どんな悪い行は,清めを保つ会衆の関心事に反しますか,そしてなぜですか。どんな聖書の例を想い起しますか。
13 会衆は汚い事柄をひとつもすることができません。また古い世の社会の不道徳な行や,異教の習慣をも取入れることができません。これらのものは,汚いものとして全く棄てられています。正しくない性関係を結ぶこと,不道徳な行,泥酔,盗み,偽り,そして詐欺などをする者は,共同社会の汚れるのを避けるため即時に会衆から除名されます。(ユダ 4-10)真のクリスチャンは,自分の結婚配偶者以外の者とは性関係を持ちません。結婚配偶者以外の異性の者と性関係を持つたり,同性の者と性関係を持つことは極めて悪しきことであり,嫌悪を催すものです。誤りの考を持つ或る人々は,そのような行は各個人に属する事柄である,と主張します。しかし,そのような下卑た行は,決してそうではありません。そのような行には,二人かそれ以上の者が係り合いを持つ故,これは道徳的の清めを保つという会衆の関心事を直ちに破るものです。それで,直ぐに除名することが必要です。(ロマ 1:26,27)ヱホバの証者は,聖書の例を覚えています。ベニヤミンの族は,ギベアの性犯罪者を切り絶たなかつたため,全支族の上に共同社会の責任が負わされたのです。全支族はほとんど根絶してしまつたのではないかと思われる程に罰せられ,2万5000人の男は殺されました。(シシ 19:1,25,27-30; 20:39-48)ヱホバの証者は,又コリント会衆にいた淫行者の例をも覚えています。コリント会衆はその者を除名しなかつたために,神の怒りをうけました。しかし,パウロはその者を直ぐに除名をするよう命じたため,全会衆は全く棄てられずに済んだのです。―コリント前 5:1-4。
14 人が共同社会の関心を破る時,それはどのように見なされますか。それについては何がなされるべきですか。そしてなぜですか。
14 人が共同社会の事柄を破つたり,会衆の関心事について悪の道を歩むなら,その者は過失を行つていることになります。それで,もしその事態を正しく処理しないなら,全会衆は汚れに染まり,神の怒りを受けます。すこしの悪しきパン種は,パン全体すなわち会衆を駄目にする,という聖書の譬は,正しい譬です。丁度,籠の中に悪いリンゴが一つあると,もし取除かれないなら,籠の中のリンゴ全部を駄目にするのと同じことです。このために,会衆内の義しい僕たち,つまり支配者たちは,良く注意を払つて直ちに処置をなし,会衆の清さを保たねばなりません。更にいくらかの聖書の例があります。悪しき者がすぐに取除かれないなら,会衆の責任が問われ,群全部が罰せられたのです。―レビ 20:1-5。民数紀略 16:19-35。申命 21:1-9。ヨシュア 7:1,11-26を見なさい。
良い価値を建起す
15,16 (イ)人が会衆の関心事を建起すと何が起りますか。(ロ)良い価値の設立されたことについて聖書の例を述べなさい。
15 これとは反対に,会衆の忠実な人々が良い道を行つて会衆の関心事を進歩させるなら,これらの人々は会衆の良い価値に貢献していることになります。これは,会衆に交つている者すべてに,祝福,繁栄,拡大,そして幸福という報いをもたらします。会衆の良い価値についての幾らかの興味深い例を考えてごらんなさい。神権的な善の道を追い求めた人々がその会衆の価値に貢献したのです。イザヤは次のことを予言しました。忠実なユダヤ人の残れる者の義によつて十分の良い価値がつくられたため,ヱホバはイスラエルをユダの地に復興し,キリスト前537年に神権的な崇拝をなさしめ,そしてユダは,ソドムとゴモラのように永遠に荒廃することにならない,というのです。(イザヤ 1:9; 10:22)ひとりの正義の僕が良い価値を建てるなら,都全体が救われるかも知れない,とエレミヤは示していました。エレミヤは次のように記録しています,『汝らエルサレムの邑をめぐりて視,かつさとりその街を尋ねよ。なんじらもし一人の公義を行い,真理を求むる者に逢わば我これ(エルサレム)をゆるすべし。』(エレミヤ 5:1)同様な事はエゼキエル書 22章30節に記録されています。
16 ギリシャ語聖書の中には,ヱホバの僕たちの設立する共同社会の良い価値が更に論ぜられています。使徒パウロの義は,良い価値を生じて神より認められ,難船した時でもパウロの舟に同乗していた276人の乗客を救うことができたのです。『パウロよ,恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は,あなたの為に同船の者をことごとく救われた。』(使行 27:24,37,新世)現在の終の日について,イエスはこう言われました,『もしその期間が縮められないなら,救われる者はひとりもないであろう。しかし,選民(彼らは1919年に自分の足らざることを悔改めた油注がれし残れる者の良い価値)のためには,その期間が縮められるであろう。』― マタイ 24:22,新口。
17,18 (イ)ヱホバの証者の奉仕者は,どのように一緒に働くべきですか。そしてなぜですか。(ロ)会衆の関心事について僕たちはどんな責任を持つていますか。
