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  • その16 新しい名を持ちて神権的に伝道
    ものみの塔 1956 | 2月15日
    • 無線の通信設備により,世界の各地に居た人々は,暴動が実際に起きているのをきくことができました。広場にいた聴衆は拍手につぐ拍手を送つて,活潑な支援をし,講演者も,あくまでも冷静にマイクロホンに話しつづけ,ぶじに,この騒動をくぐりぬけました。このカトリック暴動の主謀者に対し,協会が法律上当然になした抗議には,何らの応答はありませんでした。しかしながら,1939年の秋になつて,ニューヨーク市の特別法廷の3名の判事(2名のローマ・カトリックと1名のユダヤ人)は,3名のヱホバの証者の無罪を言い渡しました。また広場に集つていた尨大なる聴衆が突然の困乱に見舞われ,しかも市の警官たちが秩序維持に全く失敗したとき,これら案内者(ヱホバの証者)が断乎として取つた自衛処置について,判事たちは賞讃の言葉をも辞しませんでした。これら3名の案内者は,力ずくで広場からカトリックの暴民を出したとき,それら数名の暴民によつて,起訴され,不当にも逮捕されていたものです。

      もう一つの注目すべき出来事。イギリスのロンドンの地で,1939年6月24日,土曜日,アイ・アール・エイは協会のロンドン事務所に脅迫の電話を正式にかけてきました。(このアイ・アール・エイとは,アイルランド共和国軍隊の略で,すぐる数ヵ月のあいだ全イギリスに亘つて,爆弾襲撃運動をおこしていた,カトリックの暴動団体です)この団体は,もし協会が計画していた6月25日のルサフォードの海外講演を中止しないならば暴力行為に訴えるとおどかしました。この講演は,ニューヨークのマヂソン広場から中継され,ロンドン,ベルフアースト巡回区で聴く予定でした。通達されたスコットランドの地区警官隊は協会の大会会館をとりかこんで保護にあたりました。一つの爆弾は,ロンドン大会の土曜日の中心会場,キングスウエイ会館附近で爆発しました。ヱホバの証者は誰一人として怪我しませんでしたが,五,六名の通行人が死亡しました。大西洋の両側において,カトリック分子は暴力までも用いて,ヱホバの証者から崇拝の自由を奪いとろうとしていたのです。

      この宏大な活動をとげた1929年から1939年までの奮闘期間に,何か顕著な制度の進歩は行われましたか? まことに,大きな進歩がありました。1931年(7月20日-30日)コロンボス(オハヨー州)の大会には,約1万5000名が出席して,決議を通過し,ヱホバの証者という新しい名前を採用しました。この名は,イザヤによつて記録された,ヱホバ御自身の言葉に基ずいた意味深いものです。(イザヤ 43:10-12)この喜ばしい通過により,この新しい名前は全世界にも伝えられました! 次につづいた数週のあいだ,全世界では50の大会が行われ,ヱホバの民は,喜んで,この新しい名を採用しました。たしかに,1931年以来この名前は全世界に知れわたつてきています。ヱホバの証者という祝福された名は,どんなに彼の民にふさわしいものであるかを事実はよく証明しています。彼らは,熱心にヱホバの御名の立証のために働き,全宇宙のうちで,その名の当然おかれるべき位置 ― 即ち,最高の位置にその名をおいています。ヱホバこそ,全宇宙での栄光に充ちた最高至上者ではありませんか?―詩篇 83:18。使行 3:19-23; 4:24-30。コリント前 15:28。黙示 11:15。ダニエル 7:13,14。イザヤ 9:6,7。

      前記の『新しい名』の決議と大会でのルサフォードの講演は,『御国,世界の希望』という冊子におさめられて発行され,まもなく後に,多くの国語にも訳されました。翌月の10月に,凡ての権力筋へこの冊子を1冊づつ郵送する運動が行れました。合衆国やカナダだけでも,13万2066名に冊子が送られ,そのうち8万8009名が牧師,1万9103名が政治家,2万2869名が財界人,2085名が軍の指導者です。つづく月々には,さらに500万冊の冊子が全世界各地の家々に配布され,新しい名は揺がぬものとなつてきました。

