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二つの救いについての絵ものみの塔 1962 | 4月1日
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二つの救いについての絵
「彼は,わたしたちの罪のための,あがないの供え物である。ただ,わたしたちの罪のためばかりではなく,全世界の罪のためである」。―ヨハネ第一書 2:2,新口
1 エホバの証者は彼らの集会に対してどんな態度を取りますか。このことはどのように表わされていますか。
エホバの証者は,彼らの集会全部にするどい関心を払います。しかし,1年に一度だけ行なわれる特定な集会は,他の集会とは全く異なっています。その行事においても,その目的においても,そしてそれに付せられている重要性においても,そのような集会は他にありません。そのため,新しい世の社会の者はその集会に出席するべく特別の努力を払うだけでなく,興味をもつ新しい人々をも心から招待し,出席するよう励まします。
2 (イ)どんな面で主の夕食は独特な集会ですか。(ロ)出席者全員は,どのようにそのことについて良く理解できますか。
2 その集会とは,しばしば記念式と呼ばれている「主の夕食」のことです。イエスは「わたしの記念として,このように行いなさい」と命じました。今年,つまり1962年の「主の夕食」を祝う日は,4月17日の標準時間午後6時以後になっています。この集会に独特なひとつの点は,特定な出席者 ― その人々のためにこの集会が主として設けられ,その晩には特にこの人々に向かって話がなされる ― の数は,すくないということです。報告の示すごとく,出席者の合計は増加しているにもかかわらず,それらの人の数は毎年減少しています。また,その集会のときに論ぜられる真理は,この記事でもとりあげられていますが,神の御言葉の深い真理,「かたい食物」に属するものであり,「初歩の教理」である乳でないことも,私たちは認識しています。この点を考え,また,エホバの証者の集会にくるのが初めての人も多いかも知れないので,人類の救いに関する神の御目的の特定な点をしらべるのは適当なことと思います。そうするなら,少数の者だけでなく,その他の集会に出席する全部の人は,その集会の話や行いについて良く理解し,深い認識を持つようになるでしょう。―コリント前 11:20,24。ヘブル 5:12; 6:1。
3 どの面で私たちはみな同じものを必要としますか。この必要はどのように満たされていますか。
3 記念式の中心的な主題の基礎はイエスの死です。そのことは,論議をさっそく始める出発点になります。たしかに『人間キリスト・イエス』は,ご自分の完全な人間としての生命を捨てて『すべての人のあがない』になり,人間のあがない主,救い主になられました。キリスト・イエスは,「世の罪を取り除く神の小羊」です。世の罪ということについて言えば,アダムの子孫である私たちはみな共通であり,同じ必要を感じます。私たちは,そのことを忘れてはならず,またこのすばらしい取極めを設けられたエホバと,そのことをよろこんで行なわれたエホバのいとし子に,深い感謝の念をいつでも持たなければなりません。―テモテ前 2:5,6。ヨハネ 1:29,新口。
4 あがないの犠牲は,すべての人に同じく適用されますか。このことにつき,エホバに何かの義務が課されていますか。
4 私たちはみなこのひとつのあがないの益をうけます。しかし,そのあがないの犠牲の益がすべての人に同じく適用されるのは神の目的ではありません。聖書の示すところによると,一般的に言って人類は,神の御国すなわち,王キリスト・イエスの支配する約束された「新しい天と新しい地」で罪と死から救われます。しかし,聖書はまた次のことも示します,すなわち少数者である人々が,彼らが別個のものであることを示す仕方と時に従って,その犠牲の益にあずかるのは神の御旨であるということです。これは,彼らが受けついできた美徳とか長所によるのでは決してなく,エホバのおどろくべき過分のご親切の表われであると,言わねばなりません。エホバが,ある人々を最初に取りあつかって,特別な仕方で彼らを救われることは,彼の絶対的な権限に属することです。その点について私たちは,「神に言い逆らう」ことはできないとパウロは述べています。―黙示 21:1-4。ロマ 9:20。
5 どんな聖句は,この点についての相違を示しますか。
5 使徒ヨハネは,イエス・キリストについて次のごとく語り,そのような区別のあることを明白に示しています,「彼は,わたしたちの罪のための,あがないの供え物である。ただ,わたしたちの罪のためばかりではなく,全世界の罪のためである」。(ヨハネ第一 2:2,新口)このことについての理解を深める助けとして,いまから3500年前に生じて,聖書中に記録されたひとつの劇を考えてみましょう。そのとき,エホバはご自分の民イスラエルをパロの手から救い出されました。
エジプトからの救い
6,7 イスラエルがエジプトから救い出されるに際してはどんな主要な出来事がありましたか。どんな結果になりましたか。どんな成就を示していますか。
6 この救いは昔の神の民の歴史中驚くべき出来事のひとつで,その規模と劇的な強烈さにおいては最大のものの一つであることは疑いありません。その昔にさかのぼって,出エジプト記 3章から15章に記録されている大きな出来事を正しく認識するとき,はっきり大写しされる特定な事柄が分かります。それは次のようにまとめることができます。「私の民を去らせなさい」というモーセを通じてのエホバの要求に対してパロがぶべつに満ちた答えをしたため,10のわざわいがその後につづき,遂にエジプトの初子全部が死んでしまったこと。イスラエルの子孫が翌日急速にエジプトから救い出されたこと。エホバの巧みな戦略下に,エジプトの軍勢がイスラエル人を追跡するようになったこと。イスラエル人は「水が分かれた」ので,紅海の「乾いた地」を奇跡的にわたり,モーセが腕を伸ばしたときに「水はもとに戻り」,パロの軍勢が全滅したことです。「ひとりのこらず全滅した」。これはほんとうに強力な救いです。それは,エホバの「羊」であることを証明する全部の者に対してエホバの行なわれる大きな救いを示しています。つまり,エホバはキリスト・イエスを通して,ハルマゲドンのときに,サタンの勢力全部を打ちくだき,サタンの組織制度なる今日の全世界を全く滅ぼしてしまいます。エジプトはサタンの組織制度の少規模な型でした。ハルマゲドンの生存者はみなエホバにささげる賛美の大合唱に加わるでしょう。ちょうど,モーセの指導下にいたイスラエル人が歌ったのと同じです。そのときミリアムは次の言葉を繰り返しました,「エホバにむかいて歌をうたえ。彼は高くあがめられた。彼は馬と騎手を海に投げこまれた」。―出エジプト 5:1; 12:29; 14:1-4,21,28; 15:1,21,新世。
7 さて,いま画面に近づいて,ひとつの挿入画を見てみましょう。それ自体で完全な絵になっていると共に,全体の一部にもなっています。この絵も救いの絵ですが,特別な種類のものです。
イスラエルの初子の救い
8 (イ)10番目の災に対する保護として,イスラエルはどんな指示を守るべきでしたか。(ロ)どのようにそしてなぜこのことを記憶すべきでしたか。
8 エジプト中の人間と動物の初子は死ぬという最終的なおそろしいわざわいについて,モーセはパロに通告しました。その直後エホバはモーセに,イスラエル人全部の守るべき特定な指示を与えました。かんたんに言うと,どの家族もこの月 ― それから後この月は彼らにとって1年の最初の月になりました ― の10日に1匹の羊を取って,『月の十四日までそれを大事に守る』ことが要求されました。そのとき,その羊は殺されて,その血は家の戸の柱や鴨居に塗られたのです。その夜,「肉を火にやきてくらひまたたねいれぬパンに苦菜をそへて食ふべし」。また,彼らは次のように言われました,「腰をひきからげ,足にくつをはき,手に杖をとりて急てこれを食ふべし是ヱホバのすぎこしなり,その血なんぢらが居るところの家にありて汝らのためにしるしとならん我血を見るときなんぢらをすぎこすべし又わがエジプトの国を撃つ時災なんぢらにくだりて滅ぼすことなかるべし」。それから後,毎年の同じ日,イスラエル人は同じ奉仕を繰り返して行ない「この日をおぼえてヱホバのいはひびとなし世々これを祝いました。子孫たちがその意味をたずねるなら,彼らは次のように答えるべきでした,「是はヱホバのすぎこしのまつりなりヱホバエジプト人を撃ちたまひし時エジプトにをるイスラエルの子孫の家をすぎこしてわれらの家を救ひたまへり」。―出エジプト 12:1-14,27。
9,10 イスラエルの初子の救われたことは,全国民の救いにどのように関係していましたか。
9 それで,イスラエルの初子にはこの独特な方法で特別な救いが準備されました。彼らは,その夜実に危険な状態にいました。彼らの生命は危険にさらされていました。しかし,『過越の犠牲』の血によって,彼らは過越され,突然の死から救われました。初子がこのように特別に救われたことは,紅海を横断してイスラエルの国民全部が救われたことに先立っていたことに,どうぞ気をつけて下さい。―出エジプト 12:21。
10 ヨハネは,イエスの死が「わたしたちの罪のためばかりではなく,全世界の罪のため」の犠牲であると書きました。それでは,前述のことによって,その言葉をどのくらい明白に理解することができますか。―ヨハネ第一 2:2,新口。
その絵の成就
11 ヘブル人に宛てた手紙の主題は何ですか。それはどのように初子に言及していますか。
11 これらのことの正しい理解は,私たちの想像や「勝手な解釈」にゆだねられていません。使徒パウロはヘブル人に手紙を書いたとき,明白にこう述べています,すなわち律法契約の下にいたイスラエルが行なったことは,「きたるべき良いことの影」であり,「比喩」として与えられました。まったく,これこそこの特定な手紙の中でパウロの述べている主要な論議です。律法とその規定および犠牲は,来たるべきすばらしいものを予め示したもの,あるいは予表したものであることを彼は繰り返し示しました。ヘブル書 1章6節で,彼はイエスを神の「初子」と言っています。彼はたしかにそうです。後のところで,彼は類似の関係を持つ一群の人々について述べています。彼は彼らのことを「天に登録されている初子たちの会衆」と述べています。―ペテロ後 1:20。ヘブル 10:1; 9:9; 12:23,新世。
12 ヘブル書 12章23節に述べられている初子はだれですか。
12 これらの人々はどんな人たちですか。彼らは真のクリスチャンであり,群れとして「生ける神の会衆なる神の家」を構成します。彼らは「大祭司」なるキリスト・イエスと共に「天的な召にあずかる者たち」です。神の忠実な御子であるイエスは,神の建てた家のかしらに任命されています。そして,パウロが仲間のクリスチャンたちに告げているごとく,「わたしたちは神の家なのである」。―テモテ前 3:15。ヘブル 3:1-6,新口。
13 キリスト教国は真の教会の成員についての安全な指標ですか。
13 これらの聖句から判断するとき,それはキリスト教国のどれかの教会にはいって,会員名簿にのせられるものでないことは,はっきり分かります。ある地的な宗教制度によって,真の教会の一員になることはできず,また聖徒として認められることはできません。「御旨のままに,肢体をそれぞれ,からだに備えられた」のは,「万民の審判者なる神」です。イエス自身も,御国が与えられる者たち,そして天の御座で彼とともにあずかる者たちは「小さな群れ」なる少数者であると言われました。すると,教会員であり,教会に出席しているという理由にもとづいて,クリスチャンと称する幾百万という人々は,この群れの中にはいれません。また,ミサとか聖餐式として良く知られている主の夕食に定期的にあずかっているだけのクリスチャンも除外されます。―ヘブル 12:23。コリント前 12:18。ルカ 12:32。
14 イスラエルの初子によってだれが予表されましたか。どんな聖書的な権威にもとづいて?
14 真の教会,「初子の会衆」は,その夜エジプトで特別に救われたイスラエルの初子に相当し,予表されています。その聖書的な権威がありますか。たしかにあります。パウロは,「キリスト・イエスにあってきよめられた……コリントにある神の会衆」に手紙を書き送ったとき,特定な堕落の影響を捨てさるように彼らにすすめ,また律法により予表された事柄を論じつつ,次のように述べています,「わたしたちは,古いパン種や,また悪意と邪悪とのパン種を用いずに,パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって,〔種入れぬパンの〕祭をしようではないか」。真のクリスチャンがこのような象徴的な方法で,ただの1日だけでなく,1年の毎日この種入れぬパンの祭りをするどんな権威を彼は与えていますか。彼の次の答えに気をつけて下さい,「わたしたちの過越の小羊であるキリストは,すでにほふられたのだ」。―コリント前 1:2; 5:7,8,新口。出エジプト 13:6。
15 真の教会には,将来と現在の両方のために,どんな特別な救いが設けられましたか。
15 「きずも,しみもない小羊のようなキリストの尊い血」によるこの高価な犠牲により,二つの面においてこれらのクリスチャン初子たちは特別な救いを受けました。それによって,ペテロの述べるごとく,彼らが「わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る」ことが保証され,「天にたくわえてある,朽ちず汚れず,しぼむことのない資産を受継ぐ」ことが保証されました。しかしそれだけでなく,実際の意味においては,信仰により,現在楽しめる救いをも意味したのです。パウロはそれを次のように述べました,「神は,わたしたちをやみの力から救い出して,その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは,この御子によってあがない,すなわち,罪のゆるしを受けているのである」。特に1919年以来,この群れの者たちはイザヤがあらかじめに告げた「暗やみ」と「暗黒」から救い出されました。彼らは人間でいても,同じ預言に述べられている御国に奉仕することと開明をいただくというすばらしい祝福を持ちました。―ペテロ前 1:4,19。ペテロ後 1:11。コロサイ 1:13,14,新口。イザヤ 60:1-3。
16 (イ)アブラハムのすえに関し,小さな群れはイエスとどのような関係にありますか,(ロ)このことは特別な救いを大きな絵にむすびつけることに,どう役立ちますか。
16 それで神の御言葉は,特に選ばれた会衆,「小さな群れ」を明白に指摘しています。彼らは,人類の他の者よりも先にキリストのあがないの犠牲の益をいただきます。すでに述べたごとく,イエスご自身は神の主要な初子です。しかし,彼のかしらの下に他の者たちも彼と密接にむすびつき,「初子の会衆」をつくりあげています。また,同様に,キリスト・イエスご自身はアブラハムの約束されたすえです。しかし,エホバの過分のご親切により,これらの初子たちは,「キリストにつく洗礼をうけて」「キリストに属している」ため,「真実にアブラハムのすえ」でもあります。このすえにより,「地の全国民は」神の御国を通し,ハルマゲドンで現代のエジプトからの偉大な救いを受けて後,「自らを祝福する」のです。それで,初子級の特別な救いについての小さな絵がまず示されて,大きな絵に先行しなければならぬということが,十分なっとくできます。その大きな絵が成就するとき,エホバに向かって「彼は高くあがめられた」という勝利のさんびの歌が歌われるでしょう。そのわけで,象徴的に言うと,彼は先ずエジプトにくだり,「御名を取られた」のです。―ガラテヤ 3:16,27,29。創世 22:18。出エジプト 15:21。サムエル後 7:23。
17 ヨハネ第一書 2章2節をどのように理解するべきですか。
17 それで,これらの初子たちに手紙を書いたヨハネの言葉の意味が分かります。イエスはまず「わたしたちの罪のための,あがないの供え物である。ただ,わたしたちの罪のためばかりではなく,全世界の罪のためである」。―ヨハネ第一 2:2,新口。
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親密で貴重な関係ものみの塔 1962 | 4月1日
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親密で貴重な関係
1,2 (イ)どんな面でイエスは彼の「兄弟たち」と親密な関係を持つようになりましたか。(ロ)このことは,主の夕食とどのようにむすびついていますか。
イスラエルの初子についての絵の成就を考慮するとき,ひとつの事柄がはっきり大うつしに示されます。それは,エホバによりイエスと初子の霊的な会衆のあいだにもたらされる,極めて親密な関係です。初子はアブラハムのすえの一部として彼とともにあずかります。ヘブル人に宛てたパウロの手紙をふたたび見ると,彼はヘブル書 2章10-18節(新世)でこのことを強調して,次のように説明しています,「多くの子らを(天的な)栄光に導くのに,彼らの救の君〔イエス・キリスト〕を,苦難をとおして全うされたのは」,ふさわしいことでした。これら多数の子たちは「血と肉とにあずかっているので,イエスも同様に同じものを備えておられる。それは死をもたらす手段を持つ者,すなわち悪魔をご自分の死によってほろぼし,……たしかにイエスは御使たちを助けられず,アブラハムのすえを助けておられる。そこで,イエスは,神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって,民の罪をあがなうために,あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身,試練を受けて苦しまれたからこそ,試練の中にある者たちを助けることができるのである」。
2 たしかにこれらの子たちは,約束されたすえの一部としてイエスと親密な関係を持っています。しかし,いま別の親密な類似点に注意をひきたいと思います。すなわち,イエスと彼の「兄弟たち」の両方とも「血と肉とにあずかる者」であることです。このことによって,主の夕食とそのときイエスの論じた真理は密接にむすびつけられます。その点を研究することは,前に約束しておきました。
3 イエスは弟子たちと共にこの最後の過越にどのように近づきましたか。
3 忠実なユダヤ人イエスは,ニサン14日の恒例の過越の祝いをいつも守ってきました。しかし,彼は自分の宣教を終え,真実の「過越の犠牲」として,正しい時に犠牲のコースを全うすることをよく知っていたので,弟子たちと共に,この最後の過越に臨むに際し,それをもっとも重要なときと見なしました。その祝いをする家を選ぶこと自体,常とことなっていました。このことは,ペテロとヨハネもあかししていますが,「イエスが言われたとおり」詳細にわたって物事を先見した興味深い例です。それから「時間になった」ので,イエスは弟子たちと共に食卓につかれ,彼らに,「あなたがたとこの過越の食事をしようと,切に望んでいた」と言われました。―ルカ 22:7-16,新口。
4 パウロの記録によると,イエスは彼の最後の過越を終えてから何を始めましたか。どんな詳細な点が述べられましたか。
4 過越の食事が終わって,なすべきことをことごとく行なった後,イエスはまったく新しいものを始められました。「主から」の直接の啓示として与えられたパウロの記録によって,何が生じたかを知ります。「主イエスは,渡される夜,パンをとり,感謝してこれをさき,そして言われた,『これはあなたがたのための,わたしのからだを意味する。わたしを記念するため,このように行いなさい』。食事ののち,杯をも同じようにして言われた,『この杯は,わたしの血による新しい契約を意味する。飲むたびに,わたしの記念として,このように行いなさい』」。―コリント前 11:23-25,新世。
5 (イ)イエスが弟子たちに与えられた最後の話の中で何が顕著なものですか。(ロ)主の夕食については,何に警戒しなければなりませんか。
5 この記録と,その夜イエスが弟子たちに告げたこと(ヨハネ伝 13章から17章に記録されている)および,これと関係のある聖句を考えて見ると,ふたつの主要な事柄が強調されているように思われます。すなわち,それから受ける益および,ふさわしい仕方でパンを食べ,杯を飲む者たちのあずかる益です。あずかる資格を持つ者たちは,使徒が警告するごとく,「ふさわしくない」仕方でパンを食べ,杯を飲むようなことをしたいとのぞみません。それでいま,たとえ誠実な気持ちで行なわれているにしても,非聖書的な見解と行いとを生み出す,ひとつかふたつの共通の誤解を簡単に述べましょう。―コリント前 11:27。
6 主の夕食をしばしば行なうことは正しいですか。
6 まず,「飲むたびに,わたしの記念として,このように行いなさい」というイエスの言葉は,主の夕食をしばしば行なうことを正当化するものではありません。過越は幾度行なわれましたか。もちろん,記念日のニサン14日に年に一度行なわれただけで,ユダヤ人たちはそれを別の日にすることなど夢にも思いませんでした。その日,そして彼が過越を祝われた同じ24時間内に,イエスは死んでその予表を成就しました。彼は「一度かぎり」死にました。「あなたがたは,このパンを食し,この杯を飲むごとに……主の死を告げ知らせるのである」とパウロは言いました。それで,当然,彼の死を記念するこの祝いは,年に一度,ニサン14日に行なわれるべきであるということになります。ニサン14日は,今年は,1962年4月17日の日没に始まります。―コリント前 11:25,26,新世。ヘブル 9:26。
7 化体の教理が聖書的に正しくないことは,どのように証明されますか。
7 第二に,「これは……私のからだ……私の血を意味する〔あるいはしばしば訳されているように,これは私のからだ……私の血です〕」というイエスの言葉は,化体の教理を正当化するものではありません。その教理によると,パンとぶどう酒はそのとき実際に彼の肉と血になるというのですが,そのようなことは決してないのです。またミサをするたびに,司祭として奉仕する人によってそのような奇跡がくり返し行なわれることはありません。キリストの犠牲がくり返しささげられる必要はぜったいにありません。これはヘブル人に宛てた手紙の中の強力な論議のひとつです。そこでパウロは次のように述べています,「キリストは,そのように,たびたびご自身をささげられるのではなかった……しかし事実,ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために,世の終りに,一度だけ現われたのである」。そのひとつの犠牲により,「ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって,わたしたち〔真のクリスチャンたち〕はきよめられたのである」。―コリント前 11:24,25。ヘブル 9:25–10:10を見なさい。
8 イエスは,しばしばどんな話し方をしましたか。なぜこれは大切ですか。
8 イエスは,いつも話されたごとく,明白に「これは私のからだ……私の血を意味する〔です〕」と語りました。別の時に,彼はそれと同じような口調で「わたしは羊の門である」と言いました。彼が実際に戸になったというようなことを信ずる人がいるでしょうか。―ヨハネ 10:7。
9 主の夕食を秘跡と見なすことは,なぜ悪いことであり,有害ですか。
9 そして最後に,イエスはひとつの秘跡を始めたのではありません。秘跡とは表面的な宗教儀式,あるいはその儀式を守る者たちに恩恵を与える儀式という意味です。外面的な祝いにたよって,神のみまえで良い立場が得られると考えるのは人の常です。イスラエルの国民はその間違いをしました。そして同じことは,今日のキリスト教国にも見られます。イエスは,象徴的な性質を持つ二つのものだけ,すなわち洗礼と主の夕食,を弟子たちに与えました。しかし,それらによって示された実体が,実際に起こらず,また心と思い,および行動に示されないなら,それらのものを守ることは害こそあれ,よいことはすこしもありません。
10 この論題を研究するとき,どんな良いことを認識することができますか。
10 しかし,この大切な問題について,もっと積極的な点,建設的な点を調べてみましょう。それは,主の夕食のときに象徴されて,霊的な初子に与えられるすばらしい益をよりよく理解し,認識するためです。これらの益を受けることが示されるだけでなく,さらにすばらしいことは,彼らがたがいに,またキリスト・イエスとともに,そしておもにエホバご自身と,特定な益と特権にあずかるすばらしい仕方が示されているのです。
受ける益
11 「これは私のからだを意味する」と言われたイエスは,何に言及していましたか。
