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娯楽に何が起きているかものみの塔 1979 | 9月15日
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娯楽に何が起きているか
最近の傾向はなぜ憂慮すべきものですか。あなたはどんな影響を受けますか。
「娯楽の重要性および人間の心身を回復させる娯楽の価値は,人類が常に認めてきたところである。しかし娯楽の性格が人類にとって有益なものにも有害なものにもなり得るということも常に認められてきた」― 映画産業の“製作規約”。
健全な娯楽によって元気を回復したことのない人はいないでしょう。しかし時たま娯楽に幾分失望したことがありませんか。映画産業の製作規約でさえ,「人間を堕落させ,あるいは生活の質や水準を下げる」傾向のある「有害な」娯楽について警告しています。
今日の映画,テレビ,交わりのあるものが及ぼす“退廃的”な影響を非難する人は少なくありません。例えば,娯楽を求めていたのに,それがあなたの道徳観念に挑戦するようなものになったという経験はありませんか。
その事をよく示す例があります。普通の観客で満員の映画館に,スクリーンに吸いつけられた観客の金切声に似た笑い,そして次には爆笑がこだましました。スクリーンには何が映し出されていたのでしょうか。それは二人の男が窮地に陥った婦人を襲い,なすすべを知らない夫の目の前で強姦するという,背筋の寒くなるような場面です。なんとひどい場面でしょう! たいていの人はこのような事を考えただけでもぞっとします。ところが,明らかにこれらの人々はそれを慰みと考えていたのです。これは生活規準が根底から堕落している証拠と言えます。
今日の事態はきわめて深刻なものであるため,「娯楽は一体どうなっているのか」と問いかける人は多くなっています。身の毛のよだつような暴力,露骨な性の描写を売りものにした映画が大当りしています。今日の映画の大半を占めているのはこのような映画です。米国だけで一年間に売られた映画の切符は10億枚に上ります。
暴力とセックス
映画の暴力は近年とみにエスカレートしています。一新聞の編集委員は次のように書いています。
「正当と認められる殺人は映画を魅力あるものとする強力な力であり,観客を操縦する最も安易な方法のひとつとなってきた。これは最も簡単な方法である。
「観客はそれに魅せられるだけでなく,自らも喜んで手を下し,それを期待さえしている。映画館に入るずっと前から,我々はだれかの血を叫び求める自分の姿を想像できた。それはここ何年間ものことである。我々はそれがだれの血かをはっきり知っている訳ではなく,そうする理由をとりたてて知っている訳でもない。
「それでこのすべては映画の観客について何を物語っているだろうか。彼らはパンと野外競技場の試合に飢え,血に渇いた古代ローマ人の子孫だろうか。
「数時間の間,映画を何本もたて続けに見ているうちに,我々は熱烈で時には大満悦の共犯者となっている」。
これらショッキングな映画のあるものが及ぼす影響はてきめんでした。元気を回復するどころか,映画館で失神したり吐いたりする人が何人も出ています。ぞっとするようなシーンの最中に心臓発作で死んだ例が少なくともひとつありました。異常に興奮して泣きわめく子供が映画館から運び出されたこともあります。
これは正しい事に思えますか。他の人の苦しみや,残酷さのあからさまな仕打ちが娯楽と言えますか。聖書から次のように教えられているクリスチャンにとって,それは適切な内容の娯楽ですか。「神の選ばれた者,また聖にして愛される者として,優しい同情心…を身に着けなさい」― コロサイ 3:12。箴言 17:5もご覧ください。
このような暴力とならんで露骨な性描写がスクリーンに登場しています。好色的な題材の映画が人気を博している国は多くなっています。しかし今日の映画にいや気のさしている人々は,「家族の外出の予定表から映画を閉め出した」オーストラリアの多くの家族に倣いました。
小さなスクリーンつまりテレビも,セックスと血なまぐさい暴力の点で映画よりわずか数歩おくれているに過ぎません。最近のテレビ番組には同性愛,男女の売春,近親相姦,強姦,婚前あるいは婚姻外の性関係を大きく取り上げたものが登場しています。退屈しのぎにつけたテレビの画面にセックスや激しい暴力が映し出されるので目をそむけたくなるのを何度となく経験しませんでしたか。
愉快な社交的集まり?
娯楽に対する好みはさまざまです。ある世論調査によると,米国では「ダンスをしたり,パーティーを開いたり,パーティーに出席したりするような社交的活動」が娯楽の主流をなしています。
しかしこのような場面で見られることの多い事態は,やはり一部の人々をして,「娯楽は一体どうなっているのか」と嘆かせるものとなっています。くつろいで交わりを楽しみたいと思っている多くの人も,いつのまにか自分の道徳規準を妥協させたり,下げさせたりする誘惑に直面することがあります。
南アフリカからの一報告によると,“セックス・ゲーム”を呼び物にしたパーティーに対する関心が高まっているようです。パーティーの出席者は,組織された“ゲーム”の一部として,不道徳な性行為にふけりました。土地の精神科医の言葉はその報告を裏づけています。その医師は,「パーティーで集団のセックス・ゲームに参加して以来,自己嫌悪に陥った数人の婦人を治療している」と語っています。パーティーで不道徳な行為にしぶしぶ加わった人は,それが「自分自身の規準の堕落」であることを認めています。
社交的な集まりはアルコール飲料の飲み過ぎによって損なわれる事が多くなっているため,出席者は「過度の飲酒,浮かれ騒ぎ,飲みくらべ」という言葉で聖書が述べている事柄を行なう者になります。(ペテロ第一 4:3)この種類の娯楽は,アルコール中毒が社会問題となっている国の増加の一因を成しています。今日の青少年の間でこのような活動は急速に増えてきました。ある調査は次の事を明らかにしています。
「酒を飲む十代の若者は……孤独を好まず,社交的活動の大部分を友だちと一緒にすることを望んでおり,社交的で,集団志向の子供である。彼らにとって飲酒は多分に社交的な活動である」。
娯楽のための社交的な集まりで行なわれている事柄を見て心を痛めた経験がありますか。『あなた自身の規準を堕落』させようとする巧妙な圧力を感じたことがありますか。多くの人は悲しげに肯定の答えをします。
映画,テレビ番組,社交的な集まりのすべてがこのようだと言うのではありません。しかしそのようなものが多いのは事実です。あなたが大切にしている道徳上の節操が侵されないようにするため,あなたは個人的に何をすることができますか。道徳を堕落させるような娯楽に対して,クリスチャンはどんな態度をとるべきですか。神を喜ばせたいと願う人々にとって,それに代わるどんな娯楽がありますか。このあとの記事を興味深く読まれることをお勧めいたします。
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本当に心身をそう快にするレクリエーションものみの塔 1979 | 9月15日
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本当に心身をそう快にするレクリエーション
「我々は祝宴や歌や遊戯をもって陽気に神々を崇拝するが,お前たち[クリスチャン]は,こうした楽しみを持つ者たちが喜ばすことのできない十字架にはりつけにされた男を崇拝している。その男は喜びを忌みきらい,楽しむことを禁じている」。二世紀のキリスト教に敵対したある人物はこのように語りました。a しかし,これはなんと不当な評価なのでしょう。初期の弟子たちは生活に真の喜びを見いだしていました。
彼らの指導者であり,「幸福な神」の子であるイエス・キリストは,「喜びにあふれて」おられ,「幸福な……大能者で」あると描写されています。また,イエス・キリストは,地上におられた時,ご自分の追随者たちが「[彼の]喜びを自分のうちに存分に持つ」よう祈りました。―テモテ第一 1:11; 6:15。ルカ 10:21。ヨハネ 17:13。
彼らの喜びは一時的なお祭り騒ぎや娯楽に根ざしていたのではありません。初期クリスチャンたちは次の古代の箴言(14:13,新)をよく知っていました。「笑いの中にあっても心が痛んでいることがある。そして悲嘆は歓びの終わり着くところである」。彼らの最大の喜びはキリスト教の原則に従うことでした。その喜びは彼らの心に達するものでした。今や,彼らは,全能の神との貴重な関係と仲間のクリスチャンとの親交を得ていました。また,他の人が真理を学ぶのを助けることや,自分たちにとって真の喜びの源となる子供を育てる上での心暖まる経験を味わっていました。
『余暇』を活用する
聖書的な責任を果たし,キリスト教の音信を他の人に分かつ業に携わるのは重要なことですが,目を覚ましている時間のすべてをそのために費やすわけではありません。彼らの主人は,心身をそう快にするものや休息のために幾らかの時間を取るのがふさわしいことを自らの模範をもって示されました。イエスはご自分の弟子たちにこう語りました。「『さあ,あなたがたは自分たちだけで寂しい場所に行き,少し休みなさい』。来たり去って行ったりする者が多く,食事をする暇もなかったからである」― マルコ 6:31。
『休む』(動詞の中間態)に相当するギリシャ語の同じ動詞が,フィレモン 20節では『新たなものにする』(動詞の能動態)と訳出されています。ですから,「暇」は,いつもの決まった仕事を続けられるよう気分転換を図ったり,気分を新たにしたりするために用いることができます。これら初期のクリスチャンは,王国の音信を宣べ伝える業を第一にして,それに熱心かつ活発に携わる一方,時折気分転換のための時間を見いだし,真のさわやかさを得ていました。
彼らは互いを訪問し,共に食事をしたに違いありません。また,これらの弟子たちやその子供たちが楽しんだと思われる様々な形のふさわしい娯楽もありました。キリスト教時代以前に,若者などが楽器を奏でていたことが記されています。(サムエル前 16:18。列王上 1:40。哀歌 5:14。ルカ 15:25と比べてください。)子供たちが遊戯や踊りをしていたことも言及されています。(マタイ 11:16,17)当時,「少しの事」に益がある「身体の訓練」のうちどんなものがあったにせよそれとは対照的に,行ないに表わされる敬神の専念は「すべての事に益があ(り)……今の命ときたるべき命との約束を保つ」ものでした。当時のクリスチャンは何を行なったにせよ平衡を保ち,クリスチャンでない人たちのように,それに夢中になっておぼれることはありませんでした。自分たちの喜びの真の根源である「敬神の専念」を曇らすようなことは決してしなかったのです。―テモテ第一 4:8。
幾つかの家族が現在行なっている事柄
今日のクリスチャン家族も気分転換のひとときを共に楽しんでいます。彼らは物事を共に行なうことによって,とりわけ神の王国を他の人に告げ知らせることによって,親交を深め,真の喜びを見いだしています。それでも様々な形のレクリエーションなど,他にも共に行なえる事柄があります。どんな種類のレクリエーションがありますか。大勢の子供を首尾よく育てたある父親は,種々の築き上げる活動について語った後,こう付け加えました。「子供に体力を使わせる挑戦となるようなレクリエーションが最も成功を収めるようです」。
十代の子供を四人持つあるクリスチャンの父親はレクリエーションを楽しむ機会のなさそうな地域に住んでいました。家族にとって有意義なレクリエーションを見いだす上で問題がなかったかとの問いに,その父親はこう答えました。「レクリエーションを備えることは少しも問題ではありませんでした。克服しなければならないものと言えば,各自がその機会を見いだし,それに満足を得ることぐらいです。水泳やハイキング,客をもてなすことなど簡単な事柄を楽しむことが最も満足をもたらすようです。私たちは気分転換のために費用のかかるレクリエーション施設やぜいたくな装備などは必要でないことを学びました。むしろ,だれでも利用できるものをやってみることです」。
聖書の知識を他の人に分かつ業に携わっている時にも,レクリエーションのための機会が開かれることに気付く人は少なくありません。四人の子供を持つ前述の父親はこう書きました。
「私たちのレクリエーションの大半は神権的な活動に付随したものです。神権的な活動に熱心にあずかっていれば,レクリエーションの機会が多く開かれます。田舎の区域で証言を行なう時には,しばしば野外で食事をする機会に恵まれます。一日の証言活動の終わりに,森やキャンプ地のどこかで楽しんだことも少なくありません」。
当然のことながら,それぞれの家族の置かれている状況は違います。また,家族としてくつろぎを見いだせるものもいろいろあるに違いありません。しかし,同じく四人の子供を持つ別の父親はこう語りました。「若者に満足と幸福をもたらすのは,レクリエーションの種類ではなく,レクリエーションに付随する交わりとその雰囲気です。過ごす時間が楽しいものになるかどうかは,家族の成員間の関係に依存しています」。別のクリスチャンはさらにこう語りました。「それ[レクリエーション]を特別楽しいものにしたのは,わたしたちが家族として行なったということです」。
親の払う関心の価値
ですから,親は,余暇を何らかの有意義な活動で満たすために子供の必要とするものに気を配らねばなりません。夫が信者ではないある母親はこう語りました。「子供たちがそこから離れたくないような雰囲気を家庭に築くべきです。そうすれば,一時的に家から出ても,戻って来たいと思うものです」。子供の養育に成功を収めたある両親は,その“秘けつ”を尋ねられた時,こう答えました。「わたしたちとの家での生活が,子供の遊び仲間といっしょにいる時よりいっそう興味深いものになるよう,いつも心掛けてきました」。
家庭での生活を子供にとって「いっそう興味深いもの」にするには,親の側の深い気遣いが求められます。ある母親は適切にもこう語りました。「よちよち歩く子供を追うのは体を使う仕事ですが,十代の若者には,よく頭を使います」。そうです,親の心のこもった気遣いと知的な努力が必要なのです。
こうした努力を払うのは,口で言うほどやさしくはありません。「七人の子供の親としてわたしたちは,子供たちに衣食住を備えるのは一苦労であることを知りました」と,ある父親は語り,さらにこう付け加えています。「ですから,わたしたちの場合,レクリエーションのために幾らかの時間を取るといっても,それは限られたものでした」。時には,家にいる片親だけでこのすべての荷を負わなければならないこともあります。
一日のきつい仕事を終えて帰宅してから,家族のためにどんなレクリエーションを備えたらよいかを考えるのは容易なことではありません。自分たちに対する聖書的な要求をすべて果たし,その上で家族のために有意義なレクリエーションを備える親たちは真に称賛に値します。これは容易なことではありませんが,七人の子供の母親は,「喜びがすべての犠牲やつらい仕事を補って余りあります」と語りました。彼女の七人の子供は全員献身したクリスチャンになっています。
子供たちはそうした努力に答え応じるでしょうか。一人の父親は,十代の三人の娘を男手一つで育てるという挑戦に立ち向かいました。その三人の娘はいずれも献身したクリスチャンになっています。後日,娘の一人はこう語りました。
「わたしたちはいろんな事を一緒にしました。娯楽をする余裕のない時には,ただ歩きました。街路を何ブロックも何ブロックも歩いたこともありました。父は,自分も普通の人間と変わらないことを率直に知らせてくれました。雨の日にどこにも行く所がないと,父は,『外に出て雨の中を歩こう』と言い,わたしたちは,雨の降る外に出て,よく歩いたものです。どこへ行くあてもありませんでしたが,父と一緒にいられるだけでとてもすてきでした。父はわたしたちと一緒に過ごす時間を取ってくれました」。
もちろん,だれもが,雨の中の散歩をレクリエーションとみなすわけではないでしょう。しかし,何がなされたかが重要なのではなく,真のさわやかさが得られるよう,“気分転換のために”家族で何かを行なうことが大切なのです。
霊的な“家族”
クリスチャンとなる人は会衆というもう一つの家族内での貴重な交わりを楽しみます。実際,会衆は,「兄弟,姉妹,母,父,子ども」のそろった家族に例えることができます。(マルコ 10:28-30)ですから,会衆の成員が群れで一緒に証言を行なうことだけでなく,互いに築き上げる交わりのひとときを持つことを楽しむのは当然と言えます。
こうした社交的な交わりは,人をさわやかにし,会衆に暖かさを増し加えることでしょう。クリスチャンのある若い女性は,これまで出席した集いの中でどれが一番楽しかったかと尋ねられた時,ためらうことなくこう答えました。
「それは会衆内の二,三の家族が親子連れで集い合った時です。軽食をとってから,全員が座って話をしました。特別の趣向は何もありませんでした。私たちの何人かは,エホバの証人になったいきさつや,他の人を教える業に関連した経験を話すよう一人の兄弟から求められました。しばらくすると,何人かの違った人が,クリスチャンになったいきさつや克服しなければならなかった問題について語りました。だれも会話を独占することなく,多くの人が話に加わりました。私たちは皆経験によって励みを得ました。それは忘れられないひとときとなりました」。
聖書の原則を適用することによって,またそこに同席する長老や奉仕のしもべや他の円熟した人が良い方向に影響力を及ぼすなら,そのような集いは真にさわやかなものとなり,品位に欠ける振舞いによって多くの人にあと味の悪い思いをさせないですみます。わたしたちの主要な使命が,エホバのみ名と王国を証しすることにある点を忘れてはなりません。くつろいだ雰囲気の中で行なわれるクリスチャンの社交的な交わりにおいてさえ,わたしたちの行状は聖なるみ父に栄光を帰すものであるべきです。二世紀のクリスチャンの著述家が,「クリスチャンでないクリスチャンはどこにもいない」と語っている通りです。―イザヤ 5:12; 43:10-12。コリント第一 10:31。
レクリエーションの相対的な価値
健全なレクリエーションは楽しい気晴らしとなります。新鮮な気分になって,通常の仕事を続けて行く力が得られます。しかし,レクリエーションは生活の中で重要な事柄ではありません。ヨーロッパで良いたよりの全時間の宣明者として奉仕している,平衡の取れたある若い姉妹はこう語りました。
「家で娯楽が強調されることはありませんでした。正直なところ,私たちの家では,野外奉仕が重視されていました。衣食住や霊的な事柄,集会が重要な事柄とみなされました。もっとも,時間のある時には,会衆内の他の家族を訪問するなどして楽しいひとときを過ごしました。
「若い人たちが娯楽をしにいろいろな所へ行くのを度々見掛けてきましたが,そんな時,『わたしもやってみたい』などと考えたものです。でも,絶えずレクリエーションができないからといって,それを苦痛に思うことはありませんでした。そのために自分が不利になったことはありませんでした。自分と同年齢の若い人々すべてと比べても,引け目を感じることはありません」。
娯楽が生活の中で主要な位置を占めるのを許すなら,霊的に,そしておそらくは身体的に害を被ることになるでしょう。箴言 21章17節(新)の次の明りょうな警告に留意してください。こう記されています。「歓楽を愛している者は窮乏する者となり,ぶどう酒と油を愛している者は富を得ることがない」。
社交的な集いや祝宴では,ぶどう酒を飲み,香油その他の芳香性のものを頭や服にそそぐのが習慣になっていました。(箴 27:9。アモス 6:6)こうした浮かれ気分を愛する人は,やがて,生活の他の活動に影響が及んで害を被ることに気づくでしょう。全くの浮かれ気分になる気晴らしを定期的に行なう人々は,世俗の事柄に引っ張られていく傾向のあることを,幾多の悲しい経験が物語っています。ですから,十分注意を払わねばなりません。
世界各地の多くのクリスチャンたちは,工業国の人々が“娯楽”と呼んでいるものの多くを持っていないことを忘れないでください。それでも,結構楽しく暮らしているのです。事実,様々なレクリエーションを行なう人と比べて,多くの面でより深い幸福と満足を感じてさえいるようです。国際的な状況を注意深く観察した一人の長老は,「娯楽が重視されるにつれて,道徳が低下していると感じている人は少なくない」と述べています。ですから,個々のクリスチャンはこうした危険に対して用心し,天のみ父の崇拝にあずかることを“重視”していかなければなりません。
また,次の事実も直視する必要があります。つまり,この「終わりの日」に神の王国を宣明するという緊急な使命を持つ者として,わたしたちクリスチャンであれ,子供であれ,娯楽に費やす時間は,最少限度に押さえなければならないということです。また,世が“娯楽”と呼ぶすべてのものをクリスチャンが行なえるわけでないことも明白です。ですから,レクリエーションはそのあるべき位置に保たれなければなりません。そのためには,肉的な見方ではなく,霊的な見方を絶えず保ち,子供の心にそうした見解を教え込むことが必要です。
では,個々のクリスチャンがレクリエーションに対して平衡の取れた見方を保てますように。時折,築き上げるレクリエーションを楽しみながら,心に真の喜びと満足をもたらす事柄を中心とした生活を築いていけますように。加えて,クリスチャンとして清い生活を送り,壮大な王国の希望を他の人に宣明する業に熱意を込めてあずかることに最大の幸福を見いだせますように。やがて,この王国の下で,全人類は,わたしたちの神エホバに永遠の賛美となるよう平衡の取れた価値ある生活を送るよう助けられることでしょう。
[脚注]
a キリスト教徒を自認するエピポディウスに語った一裁判人の言葉。この裁判人は彼を尋問し,妥協させようと試みていました。このことは,ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの第17年(西暦177年)にフランスで起きたと伝えられています。
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あなたがたはもはや諸国民と同じように歩んではいないものみの塔 1979 | 9月15日
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あなたがたはもはや諸国民と同じように歩んではいない
「あなたがたはもはや……諸国民と同じように歩んではいません。彼らは精神的な暗やみにあり(ます)」― エフェソス 4:17,18。
1 以下の資料はなぜ重要ですか。
世界の道徳の状態は急激に悪化しています。数年前なら,あいた口がふさがらないと考えられるであろう種類の娯楽が,現在では一般大衆に非常に受けています。その影響はクリスチャン会衆にさえ脅威となっています。この傾向に抵抗するにはどうすればよいでしょうか。次に掲げる記事は,有意義な解決策をいくつか示すものです。
2,3 (イ)イエスとパウロは,クリスチャンの行ないを何になぞらえましたか。(ロ)エホバの証人は全体としてどんな評判を得ていますか。しかし一部の人々にはどんなことが起きましたか。
2 「あなたがたは世の光です」とイエス・キリストは言われました。クリスチャンの行状は,道徳的に暗やみの世の中で,明るく輝いていなければなりません。パウロは「曲がった不健全な世に住む」弟子たちすべてに,「暗い所で輝く……光」でありつづけることを命じています。しかし,イエスや使徒たちと交わっていたとはいうものの,キリストの初期の弟子たちも依然として不完全な人間でした。注意を怠るなら,「曲がった不健全な世」の道徳環境の影響を受け,誘惑された瞬間にクリスチャンの道徳を捨てることもあり得ました。事実,やみの業にもどってしまった人も幾人かいました。―マタイ 5:14。フィリピ 2:15,フィリップス訳。フィリピ 3:18,19。
3 ですから,今の時代にわたしたちに加えられる圧力も,わたしたちをこの世の暗やみにもどすためのものです。残念なことに,一部のクリスチャンはその圧力に屈しました。全般的に見れば,エホバの証人はその正直さと道徳にかなった生き方とで世界に知られていますが,個人的に見れば,「光の子ども」として歩むことをやめ,会衆から除かれねばならなかった人たちが幾人かいます。その人たちの行状はもはや模範的とは言えません。どこに,そういう好ましくない事態を生み出す原因があったのでしょうか。―コリント第一 5:13。エフェソス 5:8。
世が及ぼす圧力
4 世界の道徳はどんな状態にありますか。人気のある娯楽はこのことをどのように証明していますか。
4 世界の道徳環境が悪化したことは明らかです。世の多くの人々は,「いっさいの道徳感覚を通り越し」ました。(エフェソス 4:19)このことは今日流行している娯楽の種類を見れば明白です。娯楽だけを取り上げるのはなぜでしょうか。なぜなら,終業後,自分のしたいことができる時間に何をするかを見れば,心が何に傾いているかをよく知ることができるからです。いわば「非番」のような自由な時間をどうするかによって,その人が本当にどのような人であるかが,かなりよくわかります。明らかに良くない種類の娯楽が今日人々に受けているところから推すと,現在の世界の道徳の質はかなり低いと言わねばなりません。この低下した状態はあなたに影響を及ぼしているでしょうか。
5 エフェソス人への手紙にある助言を検討するのはなぜ時宜にかなっていますか。
5 道徳の退廃した時代に住むクリスチャンはわたしたちが始めではないことを忘れないようにしましょう。「いっさいの道徳感覚を通り越し」た人々について述べられていることは,キリスト教の揺らん期に,中東の町エフェソスに住んでいたある人々に当てはまりました。エフェソスのクリスチャンたちに対する使徒パウロの手紙は,わたしたちにとって極めて重要なものであるはずです。というのは,パウロはその手紙の中で,「光の子ども」として歩むことの真の意味を徹底的に説明しているからです。パウロの助言は,多くの自称クリスチャンが「快楽を愛する者」となっているこの危険な「終わりの日」に,本当に適切な助言なのです。―テモテ第二 3:1-7,13。
諸国民はどのように歩むか
6,7 (イ)エフェソス 4章17節で,クリスチャンは何をすることをやめるように勧められていますか。(ロ)一世紀の諸国民はどのような『歩み方』をしていたのでしょうか。
6 エフェソス 4章17節で,パウロは仲間のクリスチャンに,「もはや,思いのむなしいままに歩む諸国民と同じように歩[まないように]」と勧告します。当時の諸国民はどのような『歩み方』をしていたのでしょうか。一世紀に住んで直接にそれを見ていたある人は,実状を次のように述べています。
「人々はあらゆるところに快楽を求める。あらゆる不徳行為が無制限に行なわれている。……われわれは高潔な事柄をすっかり忘れてしまっている。今……人はたわむれに殺されている。……人がしかばねになるのを見るのが,心を満たす楽しいことなのである」。a
人生の真の目標を何も持たないまま,多くの人は娯楽を過度に強調し,あらゆるところに快楽を求めました。
7 古代エフェソスは,娯楽を望む人にとってはかっこうの場所で,どんな好みをも満足させる様々なショウを見せることのできる,2万5,000人の座席を有する大円形劇場や闘技場,あるいは競馬場などがありました。それらの建造物は,時の世界強国ローマが造ったものでした。ある歴史家はそのローマについて,「同帝国の道徳の状態は,記録に残るものの中でも,幾つかの点で確かに最もひどい部類に入った」と述べています。
無感覚になった心
8 (イ)エフェソス 4章18節は,どんな心を持つ人々に注意を引いていますか。これに相当するギリシャ語にはもともとどのような意味がありましたか。(ロ)そのような状態は突然に生じましたか。
8 パウロは人々のことを,『精神的な暗やみにある』というふうに描写し,『それはその心の無感覚さのためです』と述べています。(エフェソス 4:18)彼らの心には感覚がありませんでした。「無感覚さ」に相当するギリシャ語の語源は,大理石よりも堅いある石を描写する語にまでたどることができます。それは医学用語で,人体のある関節に徐々にできていって,ついにはすべての活動をまひさせる恐れのある痛風結石を指して用いられました。暗やみにある人たちの心は次第に鈍く無感覚になり,石のように堅くなりました。これは一夜にして起きたことではなく,徐々に進行したもので,その直接の原因となったのは,娯楽の選択でした。なぜそう言えますか。
9,10 一世紀に最も人気のあった娯楽は何でしたか。そしてそれは観客にどんな影響を与えましたか。
9 当時一番人気のあった娯楽は何であったかあなたはご存じでしょうか。多くの場合,人と人,あるいは人と動物とを死ぬまで闘わせる剣闘競技です。その光景を想像してみてください。闘技場は観客で満員です。絹の豪華な日よけの下に座っている人たちもいます。妙なる音楽や通路を流れる香水のにおいは,死の音とにおいをおおい隠す快適な背景です。突如,観衆は熱狂のあまり総立ちになり,叫び立てます。「殺してしまえ! ぶちのめせ! 焼き印を押せ! なんだそのおくびょうなやり方は! 打ち方が弱いぞ!」 こうした組織的な虐殺はすべて,それを見物していた人が言ったように,「おもしろ半分に,ウィットや気晴らしのために行なわれていました」。
10 そのような野蛮な戦いを見つめていられる人,血のりを小きみよげに見ていられる人にとって,他の娯楽は退屈で活気のないものに思えました。ある歴史家が要約しているように,その暴力による戦いは,「人間と動物の違いを示すものであるところの,苦しみに同情する神経を破壊してしまいました」。
11 次の説明は正しいですか,間違いですか。―剣闘競技は,もう行なわれていないので,今日の娯楽は『無感覚な心』を持つ人を生み出すことはない。なぜそう答えますか。
11 そんなことがあったとは信じられない,とあなたは言うかもしれません。しかし,今日でもこれに似た状態が見られないでしょうか。なるほど剣闘競技はずっと昔に行なわれなくなりました。しかしある新聞記者が体験したことは注目に値します。
「その女を殺せ! もう一度くらわせてやれ! 実際に殺人者はその合図に応じて『女にくらわせ』た。つまり彼女に銃弾を撃ち込んだ。……処刑を命令していた者たち,つまり劇場で私の後ろの座席に座っていた三人は,ほかの点ではどこから見ても,映画を見にくる普通の人であった」。
これは珍しいケースでしょうか。そうではありません。多くの国で,一番人気のある映画やテレビ番組は,たいてい暴力を呼び物にしています。この種の娯楽は,「痛みを感じなくなった」,つまり良心の責めを少しも感じない,無情な人間を生み出すのに一役買いました。―エフェソス 4:19,王国行間訳。
身を不品行にゆだねた
12 (イ)エフェソス 4章19節は,諸国民がどのように歩んでいたかについて,さらにどのように説明していますか。(ロ)「不品行」にはどんな意味がありますか。当時の娯楽はそれを反映していましたか。
12 使徒パウロはさらに,諸国民は“心を鈍くした”だけでなく,「貪欲にもあらゆる汚れを行なおうとして,身を不品行にゆだねた」と述べています。(エフェソス 4:19)また「淫行」や,「話すことさえ恥ずべき」事柄についても語っています。(エフェソス 5:3,12)一世紀において,こうした行ないを大いに助長したものはやはり娯楽で,こんどは舞台劇つまり演劇でした。ではどんな劇が行なわれたのでしょうか。
「欺かれた夫たちの危険な企て,姦淫や恋のかっとうなどが,主な内容を成していた。美徳は笑い草にされ,……神聖なものや崇敬に値するものはみな汚辱を被った。卑わいで……しゅう恥心を踏みにじるみだらな言葉を使いみだらなショウを見せる点で,これらの出し物はその最たるものであった。踊り手は舞台の上で衣装を脱ぎ捨て半裸で踊った。全裸で踊ることもあった。芸術などはそっちのけの,すべてが官能を満足させるためだけに企画されたものであった」― ゲルハルト・ウールホーン著「キリスト教と異教との戦い」,120頁。
なんとひどいものだったのでしょう。まさに「不品行」の典型です。というのは,この語のギリシャ語原語には,どんな快楽にでもすぐに夢中になる,という意味があるからです。それは,人々がどう言おうとどう考えようと意に介さない,恥も外聞も投げ捨てた態度です。
13 今日行なわれている娯楽の中に,同様の「不品行」がすぐに明白に認められるものがありますか。
13 今日でも同じです。娯楽媒体が提供するものには性の不道徳が深くしみ込んでいます。国によってはポルノ映画がテレビの画面を通して直接家庭に入り込んでいます。聴視者はそれに反応しますか。イタリアでは,テレビがポルノ映画を放映したとき,「全市がその間活動を停止したかのようになった」ということです。
14,15 (イ)「貪欲さ」(エフェソス 4:19)とはどういう意味ですか。今日行なわれている種類の娯楽は貪欲さを生み出しますか。(ロ)献身したクリスチャンでも,性の不道徳を呼び物にするものを見ることによって影響を受けますか。
14 ある作家は,多くの映画の内容と人々の態度を説明して,次のように述べています。
「新しいフィルムの大半は,赤裸々なセックス・シーン ― 異性愛,近親相姦,あるいは同性愛 ― が中心となっている。……」。結論として同作家は,「要するに今の社会では,何でも通り,すべての事が許されている。個人の肉欲にも,欲求や気まぐれを満足させることにも何の制限も加えられない」と言っています。
15 そういう人たちは,パウロが言った通りの,「貪欲にもあらゆる汚れを行なおう」とする人々です。そうです,それは「貪欲」(「さらに多く得る」,王国行間訳),つまり度を超えた欲望を満たそうとする,そしてどれほど倫理を踏みにじることになっても自分の感情を満足させようとする強欲な欲求です。(エフェソス 4:19)そういう退廃したものを見ることは,クリスチャンの思いに影響を与えないでしょうか。この種の映画を何本か見たある人は次のことを認めました。
「そういう[つまり性の不道徳を描いた]場面はなかなか忘れないもので,それについて考えれば考えるほど,見たことをやってみたくなるものです。……そして自分が何かを得そこなっているように思えてきます」。別の人はさらに,「それはどういうふうなものなのだろう,と想像しはじめます」と言いました。
だれもがこういう経験をするわけではないかもしれませんが,危険はあります。わたしたちの思いが知らないうちに影響を受けないとは言えません。
道徳上の奇跡
16 エフェソス 1章6-8節によると,クリスチャンたちはどんな豊かな祝福を得ましたか。そのことは彼らの生活にどのように影響しましたか。
16 しかし,心からキリストに従った一世紀の人々の行状は非常に対照的です。その人々もかつてはこの体制とその支配者サタンの影響下で生活し,彼らの性質そのものも,「肉……の欲するところ」を行なう傾向にありました。しかし彼らは変わりました。キリスト教の高遠な真理が全く新しい人生観に目を開かせたのです。考えてみてください,彼らの重い罪の負債が許されるように,神は進んでご自身のみ子,「ご自分の愛する者」を犠牲にされたのです。なんと大きな犠牲でしょう! そしてまたなんと深いあわれみと過分のご親切でしょう!「神はそれ[過分のご親切]を,あらゆる知恵と分別とにおいてわたしたちに満ちあふれさせてくださった」と,使徒パウロは述べました。そういうわけで彼らは真理の知識を持っていただけでなく,生活に関係した日常の諸問題をうまく扱える「分別」も与えられていました。―エフェソス 1:6-8; 2:1-5。
17 (イ)キリスト教が力の宗教であることを示すどんな証拠がありますか。(ロ)その道徳的な力はどのように実証されましたか。
17 彼らの宗教は力のある宗教でした。神の霊はイエスを死人の中からよみがえらせて,世のあらゆる権威のはるか上の地位に高めていました。今度はこの同じ『力がそれら信じる者たちに向けられ』たのです。(エフェソス 1:19-21)その力は信者たちの生活の中にすばらしい結果を生み出しました。道徳の問題を考えてみるなら,一世紀のキリスト教が有していた力のほどを理解することができます。古代の世界は,性非行をあたりまえのことのように考えていました。初期ローマの著述家キケロは,次のように性非行を弁護することさえしています。
「若者が高級娼婦のところへ行くことは完全に禁ずるべきである,と考える人がいるとすれば,その人は確かにひどく厳しい人である。……このことが本当に行なわれなかった時があっただろうか。このことをだれかが非難した時があっただろうか」。
しかし,「光の子どもたち」はそのような習慣を脱し,再びもどることはありませんでした。キリスト教が成し遂げた道徳上の奇跡に比べ得るものは,歴史を通じて皆無でした。
光の子どもたちの振る舞いは異なっている
18 キリストの初期の弟子たちは,「聖なる民」であることに対する感謝をどんな行ないで示しましたか。
18 それらキリストの弟子たちは,守るべき高い規準を有していました。したがってパウロは,「聖なる民にふさわしく,あなたがたの間では,淫行やあらゆる汚れ……が口に上ることさえあってはなりません」と助言しました。(エフェソス 5:3)淫行や汚れた行ないをしないというだけにとどまらず,官能的な楽しみを得る目的でそのような事柄を口にすることさえ避けねばならないのです。今日,一部の人々は,『不道徳なことを実際に行なわない限り,娯楽としてそれを見たり,そのことを話したりするのは何も悪いことではない』と考えていますが,パウロの考えは,そういう人たちの考えとはなんと遠くかけ離れていたのでしょう!
19 二世紀と三世紀のクリスチャンの著述家たちは(イ)『破廉恥な演劇と競技場の野蛮な行為』,(ロ)「人が殺されるのを」見ること,(ハ)『人の欲情や肉欲を燃え立たせるもの』について,どのように感じていましたか。(ニ)人はどのように悪事を行なうことを学ぶようになりますか。
19 初期クリスチャンたちは,娯楽として「流行」していた剣闘士の闘技や演劇をどのように考えていたでしょうか。二世紀と三世紀に住んでいた,クリスチャンをもって任ずる幾人かの著述家の言葉は,注目に値します。
「われわれ[クリスチャンたち]は,狂気のさたのサーカスや破廉恥な演劇,競技場で行なわれる野蛮な行為などを,話すことも見ることも聞くこともせず,それらとは全く無関係である。……われわれがほかに楽しみがあると考えても,あなたがたが立腹することはないのではないか」― テルツリアヌス。
「人が殺されるのを見ることは,その人を殺すのと大差ないと考えて,われわれはそのような見せ物[剣闘競技]を公然と捨てた[まじめな態度で否定した]」― アテナゴラス。
「劇の退廃的な影響は,人を堕落させるさらに大きな力を有している。喜劇の内容は,処女を汚すこととか,娼婦の情交を取り上げたものであるからだ。……こうした事柄が恥ずかしげもなく行なわれ,すべての人が喜んでそれを見ているのを若者たちや処女たちが目にするとき,彼らは何をするだろうか。彼らは自分がしてよいことをはっきり知らされ,肉欲を燃やすのである。肉欲は見ることによってとりわけ強くかきたてられるからだ」― ラクタンティラス。[下線は本誌]
「忠実なクリスチャンは悪い事を考えてもいけないのであるから,こうした事柄に囲まれた場合にどうするだろうか。どうして肉欲の示される場面に楽しみを見いだすのだろうか……。人は見ることを習慣にしてゆくときに,行なうようになるのである。……わたしたちは聞くことや見るものにすぐに慣れるものである」― キプリアヌス。
20 (イ)初期のクリスチャンたちはなぜ退廃した娯楽を避けましたか。(ロ)なぜ彼らの行ないは目立って異なっていましたか。
20 これらの人は,一世紀のクリスチャンたちよりも何年か後に住んでいた人たちですが,それでもわたしたちは,こうした問題におけるクリスチャンの立場を彼らがどのように理解していたかを知ることができます。彼らはそのような堕落した娯楽を避けました。暗やみの中から引き上げられた人,生活の中から卑わいな話しや暴力,不道徳などを閉め出した人が,わざわざ座ってそのような事柄を娯楽として見ることの矛盾を彼らは悟ることができました。大体においてそれらのクリスチャンは,「実を結ばないやみの業に彼らとともに組するのをやめ,むしろそれを戒めることさえしなさい」というパウロの助言を守りました。退廃した世のただ中で営まれる彼らの清い日常生活は,諸国民に対する絶え間ない『戒め』となりました。不敬虔な世が彼らを「人類の敵」ときめこんだのも不思議ではありません。それらキリストの弟子たちは,自分たちが肉の思いを持つ隣人たちよりも優れた影響を受けていることを,喜んで示しました。そして「[自分たちの]思いを活動させる力において新たにされ」たことを実証しました。それはなんと異なった「力」だったのでしょう! ほかの人々はそれに注目しないわけにはいきませんでした。わたしたちは,こういう人のようになりたいのではないでしょうか。口でどんなことを言っても,わたしたちは「光の実」を示すか,諸国民のように歩むかのどちらかです。―エフェソス 4:23; 5:9,11。
21 どういう理由で今日わたしたちは娯楽の選択について現実的な見方をすべきですか。
21 では,今日におけるわたしたちの娯楽の選択についてはどうでしょうか。わたしたちや子供たちは,テレビをつけたり,映画に行ったりするとき,何を見ているでしょうか。わたしたちが選ぶものは,『破廉恥なローマの演劇や競技場の野蛮な行為』と本当に異なっているでしょうか。幾つかの実例は,一部のクリスチャンがどのように注意を怠り,見ることを習慣にしていたもののためにどのように不道徳のわなにかかったかを示しています。
22 (イ)一世紀のクリスチャンたちが,光の子どもとして歩むのはやさしいことでしたか。それでも彼らは何をすることができましたか。(ロ)さらにどんな質問に答えが必要ですか。
22 それに引き替え,初期クリスチャンたちはなんという道徳的な強さを発揮したのでしょう! 人々の心が,罪を犯していることに気づかないほど無神経になり,恥も外聞も全く忘れ去られた世に住んでいながら,彼らは,『真実なこと,まじめなこと,義にかなっていること,貞潔なこと,愛すべきこと,よく言われること,徳とされること,賞賛されること』に思いを集中し得たのです。(フィリピ 4:8)不道徳な環境のただ中にあって,その強さをどのように維持したのでしょうか。彼らも今日のわたしたちと同じように血肉の人であったことを,忘れないようにしましょう。娯楽は彼らにとっても欠かせないものでした。彼らの『ほかの楽しみ』とは何だったのでしょうか。どうすればわたしたちは「光の子どもたち」の堅実な模範に一層よく倣うことができるでしょうか。次の記事ではこれらの重要な質問について検討します。
[脚注]
a ルシウス・セネカ(西暦前4年?-西暦65年)書簡95,33節。
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光の子どもとして歩みつづけるものみの塔 1979 | 9月15日
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光の子どもとして歩みつづける
「あなたがたはかつてはやみでしたが,今は主との関係で光となっているのです。光の子どもとして歩んでゆきなさい」― エフェソス 5:8。
1,2 (イ)この例えでは,風に逆らって歩くことはどうして重要ですか。(ロ)なぜクリスチャンは諸国民のように歩むのを避けることに極力努力しなければなりませんか。
その人は強風と戦いました。骨折りながら一歩一歩,しっかりした足どりで前進しました。なぜそれほどの努力を払ったのでしょうか。なぜ向きを変えて風下に向かって歩かなかったのでしょうか。なぜならその人のすぐ後ろに,深い暗い割れ目が気味悪く口を開いていたからです。もし死にたくないならほかに道はありませんでした。風に逆らって必死で歩いたのは当然です。
2 今日,サタンの牛耳る「世の霊」はひどい風のように,全人類をある道に誘い込もうとしています。それは神の怒りが表明されるとき,必ず破滅という“割れ目”に至る道です。(コリント第一 2:12。エフェソス 5:6)その怒りを避けるには,クリスチャンはいわば『風に逆らって歩く』ことが要求されます。『光の子ども』として歩き,『諸国民が歩く』ように歩く,あるいは振る舞うつもりがないならば,一生懸命に戦わなければなりません。―エフェソス 4:17; 5:8。
内面の強さが必要
3 (イ)エフェソス 3章16節によると,諸国民のように歩むのを首尾よく避けるには,どこに努力を向けなければなりませんか。(ロ)わたしたちはどのように『内なる自分』を強めますか。
3 この戦いに勝利を収めるには,どこに努力を向けなければならないでしょうか。パウロはこれに答えて,「[神の]霊による力をもって,あなたがたの内なる人を強くして」いただくようにと勧めます。わたしたちが努力を傾けなければならないところはここにあります。つまり『内面の人』,内なる人,「心の中の秘められた人」です。これを強めなければなりません。どんな方法で? その秘けつは次の節の中にあります。「あなたがたの信仰により,あなたがたの心の中に,愛をもってキリストを住まわせてくださるように」― エフェソス 3:16,17。ペテロ第一 3:4。
4 (イ)『わたしたちの心の中にキリストを住まわせる』ことには,どんなことが含まれますか。(ロ)わたしたちはひとりびとり,実状を明らかにするどんな質問を考えてみるべきですか。
4 『わたしたちの心の中にキリストを住まわせる』ということは,まず世の霊を追い出さなければならないことを意味します。もしサタンすなわち「不従順の子らのうちにいま働いている霊」がわたしたちのうちで依然働いていたり,わたしたちの生活に再び忍び込みはじめているなら,どうしてキリストの霊は『内面の人』に浸透し得るでしょうか。(エフェソス 2:2)それで,「わたしは心の中でまだこの体制のサタン的な霊を楽しんでいるだろうか。道徳観念が全く見られない事柄をおもしろがるところがあるだろうか」と自問してみましょう。現実の内なる自分とはかなり異なる外観を他の人々に見せることは容易です。キリストは,ご自分の模範や教えがわたしたちの感情や行動に影響を及ぼすようにすることによって,わたしたちの心の中に住まわれます。一例を挙げるなら,イエスは追随者たちに情欲を抱いて異性を見てはならない,とおっしゃいました。わたしたちはこの言葉に従うことを考えますか。そういう感情をかき立てそうな事柄をまじめに避けますか。次のように考えてみましょう。イエスは,わたしたちが追い求めているような娯楽を楽しむ気分になられるでしょうか。わたしたちは,イエスの持っておられた『義を愛する』精神のみならず『不法を憎む』精神をも抱いているでしょうか。もしその精神を抱いているなら,キリストの精神を内なる自分に満ちるようにしており,キリストと「同じ精神の意向」を持っていると言えます。―マタイ 5:27,28。ヘブライ 1:9。ペテロ第一 4:1。
5,6 (イ)『内面の人』を強めるのになぜ個人研究と黙想は大切ですか。(ロ)頭に知識を取り入れるだけで十分ですか。そうでないとすれば,ほかに何が必要ですか。
5 したがってわたしたちが「しっかり根ざして土台の上に堅く立」ち,「すべての聖なる者たちとともに」神の言葉の真理の「幅と長さと高さと深さがどれほどであるかを悟る」ためには,聖書の個人研究と聖書の教えを黙想することが肝要です。神の言葉の真理がイエス・キリストの生活と教えによって示された愛の模範と関係がある場合は特にそう言えます。根を深く下ろしているものは容易には抜き取られず,堅固な土台の上に立っているものは容易には動かされません。ですからわたしたちは,キリストの知識を「[わたしたちの]内なる人」に深く流入させることによって,わたしたちの霊的な『根と土台』を強く保たねばなりません。―エフェソス 3:17,18。
6 しかし,キリストを心の中に住まわせるとは,聖書に記されているいくらかの事実を勤勉に頭につめ込むだけのことだ,と考えてはいけません。使徒パウロは,頭に収めた知識だけに基づく信仰の危険を熟知していました。ですからさらにこう述べています。「知識を超越したキリストの愛」を知ることもじゅうぶんできるようになり,こうしてあなたがたが,いっさいの事において,神が与えてくださる満ち満ちたさまにあますところなく満たされるためなのです」。『頭で学ぶ』以上のことが必要です。交わりを多くすればそれだけ相手の考えがよくわかるようになることは事実です。しかし,他の人々に対するその人の接し方や生き方に倣うようになって初めて,本当にその人の気持ちがわかるようになります。それと同じで,本を読むだけではキリストの愛は理解できませんが,キリストのようになるなら,同情から発する経験によって,「知識を超越した」ものを知ることができます。―エフェソス 3:19。
7 次の説明は正しいですか,間違いですか。―キリストは完全な方でしたから,キリストのようになることをわたしたちに期待するのは無理です。あなたの答えはどんな聖書的理由に基づいたものですか。
7 なんと高い目標でしょう! 到達すべきなんと高度の模範でしょう! 確かにそれは大事業に思えるかもしれません。しかし,わたしたちの能力は不完全でも,神の助けで成し遂げられるのです。神は「わたしたちが求めまた思うところのすべてをはるかに越えてなしうるかた」であると,パウロは述べています。問題は,わたしたちが自分の分を行なっているかどうかということです。―エフェソス 3:20。ペテロ第一 2:21およびコリント第一 11:1もご覧ください。
『古い人格をその欺きの欲望とともに脱ぎ捨てなさい』
8 (イ)「古い人格」にはどんな欲望がつきまとう,とパウロは述べていますか。(ロ)ある人たちは,人を堕落させるような娯楽を選んだことをどのように正当化しましたか。そういう推論は聖書的に見て健全ですか。
8 エフェソス 4章22節で使徒パウロはこのように勧めています。古い人格をつぎはぎするのではなく,「脱ぎ捨てる」,つまり除き去るのです。(コロサイ 3:9)なぜでしょうか。古い人格が持つ「欺きの欲望」がわたしたちの「不信実な」心の中にいつまでもあるなら,古い人格はそれによって『腐敗』するかまたは一層悪くなる可能性が強いからです。(エレミヤ 17:9,新)人を堕落させるものであることが歴然としている娯楽に興味を持っていることを正当化しようとして,『それをしたからといってわたしは良心の責めを感じません。だから何が悪いのですか』というような言い方をしたクリスチャンたちがいました。そういう人たちは,良心が正しくなくて,心の欲望に欺かれているのかもしれません。単に良心の責めを感じないということだけでは,自分の行ないが正しい証拠とはなりません。使徒パウロでさえ,「わたし自身,責められるようなことは何も意識しないからです。でもそれによって,わたしは義にかなっていると証明されているわけではありません。わたしを調べるかたはエホバなのです」と述べています。(コリント第一 4:4)初期クリスチャン会衆内の多くの人の良心は非常に鈍感になり,自分たちのただ中で行なわれている不道徳な行ないを大目に見,それを自慢することさえしていました。なんとまた誤った良心でしょう!―コリント第一 5:1,2,6。テトス 1:15。テモテ第一 4:2。
9 良心が徐々に変えられてしまうことを示すどんな憂慮すべき報告がありますか。
9 「欺きの欲望」に良心を徐々に汚されるのは容易なことです。ヨーロッパのある国にあるエホバの証人の支部事務所から,次のような憂慮すべき報告が届いています。
「10年ほど前なら,確かに兄弟たちは今あるような映画はほとんど見なかったにちがいありません。なぜかと言えば,彼らの慎みの感覚が変わったからです。この世の傾向が一部の兄弟たちにある程度影響を与えたことは疑えません」。
10 (イ)一世紀には,剣闘競技を受け入れさせるためのどんな策略が用いられましたか。(ロ)このことから何を学ぶことができますか。
10 サタンは実にじわじわと自分の腐敗した基準を許容させようとしています。剣闘競技がパレスチナに入って来たとき,「そういう光景に慣れていなかった」人々は,最初,「非常な驚き」をもって迎えた,と一世紀の歴史家リビウスは述べています。そしてこうつけ加えています。
「そこで彼は,競技を繰り返し行なうことにより,また時には闘士たちに互いを傷つける以上のことはさせないようにして……その光景に目が慣れるように,いやそれがおもしろくなるように仕向けた。そして多くの若者に武器を喜ぶ気持ちを起こさせた」。
彼らの驚きはしだいに薄らいでいきました。そのうちにもうショックを感じるどころか,楽しんで参加するようになりました。サタンのやり方はほとんど変わりません。ですから,あなたが持っているクリスチャンとしての「慎みの感覚」を徐々に変えられないように油断なく目ざめていなければなりません。立ち止まって考えてみてください。あなたの良心はどこまで行くことを許しますか。遠すぎるほど遠くまで行くことを許しますか。娯楽の面であなたのしていることは,『いっさいの道徳感覚を通り越した』人々のしていることとほとんど変わらないでしょうか。
何が主に受け入れられるかを確かめる
11,12 (イ)エフェソス 5章10,17節の助言が現在非常に重要であるのはなぜですか。それをどのように当てはめることができますか。(ロ)質の低下した娯楽に有益な点がいくらかあれば,クリスチャンはそれを受け入れてよいことになりますか。
11 道徳的に腐敗した事柄が数々,全く健全なことのようにわたしたちの前でくり広げられます。ですからわたしたちは「何が主に受け入れられるのかを絶えず確かめ」なければなりません。「それゆえ[邪悪な時代であるゆえ],もはや道理をわきまえない者となってはなりません。むしろ何がエホバのご意志であるかを見きわめてゆきなさい」― エフェソス 5:10,17。
12 したがって世が提供する娯楽の場合,注意すべき重要な点は,よく選ぶということです。このことを示す例として,ある人はこう言いました。「映画の大部分はかなり良いのですが,多くの映画には必ずセックス・シーンがあります。ですから他の部分を見たいならセックス・シーンを見なければならなくなるのです」。しかし,その映画の「セックス・シーン」から道徳的な害を受ける可能性があれば,その「かなり良い」映画の大部分は見るだけの価値があるでしょうか。ひそかに行なわれる事柄を描いたシーンが,今では観客の前で放映されているのです。「[諸国民]によってひそかになされる事がらは,話すことさえ恥ずべきものだ」とパウロが言ったのであれば,そういうもののどんな部分であれ,それを娯楽として見ることに対し,わたしたちはどんな態度をとるべきでしょうか。(エフェソス 5:12)クリスチャンは,ユダヤ教のタルムードのような規則集に頼るのではなく,自分の「知覚力」を用い,『道理をわきまえない者[ギリシャ語: 「良識のない,道徳的知性に欠けた者」]とならないようにしなくてはなりません』。(ヘブライ 5:14)このことは,セックス・シーンを除けば非常に楽しいところのある映画やテレビ番組であっても,それらを全く見ないようにすることを意味するかもしれません。二世紀の人で,公然とキリスト教徒と名のっていた著述家の一人は,その論文「見せ物」の中で,非常に良い点を突いています。
「そこ[見せ物が行なわれるところ]には気持ちの良いもの,それ自体は快適で別に悪くはないもの,いや非常に優れたものさえあることは認める。だれも毒をにがいもので薄めたりはしない。……いやなものは,よく調味された,一番甘い味の薬味の中に入れられるものだ」― テルツリアヌス。
13 聖書の助言を「無意味なことば」で軽視する人を,どのように助けることができますか。
13 「主に受け入れられる」道を追い求めるよう個人的に励まし合えるなら,それはとても良いことです!「霊的に円熟しているティーン・エージャーたちの間では,不道徳な内容の映画から遠のいているように,また他の人々がそれから遠のいているよう励ますことに非常な努力が払われていると思います」と,ある若い人は言いました。その言葉は賞賛に値します。しかしパウロは,聖書の率直な助言を軽視する人も中にはいることを会衆に警告し,「あなたがたは,無意味なことばで人に欺かれることがないようにしなさい。ここに述べたようなこと[淫行,汚れ,卑わいな冗談など]のために,神の憤りは不従順の子らに臨もうとしているのです」と述べました。(エフェソス 5:6)『無意味なことを話す人たち』は,他の人々に悪い影響を与えたかもしれません。いつまでも無秩序に歩む人たちについて,パウロは次のことを勧めました。
「わたしたちのことばに従順でない人がいれば,その人に特に注意しており,また交わるのをやめなさい。その人が恥じるようになるためです。でも,その人を敵と考えてはならず,兄弟として訓戒しつづけなさい」― テサロニケ第二 3:14,15。
確かに「敵」のように扱ってはなりませんが,その人の意のままに社交的な交わりをすることはやめなければなりません。そうすればその人は,自分の考えを再調整する必要のあることにあるいは気づくかもしれません。
クリスチャンにはそれに代わるものがある
14,15 (イ)一世紀に,諸国民の多くは,生活にやや刺激を得るため,どんなことをしましたか。(ロ)エフェソス 5章18,19節には,それに代わるどんな事がクリスチャンのために述べられていますか。諸国民はそれをどのように見ましたか。
14 若者であれ老人であれすべての人が日々の決まりきった仕事の憂さを晴らそうと,何らかの刺激,何らかの気晴らし,また気分転換を盛んに求めます。一世紀のこの世的な人々は,酒に酔うことに興奮と「気晴らし」を見いだすのが普通で,彼らの社交的な集いは,ただの「飲みくらべ」になるのが常でした。クリスチャンの場合はなんと異なっていたのでしょう! 彼らには心身をそう快にするすばらしい方法がありました。それは何だったでしょうか。「酒に酔ってはなりません。そこに放とうがあるのです。むしろ,いつも霊に満たされ」なさいと,パウロはわたしたちに告げています。神の聖霊の働きかけによってクリスチャンに最大の喜びをもたらすものが生み出されました。したがって,彼らの社交的な集いは不信者の「放とう」つまり「放縦な生活」(ベック訳)を反映するものではありませんでした。神の聖なる霊が彼らの心を満たしていたので,彼らの口から出るものは,酒で「満たされ」ていた人々の口から出るものとは,たいへん異なっていました。諸国民は,卑わいな歌と,それに伴いがちなみだらな踊りに酔いしれることで有名でしたが,クリスチャンたちはそのようなことをせず,パウロの次のような健全な助言に従いました。「詩と神への賛美と霊の歌とをもって自分に語り,心の調べに合わせてエホバに歌い」なさい。こうして彼らの内面はさわやかにされました。―エフェソス 5:18,19。ペテロ第一 4:3。
15 諸国民にとってそうしたことはみな大変退屈なものに見えました。しかし初期の「光の子ども」たちは喜びました。それというのも本当に異なった精神を抱いていたからです。彼らは一つの温かい家族,「神の家族」として行動し,ひとりびとりが会衆という家族を築き上げるために,自分に与えられている「賜物」を用いました。―エフェソス 2:19; 4:7。
16 (イ)温かい「家族」的な精神は会衆にどんな影響を与えますか。ヤコブ 1章27節の助言をおぼえていなければならないのはなぜですか。(ロ)ある種の社交的な集いで避けるべき一つの危険として,どのようなものが考えられますか。(ハ)クリスチャンの社交的な集いで娯楽として行なわれる事柄は,何を示すものでなければなりませんか。
16 ですから今日でも,会衆内にそういう温かい「家族」的な精神があると,社交的な集まりばかりでなく,互いを築き上げるための集会にも集まりたくなるのは自然です。純粋の愛は,老若を問わずすべての人に,とりわけ「孤児ややもめ」に進んで関心を向けるよう促します。(ヤコブ 1:27)しかし,社交的な集まりは,質が低下して次のようなことにならないようにしなければなりません。
「それは喜ばしい結婚式で,結婚の話をした奉仕者は聖書に基づいて立派な助言を与えました。その後,新郎新婦は数百人のお客を伴って,披ろう宴の行なわれる近くのホールに行きました。しかし,なんというふんい気の違いでしょう。プロのバンドがフロアに陣取り,騒々しい,肉体的欲望を刺激するような音楽を非常に大きな音で演奏していたので,お客の中の幾人かは,中座しなければなりませんでした。お酒がふんだんに振る舞われ,ダンスはひどく奔放な精神を反映したものでした。多くのお客は,どうして神権的な良い結婚式のあとに世のものを持ち込んで台なしにしてしまうのだろう,と言っていました」。
クリスチャンたちがくつろぐときや,レクリエーションを楽しむときには,どんなことができるでしょうか。建設的な事柄がたくさんあります。次の記事には,娯楽の分野の中でも本当に心身をそう快にするものと考えられている娯楽がいくつか載せられています。要するに,わたしたちのすることは,わたしたちが「光の子ども」であること,そして神の霊の影響の下にあって「世の霊」の影響の下にはないことを反映していなければいけないということです。―コリント第一 2:12。
すべての人が良いことに影響力を用いる
17 「霊的な資格」を持つ長老たちや他の人々は,娯楽の分野で「誤った歩み」をしているかもしれない人たちを,どのように助けることができますか。
17 世の圧力が増すにつれ,会衆内に入り込む世の霊をくじくための用心も必要になってきます。長老たちの影響は神の霊の流れを促進するものでなければなりません。そのためには,平衡を失っている人々の考え方を「再調整」することが必要な場合もあるでしょう。この世的なものが会衆内にしみ込むのを心配したある長老から,次のような手紙が来ました。「わたしたちは長老として共に責めを負わねばなりません。一部の長老は,必要な時に助言を与える段になると弱く,正しいことを支持しないきらいがあるからです」。しかし,長老たちばかりでなく,「霊的に資格のある[「霊的な人たち」,王国行間訳]」人はみな進んで,「柔和な霊をもってそのような人[「誤った歩み」をする人]に再調整を施す」べきです。そういう「柔和な」助言は,一歩の「誤った歩み」が,これから先ずっと続く勝手気ままな道となって災いにつながるのを,あるいは防げるかもしれません。―エフェソス 4:11-14。ガラテア 6:1。
18 平衡を保つことはなぜ必要ですか。
18 娯楽を選ぶにも,好みが様々に異なることはだれもが認めるべきです。『義に過ぎる』と言えるほどまでに極端に批判的になるのではなく,むしろ望ましい事柄を勧めるようにします。聖書に記されている規準を用いてください。そして神の言葉の真の力が,「誤った歩み」をしている人の心に触れるようにしてください。―伝道 7:16,新。
19 親は子供たちの益のために自分の権威をどのように用いることができますか。
19 親は特に子供たちを助ける非常によい立場にあります。使徒は父たる者に対し,「子どもをいらだたせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」と命じています。「育てる」と訳されているギリシャ語には,子供に対する温かい思いが含まれています。というのは,この語根は,自分の子供たちを『慈しむ,乳をふくませる母親』に適用できるからです。―エフェソス 6:4。テサロニケ第一 2:7。
20 (イ)懲らしめを与える必要があるのはなぜですか。(ロ)ある若い人が言ったことからすると,親は何をすべきですか。そのことは後に子供たちから感謝されますか。
20 そのような関心が親にあれば,子供の娯楽の選択に無関心になることはないでしょう。子供への愛が深ければ,時にはき然とした態度をとり,『懲らしめをもって子どもを育ててゆく』でしょう。子供は特に仲間の圧力を受けるために,娯楽の分野などでは親が加える何かの制限に抵抗するかもしれません。信仰の厚い両親に育てられた21歳になるある全時間伝道者は,自分の十代の時のことを振り返ってこう語りました。
「私は自分の受けた訓練が自分の益になっていることに,何年もたって初めで気づきました。でも当時は親に負けたと思っていました。親にしてみれば,強く出ると子供は離れて行くと考えるかもしれません。でも子供は離れては行きません。親は物事を長い目で見なければなりません。おわかりと思いますが,もし子供が,『でもママ,スーザンはあんなことをしているのにまだ真理の中にいるでしょ。それなのにどうして私は真理から出て行くなんて考えるの』と言うなら,それは親にとっていやなことに違いありません。『ノー』と言うことはむずかしいかもしれません。しかし大きくなり,何年もたって,うしろを振り返って見るときに初めて,『エホバよ,両親が決然たる態度をとる勇気を持っていたことをあなたに感謝いたします』と言うことができるのです」。
21 親は子供がどんな大事な関係を築くように助けるべきですか。なぜですか。
21 しかし,外部からの力または懲らしめだけでは完全な解決策とはなりません。使徒パウロは『エホバの精神の規整』について述べています。これの原語の文字通りの意味は,エホバの思いを,支配的または規整的影響力として内に入れる,ということです。すべての悪行は言うに及ばず,人を堕落させる種類の娯楽も避けるように,子供が神との関係を築くのを助けることに努めてください。その関係を深めていったある若い人は,「それは私と親との関係というよりも,私とエホバとの関係です」と言いました。
22 光の子どもたちとして歩みつづけることにより,どんな希望を心に抱くことができますか。
22 わたしたちすべてにとって,それはわたしたちとエホバとの間の関係です。ですからエホバの民はだれも,自分の立場,つまり「光の子ども」の立場を忘れてはならないのです。ですから引き続き世を照らす者として歩みながら今幸福で満足のいく生活を楽しみ,また間もなく実現する,励ましに満ちた,道徳的に優れた新しい体制における幸福な永遠の前途を待ち望むことにしましょう。
[11ページの図版]
『わたしたちの心の中にキリストを住まわせる』ということは,まず世の霊を追い出さねばならないことを意味します。
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ナイジェリアの村で証言するものみの塔 1979 | 9月15日
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ナイジェリアの村で証言する
ゴスタは広々とした庭の中に車を乗り入れると,マンゴーの木の下に止めました。二軒の土壁の家から人々が出てきました。一人の老人が別の木の下に座っており,私たちは「ワ ドモ・オ」(「こんにちは」)と言ってあいさつをしました。彼はしばらくの間私たちをじっと見ていましたが,やがてそのしわだらけの顔の表情が和らぎ,「オボキヤン」(「ようこそ」)と言いました。
私たち四人は,村人たちと聖書の音信について話し合うためにやって来たのです。この最初の家は村の他の部分から孤立しており,またここには車を止められる場所があったので,最初に全員でこの家を訪問し,それから他の村人に証言するため分かれて家から家の奉仕を行なうことにしました。
村へ出掛ける前に,私たちは話し合いの際どんな
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