ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 神の霊感による聖書の全部はどのように有益か
    ものみの塔 1964 | 2月1日
    • 罪を犯した人が何時でも悔い改めて許しを請うとは限りません。

      21 では同様な場合に戒めることを,イエスが語っているのはなぜですか。イエスは次のように言われました,「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら,行って,彼とふたりだけの所で忠告しなさい〔すなわち戒めを与えなさい〕。もし聞いてくれたなら,あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら,ほかにひとりふたりを,一緒に連れて行きなさい。それは,ふたりまたは三人の証人の口によって,すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら,教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら,その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい」。(マタイ 18:15-17,新口)これは訴えられた人が会衆から排斥されるべき場合ですから,単なる叱責にとどまらず戒めを与えるのが当然です。その人の非は証明され,当人もその事を承知しています。害を加えられた人が初め二人だけのところで罪を犯した人をいさめる目的は,そこにあるのです。もっとも罪を犯した人が決して罪を告白しないこともあるでしょう。証拠を提出することはつづき,まず二,三人の証人の前,ついで会衆の前に問題が提出されます。

      22,23 (イ)兄弟を戒めることには何が関係していますか。(ロ)パウロは戒めの意味をどのように説明していますか。

      22 このように,戒める場合戒めを与える人は訴えるばかりでなく,訴えを裏づける証拠を提出します。訴えられた人が自分を弁護して何かを主張すれば,戒める人はそれに答えるだけでなく,反論し,反証をあげます。それでもなお,戒められた人が自分の非を正直に認めず,告白しないかも知れません。しかし内心では有罪感を持っています。その人は心の中で自分の罪また悪行を意識させられます。この罪の自覚にともなって人は行いを改めようとするはずです。そうしなければ,証拠に照らして排斥されることでしょう。使徒パウロは会衆に宛てた手紙の中で,戒めがどのように働くかを説明し,コリント前書 14章24,25節に次のことを書いています。

      23 「〔集会において〕全員が預言をしているところに,不信者か初心者がはいってきたら,彼の良心はみんなの者に責められ〔戒められ〕,みんなの者にさばかれ,その心の秘密があばかれ,その結果,ひれ伏して神を拝み,『まことに,神があなたがたのうちにいます』と告白するに至るであろう」。

      24,25 戒めることに関して,光を掲げる者にはどんな責任がありますか。

      24 真理である神のことばを宣明すれば,神のことばの戒めがおのずと与えられます。そのわけでイエス・キリストは言われました,「悪を行っている者はみな光を憎む。そして,そのおこないが明るみに出される〔戒められる〕のを恐れて,光にこようとはしない」。(ヨハネ 3:20,新口)聖書の光を掲げる人は,宗教的,道徳的な暗黒に属するものを戒めるべきです。パウロは光を掲げる者に告げました,

      25 「実を結ばないやみのわざに加わらないで,むしろ,それを指摘〔戒め〕してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは,口にするだけでも恥ずかしい事である。しかし,光にさらされる〔戒められる〕とき,すべてのものは,明らかになる。明らかにされたもの〔もはや秘密でもなく,暗黒にも閉ざされていない,照らされたもの〕は皆,光となるのである。だから,こう書いてある,『眠っている者よ,起きなさい。死人のなかから,立ち上がりなさい。そうすれば,キリストがあなたを照すであろう』」― エペソ 5:11-14,新口。

      26 戒められたとき,賢い人は何をしますか。

      26 夜の暗黒の中にいるかのように眠っている者すなわち罪の中に死んでいる者は,与えられた戒めを受け入れ,霊的に死んだ状態から目ざめて起きあがり,イエス・キリストに従い始めます。キリストはその人に恵みと真理の光を照らし,その人はキリストから受けた光を反映して光を掲げる者となります。聖書はキリストについてあかししているのです。

