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神につかえるよろこびものみの塔 1963 | 12月15日
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ベテルの家族を収容する立派な4階の建て物をつくる許しを得ました。今,その建て物は完成され,事務と印刷の仕事が行なわれています。
私的な事ですが,おわりにひと言ふれさせていただきます。1953年,愛らしい娘,フィリス姉妹は私の妻となりました。それで今,クリスチャンとしての私の生活には,共に心を分けあう貴重な仲間があります。そして,二人は,エホバへの全時間奉仕に共に楽しく日を送っております。
私が,エホバの道を歩きはじめたのは1924年のことでした。その時以来,エホバの神権組織と歩みを共にするために,絶えず努力を続けて来ました。これまでの私の生涯を通じて,いつも感じて来たのは,愛あるエホバのみ手が必ず私たちを導く,という事です。エホバの偉大なあわれみ,強い守り,深い愛を実際に経験して来ました。まさに豊かな生活,喜びあふれる日々を送って来ました。この上なにを望みましょう。ただ,みなさんが同じ道に進まれることを願うだけです。
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読者よりの質問ものみの塔 1963 | 12月15日
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読者よりの質問
● 軍需工場で働くこと,陪審員をつとめること,クリスマスカードやツリーを売ることについて,クリスチャンはどんな立場をとるべきですか。―多くの問合せをまとめた質問
ものみの塔協会は,御国の福音を,もろもろの国民にあかしするため全世界に述べ伝える目的で組織されたもので,その最も効果的な方法については惜しみなく助言を与えます。しかし他の種類の活動または仕事については,特別の推薦を行ないません。世俗の仕事に関係して起り得るあらゆる状態のために規則をつくるとすれば,ひとつひとつこの仕事はどんな場合にはよく,どんな場合には良くない,とすべてこまかく区別して,タルマドのような大部の規則集を編さんしなければならないことになります。主はそのような責任を協会に課せられていません。自分の事を決定するのは各人の責任です。このことに関係した問題の例として,クリスマスカードとかツリーを売る場合のことを考てください。もしそのことが悪いなら,クリスマスのために使われる七面鳥を売る肉屋さんはどうしますか。あるいはクリスマスプレゼントに使われるセーターを売る店員はどうしますか。どこに一線を引きますか。また,どんな場合にあなたの仕事は軍需産業になりますか。戦車製造の流れ作業列にはいって,戦争に使われる物を作る必要はありません。陪審員としての仕事についていうなら,あなたはこの仕事引き受けられますか。たとえば離婚訴訟の場合などには,姦淫以外の理由で離婚が認められることもあるのです。訴訟当事者の一方または双方の主張ともあなたは受け入れがたいこともあり,クリスチャンとしての良心がその仕事にたずさわることを許さないでしょう。
これらの事柄に対する協会の沈黙を賛成と見なすべきではなく,また協会が公にすることを望まぬ非難と見なすべきでもありません。その沈黙は,選ぶことは個人の責任であって協会の責任ではない,という協会の考えをあらわすものです。良心の責めを感じないような行いをせねばならぬのはその人であって協会ではありません。その人にはこまかい事情がよくわかっていますが,協会にはわかりません。エホバの証者は。聖書を読み,ものみの塔協会の出版物を研究しました。それらにはクリスチャンの導きとなる正しい原則とエホバのご要求が説明されています。ですから各人は,世俗の仕事において,どうすれば良心の責めを受けずにすむか,自分で決定できるはずです。次のことを忘れてはなりません。つまり私たちはこの世のものでなく,またこの世を存続させるための計画や希望をもたなくても,この世にいるので,この世の活動から完全には分離できないということです。そこで各自が責任をもって自分の良心に従い,同じ問題に対して,人がその良心に従って異なった決定を下すことがあっても,それを批判したり,批判されたりしないようにしましょう。私たちは「他人の良心によって左右される」べきではありません,「他人の僕をさばくあなたは,いったい,何者であるか。彼が立つのも倒れるのも,その主人によるものである」。―ロマ 14:4。コリント前 10:29,新口。
● 使徒たちがお互を,ペテロ,ヨハネ,パウロと呼んだように,聖書の記述者たちは姓でなく名を使用したので,今日の集会においても私たちは名を使用すべきだ,と主張する人がいます。つまり,姓に「兄弟」とか「姉妹」をつけて呼ぶのは,偽りの宗教のやりかたによく似ているというわけです。これについてはどうお答えですか。―カリフォルニア州の一読者より
偽りの宗教は,「神権政治」とか「クリスチャン」という言葉を使います。しかし私たちもそういう言葉を使います。他の人々がそれらを誤用しているというだけの理由で,私たちがその正しい用法を捨てる必要はないからです。姓に「兄弟」とか「姉妹」をつけて呼ぶのは偽りの宗教の習慣だ,ということはできません。というのは聖書もときどきそうしているからです。そして,ある翻訳が,たとえば「兄弟サウロ」となっていようと「サウロ,兄弟」となっていようと,この問題の意義には少しも影響しません。(使行 9:17; 22:13。コリント前 16:12。ペテロ後 3:15)そのうえこれらの表現はローマカトリック教会がある人を平信徒と区別するために使う言葉のような,人々を区別する
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