-
ある治療法を退けるのは命を退けることですか目ざめよ! 1984 | 10月8日
-
-
ある治療法を退けるのは命を退けることですか
「いずれかの治療法を受け入れるとしたら,どの治療法を受け入れるかを決める権利が自分にはあるのだろうか」と自問してみてください。これは考慮すべき重要な質問です。医師の勧めるある療法を退けるのは,命に対する認識の欠如を示すことだと主張する人もいるからです。さらに,関係している危険性を比較考量して,病気の子供に勧められているある特定の治療法を親が断るとしたら,それは愛のないことだろうか,と尋ねることもできます。
この問題について独断的に語るある人々は,「この療法を受け入れないと言うことは,子供の命はいらないと言うことだ」という主張で,この問題を片付ける傾向があります。しかし,それが物事を単純化しすぎた,極めて皮相的な見解であることが容易に理解できることでしょう。それはむやみに感情をかき立てはしますが,(1)良心と基本的な倫理,(2)本人および家族の権利,そして(3)世界的に注目を浴びるようになった問題の医学および法律的側面などを無視しています。
良心とは人の奥底にある侵すことのできない部分であり,正気の道徳的な人間にはだれにでも備わっています。著名なカトリックの枢機卿,ジョン・ヘンリー・ニューマンは,『光明へと向かう道は良心に従うことにより見いだされる』と主張しました。ですから,ナチの戦犯が自分たちは命令に従っていたにすぎないと述べた時,世界中の道徳的な人々はそれらの人々が命令よりも自らの良心の声に従うべきだったと答えました。同様に,1982年1月,法王ヨハネ・パウロ2世は,『人々の良心が押さえつけられることがないよう,神に対して声を上げた』と言われています。人の良心に反することを無理に行なわせることは,「人間の尊厳に極めて大きな苦痛を与えることで,ある意味では,身体上の死を引き起こすこと,つまり殺人よりも悪い」と同法王は語りました。
医療に関する決定において良心が肝要な役割を果たすべきであると考えているとしたら,読者ご自身の気持ちは法王のこの言葉と調和するかもしれません。
医療に関する問題と良心
ここに例を挙げましょう。読者がどんな信仰を持っているにしても,カトリックの教理では,たとえ妊娠により母親か子供の生命に危険が生じたとしても,女性は堕胎を求めてはならないとされていることをご存じかもしれません。これが堕胎の合法化されている国に住むローマ・カトリック教徒の医師にどんな問題を投げ掛けるか想像してみてください。1978年5月22日に法律194号が成立して以来,イタリアはそのような国になっています。この法律は,医療に従事する人の側が良心的に堕胎を拒否することを認めています。ところが,第9条は,女性の生命にかかわる場合,医師は「良心的拒否権を行使してはならない」という条件を付けています。では,誠実なカトリック教徒の開業医はどうしたらよいのでしょうか。
近くにほかの医師がおらず,その医師が自分の良心に反しない範囲で最善を尽くしたとしたら,わたしたちはその人を殺人罪で告発するでしょうか。むしろ,たとえ女性や当局が言い張ったとしても,医師の良心に反することを無理やりに行なわせるのは,「殺人よりも悪い」ことになるでしょう。この例は,良心の求めるところが健康と生命にかかわる医療上の決定に影響を及ぼし得ることを如実に物語っています。
親と子供と命
わたしたちは,初期クリスチャンの行なった事柄にも,この点をはっきり認めることができます。皇帝の像の前で香をたくことは偶像礼拝に当たるとして,初期クリスチャンがその行為を拒んだことはきっとご存じでしょう。しかし,その宗教的また良心的な見方は,その人たち自身,および子供たちの健康と命に直接関係していました。なぜでしょうか。『香をささげるか,さもなくば家族もろともローマの闘技場で皆殺しだ』という選択を迫られた時にも,クリスチャンは自分たちの信念を曲げようとしなかったのです。彼らは,その道が自分と自分の子供たちにとって危険であっても,命にかかわることになっても,自分たちの信仰に忠節でした。