17 会衆の関心事についてのこの研究から,次のことが分ります。つまり,ヱホバの証者はみな地方の会衆に善を貢献するような行をしなければならぬ,ということです。人が会衆と交つて会衆の一員になるとき,その人はヱホバの奉仕者としての委任された権利と義務を得ます。故に,忠実な奉仕者であるあなた方は,地方の会衆の進歩を図りなさい,会衆の伝道運動に参加しなさい,神の聖なる制度の正式な代表者として会衆の名誉を拡大しなさい,制度を清く保ちなさい,証者の負うヱホバの高められた御名にふさわしく生活しなさい,そして地方の会衆に交わる新しい人の模範になるよう正しく歩みなさい。その会衆は愛の中に一致しています,そしてパウロは制度が反対を耐え忍び,よろこびを分ち与えることを適切にこう述べています,『もし一つの肢体が悩めば,ほかの肢体もみな共に悩み,一つの肢体が尊ばれると,ほかの肢体もみな共に喜ぶ。』― コリント前 12:26,新口。
18 ヱホバの会衆の奉仕者として,各自会衆の神権的な記録に悪をつけぬよう固く決意しなさい。そして,悪行をしてはなりません。神の民の会衆に交わるなら,会衆の関心事を賢明に負い得なかつたことについては,責任を取らねばなりません。会衆は,その指導者である僕たちを通して,共通の関心事に正しく参加しない者たちを譴責する義務があります。もしなんの譴責も与えられないなら,全会衆はあなたの悪のために汚れてしまうでしよう。僕たち自身も義しくなければならず,公正とあわれみを以つて会衆の関心事を守るために,自分の義務を果さねばなりません。
19 新しく興味を持つ人々には,何が表わし示されますか。そしてなぜですか。
19 善行を絶えず為すことによつて,個人的な自分の関心事をすくなくし,より望ましい会衆の関心事をなす時間を得ることは賢明である,と新しい人々に示しなさい。個人の関心事を,念頭から離してはならぬ神の関心事や会衆の関心事と正しく釣合わせることは,如何に必要であるかを示しなさい。除名は,会衆の福利の為であり,ヱホバ神に清い記録を保つためであると示しなさい。それは,申命記 19章13節に記されている聖書の原則であることを論じなさい,『汝かれを憫み視るべからず。罪なき者の血を流せる咎をイスラエルより除くべし。然せば汝に福祉あらん。』パウロの諭めているごとく,悪行を為す者はみな会衆から除去されねばなりません。『斯のごとき者をサタンに付さんとす。是その肉は亡されて,その霊は主イエスの日に救われん為なり。』― コリント前 5:5。
20 ヱホバは,今日地上の民とどのように交りを持たれていますか。将来はどうですか。マタイ伝 11章29,30節に従つてどんな調節がなされねばなりませんか。
20 各個人の事柄について人がどれ程正しくても,また健全であろうとも,その人は正義の新しい世に入れないでしよう。ヱホバ神はそのような個人と交わりを持つていません。ヱホバ神は地上にひとつの制度を設けられましたが,それは増し加わつた会衆の関心事をうけ入れるために訓練されています。天にある神の御国政府の地上における影響が増し加わるにつれ,益々多くの共同社会の関心事が新世社会に課せられるようになるでしよう。そして,ハルマゲドン後には,地上にあるすべての共同社会の関心事は新世社会のものになるでしよう。(イザヤ 9:7)ノアの日やモーセの日と同じように,神は御自分の民の会衆の社会と交りを持たれています。正しい羊飼であるキリスト・イエスに導かれている私たちは,羊の大きな一致した群のようです。私たちは彼の声を聞き,彼の王の指導を受入れ,そして彼の群の制度に来ます。(エゼキエル 37:24)それで,あなたの仕事や個人的な事柄を調節しなさい,不必要な個人の関心事を減少しなさい。神の関心事と会衆の関心事に釣合わせるようにしなさい。それらは,あなたを生命の道に導くものです。キリスト・イエスとくびきを同じくしなさい。愛の御心を持つキリストは次のように言われました,『私は柔和で心のへりくだつた者であるから,私のくびきを負うて,私に学びなさい。そうすれば,あなた方の魂に休みが与えられるであろう。私のくびきは負いやすく,私の荷は軽いからである。』― マタイ 11:29,30,新口。
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貧者の一燈は受領されぬものみの塔 1956 | 10月15日
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貧者の一燈は受領されぬ
1956年3月26日のジャーシー・ジャーナルは,次のことを報じていました,『北アノリントン,平和の女王ローマ・カトリック教会の牧師ビー・ビー・オコーナーは,次の言葉を述べて昨日教会員たちをびつくりさせた,「復活祭前の日曜日以来,教会に欠席している人たちに言いたい。寄附籠に銀貨を入れても,教会は受領しない。実際のところ,銀貨を入れるならば自働的に鐘が鳴つて,空中に弾丸が2発発射されるような寄附籠を入手したい,と私は考えているのである」この牧師の説教後,寄附籠は紙幣でいつぱいになつた,と報ぜられている。』
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