ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 老人と困っている者に対する思いやり
    ものみの塔 1962 | 12月1日
    • 一緒にいることができるなら,年老いた両親にとって,クリスチャンとしての忠実を保つのに最適の所はクリスチャンの家庭です。貧しく,困っている両親は,それだけの尊敬を受ける権利があります。

      多くの地方では,年老いた両親が,死ぬまで家長の権を持っていて,子や孫が一つの世帯の中にいます。結婚した子供は,別に自分の家を作る習慣になっている国もあります。ある国々では政府が,老人のために社会保障を備える法律を通過させるかも知れません。養老年金,恩給,貯金などで,年老いた両親や祖父母も別世帯で生活できるかも知れません。しかし,そうした給付が十分でなくて,年老いた親が困る時には,クリスチャンの子どもたちは,テモテ前書 5章4,8,16節のパウロの助言に従って,ためらうことなく両親や祖父母を物質的に援助して尊敬を示します。

      といってもこれは,両親が,気に向いた時いつでも子供に物質的支持を要求できると考えて,むだづかいをしてもいいという意味ではありません。パウロはまた,「子供は親のために財をたくわえて置く必要はなく,親が子供のためにたくわえて置くべきである」と言いました。(コリント後 12:14,新口)普通ならば多くの親は,老後の生活に間に合うだけの家,財産,収入源を手に入れるものです。実際にそうである限り,親は子供に負担をかけるにはおよばないでしょう。しかしもし,親の生活費が足りないなら,あるいは補う必要があるなら,クリスチャンの子供たちは喜んで助けます。時には,老人にはできない仕事を手伝うという面で援助がいる時もありましょう。愛は思いやりを示します。

      今日,クリスチャンの監督は,会衆内の年老いた人や困っている人の状態によく心を用いなければなりません。会衆のメンバーも同様に,貧しい人,老人,やもめ,盲人,不具者,床についたきりか,何キロも離れた所の療養所にとじこもっている病人など,援助に価するクリスチャンたちに親切を示さねばなりません。もしあなたが監督であれば,つぎのことを自問してください。私はいつも会衆に,だれが病気か,あるいは困っているかを知せているだろうか。私がいつもそういう発表をするので,会衆は困っている人のことを私に告げる良い習慣をもつようになっただろうか。私は,「この世で富んでいる」クリスチャンたちに,「良い行いをし,良いざに富み,惜しみなく施し,人に分け与えること」を励ましているだろうか。(テモテ前 6:17,18,新口)エホバが「イスラエルの牧者」をしりぞけられたのは,彼らがエホバの言われているように,「弱った者を強くせず,病んでいる者をいやさず,傷ついた者をつつまず,迷い出た者を引き返らせず,うせた者を尋ね」なかったためであったことを忘れないでください。(エゼキエル 34:4,新口)神の羊を牧することには,霊的援助と同時に物質的援助も含まれています。貧しい人の場合には,会衆の委員が,テモテ前書 5章3節から16節にあるパウロの助言を心に留めて,会衆の取るべき手段を決定することができます。

      むろん,緊急事態が生じた場合クリスチャンは,会衆の正式な働きを待つまでもなく,困っている兄弟を助けることができます。他の人に分け与えることは,あなた個人の特権であり,あなたのクリスチャン愛の表現です。といっても,自分の物を分け与えるだけが,思いやりを示す唯一の方法だというのではありません。病人を見舞い,年老いた人,困っている人を訪ねることによっても思いやりを示すことができます。こう自問して見てください。私の会衆には,病気で,買物,掃除,洗濯などの手伝いを必要としている人がいるだろうか。集会や大会の行き帰りに,老人や困っている人を自動車に乗せてあげるようにいつも気を使っているだろうか。私の会衆には,私が本を読んであげられる盲人や視力の弱い人がいるだろうか。以前よく会衆の集会に来ていた人で,いま病床にある人,あるいは苦しんでいる人を最後に訪問したのはいつだっただろうか。