11 第一に,パンを取られたときの私たちの主の言葉に気をつけて下さい,「これはあなたがたのために与えられる私のからだを意味する」。関連を持つ他の聖句を見るとき,イエスがご自分の肉のからだに言及しておられたことは明白です。イエスは,洗礼を受けるためにヨハネのところに来たとき,ずっとむかし霊感の下に書かれた詩篇 40篇6-8節の言葉をご自分に適用しました。そのことは,このことに言及したパウロの言葉からも示されています,「キリストがこの世にこられたとき,次のように言われた,『あなたは,いけにえやささげ物を望まれないで,わたしのために,からだを備えて下さった』。……その時,わたしは言った,『神よ,……見よ,御旨を行うためにまいりました』」。それで,この犠牲のコースを取ることにより,「キリストは肉において苦しまれた」。彼は,「苦しみの杭にかかって私たちの罪をご自分のからだに負われ」て,あがないの値を備えられました。―ルカ 22:19。ヘブル 10:5-7。ペテロ前 4:1; 2:24,新世。
12 聖書は人間の血にどんな重要性を付していますか。これは,イエスの場合にどう適用しますか。
12 「人なるキリスト・イエスである。彼は,すべての人のあがないとしてご自身をささげられた」が,もちろん肉だけを備えていたわけではありません。ちょうど,イエスに完全に相当する「最初の人アダムが生ける魂になった」と同じです。生ける魂である人間は,肉と血の生物です。実際のところ,生命あるいは魂を表わすために聖書の用いているものは,肉よりもむしろ血であります。「血は魂である」。「血の中の魂によりあがなわれる」。それで,「わたしたちは,御子〔イエス〕にあって,神の豊かな恵みのゆえに,その血によるあがない,すなわち,罪過のゆるしを受けたのである」。イエスはご自分の弟子たちのために人間としての存在を断念されて,天の生命を得る道を開かれた,とパウロが述べたとき,血と肉の両方について語っているのは適当です。「わたしたちはイエスの血によって,はばかることなく聖所にはいることができ,彼の肉体なる幕をとおり,わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって,はいって行くことができる」。―テモテ前 2:5,6。コリント前 15:45。申命 12:23。レビ 17:11。エペソ 1:7。ヘブル 10:19,20,新口。
13 いまキリストの弟子たちはどんな種類の解放を楽しみますか。
13 前に述べたごとく,これらの者に対する天的な報いはたしかであると保証されているだけでなく,イエスが血と肉にあずかったために,「暗やみの権威」から彼らは救われるようになりました。イエスが死なれたのは,「死の恐怖のために一生涯,奴隷となっていた者たちを,解き放つためである」。どんな種類の解放ですか。イエスは,御子である彼をかしらとする制度あるいは家にみちびかれる者にむかって,次のように語りました,「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら,あなたがたは,ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は,あなたがたに自由を得させるであろう……,そして,奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし,子はいつまでもいる。だから,もし子があなたがたに自由を得させるならば,あなたがたは,ほんとうに自由な者となるのである」。これはなんとすばらしい益なのでしょう!―コロサイ 1:13。ヘブル 2:15; 3:6。ヨハネ 8:31-36,新口。
14,15 (イ)聖書の中で,飲むことにはどのような象徴的な意味が与えられていますか。(ロ)パンを食べ杯から飲む資格を持つ者の行為により何が示されますか。イエスの言葉はこのことを,どのように支持しますか。
14 私たちが平常食べたり飲んだりするのは,生命をささえるためです。しかし,聖書の中では,このかんたんな行為に,しばしば象徴的な意味が付されています。イエスは井戸のそばにいた婦人にこう語りました,「もしあなたが神の賜物のことを知り,また,『水を飲ませてくれ』と言った者が,だれであるか知っていたならば,あなたの方から願い出て,その人から生ける水をもらったことであろう……わたしが与える水は,その人のうちで泉となり,永遠の命に至る水が,わきあがるであろう」。(ヨハネ 4:10,14,新口)同様に,主の夕食の時にパンを食べ,杯から飲む資格を持つ人々は,イエスが彼らのために与えられた肉と血の犠牲から益を受ける,生命の益を受けることを象徴的に示しています。それで,彼らは信仰により象徴的にイエスの肉を食べ,彼の血を飲んでいると言うことができます。もし私たちが真の意味を認識できないなら,これは極端なもの,拒絶すべきものに聞こえるでしょう。しかし,イエスご自身がそのように語ったため,ユダヤ人たちは彼に不平の言葉を言ったことを思い出して下さい。彼の弟子の中の多数の者たちも,その話を聞いてびっくりして彼に従うのをやめました。しかし,ペテロは12人を代表して,こう語りました,「永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは,あなたが神の聖者であることを信じ,また知っています」。かくも強烈な反応をひき起こしたイエスの実際の言葉は,次の通りです,「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は,いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは,世の命のために与えるわたしの肉である……人の子の肉を食べず,また,その血を飲まなければ,あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ,わたしの血を飲む者には,永遠の命があり,わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物,わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ,わたしの血を飲む者はわたしにおり,わたしもまたその人におる」。―ヨハネ 6:51,53-56,68,69,新口。
15 ここに引用されているイエスの最後の言葉は,私たちが興味を持つ事柄の他の面を私たちに思い起こさせます。すなわち,彼とともにあって,親密な貴重な関係にあずかることです。
新しい契約の中であずかる益
16 主の夕食の状景は何を示しますか。また祈りの中でイエスが御父に語られた仕方は何を示しますか。
16 イエスが11人の忠実な弟子たちにパンを食べ,杯から飲むように招待していろいろの言葉を告げ,そしてすべての者が同じ食卓によりかかっていた状況そのものは,親しみにあふれた密接な関係を示します。たとえをあげてみましょう。もし上役の人になにかのことを頼んだ時,『その件なら私の事務所に来て話しなさい』という返事なら,そのことが事務的に話されることを期待するでしょう。しかし,もし『家に来て,食事をいっしょにしなさい。そのとき話し合いましょう』と言われるなら,勝目は十分こちらにあると,あなたはすぐに感ずるでしょう。その最後の夜,イエスはご自分の弟子といっしょにいたときに,いちばん重要で深い真理をいくらか語りました。またヨハネ伝 17章に記録されているごとく,天的な父にささげた結びの祈りの中でも,深い真理が示されました。その祈りおよびその祈りの紹介の言葉自体も,イエスが御父と楽しまれたきわめて親密な関係を示しています。彼は弟子たちに話していました。話しながら彼らを見ておられました。それから,『天を見あげて』言われました。しかし,今度は父に語られたのです。それは雑作のないしぐさでした。―ヨハネ 17:1。
17 (イ)新しい契約についてはどこで学ぶことができますか。そこにはどんな対照が示されていますか。(ロ)新しい契約の条項は何ですか。
17 イエスがぶどう酒の杯を取って弟子たちにまわされたとき,彼はこう言われました,「この杯はあなたがたのために流される私の血によって立てられる新しい契約を意味する」。(ルカ 22:20,新世)新しい契約に言及されていることは,うける利益と,またあずかる利益の両方において,きわめて重要です。ヘブル人に宛てられた手紙をふたたび見ると,この契約の識別に役立つもの,そしてその意義を認識させるものを見出します。新しい契約は,以前の,古い契約の対照になるものです。たいていの場合,なにか新しいものが必要だということは,古いものを捨てるという意味です。この点についてパウロは次のように述べています,「神は,『新しい』と言われたことによって,初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは,やがて消えていく」。古びたものは,仲保者モーセを通して肉のイスラエルとむすばれた古い律法契約でした。しかし,エホバはその契約下にいた『人々に欠点を見出され』ました。それで,預言者エレミヤの時でも新しい契約は次のような言葉で約束されていました,「かの日の後にわがイスラエルの家に立んところの契約は此なり,すなわちわれ我律法を彼らのうちにおきその心の上に録さん我は彼らの神となり彼らは我民となるべしとヱホバいひ給ふ……我彼らの不義をゆるしその罪をまた思はざるべし」。―ヘブル 8:8,13。エレミヤ 31:33,34。
18 新しい契約に関してイエスの流された血によってどんな二つの事は有効になりましたか。
18 契約が有効なものとなって,不義のゆるしが与えられるためには,血を流すことが必要です。「契約は死んだ犠牲によって有効なものになり……,血を流すことなしには,罪のゆるしはあり得ない」。イエスは,ご自身の流した血によって有効になった新しい契約の仲保者です。彼の血はまた,真実の罪のゆるしに対する合法的な基礎になり,『私たちの良心を清め』ます。一方,動物の犠牲に基づく古い律法契約は,外面的な方法,すなわち象徴的な方法で,そのような準備を設けたに過ぎません,つまり「肉体をきよめる」だけのものです。―ヘブル 9:13,14,17,22。
19 新しい契約はだれとむすばれましたか。
19 この新しい契約はだれとつくられていますか。真の教会をつくりあげるクリスチャンたち,すなわちイエスと共に御国の天のみくらにつく「小さな群れ」です。イエスが始めた最初の夕食にあずかった時以後の者たちとつくられます。他の者も同じ関係にみちびき入れられるとイエスは知っていました。そのことは彼の次の祈りからも分かります,「わたしは彼らのためばかりではなく,彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも,お願いいたします」。(ヨハネ 17:20,新口)これらの者は霊的なイスラエルを構成します。彼らはシナイ山で始められた古い契約下にいた肉のイスラエルの国民と対照をなすものです。もちろん,エジプトを去る前のユダヤ人の初子たちと特に交渉を持たれたことについての絵と,霊的イスラエルに対してこのような交わりを持つことについての絵はちがうものです。律法契約は,モーセを通して,国民全部とむすばれたもので,その初子だけとむすばれたのではありません。
20 聖書中のたくさんのたとえについては,何を留意すべきですか。
20 ついでに次のことを指摘します。すなわち聖書の中には,今日の私たちの益のための「手本」として,絵やたとえばなしがいっぱいはいっています。各絵には,それぞれの意味があります。一般的に言って,私たちはひとつの絵を他の絵に合わせてはなりません。また,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中に出ている多くのたとえを別のものと合せる,たとえば「羊」を「兵士」や「生ける石」に合わせてはなりません。―コリント前 10:11。ヨハネ 10:14。テモテ後 2:3。ペテロ前 2:5。
21 酬恩祭の犠牲をささげるにあたっては,どんな措置が講ぜられましたか。それにより何が予表されましたか。
21 古い律法契約の始められたときにささげられた犠牲を調べると,「酬恩祭」が含まれているのに気づきます。簡単に言って,その犠牲の血は,「食卓」とも呼ばれたエホバの祭壇上にふりかけられました。そして,脂はエホバに属する犠牲の部分として祭壇上で焼かれました。そのつとめをした祭司は,胸と右脚を分前としてもらいました。そして,この犠牲をささげたイスラエル人たちは,集会の天幕で肉ののこりを食べました。シナイ山で律法契約が始められたとき,後者の部分は,国民を代表した「イスラエルの長老七十人」によって行なわれました。そのような場合,イスラエル人はエホバの「食卓」でエホバと特別な交わりを楽しみました。同時に彼らは悪鬼の食卓で悪鬼に犠牲をささげることが禁ぜられました。偽りの宗教を行なったまわりの国民は悪鬼の食卓で悪鬼に犠牲をささげていたからです。―レビ 7:11-37; 17:5-7。出エジプト 24:9-11。エゼキエル 44:16。
22 どんな面でパウロは,これらの犠牲を主の夕食をむすびつけましたか。
22 私たちの益のための手本のひとつとして,パウロはこれらのことを留意していました。そして,それを主の夕食とむすびつけて,コリントにいる霊的なイスラエル人に次の言葉を書きおくりました,「わたしたちが祝福する祝福の杯,それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン,それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから,わたしたちは多くいても,一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。肉によるイスラエルを見るがよい。犠牲を食べる者たちは,祭壇にあずかるのではないか。あなたがたはエホバの杯と悪鬼共の杯を同時に飲むことはできない。あなた方は『エホバの食卓』と悪鬼共の食卓を共にすることはできない」。―コリント前 10:16-18,21,新世。
23 それであずかる者たちによって,(イ)たがいどうし,(ロ)キリスト・イエスそして(ハ)エホバとどんな特別な交わりが示されますか。
23 その立場をまとめて言うと,主の夕食は犠牲の食事と見なすべきでしょう。キリストの犠牲は,すでに述べた酬恩祭の犠牲になぞらえられています。新しい契約にいるクリスチャンたちは,その杯を飲み,そのパンを食べることによって,親密で貴重な交わりを楽しんでいることを示します。すなわち,(1)霊的イスラエル人の一致した会衆として,そのかしらなるイエス・キリストの下に「ひとつのからだ」を構成し,新しい契約の務めを果たしつつ,たがいに親密な関係を持ちます。また(2)キリスト・イエスと親密にして貴重な関係を持ちます。彼の血と肉の犠牲を通して罪のゆるしの益にあずかり,「彼の苦しみにあずかり」「第一の復活」により「神の性質にあずかる」希望をもって『彼の死のごとき死につき』ます。そして,あらゆることのうちで最も大切なことは,(3)すべての取りきめをつくられた御方であるエホバ神と交わることです。―コリント後 3:6。ピリピ 3:10。ペテロ後 1:4。黙示 20:6。
24 どんな根拠にもとづいてエホバとの交わりはいちばん重要ですか。イエスは祈りの中でこのことをどのように強調しましたか。
24 この最後の点につき,イエスがそのような犠牲をささげることを可能にした御方はエホバであることを留意して下さい。それでパウロは「エホバの杯」「エホバの食卓」と正しく語ったのです。イエスは彼の犠牲の価値をエホバにささげました。それは,まず霊的なイスラエルの益のために神のみこころに従って用いられるためです。それはエホバの新しい契約です。イエスは,弟子たちと一緒におられた最後の夜,彼らのためにささげた祈りの中でこの天的な父との親密で貴重な関係を強調されました。彼はこう祈られたのです,「父よ,それは,あなたがわたしのうちにおられ,わたしがあなたのうちにいるように,みんなの者が一つとなるためであります。……彼らが完全に一つとなるためであり,また,あなたがわたしをつかわし,わたしを愛されたように,彼らをお愛しになったことを,世が知るためであります」。―ヨハネ 17:20-26,新口。
25 パウロは,どこで,またどのように新しい契約のつとめを述べましたか。ペテロはこのことをどのように確証しましたか。
25 すでに述べた概要のなかで,まだ論ぜられていないひとつか二つの点があるので,それにつきすこしの注解をしたいと思います。第一に,新しい契約のつとめについては,パウロはコリント後書 3章4節から4章6節のところでこのことを詳しく説明し,その栄光は律法契約の栄光よりもはるかにすぐれていると示します。彼は次のように述べています。すなわち,「私たち〔クリスチャンたち〕は,エホバの栄光をかがみのように反映する」。最初,『私たちの心は,キリストの御顔により神の栄光にみちる知識で輝かされる』。それから,良いたよりを伝道することにより,その光を反映し,他の者たちに「真理を明らかにします」。たしかに,主の「他の羊」は,地上にまだいる小さな群れの残れる者と密接な交わりを持つことによって,同じ奉仕に参加します。しかし,主要な責任は新しい契約にいる者,霊的なイスラエルに課せられているのです。ペテロは,彼らについて次のように述べています,「あなたがたは,選ばれた種族,祭司の国,聖なる国民,神につける民である。それによって,暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを,あなたがたが語り伝えるためである」。―ヨハネ 10:16。ペテロ前 2:9,新口。
26 (イ)霊的イスラエルのためにこのあがないの価値は,特別な方法でどう適用されますか。(ロ)それで,「他の羊」については,どんな区別が示されますか。
26 また次のことを記憶することも大切です,すなわち霊的イスラエル人のために適用されるキリストの犠牲の価値によって,彼らが義なる者とみなされる,つまり地上にいるときでも神により正義の者と言明されるのは,特別の目的のためであることです。これらの者たちがキリストとともに犠牲に供せられるのは,神のみこころです。しかし,彼らがまず義とされないなら,そのことは正しく行なわれないでしょう。彼らは天的な生命の新しい希望をもって,霊的な子として神により生み出されます。これは神の御霊のはたらきによります。神の御霊は,また彼らに油を注ぎ,キリストをかしらとするからだ,あるいは会衆の成員として,彼らを合法的に認めます。この点でも,「他の羊」とまったくちがうことがはっきり分かります。「他の羊」は,神の御国の側に立場を取るため,くるしみを受け,生命を捨てるかも知れません。しかし,彼らは回復した楽園において地上の生命を楽しむという希望を犠牲にしません。神の御霊は彼らのために働き,彼らを支持し,御国奉仕と正しい行動という面で彼らを援助します。しかし,天的な復活という希望を彼らの中に起こしません。―ロマ 5:1,2; 8:15-17。コロサイ 1:18。
27 (イ)なぜ羊のような人はみな主の夕食式に出席すべきですか。(ロ)すべての人のためにどんな肝要な真理が強調されますか。
27 いただけるすばらしい益,また新しい契約にはいっている者のあずかる益,また彼らのはいる親密で貴重な関係について簡単に検討してきたので,彼らが大きな責任を持つだけでなく,すばらしい特権を持つということを,いっそう深く認識することができます。「他の羊」は,たとえ彼らがそれらの真理について,自ら経験しなくても,神の目的の肝要な部分を成すこれらの重要な真理について学ばねばなりません。それで,1年に一度の主の夕食式は,ほんとうに独特なものです。誠実な心から興味を持つすべての人は歓迎されます。また,つとめて出席するべきです。そのような集会は,真の崇拝の表われです。なぜなら,出席者全部が象徴的な意味で「エホバの食卓」につらなっているからです。もっとも,神の御霊のあかしを持って,種入れぬパンとぶどう酒の象徴物にあずかる人だけが,彼の霊的な子であり,『神の嗣子,キリストの共同嗣子』です。しかし,その晩の話をよく聞くことにより,すべての人はエホバに奉仕して,御国のために働き,二心のない専心の崇拝をささげる重要性,「悪鬼共の食卓」に仕えていることを示す行為から身を清く保つ重要性,さらにエホバの献身した証者たちの新しい世の社会と密接な一致を保つ重要性について,認識を新たにします。なぜなら,いまこそエホバがすべての羊を「おりの中の群れのように……一致のうちに」集められている時だからです。―ミカ 2:12,ヨハネ 10:16。
28 イエスについて,詩篇 116篇はどのように成就しましたか。それは,新しい契約にはいっているすべての者にどのように適用しますか。
28 しかし,天的な希望が自分のものであると知っている者,またすでに述べた御霊のあかしを持つ者は,象徴物にあずかるべきです。しかし,「吟味して後」ふさわしい仕方であずかるように注意を払うべきです。これらの霊的な子たちは,たがいに,またかしらなる主,そしてあらゆることにまさって,エホバとの貴重にして親密な一致を保つために,その意味を良く心にとめねばなりません。彼らはエホバの御手からいただいたすべてのものを感謝しているので,彼らの祈りはイエスの祈りと同じものでなければなりません。ある預言的な詩篇の言葉からそのことが分かります,「我いかにしてその賜へるもろもろのめぐみをヱホバにむくいんや」。彼らのかたい決意は,彼の決意と同じものでなければなりません。そのことは,同じ詩篇の中でも述べられています,「われ感謝をそなへものとして汝〔エホバ〕にささげん,われヱホバの御名をよばん。我……ヱホバにわがちかひをつくのはん」。彼らはその犠牲のコースを忠実に全うし,『死にいたるまで忠実を証明する』ので,イエスのすばらしい次の約束が保証されています,「私はあなたがたに生命の冠を与える」。ずっと以前にエホバが彼らのために書きしるした次の言葉,「ヱホバの聖徒の死はそのみまへにて貴し」を読むことによって,イエスは必要なときに慰めと強い保証を受けることができたにちがいありません。同様に,同じ犠牲のコースに従う者たちも,慰めと強い保証をうけることができます。―コリント前 11:28。黙示 2:10。詩 116:12-19。
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盲人が目あきに伝道ものみの塔 1962 | 4月1日
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盲人が目あきに伝道
トルトラにて
目がほとんど見えないある年配の兄弟が,どのように伝道し,文書を配布するかを聞くと,心の暖まる思いがします。その兄弟の御国会館は,人々が足しげくかよう道のそばにあります。彼は御国会館の石段にすわります。そして,足音が近づいてくると,その人に声をかけるのです。このような方法でその兄弟は,1ヵ月に43冊という多くの雑誌を配布することができました。それは,会衆の1ヵ月間の平均配布数の半分以上に当たります。その兄弟は,石段の上である人と一緒に研究さえすることができました。彼はその石段を自分の伝道区域と呼んでいます。―1962年のエホバの証者の年鑑(英文)より
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魔法使も真理を受けいれるものみの塔 1962 | 4月1日
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魔法使も真理を受けいれる
ほんとうに,タンガニーカでは「あらゆる種類」の人々が真理にはいってきました。ある会衆では,ひとりの魔法使が兄弟たちと交わり,集会に出席し始めました。彼はスワヒリ語の「御国のこの良いたより」を研究して後,お守りをみな持ち出して,山と積みあげ,人々の前で燃してしまいました。この世の友たちは,お守りを燃すようなことをしないで,むしろゆずってくれないかと彼にお願いしましたが,彼は「そんなことをすれば,大罪を犯すことになる」と答えました。この人は,次の大会で受洗するのを楽しみにしています。―1962年のエホバの証者の「年鑑」(英文)からの報告。
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神の目的とエホバの証者(その35)ものみの塔 1962 | 4月1日
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神の目的とエホバの証者(その35)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10新世訳
逮捕される危険を冒しても羊を養う
ドイツには多数のエホバの証者がいたので,ドイツ国内のエホバの証者の活動は盛んでした。同時に逮捕された証者の数も多かったのです。ナチ収容所の所長や警備兵は,残酷で非人道的な仕打をしたことで,有名でした。しかし,ドイツの証者たちは,逮捕の危険に面しても手をゆるめませんでした。また一時的な便宜のために中立という聖書的な立場を捨てて妥協するようなこともしませんでした。これらの兄弟たちは,主の羊を見出して養うことと,互いに霊的に援助し合うことを決意しました。
1934年に至って,ドイツのエホバの証者は失職しはじめました。その理由は,彼らが投票しなかったこと,あるいはヒトラー万歳を唱えなかっただけでなく,彼らが5月1日の祝いに参加しなかったことにありました。1936年,10月,国粋社会党の闘争機関紙,アングリフは,ドイツ全土のエホバの証者を失職させることを要求しました。a
1935年の「主の夕食」を祝ったときエホバの証者を見つけ出して逮捕するために特別の努力がなされました。そのことは次の秘密命令からも分かります。
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