      約20年の徐々なる過程を経てのち初めて,1938年に会衆の統治体は,聖書に示されている神権的模範に全く従い協会は凡ての僕を直接任命するようになりました。これによつて,強固な統一された協会のもとに神権的な統合の下準備は整えられました。(1933年から1935年まで行われた)群(隊)の伝道から次のような経験をかち得ました。即ち,野外の証言運動の折,迫害や反対に対抗するため,会衆が近隣の会衆と一致団結するとき,すばらしい統一が見られ,驚くべき力が産み出されるということでした。そのため,1938年の10月ベウラの地の住民の神権制度内に,『地区』奉仕の開始と共に次の手段がこうぜられました。すなわち,地方地方で,約20の会衆が一つになつて『地区』を形成します。協会から任命された『地区の僕』は,各会衆と1週間づつを過し,各会をより良く組織し,野外証言の点で援助して行きます。時折,『地区大会』も開かれて,20又はそれ以上の会衆が一緒になり,相互の親和とか増進をはかりました。特別の僕が協会の本部から派遣されて,これらの大会に奉仕します。新しい制度の助言も発行され,1938年10月1日からヱホバの民のうちに有効となりました。

      この新しい取極めは,全国的にも国際的にも,制度を完全に団結さす上に,非常な助けとなつたのです。伝道者の点でも,またその他の一般野外奉仕活動においても,増加が直ちに見られるようになりました。1942年,再取極めが行われ,協会により派遣される訪問の代表者たちは『兄弟に仕える僕』と呼ばれることになりました。1946年10月15日から,以前に地区と知られたものは,今後,『巡回区』と呼ばれるようになり,年に2度づつ,地方の大会を開催します。1948年になると,幾つかの巡回区が集つて,一つの大きな単位の『地域区』を形成し,年に1度,大きな大会を開催します。地域の責任をもつものは,『地域の僕』と呼ばれ,『兄弟に仕える僕』は『巡回の僕』という新しい名前となりました。

      その他の注目すべき出来事のうち,1935年ハワイの島々へ協会の会長が訪問したときの収穫があります。そのとき支部の事務所がホノルルに設立され,建設中の新しい支部建物に,集会用の会館も建築する取極めがなされました。この会館の献堂式のときに,この会館は『御国会館』という適当なる名前がつけられ,それ以後,全世界の会衆の集会中心地は,その名前を用いるようになつてきました。1937年の秋,以前に『ロンドンの幕屋』として知れ渡つていたものは,再装飾をほどこされ,『御国会館』と名付けられました。

      1937年10月6日には,『なぐさめ』の第1号が印刷されました。これは,1919年10月以来,隔週ごとに規則正しく発行されてきた協会の雑誌『黄金時代』の新しい名前です。現在この雑誌は,『目ざめよ!』とよばれています。

      オーストラリヤに協会の会長が最初に訪問した恵みの時とは,1938年の春です。その地のヱホバの証者は,判事ルサフォードを心からの喜びの裡に迎えました。シドニーの競技広場<スポーツグランド>で,2万5000名はルサフォードの有名な講演『警告』を熱心にききました。この講演のとき,この大会は最高潮に達しましたが,ヱホバの証者は南大平洋の各地 ― マレー,ジャバ,仏領印度支那,上海,ニュヂーランド,オーストラリヤの連邦の各地からこの大会に参加しています。

      『ものみの塔』や『なぐさめ』を街頭で配布することは,1940年2月から協会によつて開始されています。ヱホバの証者は,― 若きも,老いたるものも ― 特別につくられた雑誌の袋を肩にかけて,街頭に立ち,村や町や都市の通行人の目に毎週,映ずるようになりました。このようにして,初期の効果ある公共宣伝の業はすすめられて行きました。1940年から全世界の殆んどの国々において,幾千万人の人々は,これら証者が毎週街頭に立ち,神権政府の宜明をしている,人目惹く姿を見るようになりました。又,神が人々の心を審判する上にも,この業は重大な役割を果し,大人も子供たちもこの業により訓練され,今日や明日のより効果ある雑誌の業に全き参加する備えがなされました。―マタイ 25:31-46。シンゲン 1:20-23。