クリスチャンは血についても試みを受けました。「血を避ける」よう聖書の中で命じられていたからです。(使徒 15:20)3世紀のラテン人の神学者,テルツリアヌスは,てんかんの患者が殺された剣闘士の生き血を飲んでいたことを報告しています。それがてんかんの治療法とされていたのです。クリスチャンはそのような“医療上の”理由で血を摂取するでしょうか。決してそのようなことはしません。テルツリアヌスは,『クリスチャンは動物の血さえ食べようとしない』ことを付け加えています。事実,ローマの当局者は,ある人が本当にクリスチャンかどうかを試みたいと思った場合,血で作ったソーセージを食べさせようとしました。真のクリスチャンなら,死刑に処されたとしても,それを食べないことを知っていたからです。これは注目に値することです。今日のエホバのクリスチャン証人もやはり,血を取り入れることを拒むからです。
さて,これらの初期クリスチャンたちは命をあまり大切にしていなかったのか,それとも殉教者になりたいと思っていたのか,と尋ねてみることができるかもしれません。そのいずれでもありませんでした。それら初期クリスチャンたちとその子供たちを死に追いやったのは,ローマの当局者たちでした。そして,法王が最近述べたように,自分たちの良心に反する行動をするのは死よりも悪いということを知っていたこれら献身的なクリスチャンたちに関する記憶を,わたしたちは重んじるのではないでしょうか。
これは医療に関する決定とは分野が異なると思う人がいれば,D・N・ゴルトシュタイン博士の書いた次の言葉に注目するとよいでしょう。
「この立場[ある治療を拒否する人に無理やりにその治療を施すこと]を取る医師たちは,自分たちの命をさえ惜しまず原則に対する最高度の献身的行為をもって歴史に輝きを加えた殉教者たちすべての犠牲を退けている。宗教上の良心のとがめを感じるような行為をするよりは確実に臨む死を選ぶそれらの患者たちは,……[強制的な]バプテスマを受けるよりは……自分たちの命を代償として支払った人々と変わらないからである。……医師はだれも,魂を滅ぼして体を救うために,法の手を借りようとすべきではない。患者の命はその人自身のものである」―「ウィスコンシン・メディカル・ジャーナル」誌。
真の命を選ぶ
大抵の人は,「命」が単なる生物学的な存在以上のものを意味することに同意するでしょう。命とは,理想や価値観(政治的,宗教的,科学的,芸術的など)を中心とした一つの存在です。そのような理想や価値観がなければ,存在そのものは無価値なものかもしれません。ですから,第二次世界大戦中,愛国的な男女は政治的な理想,民主主義や言論・信教・良心の自由などの価値を守るために,自分の命をかけました。このようにして理想を守った結果として,大勢の子供たちが死に,ほかにも無数の子供たちが孤児になりました。
この点をよく示しているのは,イタリアの政治家アルド・モロの劇的な事件でした。モロは,政府当局がテロリストの要求をのまなかったために,1978年に残忍な仕方で殺害されました。時として,より高い主義主張の名において人命が犠牲にされるのは明らかです。
ですから,道徳的な人が妥協して自分の理想を棄ててしまうよりは,自分の生物学的な存在を危険にさらす道を選ぶ場合があるということを理解できるでしょう。そうすることによって,真の命,つまり完全な意味での命を選んでいるのです。これはクリスチャンの理想にも確かに当てはまります。
クリスチャンは人命を神聖なもの,神からの貴重な贈り物と見ます。理知的で,教養のある人だった使徒パウロのことを考えてみてください。パウロは命を脅かされるような状況や殴打に遭いましたが,このように述べています。「わたしはすべてのものを損失しましたが,それらを多くのくずのように考えています。それは,自分がキリストをかち得……るためです。……何とかして死人の中からの早い復活に達しえないものかと努めているのです」― フィリピ 3:8-11。
パウロは,神から非とされることを承知しながら,ある事柄に携わることは決してなかったに違いありません。パウロが,人間としての命や健康を数年長く享受するだけのために,自分の場合には天での命を意味した「真の命」を失う危険を冒したりしなかったことに疑問の余地がありません。(テモテ第一 6:19)しかし,次の点を考えてみてください。
今日,天での命を待ち望む教会員は無数にいます。あるいは,読者もその一人かもしれません。ですから,将来のとこしえの命の希望を抱く人が重い病気にかかって,神が禁じておられると自分の感じる療法を退けたからといって,その人が命を退けているとして非難するのは決して公平なことではありません。むしろその人は長年地上で生きてきており,回復してこの地でさらに長生きするかもしれません。しかし,いずれにしても,そしてたとえ医師が未信者であったとしても,当人が自分の永続する将来の命を考慮に入れて,それに従って医療に関する決定を下すのは道理にかなったことと言えるでしょう。
医師があなたやあなたの身内の人にある療法を勧める際,問題のこの面を論ずることはめったにありません。しかし,医師があなたに知らせなければならない肝要な面が一つあるのです。それは,危険と益と呼べるかもしれません。自分自身と自分の家族のために,この点を考慮してみなければなりません。そうすることにより,自らも賢明な決定を下し,ほかの人々の取った道が知恵の道であったことを理解するのに役立つかもしれません。
-
-
危険と益とを比較考量するあなたの権利目ざめよ! 1984 | 10月8日
-
-
危険と益とを比較考量するあなたの権利
自分の体は自分のものです。自分の命は自分のものです。これらの陳述は当然の言葉のように思えるかもしれませんが,医療に関する,人の基本的な権利を指し示す言葉です。自分にどんな処置が施されるかを決める権利は本人にあります。多くの人はもう一人の医師の診断を聞いてから決定することによりこの権利を行使します。また,ある特定の療法を拒否する人もいます。ローレン・H・ロス博士の行なった1983年の調査から,『入院患者の20%は治療を拒否する』ことが明らかになっています。
しかし,自分が病気になったりけがをしたりした場合,どのようにして決定を下せるでしょうか。医師でもないのに,どうしたら最善の療法を知ることができるでしょうか。わたしたちは通常,専門家,つまり専門の教育を受け,経験があって,人々を助けることに一身を献げている医師たちに頼ります。医師と患者は,「危険と益の割合」を検討しなければなりません。それは一体何のことでしょうか。
ひざの具合が悪くなったとしましょう。ある医師から手術を勧められます。しかし,麻酔や手術の危険性あるいは足の機能に後日及ぶ障害の危険性はどの程度のものでしょうか。一方,どんな益がもたらされる可能性があり,自分の場合にそれらの益が実際に得られるという可能性はどれほどのものでしょうか。危険と益に関する全体像が説明されたなら,決定を下す権利は本人にあります。つまり,情報を把握した上で同意を与えるか,その治療法を退けるかの決定です。
危険と益とを比較考量する
現実の状況,つまり前述のジュゼッペ・オネダとコンシリア・オネダの場合の,危険と益の割合を考慮してみましょう。
オネダ夫妻の娘,イザベラは非常に重い病気にかかっており,医師たちはその子に定期的に輸血をするよう勧め(要求さえし)ました。愛に満ちたこの二親は,主に聖書の律法に対する自分たちの知識のゆえに異議を唱えました。とはいえ,危険と益の割合の問題はこの事態にどのような影響を及ぼし得たでしょうか。
近ごろの人々は大抵,患者の体内に血液を入れることは安全で効果的な療法であるとみています。しかし,17世紀当時,瀉血は老若を問わずだれに対しても行なわれる一般的な医療行為で,しばしば致命的な結果を招いていたということを忘れてはなりません。当時,親が自分の子供に対して瀉血が行なわれるのを拒んだとしたら,どんなことが起きていたでしょうか。
瀉血の全盛時代は終わりました。医療に携わる人々は今では輸血を支持しています。近年,医師たちは多くの事を成し遂げてはきましたが,輸血に危険の伴うことを認めないわけにはゆきません。ジョセフ・ボーブ博士(米国血液銀行協会,輸血によって広まる病気対策委員会の委員長)は,血液から肝炎にかかることが1943年に初めて取り上げられた,と最近語りました。同博士はさらに次のように述べています。
「それから約40年を経た現在,血液によって運ばれる少なくとも4種類の異なったウイルスで肝炎になる可能性が,輸血に伴う危険として認められている。また,血液や血液製品によってうつるものとして,ほかにも数多くの感染因子が挙げられている」―「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌,1984年1月12日号。
自分,あるいは自分の家族の健康や命に関連して問題を比較考量しなければならないとして,そのような病気にかかる危険は一体どれほど大きいのでしょうか。医師たちでさえ確かなことは言えません。輸血が行なわれてからずっとあとになって,これらの病気が原因で死ぬ人がいるからです。一例として,肝炎の一つの型(B型)だけを取り上げてみましょう。この病気のスクリーニング(病気の有無のふるい分け)は部分的にしか成功をみていません。あるニュース報道(1984年1月10日付)は次のように述べました。
「米国アトランタ市にある疾病対策センター(CDC)によると,1982年中,約20万人のアメリカ人がB型肝炎にかかった。病気が急性だったために入院した人は1万5,000人を数え,112人が死亡した。この病気に起因する慢性的な合併症により,さらに4,000人が死亡している」。
イタリア,ドイツ,日本およびその他の国々で,輸血によって生じた肝炎のために死ぬ人がほかに何人位いるでしょうか。確かに,輸血による死は比較考量すべき重大な危険の一つなのです。
また,輸血に関する危険と益の割合において,危険の占める割合は大きくなってきています。(ミラノの)ジオルジオ・ベネロニ教授は1982年5月に,「我々の知識が増えるにつれて,対応する輸血に関連した危険の数がいよいよ多くなっていることに我々は気づいている」と述べました。医師たちの間で警鐘を鳴らすものとなった一つの発見は,死亡率の極めて高いAIDS(後天性免疫不全症候群)という病気です。ジョセフ・ボーブ博士はさらに次のように述べています。
「輸血を受ける人のために,医師は予想される益に対する輸血の危険性を比較考量しなければならない。この概念は新しいものではないが,心配する患者に,輸血からAIDSになることはないといって安心させることがもはやできなくなったので,一層差し迫った問題になっている」。
医師たちは1978年当時,オネダ夫妻とその危険について話し合うことはありませんでした。当時,その危険は認められていなかったのです。しかし,今ではその危険が周知のことになっています。輸血の危険がより大きいことを示すこのような知識によって,オネダ夫妻の決定はそれほど大きな批判の対象にならなくなるのではありませんか。
親は危険と益とを比較考量しなければならない
大人であれば,輸血であれ,どんな療法であれ,その危険と益とを比較考量する権利があります。「法的適格性のある大人であればだれしも,自分の体の主とみなされる。賢明な仕方でも愚かな仕方でもそれを扱うことができる。命を救う治療さえ退けることができる。それは他人の関与するところではない。まして,国家の関与するところなどではない」。(ヘースティングズ・センターの会長,ウィラード・ゲイリン医博)しかし,子供のために,だれが危険と益とを比較考量するのでしょうか。
愛ある親が行なう,というのが一般的な経験の示す答えです。例えば,お子さんの扁桃腺の具合が悪くなり,手術を受けるよう勧められたとしましょう。親として,扁桃腺摘出手術の有利な点と危険な点について知りたいと思うのではありませんか。次に,その情報を,抗生物質療法についての危険と益の情報と比較してみるかもしれません。そうして初めて,あなたはほかの大勢の親たちと同様,情報を把握した上での結論に達することができるのです。
もっと重大な状況を考えてみましょう。愛する子供が事実上治療の見込みのない種類のガンにかかっているという悲しい知らせを医師から受けます。医師たちの話では,化学療法を用いることもできますが,化学薬品のために子供の具合は非常に悪くなり,しかもこの段階で病気の進行を止める可能性はほとんど無きに等しいとのことです。最終的な決定を下す権利は親にあるのではありませんか。
テレンス・F・アッカーマン博士の記事からは,親にそのような権利があるという答えを引き出すことができます。a 1 国家は未成年者を守らなければならないという主張に基づいて,数多くの法廷命令が入手されたことを同博士は認めています。ところが,多くの事例において,有名なM・D・アンダーソン病院兼腫瘍研究所は,『法廷命令による輸血を求めない方針』を取ってきました。なぜでしょうか。その理由の一部は,「これらの子供はいずれも潜在的に死病といえる病気にかかっており,結果が良くなることを予見できなかった」ためです。イザベラの場合も同じだったのではありませんでしたか。
アッカーマンは,「自分の子供を自分がふさわしいとみなす仕方で育てる,親の権威を尊重する」ことの価値を強調しました。同博士はこう論じています。「医師には親と家族とを支援する道義的な責務があるということは,小児科開業医の原則になっている。死病となる可能性のある病気に子供がかかっているという診断は親に大きなストレスを課すことになる。それに加えて,親が神の律法に対する違反行為と自分たちの信じる事柄と闘わなければならないなら,自分の役割を果たしてゆく親の能力がさらに損なわれるかもしれない。その上,家族の福利は,病気の子供の福利に直接の影響を及ぼす」。
代わりになる方法
輸血に伴う数ある危険を避けるため,研究者たちは血液の必要を抑える外科的な手法を開発してきました。実のところ,血に関するエホバの証人の立場はこの研究を促すものとなってきました。1983年の末に,米国の新聞各紙はアメリカ心臓学会の大会の席上行なわれた一報告について伝えました。それによると,生後3か月から8歳までの年齢層の48人の子供に対する心臓手術が,輸血なしで行なわれました。患者の体温が低くされ,血液はミネラルと栄養分を含んだ水で薄められました。しかし,輸血は行なわれなかったのです。当初,この手法はエホバの証人の子供にだけ用いられました。こうした手術を受けたエホバの証人の子供たちのほうが,従来の方法を使った手術を受けた子供たちよりも助かる確率がはるかに高いのに外科医たちが気づき,この手法を,担当する患者全体に広げることにしたのです。
輸血がどうしても必要だと医師たちのみなす症例のあることは理解できないことではありません。しかし,客観的に言って,次のように言うことができます。(1)輸血が本当にどうしても必要だと自分たちの確信する症例はごくまれであることを大勢の医師たちも認めている。(2)不必要な輸血をするという,長年にわたる有害な習慣がある。(3)輸血の引き起こすゆゆしい危険のために,輸血の危険と益の割合について独断的になるのは不可能である。ですから,エホバの証人でない人でも輸血をしないで欲しいと求める人が少なくないことを伝えている病院もあります。
将来の希望
喜ばしいこととして,個人の権利と尊厳にいよいよ注意が向けられるようになっています。イタリアのような啓発された国々は,できるだけ広範囲にわたる自由を保障するための努力を払っています。その中には,情報を把握した上で医療に関する決定を下す自由が含まれています。アメリカ医師会の作成した一小冊子は次のように説明しています。「医師の勧める治療法や手術を受けてみるか,それを受けずに生きてゆく危険を冒すかを最終的に決めるのは患者でなければならない。それは個人の自然権であり,法律もそれを認めている」。
これは未成年者にもあてはまります。親であれば,子供に影響を及ぼす医療に関する決定を下す上で,親として積極的な役割を果たさなければなりません。米国の裁判官の一協議会は,「子供にかかわる医療命令についての判事便覧」の中で次のように書いています。
「取るべき処置に選択の余地がある場合 ― 例えば,医師が80%の成功率のある処置を勧めても親がその処置を良しとせず,成功率が40%しかない処置については親に異存がない場合 ― 医師は医学的には危険が大きいとはいえ,親の側に異存のない道を取らなければならない」。
読者が医療に関する正確な情報を入手する自分の権利,そうです自分の責務を認識しているのであれば,このような助言は非常に意義のあるものになり得ます。大抵の場合,別の医師の意見を聞いてみるのは賢明です。その医学的障害を治療するさまざまな方法について,またそれぞれの療法に伴う潜在的な危険と益について尋ねてみることです。次いで,危険と益の割合を知り,情報を把握した上で医療に関する決定を下すことができるでしょう。その権利があなたにあることは法律で確立されています。神とあなたの良心とは,あなたにその責務があると述べています。
[脚注]
a 「善意の限界: エホバの証人と小児ガン」,「ヘースティングズ・センター・レポート」,1980年8月号。
[16ページの囲み記事]
おびえる小児科医
ジェームズ・オレスキ教授は最近次の事を認めました。
「小児科医また免疫学者としての私をおびえさせるのは……我々がAIDSについて知る前に,大勢の未熟児に輸血をしてきたという警戒期間がまだ終わっていないことである。……70年代の後半および80年代の初頭に,在庫していた血液が実際にAIDS因子で汚染されていたとしたら,大勢の未熟児がこの病気にかかる危険にさらされていたことになるかもしれない。……AIDS用の簡単なスクリーニング検査法はなく,その診断用の検査なしには,この病気の潜伏期にありながら自分は健康で献血できると感じる人を見分ける方法が実際には存在しないことに問題がある」―「データ・セントラム」,1984年1月号。
[17ページの囲み記事]
血液 ― 命の贈り物?
「昨年の10月にサム・クシュニックが死亡したとき,家族の者たちはユダヤ教の肩衣に包んで,お気に入りの靴をはかせて埋葬してやりたいと願った。ところが,葬儀屋はその遺体に触れようとしなかった。死亡診断書によると,その死因はAIDS ― 後天性免疫不全症候群 ― だったのである。
「クシュニック事件で異例なのは,AIDSの患者が死んだとき,のけ者として扱われたという点ではない。際立っていたのは,サムがまだ3歳で,しかもこの病気にかかる危険の高い主要なグループ ― 乱交を行なう同性愛者,ハイチ人そしてヘロイン中毒者 ― のいずれにも属していなかったことである。ロサンゼルスのこの幼い少年は,輸血をされたのちにこの病気にかかったAIDSによる死者の一人で,そのような人の数は少ないながらも,増加しつつある」。(1984年3月12日付,ウォール・ストリート・ジャーナル紙,1ページ。)サムは生まれたとき未熟児でした。病院の医師たちは検査のためこの子の血液の幾らかを取った際,その代わりに献血者の血液を輸血しました。この子が2歳でAIDSを発病したのち,その献血者たちの跡がたどられました。その一人は同性愛者で,幼いサムの命を奪った病気の症状はまだその人には現われていませんでした。
-
-
言葉探しゲーム目ざめよ! 1984 | 10月8日
-
-
言葉探しゲーム
『あなた方の信仰の果てを得なさい』
右に示された文字の迷路の中から,ペテロ第一 1章に出てくる21の言葉ないしは表現が見つかるはずです。それらの言葉ないしは表現を決めるに当たって,下に示された文章を完成させてください。次にそれらの言葉を文字の迷路の中から見つけ,丸で囲んでください。(答えは23ページにあります。)
ペテロが手紙を書き送った人々は _ _ _ _ _ _ _ _(1)によって悲嘆させられています。
しかし,彼らの _ _ _ _(2)の試された質は,_ _ _ _ _ _ _(3)の表わし示される時に,_ _ _(4)と _ _ _(5)のいわれとなります。
彼らは自分たちの信仰の果て,すなわち _ _ _ _(6)の _ _ _(7)を得ます。
このことに関して,_ _ _ _ _ _ _(8)は勤勉な探究と _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _(9)を行ない,霊が示していたのは,特にどの _ _(10)のことかを調べました。…… _ _ _ _ _ _(11)でさえ,こうした事柄を熟視したいと思っています。
それでわたしたちは,_ _(12)であったために抱いた _ _ _ _(13)によって形作られるのではなく,すべての _ _ _ _ _ _(14)において _ _ _ _(15)者となるべきです。わたしたちが父祖伝来の _ _ _ _(16)行状から救い出されたのは,_ _ _(17)もの,つまり _ _(18)や _ _(19)によるのではないからです。それは,きずも汚点もない _ _ _ _(20)の血のような _ _ _ _ _(21)血によるのです。
-