      27 テモテとテトスに宛てた手紙の中で,パウロは戒めの必要をどのように示していますか。

      27 会衆の監督が会衆のメンバーの一人あるいは幾人かを公に戒めなければならない場合もあります。そこでパウロはテモテに宛てた最初の手紙の中で次のことを命じました,「罪を犯した者に対しては,ほかの人々も恐れをいだくに至るために,すべての人の前でその罪をとがむ〔戒める〕べきである」。最後の手紙の中でパウロはテモテに次のように命じています,「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても,それを励み,あくまでも寛容な心でよく教えて,責め,戒め,勧めなさい」。(テモテ前 5:20。テモテ後 4:2,新口)パウロはまた別の監督テトスにも,会衆の前で公に戒める権威を授け,次のように書き送っています,「教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは,彼が健全な教によって人をさとし,また反対者の誤りを指摘する〔戒める〕ことができるためである。……この非難はあたっている。だから,彼らをきびしく責めて〔戒めて〕,その信仰を健全なものにしなければならない。あなたは,権威をもってこれらのことを語り,勧め,また責め〔戒め〕なさい。だれにも軽んじられてはならない」― テトス 1:9,13; 2:15,新口。

      28 戒めの真の価値は何ですか。それは最重要などんな源から与えられるべきですか。

      28 それで戒めることの目的は罪人を立ち直らせ,反対者を言い伏せ,物質主義的な人が「信仰を健全なもの」にするのを助けることです。このように効果的な戒めを個人的に,あるいは会衆の前で与えるとき,聖書を使うよりも益のあることはありません。

      29 戒めることはなぜ愛の表われですか。

      29 戒めを与えられた人は,戒めの背後にある真の動機が愛であることを忘れてはなりません。それはなぜですか。戒める人は間違いをした者のあやまちを正し,その非をさとらせようと努め,あやまちを告白して行いを改めるように助けようとしているからです。イエスもご自分の愛する者を戒めると言われました。(黙示 3:19)あやまちをした人は戒めから益が得られることを悟るべきであり,それから理解を得ようと努めるべきです。箴言 19章25節は次のように述べています,「あざける者を打て,そうすれば思慮のない者も慎む。さとき者を戒めよ,そうすれば彼は知識を得る」。

      30 箴言 3章11,12節には,戒めに関してどんな賢明な言葉がありますか。それで戒めをどう受けるべきですか。

      30 それで戒められた人は,人間によって戒めが与えられたという理由で戒めを軽んじたりしないでしょう。ヘブル書 12章4-6節において,神の子となることを望む者は箴言 3章11,12節の次の言葉を忘れてはならないと命ぜられています。「我子よ汝エホバのこらしめをかろんずる勿れ,そのいましめを受くるをいとふこと勿れそはエホバはその愛する者をいましめ給ふ,あたかも父のその愛する子をいましむるが如し」。従ってたとえ人間を通して戒めが与えられても,それが霊感による聖書からとられたものであり,「神の人」であるクリスチャンの与えたものであれば,戒めはエホバからのものであることを確信できます。エホバからのものとしてそれを受け入れなければなりません。しかし戒めを神の愛の表われと見なしなさい。

      「正しく」する

      31 (イ)聖書はほかにどんな益を与えますか。(ロ)イザヤは,物事を正しくすることの必要をどのように示していますか。

      31 霊感による聖書は「正しく」するためにも有益です。(テモテ後 3:16,新口)よこしまな世にいた時,たとえキリスト教国の中にいたとしても,私たちは神との関係を正しくすることが必要でした。それはまさしく神の望まれることです。イザヤ書 1章18,19節において神は不従順な民にむかい次のことを述べられています,「エホバいひたまはく,いざわれらともに論らはん〔物事を正しくする〕,なんぢらの罪は緋のごとくなるも雪のごとく白くなり,紅のごとく赤くとも羊の毛のごとくにならん若なんぢら肯ひしたがはゞ地の美産をくらふことを得べし」。

