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生命に通ずる愛ものみの塔 1965 | 10月15日
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生命に通ずる愛
「御霊の実は,愛」である。―ガラテヤ 5:22。
1 ギリシャ人は愛を表現するのに四つの言葉を使いましたが,どんな質問をするとき,それはうなずける事ですか。私たちはなぜその答えに関心を持つべきですか。
ことわざにも「ギリシャ人は適切な言葉を知る」とありますが,愛という問題を考えても,それは真実のようです。ギリシャ人は愛を語るのに一つの言葉ではなく,愛をいろいろな角度から見て四つの言葉すなわちエロース,ストルゲー,フィリア,アガペーを用いました。これは理にかなった事です。愛はきわめて複雑な資質であり,読者の皆さんはここで愛を定義しようと試みるだけで,その事を納得されるに違いありません。実際に愛とは何ですか。それは単なる感情であり,衝動的なものですか。それは愛情を伴うもので,ある人の特性にひかれたり,感心したり,あるいは少なくともその人が好きになった場合にのみ,示すことのできるものですか。たとえ自分のきらいな人でも愛することができますか。愛の湧き出る源は何ですか。それは心,あたま,あるいはその両方ですか。また愛の純粋さと価値をはかる方法があるとすれば,それは何ですか。「光るものすべてが金でない」のと同様,愛に見えるものすべてが愛ではないからです。それはユダの最後のせっぷんのように,やさしくても裏切りのもの,偽りのものであり得ます。―マルコ 14:44,45。
2 何から見て愛は教えられ得るものですか。
2 「キリスト教の中で愛ほど学ぶのが難しいものはない。しかしそれゆえにこそ,我々は愛を学ぶことに努めるべきだ」。ペンシルバニア州の創設者ウイリアム・ペンはこのように書きました。愛を教えられるというと奇妙に聞こえるかも知れませんが,聖書はその事を明白に述べています。(テサロニケ前 4:9,10)「弟子」という言葉の文字通りの意味は学ぶ者,生徒です。神のみ子は死に渡された夜,ご自分が教え,訓練した人々にむかって,「互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう」と言われました。―ヨハネ 13:35。
3 (イ)真実の愛は,なぜ真のクリスチャンを見分けるしるしですか。(ロ)クリスチャン会衆にとって,今日どんな危険が存在していますか。
3 このような愛はまれなものであるため,それによってイエスの真の弟子は地に住むすべての人々の中で目立つ存在となり,愛は彼らを見分けるしるしとなります。その事はイエスの時代に見られました。今日でも見られますか。新聞を読み,ラジオのニュースを聞き,あるいはどこにいるにしても,周囲を見まわしてごらんなさい。使徒パウロの予告した通りの有様が見られるではありませんか。「しかし,このことは知っておかねばならない。終りの日には,苦難の時代がくる。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者…親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者……善を好まない者……高言をする者,神よりも快楽を愛する者,信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい」。(テモテ後 3:1-5)真実の愛が甚しく欠けるため,クリスチャン会衆でさえも大きな影響を受けることを,イエスは預言しています。イエスは世の中一般についてではなく,終わりの時にイエスの追随者を名乗る人々について次の事を言われたのです。「また不法がはびこるので,多くの人の愛が冷えるであろう」。これは危険を伴ないます。―マタイ 24:12。
4 感傷とは何ですか。それが真実の愛と異なることは,だれの経験からわかりますか。
4 あなたが持っているのはどんな愛ですか。一般の人と異なってあなたがキリスト・イエスの追随者すなわち弟子であることを証明する愛ですか。それともあなたの愛は,おもに感傷ですか。辞書の定義によれば,感傷とは「感情に動かされた,あるいは支配された態度,考え,判断」です。多くの人は衝動的な感情あるいは情緒に動かされて行動し,自分では愛の表現と思う事柄を言ったり,行なったりします。弟子となって間もない頃の使徒ペテロはこの傾向があり,そのため一再ならず問題を起こしました。イエスがご自分の受けようとする苦しみと死のことを弟子たちに語った時,感情的なペテロはイエスをわきにひき寄せ,強く反対して「主よ,とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言いました。イエスは,この感情に走った訴えを真実の愛の表現として受け入れましたか。聖書には次の記録が残されています。「イエスは振り向いて,ペテロに言われた,『サタン〔反対する者〕よ,引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで,人のことを思っている』」― マタイ 16:21-23。
5 感傷的な人は何に支配されていますか。真の愛はどのようにまさっていますか。
5 感傷的になると,心は真実よりも感情に支配されます。感情のおもむくままに行動する感傷の人はめくらも同然です。感傷的な人は,論理的な思考の必要を悟らず,他の人に最善の益となること,関係者に最善の結果をもたらすものを求めて事態をはかる必要に目を閉じてしまいます。それとは対照的に,真実の愛は長い目で物を見ます。そして感情に動かされて,不確かな道に進むことをしません。そしてどんな感情が起きても,それを正しい方向つまり心がすでに選んだ方向に事を運ぶための推進力とします。―ロマ 8:5-8。
6 愛について健全な考えを持つとき,何を悟りますか。(ロ)愛を表わすのに神の導きが必要なことを,なぜ率直に認めなければなりませんか。
6 しかし何にもまして愛は「神のことを思」います。そして「天が地よりも高いように,わが道は,あなたがたの道よりも高く,わが思いは,あなたがたの思いよりも高い」と述べた言葉の真実を認めます。(イザヤ 55:9)考えればおのずとわかる通り,人間家族は依存し合うように造られています。私たちはからだと心と霊の必要とするものを満たさねばなりません。そのあるものは自分でも満たせますが,他のものは私たちを愛する人々の手によって満たしてもらうことが必要です。そしてこのような必要が満たされるとき,幸福を感ずるのです。そこで当然に,愛のある人はこのような必要を認め,それを満たすことに最善をつくすでしょう。しかし自分の力には限りがあるため,愛は最も重要なものを見きわめて,それを満たすことに人の努力を集中させます。また考えればわかるように,多くの要素と事情を考慮に入れなければなりません。また人にしてあげたいと自分が思うこと,あるいは他の人々の考えを行なうのではなく,更には当人がそのとき求めているものを与えるのでもなく,事実に即して見るとき,当人の将来のためになると思われることをするのが,本当の愛です。また分別を働かせれば,この事をあの人にしてあげたいと願う欲求を心に持つのが愛であることもわかります。そのうえ他の人々の必要をみたす最善の方法,人々が真に必要としている最大のもの,現在のみならず将来,最善の益になることを知り,またそれを行なおうとする意欲を抱くには,「神の思い」を必要とすることも正直に認めなければなりません。神のみ心を求めるならば,間違うことはありません。「あらゆる良い贈り物,あらゆる完全な賜物は,上から,光の父から下って来る。父には,変化とか回転の影とかいうものはない」からです。―ヤコブ 1:17。
ギリシャ語の愛
7 「愛」を意味するギリシャ語の四つの言葉は,それぞれどんな基本的な意味を持っていますか。
7 愛を意味する四つのギリシャ語がここで問題になります。聖書時代のギリシャ人は,今日私たちの言うロマンチックな愛つまり両性間の愛を表現するのにエロースを用いました。子に対する親の愛のような,家族の愛は,ストルゲーという言葉で表現されました。フィリアは友人に対する愛,互いの人柄にひかれて好感を持つことから生ずる愛を表現した言葉です。最後にアガペーは,判断力と意志を十分に働かせたうえでの,そして原則をわきまえた愛を表現するのに用いられました。それは自己の利害を超越した愛です。
8 (イ)私たちはだれのおかげで,これらの言葉を明確に理解できますか。(ロ)彼らの書いたものを読むと,アガペーという言葉の使い方は,それが生命に導く愛であることをどのように示していますか。
8 これらの言葉はギリシャ人のものですが,奇妙とも言えることにその最も明確な意味を明らかにしているのは,ギリシャ語を書いたヘブル人です。それはクリスチャン・ギリシャ語聖書を書いた人々です。これらの筆者が,この問題に関する私たちの理解を深めることに貢献しているのは,(からだの美しさ,家族関係あるいは性格の一致などよりも)原則に立却した愛を意味するアガペーを独自な用語で使っているからです。ダグラス聖書事典によれば,アガペーはギリシャの古典にきわめてまれにしか使われていません。プラトン,ソクラテス,アリストテレスなどがこの言葉をほとんど使っていないのにひきかえ,ペテロ,パウロ,ヨハネその他,マタイ伝から黙示録までの本を書いた人々は,それを多く用いており,それが聖書に特有の語であるかの感を呈しています。彼らの書いたものの中にエロースの語はなく,ストルゲーはわずか3回,動詞フィレオは100回近く使われています。しかしアガペーは,クリスチャン・ギリシャ語聖書中におよそ250回も出てきます。使徒ヨハネは,「神は愛〔アガペー〕である」と書いた時,それを使いました。(ヨハネ第一 4:8)また互いの愛〔アガペー〕によってイエスの弟子は知られると述べたイエスの言葉を引用した時にも,この言葉を使っています。(ヨハネ 13:35)パウロは「御霊の実は,愛〔アガペー〕」であると述べた時にそれを使いました。(ガラテヤ 5:22)「霊にまく者は,霊から永遠のいのちを刈り取る」ゆえに,神のみ霊の生み出すこの種の愛すなわち原則をわきまえた愛を学ぶことは生死の問題です。(ガラテヤ 6:8)使徒ヨハネの言葉はその事を次のように表現しています。「わたしたちは,兄弟を愛しているので〔アガペーの動詞アガパオー〕,死からいのちへ移ってきたことを,知っている。愛さない者は,死のうちにとどまっている」― ヨハネ第一 3:14。
9 (イ)人類歴史の初めにおいて,愛の欠如のためにどんな問題が起きましたか。(ロ)エホバ神は,このような利己心の表われにどう応じられましたか。
9 この無私の愛はどんな原則に従って働くのですか。文字に書かれた神のことばは,宇宙至上権の大論争を明らかにしています。それは神の霊者の子の一人が創造主に反逆し,更にエデンにいた最初の二人の人間を自分の側につけるため,創造主をそしった時に起きました。反逆の霊者は最初の人間を反逆に加わらせ,そのために人間が生命を失うことになっても頓着しませんでした。最初の人アダムは妻エバに対して肉欲すなわちエロチックな愛だけを示し,天の父に背いてエバの不従順な行いに加わりました。エホバ神のみ前における正しい立場を捨て,人間の完全さを失ったアダムは,妻に対して真実の愛を示す能力を著しく減じました。アダムの子たちは罪をもって不完全に生まれ,アダムと同じく死ぬことを免れません。しかしこの利己主義と忘恩の行いにもかかわらず,エホバの愛は変わらないのです。3人の反逆者に正当な宣告を下した時にも,エホバは敵対者の始めた悪をすべて終わらせる裔がやがて生み出されることを約束されました。これは聖書全巻を一貫して流れる主題です。聖書は,神が事態を発展させた経緯と,遂に四千年たって最愛のみ子を地に遣わされたことを述べています。御子が遣わされた目的はまず論争においてみ父の側に立ち,正しい主権者であるみ父に対して破れることのない忠実を表わし,第二に人類の最も必要とする贖いになることでした。贖いによって人間は罪と死から救われ,天の父と和解できます。―創世 3:14-24。ヨハネ 3:16,36。
10 (イ)今日,真実の愛を示す人々に対して,聖書の預言はどんな希望をさしのべていますか。(ロ)彼らは愛に動かされてどんな活動に携わっていますか。
10 愛の心を持つ,従順な男女がこのような益を受けることは,キリスト・イエスの治める御国の政治にまたねばなりません。そのとき地には全く新しい秩序が建てられます。利己主義,暴力,神に対する不従順の上に建てられた古い秩序は,ハルマゲドンの宇宙的戦争のとき,神によって滅ぼされます。聖書はこのすべての事を述べている本です。現在起きている事,世界の状態を聖書の預言に照らして見るならば,私たちは1914年以来,古い秩序の「終りの時」に住んでいることがわかります。従ってこの時代のうちに,憎しみ,貪欲,争い,殺人,盗み,圧政,姦淫,中傷その他,神のみ霊を持たない,愛のない世の生み出したあらゆる実が地から一掃されるでしょう。(マタイ 24:7-14,33-35。ガラテヤ 5:21)聖書はまた次のことを示しています。イエスの弟子ととなえる者の中で多くの人の愛が「冷え」ても,そうでない人々は忍耐して最も愛のあるわざをします。イエスの言葉はそのわざが何であるかを示しています。「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」― マタイ 24:14。
11 私たちは愛の真実の意味をどなたから教えられていますか。
11 「わたしたちが愛し合うのは,神がまずわたしたちを愛して下さったからである」と述べたヨハネの第一の手紙 4章19節の言葉の意味が,いま理解できます。神の行なわれたことと,そのお目的に表われた神の愛を知るならば,愛というものを本当に理解でき,神にならう者となる強い願いがわき起こります。神にならって愛を示すのは,もともと神のかたちに造られた人間の務めです。―創世 1:26,27。
ロマンチックな愛
12,13 (イ)両性間の愛は,聖書の中で無視あるいは拒否されていますか。どうしてわかりますか。(ロ)ロマンチックな愛に何が加えられるとき,それは幸福を増し加えるものとなりますか。古代ギリシャ人とローマ人は,このことについて何を示していますか。
12 ギリシャ人がエロースと呼んだ両性間の愛について,まず考えてみましょう。このような愛は,今まで論じてきた,原則をわきまえた愛(アガペー)とどんな関係がありますか。聖書を書いたクリスチャンはエロースという言葉を使いませんでしたが,それでも聖書はこのような愛にふれています。創世記にあるアダムとエバ,イサクとリベカ,ヤコブとラケルの話あるいはソロモンの雅歌,箴言 5章15節から19節などを読むとわかるように,聖書は率直にこの事柄を論じています。しかし聖書はこのような愛を崇めてはいません。リベカは「非常に美しく」,ラケルは「美しくて愛らしかった」と聖書に書かれています。しかし聖書は,その本当の美しさが真の神エホバへの献身と,夫につくす妻としての献身にあったことを示しています。(創世 24:16; 29:17)クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で使徒パウロは,コリント人に宛てた第一の手紙の7章に婚姻と愛についてきわめて率直な助言を与えています。そしてパウロの問題のとりあげ方に「しかつめらしい」ところはありません。
13 しかし聖書が述べているすべてにおいて,次の事は明白です。すなわちロマンチックな愛は,それを崇拝するのではなく,制御してのみ,幸福に資するものとなります。そしてこれを制御するには,原則をわきまえた愛が必要です。今日の世界は昔のギリシャ人の間違いを犯しているように見えます。昔のギリシャ人はエロースを神として崇拝し,その祭壇にぬかずき,またそれに犠牲をささげました。ローマ人もギリシャ人のエロースに相当するキューピッドに対して同じことをしました。しかし歴史の示すように,性愛の崇拝は堕落,放とう,無気力を生むに過ぎません。おそらくそのために,聖書の筆者はこの言葉を使わなかったのでしょう。
14 原則をわきまえた愛は,結婚生活の大きな問題また内輪の問題をどのように解決しますか。
14 性格が合わないという理由で離婚する人々は,多くの国で非常に増加しています。アメリカのある州では二組の結婚のうち一組が離婚に終わる有様です。原則をわきまえた愛の必要が明白ではありませんか。「愛〔アガペー〕は……不作法をしない,自分の利益を求めない,いらだたない」ことを忘れないでいれば,結婚生活を不和にする問題の一部はたしかに解決されます。(コリント前 13:5)パウロの与えた分別あるさとしに従うならば,夫婦の不和や争いの根本原因は除かれます。「いずれにしても,あなたがたは,それぞれ,自分の妻を自分自身のように愛し〔アガパオー〕なさい。妻もまた夫を敬いなさい」。(エペソ 5:33)このような愛を持つ夫と妻は,所有することよりも,わかち合うことを最先に考えるでしょう。そして「わたし」「わたしに」「わたしのもの」といった意識よりも,「わたしたち」「わたしたちに」「わたしたちのもの」といった考えを持ちます。二人は互いに相手の必要とするもの,願うことを知ろうと努め,愛の心からその知識を用いて相手を幸福にしようと努めます。
家庭における愛
15 ストルゲーの語で表わされる愛は,今日どのように危機に見舞われていますか。それを守るために必要なものは何ですか。
15 愛し合い,一致している家族は,本当にうるわしいものです。それは美しく,また人をひきつけます。そのような家族の中で時を過ごすのは何と楽しい事でしょう。家族が互いに抱くこの自然の愛情(ギリシャ語でストルゲー)を表現する言葉を用いて,パウロはクリスチャンが,互いに親しむ家族の関係を保つべきことを強調しました。(ロマ 12:10)しかしパウロは,この時代に一般の人がこの情愛を欠き,「無情な者」になることをも預言しています。(テモテ後 3:3)現代生活の圧力にあって,昔風の家庭は崩壊しつつあります。食事を共にしたり,居間にくつろいで団らんすることは,次第にすたれています。大人の怠慢と子供の非行のために分裂する家庭が絶えません。自然の愛情だけでは,現代の緊張に耐えられないからです。原則の上に立った愛は,家族を一つにできます。「愛〔アガペー〕は,すべてを完全に結ぶ帯」だからです。―コロサイ 3:14。
16 子供の生命のことを真に心にかけている両親に対して,聖書は何を教えていますか。
16 両親の皆さんは,お子さんが親を愛し,聖書の次の言葉にあるような子供になることを望まれますか。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母とを敬え』。これが第一の戒めであって,次の約束がそれについている。『そうすれば,あなたは幸福になり,地上でながく生きながらえるであろう』」。神の国の治める楽園の地に永遠の生命を得させたいと願っていますか。では次の言葉に述べられている親の務めをどのように果たしていますか。「またあなたがた父たちよ,あなたがたの子供をいらだたせてはいけない。常にエホバのこらしめと権威ある教えとに従って育てなさい」。いまの時代にこの事をするには,単なる愛情以上のものが必要です。それには原則をわきまえた愛が必要です。―エペソ 6:1-4。
17 (イ)子供を甘やかすのは,なぜ本当の愛を示すことではありませんか。(ロ)こらしめを差しひかえるのは,親と子供の両方にとってどんな悪い結果になることがありますか。
17 適切なこらしめをさしひかえて子供のいうなりになる親は,自分を愛しているに過ぎません。このような親はこんな風に言います,「本当はそれが子供によくない事はわかっていても,あまりせがむので許さないわけに行きません」。それで子供の将来のためを考えるよりも,こらしめを与えた結果,子供の愛情を親が一時的に失うことを恐れているのです。時限爆弾を子供に与える親はありません。しかし責任を十分にわきまえていない少年に自動車を買い与えたり,年齢不相応な行動の自由を少女に許すならば,偽装した爆弾を与えるのと同じ結果になるかも知れません。原則を愛情の祭壇に犠牲にしてしまうのは偽りの崇拝にほかなりません。そして子供を盲目的に愛した親は,往々にして晩年もはや自分の思う通りにならない子の愛にうえかわきます。「むちを加えない者はその子を憎むのである,子を愛する者は,つとめてこれを懲らしめる」。(箴言 13:24)たしかにこの箴言の通りです。こらしめるとは教えを授け,訓練することです。愛が真実のものであるためには,私たちが天の父からこらしめられ,教えられている通りのことを子に対して行なわねばなりません。―ヘブル 12:5-11。
友人同志の愛
18,19 (イ)フィリアという言葉の表わす愛は何に基づいていますか。それが悪いものでないことは,どうしてわかりますか。(ロ)このような友愛が永続する益となるには,何が必要ですか。なぜですか。
18 ギリシャ人がフィリアと呼んだ友愛も,人生を豊かにします。友人のない生活は寒々としたものです。友情は他の人の中に好ましい性質,良さを認め,自分を楽しい気持ちにさせるものを見出すとき,あるいは長いあいだ経験を共にしたことから好感,愛情,忠誠心を互いに抱くとき,生ずるものです。友人の間には相互に信頼感が通います。キリスト・イエスご自身も,ペテロ,ヤコブ,ヨハネの3人の弟子に特別な友情を示し,中でもヨハネは特に愛された弟子であった事が記録されています。―ヨハネ 19:26; 20:2。
19 しかし友情が永続する価値のあるものとなるには,原則をわきまえた愛と結びついていなければなりません。そこで使徒ペテロは兄弟愛(フィラデルフィア)に愛(アガペー)を加えることをさとしています。(ペテロ後 1:7)そうでなければ,友情はへつらいと腐敗に堕し,正しくない事,その人にも自分にも益とならない事,神を汚し,隣人を害する事を行なう仲間になる結果を生むかも知れません。しかし「愛〔アガペー〕は隣り人に害を加えることはない」のです。―ロマ 13:10。
20 神の示される友愛は,私たちがそれを表わす際のどんな導きとなりますか。
20 原則に立脚した愛を導きとすれば,はじめから良い友だちを選び,正しい友情を培うことができます。イエスは弟子たちにむかって「父ご自身があなたがたを愛〔フィレオ〕しておいでになるからである」と言われました。それを聞いた弟子たちは心をおどらせたことでしょう。しかしイエスの弟子たちが神からそのようなほまれを受けたのはなぜですか。つづいてイエスが言われた言葉はそれに答えています。「それは,あなたがたがわたしを愛したため,また,わたしが神のみもとからきたことを信じたためである」。(ヨハネ 16:27)神の愛を受け,神の友とされるのは,それにふさわしい者だけです。(ヤコブ 2:23)「世を友〔フィロス〕とするのは,神への敵対であることを,知らないか」という警告が与えられているのも当然です。(ヤコブ 2:23)神の友であり,神から愛されている人を,自分の友にしなければなりません。―ヤコブ 4:4。
21 このような理解を持つからといって,少数の人々だけに愛を示すのではありません。それはなぜですか。
21 それでは私たちは愛を示すことに差別を設け,自分のまわりに垣を作りますか。そうではありません。原則をわきまえた愛〔アガペー〕は,愛情〔フィレオ〕の届かないところ,また愛情を示す意欲を起こさせないところにも働かねばならず,また働くからです。永遠の生命の報いは,結婚配偶者,家族あるいは親しい友だちだけに献身的な愛を示す人々がかち得るのではありません。イエスは次のように言われました,「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて,なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて,なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」。(マタイ 5:46-48)それできわめて明らかなように,私たちはたとえ好きでなくても,その人を愛することができます。私たちの生命はそうすることにかかっているのです。
22 各人は何を真剣に自問しなければなりませんか。
22 ここで次のように自問してごらんなさい。私の愛はどんな愛だろうか。それは原則に基づいているか,それとも感傷に過ぎないか,自然の情として愛することのできるもの,すなわち結婚配偶者,両親,子供あるいは気の合う友人だけを愛しているだろうか。このような者たちに対する愛も,彼らの永遠の福祉を求める愛か,それともこのような関係から生まれる満足のためにする愛情の表現だろうか。私の愛はどれほど純粋なものか。その答えによって,その人の価値が決まります。―コリント前 13:1-3。
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愛の新しい戒めを守るものみの塔 1965 | 10月15日
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愛の新しい戒めを守る
「わたしは,新しいいましめをあなたがたに与える,互に愛し合いなさい。わたしが,あなたがたを愛したようにあなたがたも互に愛し合いなさい。」ヨハネ 13:34。
1 使徒パウロの論議によれば,あがないを備えた神はどんな愛を示されましたか。
人類に対する神の最大の賜物は,愛情ではなく,原則をわきまえた愛に基づいたものです。使徒パウロは,ロマ書 5章7節から10節にその事を論じています。「正しい人のために死ぬ者は,ほとんどいないであろう。善人のためには,進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし,まだ罪人であった時,わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって,神はわたしたちに対する愛〔アガペー〕を示されたのである……もし,わたしたちが〔友ではなく〕敵であった時でさえ,御子の死によって神との和解を受けたとすれば,和解を受けている今は,なおさら,彼のいのちによって救われるであろう」。罪深い,不完全な人類のためにみ子を賜わったエホバ神が示されたのは,愛着の情ではありません。人間は,神から愛されるべき性質を持っていましたか。神は人間の福祉と必要に対して無私の関心を持たれ,原則をわきまえた愛を示されたのです。神は人間がいちばん必要とするもの,すなわち生命の源である神と和解するための手だてを,み子の贖いの犠牲によって設けられました。
2,3 (イ)マタイ伝 24章14節の命令を成し遂げるには,なぜこのような愛すなわち原則をわきまえた愛が必要ですか。エホバの証人はどのようこの愛を表わしていますか。(ロ)イエスは現代の社会事業家とどのように異なっていましたか。
2 神のみ子の追随者となり,クリスチャンとなるには,今日このような愛を持たなければなりません。この愛がなければ,現存する事物の制度の終わる前に「この福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられる」というイエスの預言は成就しないでしょう。イエスは,この福音を伝える者に告げて,次のように言われました。「そのとき人々は,あなたがたを苦しみにあわせ,また殺すであろう。またあなたがたは,わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう」― マタイ 24:9,14。
3 今日エホバの証人は194の国々,島々で御国の福音を伝え,無私の愛によってその事をしています。多くの家で聞いてもらえず,また真っ向から反対されるにもかかわらず,都会でも町でも村でも,人々をおとずれることに彼らが時間と精力を使っているのは,無私の愛のゆえにほかなりません。金銭,食物を与えたり,人間的な欲望をみたす事業を行なって人々の愛情を獲得する社会事業的な安易な道は,彼らのとる方法ではありません。たしかにキリスト・イエスは,イエスの話を聞くために遠くからやって来た群衆に食べさせるため,食物を奇跡的にふやしました。そのような事は2回ありました。しかしイエスは何時もそれをされたのではありません。イエスは,人々が物質的なご利やくのためにイエスの追随者になることを望まれなかったのです。このような群衆に対してイエスは言われました,「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは,しるしを見たためではなく,パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく,永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである」。つづいてイエスが語った強力な真理の言葉は多くの人を驚かすものであり,「それ以来,多くの弟子たちは去っていって,もはやイエスと行動を共にしなかった」のです。彼らは朽ちる食物を愛しても,「永遠の命に至る」真理を愛することをしませんでした。―ヨハネ 6:25-27,60,66。
4,5 新らしい愛の戒めを与えたとき,イエスが一般的な隣人愛のことを語っていたのでない事は,どうしてわかりますか。
4 他の弟子たちは,イエスの宣教の最後までつき従いました。弟子たちと共に過ごした最後の夜に,イエスは弟子たちにむかって言われました,「わたしは,新しいいましめをあなたがたに与える,互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい」。(ヨハネ 13:34)どうしてこれは「新しいいましめ」であったと言えますか。
5 およそ15世紀前モーセを通してイスラエルに与えられていた律法は,「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」と教えていました。(レビ 19:18)イスラエルの歴史は,彼らがこの律法を守らなかった事を示しています。しかしとにかくそれは15世紀のあいだ律法の書にしるされていました。ゆえに単なる隣人愛は新しい戒めではありません。律法の最も大きな戒めについて尋ねたユダヤ人の律法学者に答えたとき,イエスはこの戒めを引用されました。「『あなたは思いをつくし,魂をつくし,心をつくし,力をつくしてあなたの神エホバを愛さねばならない』。第二はこれである。『自分と同じくあなたの隣人を愛さなければならない』」。(マルコ 12:29-31,新世)イスラエルと結ばれた律法契約は,イエスの死と新しい契約の成立に伴って成就され,廃止されましたが,この二つの大きな戒めの原則は,あらたに設立されたクリスチャン会衆に受け継がれました。(ロマ 12:1,2; 13:8-10。ヤコブ 2:8)イエスの新しい戒めの意味を理解するため,以前の戒めが何を要求していたかをまず知るのは良いことです。
心,思い,魂と力
6 心をつくして神を愛するには,何をすることが必要ですか。
6 心と思いと魂と力をつくしてエホバを愛さなければならない ― これは私たちのすべてを言いつくしている言葉ではありませんか。(マルコ 12:30。マタイ 22:37)心は理知の宿るところです。そこで心をつくして神を愛するには,創造主とその目的また原則を学ぶために理知を総動員し,ついでこの知識を生活のすべての面において理知的に働かせ,神のみ心に一致した生活をしなければなりません。それは儀式や形式に則った生き方ではありません。祈りや賛美の言葉を暗誦したり,おきまりの儀式をすることならば,子供にもできます。驚異と変化にみちる広大無辺の宇宙を創造した全知の神は,そのような,おさえつけられた崇拝を,神に対する真の愛の表現として受け入れないでしょう。心をつくして神を愛するには,「心を新たにすることによって……何が神の御旨であるか,何が善であって,神に喜ばれ,かつ全きことであるかを,わきまえ知る」ことが必要です。―ロマ 12:2。
7 神に仕える責務を知り,それに伴なって従順を示す必要を認めれば,神に対して真実の愛を表わすことができますか。なぜですか。
7 人の持つ無私の愛他的な資質が思いと呼ばれるものであり,それは愛情,動機,良心,道徳的行為の源泉です。思いをつくして神を愛するとき,単なる義務の観念あるいは神を喜ばすために必要だからという考えで神に従順と奉仕をささげることはありません。このように心のこもっていない愛の表われは,人がただ一つの事すなわち神からご利益を得ることにのみ腐心しているかの如き感を与えます。それは報酬だけを目当てに働く人と同様です。思いをつくしてエホバ神を愛する人が創造主のみ心を行なうのは,それを自分のなすべき事また生命を得る道と心得ているからというに留まらず,自分がそうすることを望み,また願っているからです。その人は,愛の思いが強いからこそ,天の父を喜ばせようとします。―ヨハネ第一 5:3。
8 どのように魂をつくして神を愛しますか。
8 魂をつくして神を愛するのは,理知を持つ人間である私たちが神を愛して生きることです。このように神を愛するとすれば,安息日だけの崇拝者,1週に1日だけ神を愛する者,あるいは1年のうち特定の時にだけ神の崇拝者になるような事はあり得ません。生命と時間は密接不可分です。生きている間は時間を使うことができます。死ぬならば,復活によって天の父が生命によびおこして下さらない限り,もはや時間は私たちのものではありません。魂をつくして神を愛するならば,神のみ心を行なうことが私たちの生活の中心となります。それで最初の半分を自分のためにとっておき,後の半分すなわち老後を神にささげることを考えないでしょう。―伝道の書 12:1。
9,10 (イ)「力をつくして」エホバ神を愛しながら,自分と家族の必要とする糧のために働くことができますか。どのように?(ロ)神に対する純粋の愛は,なぜ本質的なものですか。
9 力をつくして神を愛する人は精力的に神に奉仕し,神の喜ばれることを行なうために一生けんめい努力します。生計を立て,家事をはたし,また時おりの娯楽のためにさえ,当然,力を用いなければなりませんが,それでも私たちは活力を使うにあたってエホバ神を第一にします。すでに神に献身した人々に,使徒は次のように書き送りました。「兄弟たちよ。そういうわけで,神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを,神に喜ばれる,生きた,聖なる供え物としてささげなさい。それが,あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」。エホバは「神を愛する者たち……と共に働いて,万事を益となるようにして下さる」のです。ゆえに私たちの働きが神のほまれとなり,神を愛する者たちの益となるようにするのは当然ではありませんか。―ロマ 12:1; 8:28。
10 神に対して抱くべきものとして聖書の教える愛ほど深く,本質的なものはありません。この愛を表わすために心,思い,魂と力がはたす役割をそれぞれ論ずることはできます。しかし愛が純粋であるためには,そのすべてが一体をなしていなければなりません。何をも残すことなく,私たちのすべてがそれに関係します。
自分のように隣人を愛する
11 どのようにして,自分の如く隣人を愛しますか。
11 自分のかわりにではなく,自分のように隣人を愛さなければならないと,イエスは教えました。それは隣人にしてもらいたいと思うことを,隣人のためにすることです。自分は何もしないでいて,他人がすべてのものを与えてくれる事などを,人は期待せず,また望みもしないでしょう。他の人にかしずかれて万事に世話をやかれるのは,楽しいことではありません。しかし良いものを分け与えられるならば,人はそのもてなしをうれしく思います。からだに必要なもの,物質的なものだけでなく,それにもまさって精神的,霊的な必要をみたすもの,徳を高める会話,励みになる言葉はとくにそうです。保護を受けて危害から身を守ったとき,あるいは気づかないでいた危険を警告されたとき,また迷っていた時に導きや助言を与えられたとき,私たちは感謝します。しかし同時に,最後の決定を下す私たちの権利,私的な事柄において,事実に基づき自身の判断を下す私たちの権利を他の人に尊重してもらう時,私たちはその事をもうれしく思うでしょう。私たちは盗み,誤用などによって所有権を侵害されることを望みません。また結婚配偶者,家族,友人など愛する者たちと自分との間に,他人があつかましく入り込むことを決して望みません。これらの事また特権は自分だけのものでです。私たちは隣人もまたこれらのものを享受することを望むべきであり,またそのために私たちのすべき事を行なわねばなりません。イエスは,「これが律法であり預言者である」と言われました。―マタイ 7:12。
新しい戒め
12,13 (イ)イエスの新しい愛の戒めは,その表わし方においてどのように特別ですか。(ロ)イエスは地上における宣教において,どのように比類のない愛を示しましたか。
12 隣人の福祉一般を顧みるという意味でのこの隣人愛は,何世紀ものあいだ律法と預言者が要求していたものです。ゆえに弟子たちにむかって「新しいいましめ」を与えると言われたイエスは,異なるものを意味していたに違いありません。それは何ですか。イエスの言葉は「わたしがあなたがたを愛したように」,愛し合うことを教えています。弟子たちでさえもこの言葉の深い意味を十分に理解できませんでしたが,その意味をさとる時が間もなく来ました。―ヨハネ 13:34。
13 弟子たちが後に理解したように,イエスはご自分の住居を離れて弟子たちと共になりました。イエスはその父,兄弟,親しい友と仲間を残し,すべての持ち物と特権を手離したのです。これらすべてのものは天にありました。しかし宣教の務めを得て天を離れたイエスは,「神の言」としての霊者の生命を捨て,馬ぶねに生まれて人間となりました。(ヨハネ 1:14。ルカ 2:7)それは確かに想像を越えた変化でした。今日最も文明の進んだ,繁栄している国から最も原始的で貧しい土地に行っても,その変化はくらべものになりません。しかしイエスの愛はそこで最大に発揮されたのではなく,それはまだ序の口でした。イエスは罪のない完全な人であり,すべての点において他の人にまさっていたにもかかわらず,罪深く,不完全で病み,死につながれた人々の中に住み,働き,飲食し,眠りました。30歳までのイエスの生涯が「普通」であったとしても,最後の3年半の生活は決して尋常なものではありません。イエスは生涯のはじめから,ご自分と同じく隣人を愛されました。しかし今度は比類のない方法で愛されたのです。イエスはパレスチナ全土をめぐって人々を教え,彼らのためと,み父のお目的に関する真理のために力を用いつくしました。一般の人々を教えていないとき,イエスは弟子に訓練を授けられました。イエスのもとに集まった群衆のため,時には「食事をする暇もなかった」ことがしるされています。―マルコ 6:31。
14 献身的であったとはいえ,イエスが苦行の生活をすすめなかった事はどうしてわかりますか。
14 苦行? そうではありません。イエスは何度も食事の招きに応じ,宴会そして少なくとも一度は婚礼の招きにも応じました。そしてイエスは楽しまれたに違いありません。イエスは,ご自分のために人々の行なった良い事を認められました。友ラザロの家で食事をしておられた時,ラザロの姉妹マリヤは値およそ1万8000円の高価な油をイエスの足にそそぎました。その油を売り,貧しい人に施しをすればよかったものをと言って憤おり,貧しい者への見せかけの愛を示したのはユダです。しかしイエスは彼に言われました。「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために,それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが,わたしはいつも共にいるわけではない」。(ヨハネ 12:1-8)宣教において示されたイエスの無私の愛に人々が愛をもって答えても答えなくても,イエスの愛は変わりませんでした。
15 (イ)イエスは弟子たちに対し,愛の必要をどのように強調されましたか。(ロ)新しい戒めは,だれを愛することを弟子たちに求めましたか。それは何に基づいていますか。
15 弟子たちと共に過ごした最後の晩,イエスが愛それも原則をわきまえた真実の愛を強調されたのも,不思議ではありません。愛また愛することについて,イエスは30回以上語り,「互に愛し合いなさい」という戒めを3回繰り返しました。(ヨハネ 13:34; 15:12,17)このような愛を欠いているならば,どうしてイエスの弟子であることを証明できますか。イエスの戒めは,自分と同じように隣人を愛することでしたか。彼らはそうすべきであり,またそうしました。しかしそれは新しい戒めではありません。彼らは互いに愛し合い,キリストの弟子として互いの間に愛を持つのです。それはみ父を愛し,真理を愛し,イエスを愛した彼らに対して,すなわちイエスがその愛する弟子たちに対して示されたと同様な愛です。イエスは弟子たちにむかって言われました,「人がその友のために自分の命を捨てること,これよりも大きな愛〔アガペー〕はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば,あなたがたはわたしの友である」。(ヨハネ 15:13,14)朝になって,弟子たちはイエスの言葉の意味を悟りました。
16 (イ)イエスはその友に対して,どのように比類のない愛を示されましたか(ロ)弟子たちは,その時どんな言葉を思い起こしたはずですか。
16 弟子の一人は,遠くからであったにしても,それを見たかも知れません。私たちはそれを想像できるだけです。イエスの両手は重ね合わせられ,その上からくぎが木に打ち込まれました。手から血がしたたる間に,今度は両足にくぎが打ち込まれます。それから杭は真直ぐに立てられ,イエスのからだの重みが2本のくぎにかかりました。6時間後にイエスは死にました。それで無残に足を折られることは免れたのです。イエスの弟子たちは,これを見なかったとしても,目撃者からすぐにその事を聞きました。(ヨハネ 19:25-27)弟子たちはイエスを恥じますか。この人に従い,その教えを信じ,これこそ神の国において治めるために神から選ばれた者であると信じたことを否定しますか。少なくともペテロは,これらの事を予告したイエスの言葉に感傷的に反対したとき,イエスがペテロを叱ってのちに言われた言葉を思い起こしたはずです。イエスは次のように言われました,「だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の〔苦しみの杭〕を負うて,わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのため,また福音のために,自分の命を失う者は,それを救うであろう……邪悪で罪深いこの時代にあって,わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては,人の子もまた,父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに,その者を恥じるであろう」― マルコ 8:34-38,〔新世〕。
17,18 (イ)イエスはご自身の死によって,愛にみちたどんな目的を成就されましたか。(ロ)私たちは今どんなすばらしい関係にはいれますか。どのように?
17 イエスは地に来られたおもな目的をご自身の死によって成し遂げました。それは父の愛するみ名を立証することです。(ヨハネ 17:6; 18:37)イエスはまた人類のために贖いを備えました。それは贖いを受け入れるすべての人,「わたしが命じることを行なう〔ゆえに〕あなたがたはわたしの友である」とイエスから言われるすべての人のためです。(ヨハネ 15:14)イエスは,天に位のある新しい宇宙政府の王となる権利を得,また「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではな(く),罪は犯されなかったが,すべてのことについて,わたしたちと同じように試練に会われた」かたとして,追随者のために神の大祭司となる権利を得ました。―ヘブル 4:15。
18 復活の40日後にイエスは,ご自分のもとおられた天に戻りましたが,地に遣わされた33年半と宣教の務めは,イエスにとって忘れることのできないものです。いまイエスは設立された御国にあって王となり,地に対して治めを行なっています。私たちは,イエスの弟子にふさわしい事を証明するならば,いまでもイエスの愛と愛情また父エホバ神の愛を受けることができます。それには私たちにも愛が必要です。―マタイ 25:31-40。ヨハネ 15:7-10。
19 (イ)世界中の人々は,エホバの証人の間にどんな性質を認めていますか。それはなぜ普通とは異なっていますか。(ロ)真実の愛に動かされているエホバの証人は,なぜ多くの人から「普通」でないと思われる生活をしていますか。
19 イエスの忠実な弟子たちは新しい戒めを守りました。今日エホバの証人の新世社会も,それを守ることに誠実な努力を払っています。エホバの証人の全国大会,国際大会は公の注目を集め,戸別訪問の活動によってさえも,エホバの証人は全世界何百万の家庭の人々と接しています。神と隣人に対し,また互いに対してエホバの証人が抱く愛は,多くの国々において新聞,ラジオ,ニュース映画により伝えられてきました。国際紛争,国内の分裂,人種問題も,エホバの証人の愛の絆をたつことはできません。迫害にあい,そしられながらも,エホバの証人は心を苦くしません。(コリント前 13:6,7)毎週3回,会衆の集会に出席し,週末や晩の自分の時間の多くをささげて聖書を教えることに専念しているエホバの証人の生活は,多くの人から見て「普通」ではないかも知れません。しかしエホバの証人は,今日の世界が「普通の」世界ではなく,また今が「普通の」時ではない事を,知っています。まぎれもない聖書の預言の成就は,今が世界の歴史上もっとも異常かつ重大な時であることを示しています。真実の愛はそれを見逃しません。ハルマゲドンを目前にした今日,私たちは何百万いや何億の生命が間もなく消し去られるかも知れない深刻な事態に思いを致さなければなりません。そうなれば,それらの人々に私たちが愛を示すことはもはや不可能となります。―マタイ 24:34-42。
20 (イ)このような「普通の」生活についていえば,愛の新しい戒めは,私たち各人に何を求めますか。(ロ)いま純粋の愛を学び,それを培うことはなぜ肝要ですか。
20 私たち一人一人についてはどうですか。「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい」と教えた戒めを各自が守りますか。兄弟たちまた正義を愛する心を持ち,興味を示す人々を助けて永遠の生命を得させるため,世の中で「普通の」生活といわれるものを犠牲にすることをいといませんか。このわざに没頭した人々に生命を得させるため,自分の生命を危険にさらし,あるいは失うことさえあるのです。鉄のカーテンの背後あるいは他の場所で,まさにこの事をしているエホバの証人が毎日どこかにいます。なぜですか。「主は,わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって,わたしたちは愛ということを知った。それゆえに,わたしたちもまた,兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。(ヨハネ第一 3:16)真実の愛をいま学ばなければなりません。そしてよく学ぶことが必要です。将来,試練や誘惑にあうとき,また難しい決定を下さなければならないとき,愛があれば,正しい事をして忍耐できるからです。世が私たちの情緒をかきたて,感傷に訴え,他の人の生命にかかわる本当の福祉あるいは原則に盲目にならせようとしても,私たちは真実の愛の道を見失わないでしょう。―ヤコブ 1:12。ヨハネ第一 4:17,18。
21 神の新しい秩序の間近いいま,真実の愛は私たちにどんな将来を保証していますか。私たちは何をすることに励むべきですか。
21 神の新しい秩序は近いのです。その下で地に住む人々は愛を働かせ,現在の秩序の下で利己主義が成しとげたどんなものより千倍もすばらしい事を成しとげるでしょう。彼らはこの地を文字通りの楽園にするだけでなく,神のみ霊の実すなわち愛,喜び,平和,寛容,親切,善,信仰,柔和および節制にみちた霊的な楽園にします。あなたの生命のことを心にかけつつ,私たちは祈ります,「汝らの愛,知識ともろもろの悟とによりいやが上にも増加り,善悪を弁へ知り,キリストの日に至るまで潔よくしてつまづく事なく,イエス・キリストによる義の果をみたして,神の栄光と誉とをあらはさん事を」― ピリピ 1:9-11,文語。
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よい行いは証言になるものみの塔 1965 | 10月15日
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よい行いは証言になる
「外部の人に対して知恵をもって歩み続ける」際に,私たちの振舞いはとくに人々の注目の的になります。それ自体が良い証言となって良い便りを伝える機会が開かれる結果になります。ベルギーの一姉妹が働いていた事務所で,同僚の女性たちは昼休みにいろいろな事を話し合うのが習わしでした。同僚の一人は,その姉妹が意見を求められた時など,とても落ち着いていて,他の人のようにいつもはやり言葉を使おうとしない事に気づきました。この女性は姉妹に向って「私もあなたのように応答ができたらと思うわ,だってあなたは他の人たちと違うんですもの」と言い,それに対して姉妹は「聖書を学んだので物の見方が変ってきたのです」と答え,もっと聖書の原則を学ぶようにその婦人を励ましました。昼休みに何回も会話を重ねるうちに,その人は雑誌を求め,また書籍研究に招待されました。彼女はすぐ聖書を勉強したいといい,しばらくして御国会館で伝道活動の発表を聞いた彼女は野外奉仕に参加する事を望みました。しかし彼女と,いま真理に関心を示しているもう一人の同僚はまず自分たちの結婚関係をきちんとすべき事を悟りました。聖書的な見解をよく理解した二人は問題を解決するためすぐ行動に移りました。聖書の原則と一致する自分たちの行いで証言となるように望み,宣教を通じて他の人が真理を学ぶ事を援助できるようになるためいま忙しく聖書を勉強しています。
1965年度エホバの証人の年鑑から
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