      この期間に遂行された尨大なる配布の状態をまとめるため,表を記載してあります。(この表にある)4つの連続期間の示す65ヵ年を経過するあいだに,準備的及び最終的の『ヱホバの御国を宣明する』業は着々として国際的に移行していつたことを,賢明なる読者は,表の比較から悟ることでしよう。

      “ヱホバの御国を宣明する”

      65年に亘る4期間 配布された書籍と冊子(雑誌とか無料の幾百万のパンフレットを含まず) 全世界の活潑な伝道者の最高数

      1874~1892 1,535,000 400

      1893~1918 9,737,224 21,274

      1919~1930 93,500,000 23,938

      1931~1939 215,984,991 61,589

      まことに,不屈の『いなご』のように,ヱホバの証者は,彼らの父と彼の無敗の王の業に励むうちに,1939年に終る10年もすぎて行きました。(シンゲン 22:29。ルカ 2:49)制度的にも沢山のことがおきました。また背教の反対者への不撓不屈の戦により,ヱホバの証者は,言論と崇拝の自由の戦士として,世界的な舞台に登場しました。神権制度外の消息筋からの賞讃の言葉を,ここにかかげて,むすびとしましよう。

      『ヱホバの証者は,彼らの証言で全地を文字通りに掩つている。……近代のクリスチャンのうち,証者程に,数多くの聖句をつねに使用し,記憶しているものはないであろう。証者も聖書について議論して勝利をうるには,今日の基礎主義者の教会の人々よりも聖書をよく知つていなければならない……どんな種類の障害においても,彼らは乗りこえて前進する。証者は,合法的の全手段を用いて,彼らたちの民権,公共集会の権利 ― 時々,拒否されたときに ― 文書の配布権利,どんな他の権威よりも神を高くあがめ,良心の権利を確保するため,戦つてきた。証者の民権を確保しようとの戦において,彼らは民主国家に対する先導的役目を果してきた。何故なら,彼らの戦は,アメリカ内の小団体の権利確保の上にも,実に良い影響をもたらした。もし,一団体の民権が侵入されたとき,他の如何なる団体もおびやかされるであろう。故に証者は,我ら民主国家において,もつとも貴重なものの確保に偉大なる貢献をなしてきたのである。』(つゞく)

  • 発表
    ものみの塔 1956 | 2月15日
    • 発表

      1956年の記念式の発表

      キリストの死を記念し,かつ油注がれた追随者のあずかる主の夕食の1年1回の記念式は,今年3月26日,標準時間で,午後6時以後に行われます。その日は,昔のニサンの14日に相応しますが,その夕方にキリスト・イエスと使徒たちは,この記念の式を始めるために集まりました。故に(神に善意を持つすべての人を含めて)ヱホバの証者は,この日に集まります。献身してバプテスマをうけた能力のある講演者 ― できるなら能力ある,残れる者のひとり ― は,講演を話し,そしてヱホバの祝福を各表象物の上に別々に祈つたのち,表象物の分配をいたします。出席者は,みな会衆によつてつくられる野外奉仕の取り極めに参加するよう招待されます。

      容易に知識を得る方法

      多くのことを知つている人は,案外に少ないものです。ところが,いろいろな事柄を知つている人もいます。そのような人は,どんな話でも旨く合槌が打てて,すらすらと話を進めて行きます。話し合つている事柄を,全く知らないわけではないからです。『目ざめよ!』誌の予約者は,広く多くの知識と見聞を得ます。毎月1回,予約者のところに送られるこの20頁の雑誌『目ざめよ!』には,有益な聖書の記事が記載されています。1年にわずか250円という驚く程安い金額で,この知識を与える雑誌が得られます。一刻も猶予しないで,今すぐ左記の発行所に註文して下さい。

      『ものみの塔』研究

      3月18日 祝福をいただくための試み 1-22,66頁

      3月25日 同23-29,及び試みをして後の祝福された結果 73頁

日本語出版物(1954-2026)
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