      32 神は昔多くの場合どのようにして物事を正しくされましたか。今日どのようにそのことをされていますか。

      32 むかしエホバ神は,罪深い民が物事を正しくし,物事の正しい理解を得て神の前に正しく歩むのを助けるために,預言者を遣わされました。今日,神の霊感による聖書が,私たちの生活を正しくするのに役立ち,「キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵」を与えます。このように役立つ聖書は全く有益な本であり,他のどんな本にもまして有用な本です。それは最も貴重な本です。聖書は私たちの生活の中からよこしまな事を除くのに役立ちました。それで聖書を用いて他の人々を援助するとき,その人々もまた心を正しくし,道徳,宗教の面で生活をただすことができるようになります。また気落ちした人を立ち直らせることもできます。

      33-35 (イ)兄弟同志また外部の人に対して物事を正すため,神のことばをどのように使うべきですか。(ロ)パウロはテモテに対して,この事をどのように強調しましたか。

      33 ヘブル書 12章12,13節はこの事をするようにと告げています。「それだから,あなたがたのなえた手と,弱くなっているひざとを,まっすぐにしなさい。また,足のなえている者が踏みはずすことなく,むしろいやされるように,あなたがたの足のために,まっすぐな道をつくりなさい」。むかしシリヤのアンテオケで使徒パウロは,ペテロ(ケパ)と他のユダヤ人のクリスチャンが「福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを」見ました。(ガラテヤ 2:14,新口)同様に私たちの兄弟も時に矯正を必要とします。クリスチャンの兄弟に対しても,偽善的なキリスト教国を含むこの世の人に対しても,神を喜ばせる道,そして唯一の正しい道に従って物事を正しくするには,神の霊感によって書かれた本を使わなければなりません。監督テモテは兄弟を助け,神を求める人を助けて,物事を正しくする務を持っていました。そこで使徒パウロはテモテに次のことを書き送っています。

      34 「あなたは,これらのことを彼らに思い出させて,なんの益もなく,聞いている人々を破滅におとしいれるだけである言葉の争いをしないように,神のみまえでおごそかに命じなさい。あなたは真理の言葉を正しく教え,恥じるところのない練達した働き人になって,神に自分をささげるように努めはげみなさい」― テモテ後 2:14,15,新口。

      35 物事をただす必要があるとき,真理をかくそうとしたり,信者や学ぶ者の信仰をくつがえそうとする言葉によって混乱させられてはなりません。むしろ神の「真理の言葉」によって物事を決定すべきです。それは正しい教理を教えることを意味します。そうすれば,恥ずべき結果になることはありません。

      「義を薫陶する」

      36 (イ)牧師は非聖書的なものを弁護するため,たいていどのように言いますか。神のことばは,このような場合何をすべきことを命じていますか。(ロ)父親に対するエペソ書 6章4節のパウロの言葉を説明しなさい。

      36 最後に霊感の聖書は「義を薫陶する」のに有益です。(テモテ後 3:16)宗教組織の要求また実践する事柄が聖書にのっとっていない場合,牧師はそれが教会の規律であると言って,非聖書的な事柄を正当化しようとします。しかし聖書と一致していなければ,それは義を薫陶するものではなく薫陶を受けた者を救う結果になりません。薫陶のおもな目的は教育であり,教えを授けることです。(使行 7:22)この教育が組織の一定の法や規律の下で行なわれることはあります。パウロが父親にむかって述べた言葉の中で,この組織はクリスチャンの家庭です。「父たる者よ。子供をいらだたせないで,エホバのこらしめと,権威ある教えによって子供を育てなさい」。(エペソ 6:4,新世)ここで言うこらしめは,クリスチャンである父親に服従しながらクリスチャンの家庭においてどう振舞うべきかを子供に理解させるため,子供を訓練し教育することです。このこらしめに従って行なうように援助するため,訓練の期間中,必要に応じて権威ある教えすなわち神の権威あることばからの教えと励ましを子供に与えます。従ってこらしめは,未熟な子供が勝手気ままに無分別な行ないに走ることをおさえ,クリスチャンの家庭で規則に従って行動することを学ばせます。

      37,38 このような訓練は,父親と子供以外の者にもどのように及びますか。

      37 更に大きく,包括的な組織であるエホバ神の組織すなわち地上にあるクリスチャン証者の会衆においても,薫陶することが行なわれねばなりません。会衆は天の大いなる父の家すなわち「神の家」を表わします。その規則,規律,運営の方法は義に基づいており,それに一致して考え,行動するメンバーは義を学びます。

      38 私たちは神の組織の中でどのように振舞うべきかを,教えられねばなりません。パウロがテモテに次の教訓を与えたのはそのためでした。「わたしは……この手紙を書いている……神の家でいかに生活すべきかを,あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは,生ける神の教会のことであって,それは真理の柱,真理の基礎なのである」。(テモテ前 3:14,15,新口)パウロがテモテに与えた教訓は,霊感による聖書にいまおさめられています。そして神の霊感による聖書は,「義を薫陶する」のに有益です。

      39 ここでもこらしめを与える動機は何ですか。これはクリスチャンにとって何を意味しますか。

      39 敬虔な家庭においてもエホバの証者の会衆においても,クリスチャンのこらしめの背後にある動機は愛です。従ってそれは正しく確立され,また与えられます。神権的な律法と定めにのっとって施されるこの教育の方法は,霊感による聖書に明らかに示されています。それは救いを得させるための,愛に根ざした教育です。それでこらしめを受け入れる結果たとえ会衆の内外においてこの世の放縦な話し方,行動,生き方をすることが許されなくても,私たちはこのこらしめに服従しなければなりません。

      40 この世でどんな妨げに直面するかも知れませんか。しかしどんな喜びがありますか。

      40 このこらしめに従って行くとき,批判,反対,迫害を世から受けるかも知れません。しかしそのすべては私たちがこの世で受ける訓練の一部です。そのため,「永遠の福音」を公にも家から家にも伝道して,神から与えられたわざを行なうことがつらい経験になるかも知れません。しかしそれはよい訓練となり,ヘブル書 12章11節の述べるように望ましい結果となります。「すべての訓練は,当座は,喜ばしいもものとは思われず,むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば,それによって鍛えられる者に,平安な義の実を結ばせるようになる」。ですからその事のゆえに天の父なる神を愛そうではありませんか。

      41 「聖書すべて」に注意を払うならば,私たちは何になりますか。

      41 今日私たちは生き,訓練されたエホバのクリスチャン証者として全世界にわたるわざを一致して遂行しなければなりません。神の人,神に献身した民として行動し,奉仕しなければなりません。永遠の救いに至る知恵の道は,「永遠の福音」の本を忠実に学び,それを使うことにあります。それは「神の人が,あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて,完全にととのえられた者になる」ため,愛をこめて私たちに与えられました。―テモテ後 3:17。黙示 14:6,新口。

  • 「聖霊に満たされて大胆に神の言を語る」
    ものみの塔 1964 | 2月1日
    • 「聖霊に満たされて大胆に神の言を語る」

      ― 1964年度エホバの証者の年鑑から

      日本

      最高伝道者数: 2,931

      人口: 95,750,000

      比率: 32,668人に1人

      日本には善良な人々がたくさんおり,エホバの証者はその人々を助けて,迷信的な慣習を取り除くためにできるだけの努力をつくしています。人々が,創造者のみこゝろにかなうべく,自分自身の心を変えてゆくには時間がかかります。それで,エホバの証者は,忍耐を働かせつつ,伝道や聖書研究にはげんでいます。1963年は,日本における証言の仕事が大きく拡大した年となりました。その上,京都市では「永遠の福音」大会が開かれ,大きな祝福となりまし

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする