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救われるために何が必要ですかものみの塔 1968 | 3月1日
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にすることによって,造りかえられ」ることが絶対に必要です。(ローマ 12:2。コリント第二 4:4)「新しい人格」は救われるために肝要なことの一つです。
伝道も要求される
神のことばを学んでそれを生活の上で実践することにより,また敬虔な人々と交わることによって心を新たにすることを始めたならば,救いを求める人はキリスト・イエスの命ぜられた奉仕のわざに,次に注意を向けなければなりません。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子とし……あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」― マタイ 28:19,20。
神のことばを伝道し教えるわざに参加することは,救いと重要な関係があります。その理由で使徒パウロは次のように言明できました。「人は心に信じて義とされ,ロで告白して救われる」。(ローマ 10:10)確かに人は肉の弱さのゆえに,自分の信仰を「口で告白」することをためらいがちです。しかしマルコの福音書 8章38節にあるイエスのことばの正しさを思いおこしてください。「邪悪で罪深いこの時代にあって,わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては,人の子もまた,父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに,その者を恥じるであろう」。
使徒パウロの力強い手本を考えて,ともすればためらう心を励ましてください。彼は真実にこう言うことができました。「わたしは福音を恥としない。それはすべて信じる者に,救を得させる神の力である」。(ローマ 1:16)しかしこの大胆さと恐れを知らない心を持つには,クリスチャン会衆内で訓練を受けなければなりません。(エペソ 4:11,12)神の音信を公に宣べ伝えるのに自分ひとりでする必要はありません。愛と思いやりに富んだエホバのご準備があります。エホバは宣教のために証人の会衆を組織されました。
献身の段階
聖書を熱心に学び,その原則を実行して生き方を大きく変えたならば,また同じ信仰を持つ他の人々とともに定期的に集まって学ぶようになり,さらには伝道し教えるわざにたずさわる特権を認識したならば,あなたの信仰は救いに必要な別の重要な段階にあなたを導かなければなりません。それは献身の段階です。それはどういうことですか。献身とは,救いのためのエホバの愛あるご準備に感謝する心に動かされて,無条件にみこころを行なうため自分をエホバにささげることです。
これは神の愛された御子キリスト・イエスの完全な手本にならう行ないです。イエスはご自分に対する神の特別なみこころを行なうため,ご自分を天の父にささげられました。(マタイ 3:13-17。ヘブル 10:5-10)そして神に奉仕するために自分を神にささげたことは,イエスの場合と同じく,献身を他の人にあかしする外面的な式によって表わされます。それはバプテスマを受けることです。この象徴的な行為は,(水の下に浸される時)以前の利己的な生き方に関しては死んだこと,そして(水から出る時)これからは神のみこころにかなって生きることを雄弁に物語っています。あなた以前にも大ぜいの人がこの献身とバプテスマの段階を経ました。―使行 2:41; 8:12; 18:8。
献身したならばもはやあとにひくことはできません。霊感されたことばは次のようにさとしています。「あなたは神に誓いをなすとき,それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ」。(伝道の書 5:4)エホバは誓いを破る者を喜ばれません。献身して神と結ばれたこの関係を常に心にとめるべきです。世の人の行ないがどんなものであっても,それはクリスチャンの導きとはなりません。クリスチャンはすべての事において,文字になった神のことばを導きにします。
報いを得るために忍耐する
救われた人の得る全き報いは,私たちが想像できるものをはるかに越えています。それは現存する悪の事物の制度に迫っている滅びに生き残るだけのことではありません。天の御国の治める祝福された地において新秩序の下に生きるすばらしい喜びも含まれます。罪のもたらした恐ろしい結果と利己主義が王キリスト・イエスによって拭い去られる千年期を想像してごらんなさい。(黙示 20:4。コリント第一 15:25,26)キリストが命ずるとき,死者が墓からよみがえるのを見ることさえできるのです。(ヨハネ 5:28)そして千年統治の終了後には忠実の最後の試みに耐える機会があります。もし忠実ならば,救い,すなわちキリストをとおしての神の最大の賜物,永遠の生命を受けます。―黙示 20:5,7,8。
このような栄光の報いが前途にある以上,必要とあれば苦しみをも受け,忍耐するのは当然でしょう。サタンの支配する悪の事物の制度はこぞって神の真の崇拝者に敵対しています。そして神に対する忠実を捨てさせ,献身の誓いを軽視させようと働きかけます。親しい者や親族が,真の崇拝から離れさせようと説得したり圧迫したりする役に回るかもしれません。(マタイ 10:35-37; 7:13,14)しかし,神の霊感によってしるされた次のさとしに聞き従ってください。「[すでに述べた肝要な段階をことごとく経,]神の御旨を行って約束のものを受けるため,あなたに必要なのは,忍耐である」― ヘブル 10:36。
あなたの避け所また盾であるエホバとの連絡を常に保ちなさい。(サムエル下 22:2,3)みたまによって支えてくださるよう神に祈ってください。神は人を立たせることができるからです。(ローマ 14:4)追随者の忠実な指導者,指揮者であられるキリスト・イエスのことばは,こう励ましています。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」― マタイ 10:22。
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子供を訓練することの大切さものみの塔 1968 | 3月1日
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子供を訓練することの大切さ
● 子供を幼い時から訓練することの大切さは,次の経験によって再び立証されました。オーストラリアのエホバの証人のひとりの伝道者が家を離れていたとき,その妻と若いむすこたちが親類を訪問しました。そして食事をするように勧められましたが,その食事には黒いソーセージが出されました。そのむすこたちは家で聖書を勉強したときに,黒いソーセージは血を材料にして作られたソーセージの一種であると教えられていました。4歳と6か月になる一番年下のむすこはその昼食を断わりました。父親から,黒いソーセージには血がはいっていると聞いていたのです。母親は,そのソーセージだけはすべて野菜と肉で作られており,血は少しもはいっていないということをむすこに納得させようとしましたが,その説明では不十分でした。と言うのは,黒い色は血を意味すると父親から教わっていたためです。母親とおばは,それはばかげた不合理な考えだと言って,その子を言い伏せようとしたところ,「そのためにたとえ殺されようと,ぼくは食べません」とむすこは答えました。そのおばが,「そんなことはない。もしお前が殺されることになれば,必ず食べるに違いない」と言い返えしたところ,その子は,「いいえ,食べません。たとえ天が落ちて来て,ぼくが殺されそうになっても,ぼくはどんな血も決して食べません」と答え,そのソーセージを食べませんでした。問題のソーセージに血ははいっていませんでしたが,そのむすこにとっては血の問題があったのです。この幼い子供は自分の信念を堅く守る覚悟ができていました。その信念は明らかに父親と家庭で聖書を勉強して培ったものです。
― エホバの証人の1968年度年鑑より
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