      それらの年老いた人,困っている人にやさしい愛を示すことによって生ずる結果は,そのような思いやりにエホバの祝福があることを証明するものです。ある婦人は,毎日曜日に朝早く起きて,かなり遠い所まで年老いたひとりの未亡人をわざわざ自動車で迎えに行き,一日中一緒に証言したり集会に行ったり,食事を共にしています。別の会衆でのことですが,年老いた母親とふたりだけで住んでいるある年配の婦人が最近病気になった時,会衆の成員はその姉妹のベッドの回りに働きばちのように押しかけて,家の掃除,買物その他の仕事を引き受けました。次第に快方に向かっているこの病人は感謝の心をこめて言いました,「これほど多くの兄弟姉妹が私を愛してくださっていたとは知りませんでした。エホバへのこのご恩は私には返しようもありません!」。またもう一つの場合,年老いた忠実な婦人が,非常な苦境に陥った時,献身したばかりの証者の家族が,その困っている人を自分の家に引きとって,長い間やさしく世話をしました。こうした実例は,ヤコブの次の言葉がいまでも守られていることを証明します。「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは,困っている孤児や,やもめを見舞い……」。―ヤコブ 1:27。

      あなたが,イエスの兄弟のいと小さき者に対して思いやりを示す時,イエスはそれを自分に対してなされたものと考えられます。そのような思いやりは,神の新しい世で永遠の生命という祝福を受ける者の列にはいっている,主の「他の羊」の間で見られるものです。(マタイ 25:31-46)「困苦者をあはれむものはさいはひなり」という箴言を真実とする思いやりのある人には,いまでも祝福があります。年老いた人や困っているクリスチャンを訪問するとき,あなたは,与えることのよりすぐれた喜びを楽しむほかに,それがお互いの励ましになることにお気づきになるでしょう。苦境にあっても忠実を保つ人を見て,訪問者は,忍耐という貴重な教訓を学びます。多くの場合,年老いたクリスチャンは,興味深い経験をたくさんもち,またエホバの会衆の近代の歴史の中で生じた著しい出来事を目撃しています。思いやりを示された人々は,エホバへの祈りのうちにあなたを覚えているでしょう。これこそあなたが,『この世では貧しくても信仰に富む』忠実な人々に親切を示す時に受ける祝福です。―ヤコブ 2:5。

      エホバは,この苦しい時に,私たちが神と隣人に対し十分の愛をもち,新しい世の楽園で生命をいただくだけの資格があるかどうかを見るために,私たちの心を調べておられます。この検閲の下にあって,私たちひとりびとりが,忠実なヨブと同じようにつぎのように言うことができますように,「助けを求める貧しい者を救い,またみなしごおよび助ける人のない者を救ったからである。今にも滅びようとした者の祝福がわたしに来た。わたしはまたやもめの心をして喜び歌わせた。わたしは目しいの目となり,足なえの足となり,貧しい者の父となり,知らない人の訴えの理由を調べてやった」。―ヨブ 29:12,13,15,16,新口。

  • 神の目的とエホバの証者(その51)
    ものみの塔 1962 | 12月1日
    • 神の目的とエホバの証者(その51)

      「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳

      第31章 神と自由に対するケベックの火の如き憎しみは暴露され,敗北をこうむる

      ジョン: 1950年は,ニューヨーク市のヤンキースタジアムで最初の国際大会が開かれた年として,たいていのエホバの証者の記憶に留められていますが,これはカナダにおいても大切な年でした。その年,カナダで真の崇拝に反対した人々を敗北させた,一連の法廷における勝利の最初のものが得られたのです。これはアメリカ最高裁判所においてエホバの証者の得た記念すきべ勝利と同様なものでした。

      すでに何年かにわたり,フランス領ケベックの全土では,崇拝の自由のために戦いが行なわれていました。ここはローマカトリック教会の根強い地盤で,戦いは激しく,熱烈でした。ヤンキースタジアムでの大会についてお話しする前に,これらの出来事を回顧したいと思います。

      話は1946年にもどりますが,その年,カナダの支部の僕が協会の会長に送った報告は,真理にうえかわく善意者に伝道するため,一致した努力の必要なことを述べています。

      ケベックおよびニューブルンズウイックの両州には,手つかずの広大な区域があります。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする