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あなたは「魂を生きながらえさせる信仰」を持っていますかものみの塔 1970 | 9月1日
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あなたは「魂を生きながらえさせる信仰」を持っていますか
「ところで,わたしたちはしりごみして滅びるような者ではなく,魂を生きながらえさせる信仰を持つ者である」― ヘブル 10:39,新。
1 クリスチャンはなぜイエス・キリストの復活を信じますか。
西暦2世紀の終わりごろ,キリスト教に改宗したテルツリアヌスは,かつてイエス・キリストについて次のように述べたことがあります。「彼は葬られ,死者の中から復活した。これは,あるべからざることであるゆえに,疑う余地がない」。人間の能力から判断するならば,キリストの復活はまさに,「あるべからざること」です。しかし,聖書は,それが事実であることを確証しています。たとえば,「ナザレのイエス」に関して,クリスチャン使徒ペテロの次のことばが聖書に記録されています。「神は死の苦難を解きてこれをよみがへらせ給へり。彼は死につながれをるべき者ならざりしなり」。(使行 2:22-24)キリストの初期の弟子たちは,復活したイエスを実際に見,中には彼と飲食をともにし,会話をかわした者さえいました。(マタイ 28:5-10,16-20。使行 10:40,41。コリント前 15:3-8)今日のクリスチャンはイエス・キリストの復活を信じています。なぜなら,それは霊感を受けた,神のみことばの中に記録されている事柄だからです。そればかりか,今日のできごとに聖書預言の成就を認め,イエス・キリストが生きており,神の天の御国において現に統治されていることを悟っています。―テモテ後 3:16,17。マタイ伝 24,25章。
2 信仰はどれほど重要ですか。
2 神のしもべには信仰が要求されています。イエス・キリストは,「神に信仰を持ちなさい」と言われました。(マルコ 11:22,新)ヘブル人の預言者ハバククは,エホバご自身のことばを次のように引用しています。「されど義き者はその信仰によりて活べし」。(ハバクク 2:2,4)「御子[神の御子,イエス・キリスト]に信仰を働かせる者は,とこしえの命を持っている」と保証されています。(ヨハネ 3:36,新)したがって,神からの恵みと,とこしえの命を望んでいる人はすべて,真の信仰を表わさなければなりません。
3 信仰とはなんですか。
3 イエス・キリストの復活に関して,先に引用したテルツリアヌスのことばは,「最も極端な種類」の信仰を言い表わしている例です。それにしても,信仰とはなんですか。それは,「ある命題を,その真実性が完全に立証されているか否かにかかわりなく,真実として扱う心の状態」と定義されています。(アメリカナ百科事典,1956年版,第10巻,723ページ)復活し,栄光を受けたイエス・キリストが奇跡的に現われた後に(使行 9:1-19),クリスチャンになった使徒パウロは,神からの霊感を受けて信仰の定義を下しました。「信仰とは望んでいる事柄に対する確かな期待であり,見ていない実体の明白な立証である」。信仰によって「昔の人々は」,彼らがエホバを喜ばせたことを「証されたのである」― ヘブル 11:1,2,新。
4 アベルはどうして,『女のすえ』に関する神のことばが真実になるという,「確かな期待」を持っていましたか。
4 聖書に示されている信仰は,十分根拠のある期待であり,無根の希望ではありません。最初の人間夫婦,アダムとエバの2番目のむすこアベルは信仰を表わしました。「善悪の知識の木」の実を食べるなら,その不従順のゆえに死が及ぶことに関して語られた神のことばが真実となっているのを,アベルは悟っていました。(創世 2:16,17,新)彼は,罪のもたらす結果である死をみずから相続していることを認識できました。(ロマ 5:12)また,神の宣告の成就として,不忠実な父親アダムが苦しい労働をしているのを見ました。さらに,エホバからの宣告どおり,エバは妊娠の期間中,痛みが増すのを経験していたのです。(創世 3:16-19)そうした事実は神の真実性を証明するものであり,それによってアベルは,神の語られた他の事柄も実際に起こるとの確信,つまり「確かな期待」を得ました。その中には,悪魔に向けられたエホバの預言的なことばが含まれており,それは,そのよこしまな者が人間の罪をもたらそうとして用いたへびに,神が語られたものです。「わたしはおまえと女の間,およびおまえのすえと女のすえとの間に敵意をおく。彼はおまえの頭を砕き,おまえは彼のかかとを砕くであろう」― 創世 3:15,新。
5 (イ)アベルは,神の「女」のすえの到来に対する信仰をどのように表明しましたか。(ロ)アベルの供物について,神はどういう方法で証されましたか。
5 アベルは,神の「女」のすえの到来に対する信仰を表わし,自分の命を象形的に代用したともいえる,動物の犠牲をエホバにささげました。彼の兄である不忠実なカインは,血を含まない,野菜類しかささげませんでした。その後,カインは弟の血を流し,殺人者となりました。しかしアベルは,エホバに喜んでいだいたことを知って死にました。神は,アベルが信仰をもってささげた犠牲を受け入れることにより,「その供物につきて証」されたのです。(ヘブル 11:4。創世 4:1-8)イエス・キリストのあがないの犠牲に対する,あなたの信仰は,アベルの犠牲に示された信仰と比較されうるものですか。
6 信仰がどのように,「見ていない実体の明白な立証である」かを説明しなさい。
6 信仰は同時に,「見ていない実体の明白な立証」です。たとえば,太陽,月,星さらにこの地球といった創造物の存在から,ひとりの創造者がいることはクリスチャンにとって明白です。創造者は見えない霊者であるため,人間の目で見ることはできませんが,それでも,そのかたは実在しておられるのです。(ヨハネ 4:24。ロマ 1:20-23)それゆえ,クリスチャンは,神が存在する証拠を持っており,信仰により,「〔事物の諸体制〕が神の言葉で造られたのであり,したがって,見えるものは現れているものから出てきたのでないことを,悟るので(す)」― ヘブル 11:3,口語〔新〕。
信仰は,魂を生きながらえさせる
7 魂とはなんですか。それには何が起こりえますか。
7 信仰を定義する前に,パウロはクリスチャンに関してこう宣言しました。「ところで,わたしたちはしりごみして滅びるような者ではなく,魂を生きながらえさせる信仰を持つ者である」。(ヘブル 10:39,新)しかし,信仰を持っていれば生きながらえさせることができる魂とはなんですか。あなたご自身が生きた魂なのです。聖書は次のように述べています。「エホバ神は地の塵で人を造り,その鼻に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂となった」。(創世 2:7,新)ここでも,あるいは他の聖句を調べてもそうですが,からだが死んだあと,生存を続けうる不滅の魂を人間が持っていると述べる箇所はありません。それどころか,預言者エゼキエルを通して,エホバはこう宣言されました。「罪を犯せるたましひは死べし」。(エゼキエル 18:4)これは不完全な人間すべてに該当します。なぜなら,「人は罪を犯さない者はな(く)」,また,「もし,罪がないと言うなら,それは自分を欺くことであって,真理はわたしたちのうちにない」からです。―列王上 8:46,ヨハネ第一 1:8,口語。
8 はるか昔に死んだエホバの忠実な証人と,今日,信仰を表わす人々には,命に関してどんな見込みがありますか。
8 しかし,はるか昔に死んで地の塵になったエホバの忠実なしもべたちは,神の見地から言えば今なお生きています。神は彼らを復活させ,イエス・キリストを用いて彼らを命によみがえらせ,生きた魂とされるでしょう。(ヨハネ 5:28,29)アブラハムやイサクそしてヤコブもそのような人の中にはいっています。(ルカ 20:37,38)信仰のわざによって,今日の人も彼らと同じようになれます。そして,聖書預言の成就となっているできごとは,わたしたちが現在の事物の体制の「終わりの日」に住んでいることを示しています。ですから,今は,魂をとこしえに生きながらえさせる信仰を表わすことが可能となっています。(テモテ後 3:1-5,新)神に対する昔の人の信仰の模範をほかにも調べるなら,「魂を生きながらえさせる信仰」をつちかう助けが得られます。
族長時代の信仰
9 エノクはどのように,「死を見ぬやうに移され」ましたか。
9 「アダムより七代にあたる」エノクも,アベルと同様,エホバに対する信仰を表明しました。エノクは,不敬けんな者に臨む神のさばきの施行について預言しました。(ユダ 14,15)エノクのことばは,彼の敵となった宗教家たちにどれほど災いとなったことでしょう。エホバのさばきを宣明するエノクを彼らが殺そうと図ったことは,まちがいありません。しかし,神がエノクを『取られた』ので,彼は死の苦しみを経験しませんでした。(創世 5:24)つまり,エノクは『死を見ぬように移され』ました。しかし,まず,『神に喜ばれたことをあかしされた』のです。(ヘブル 11:5)なぜそう言えるのですか。ヘブル書 11章5節で「移された」と訳されているギリシア語は,「移す」「運ぶ」あるいは「場所を変える」という意味があり,パウロの身に起こったことを連想させます。彼は奇跡的に「第三の天」に移され,または連れて行かれ,クリスチャン会衆の,将来の霊的な楽園の幻を与えられました。(コリント後 12:1-4)エノクは霊的な楽園について何も知っていませんでしたが,これに類した歓喜の状態にあって,きたるべき地上の楽園の幻を見ていたと思われます。その最中に,神は彼を死の眠りにつかせ,敵の手から守られたのです。あなたは地上に復興された楽園の幻を神から与えられたことがありません。しかし,あなたがクリスチャンであるならば,それが存在するようになることを信じておられますか。信じていなくてはなりません。―ペテロ後 3:13。ヘブル 11:6。
10 ノアが信仰を働かせたことにより,その時代の世に関するかぎり,何がなされましたか。
10 信仰をもって,ノアは「かしこみてその家の者を救はんために方舟を造り」ました。ノアがそのような信仰を働かせ,正しいわざに従順に携わったために,不信心な世はそのよこしまなわざのゆえに非とされ,かつ滅亡に値することが示されました。(ヘブル 11:7。創世 6:13-22)しかし,あなた個人はノアと同じように信仰を表わしますか。全地をおおった洪水の起こる前,つまりノアの時代と同様,今日の人類の大多数は神の目的を無視し,食べたり,飲んだり,結婚したりなどして,普通の営みを続けています。約束されたとおり,人の子,イエス・キリストが現に再臨していることに,人々はなんら注意を払いません。しかし,あなたはそのような人々にならう必要はないのです。その代わりに,霊的に目ざめ,信仰を表わしてください。あなたの命はそのことにかかっています。―マタイ 24:36-42。
11,12 約束の地を取得することはすばらしい見込みでしたが,アブラハムは,さらにすぐれたどんなものを待ち望みましたか。
11 アブラハム(アブラム)も非常な信仰を持っていました。彼の故郷,カルデアのウルの町では,いろいろな物が手にはいりました。しかし,アブラハムはウルを離れ,カナンの地でテント住まいをしました。それは,彼がエホバに対して信仰を持っていたからにほかなりません。アブラハムは神の命令に従い,また,彼の子孫を人類の祝福となる大いなる国民にするといわれた神の約束を信じたのです。エホバはさらに,アブラハムのすえ,つまり子孫に一つの国を与えることを約束されました。アブラハムのむすこイサクおよび孫のヤコブは,彼と「同じ約束をつぐべき」者となりました。―ヘブル 11:9。創世 12:1-9; 15:18-21。
12 その約束の地を取得することはすばらしい見込みでした。しかし,さらにすぐれたものを,アブラハムは信仰をもって待ち望んでいました。「彼は真の基を持つ都を待っていたからである。この都の建築者,また造り主は神である」。この忠実な族長は,将来,その下で生活する,天の政府を待ち望んでいたのです。アブラハム,イサクそれにヤコブは,エホバとの関係を放棄するような不信仰な人ではありませんでした。そんなことをすれば,彼らの魂に滅亡を招く結果になっていたでしょう。したがってエホバは,「彼らを恥とされず,彼らの神と呼ばれることを恥とされない」のです。彼らは死に至るまで神に対する信仰を保ちつづけました。そして,まもなく復活し,かの「都」,つまり,天の政府,すなわち神のメシヤによる御国の領城の一部である地上で生きるでしょう。(ヘブル 11:10,13-16,20,21,新)神は,あなたに,アブラハムやイサク,またヤコブが送ったような遊牧生活をするようにとは指示されていません。とはいえ,クリスチャン宣教に関する任命であるならば,自分の生活を楽なものにしている物事を投げすてるだけの強い信仰を持っておられますか。あなたの信仰は,たとえ自分の所有物が乱暴な迫害者たちに取り上げられても,なおエホバを捨てないだけの強い特質を備えていますか。
13 サラの場合には,その信仰のゆえに何が起こりましたか。
13 ノア,アブラハム,イサク,ヤコブその他の忠実な古代の人々の妻も,やはりエホバに対する信仰を保ちました。たとえば,アブラハムの妻サラを考えてください。彼女はおよそ90歳になるまでうまずめで,その時にはすでに月経が閉止しており,「年すぎて」いました。しかし,信仰によって,彼女は,「たねを宿す力を受け」ました。それは,「約束したまふ者の忠実なるを思ひしゆえ」です。アブラハム自身,生殖機能に関しては,「死にたる者のごとき」でしたが,その人から子孫が出たのです。彼女はイサクを生み,このイサクを通して,ついには,「天の星のごとく,また海べの数へがたき砂のごとくおびただし(い)」子孫が生まれました。―ヘブル 11:11,12。創世 17:15-17; 18:11; 21:1-7。
14 アブラハムは,もう少しでイサクをささげようとさえしました。どうしてそうすることができたのですか。
14 アブラハムは試みられ,自分の「ひとり子」,すなわちサラによって得た,ひとりのむすこである「イサクをささげたも同然」でした。(ヘブル 11:17,18,新)アブラハムはどうしてこのようなことをなしえたのですか。エホバに対する信仰があったからです。興味深いことに,死者の復活は創世記の中には述べられていません。しかしアブラハムはそれについて知っており,エホバがイサクを復活させうるとの信仰を持っていました。使徒パウロはこう述べています。「かれ思へらく,神は死人の中よりこれをよみがへらすることを得給ふと,すなはち死よりこれを受けしがごとくなりき」。(ヘブル 11:19)アブラハムは,すんでのところで,その手の短刀で,イサクの命を断っていたことでしょう。しかし,天使の声がそれを押しとどめました。ゆえに,事実上,アブラハムはイサクを死から受けたわけです。―創世 22:1-19。
15 死期が近づいた時,ヨセフは何に対する信仰を表明しましたか。
15 その後,長年を経て,ヤコブのむすこヨセフはエジプトで,自分の兄弟たちに次のように語りました。「我死ん 神かならず汝らをかへりみ なんぢらをこの地よりいだして そのアブラハム,イサク,ヤコブに誓ひし地にいたらしめたまはん」。(創世 50:24-26)イスラエル人がエジプトから出国するという信仰をいだいていたヨセフは,死期が近づいた時,それについて述べたのです。(ヘブル 11:22)彼は死に至るまで,エホバに対して絶対的な信仰を持っていました。神に対するあなたの信仰はそれに比較しうるものですか。
解放者としてのエホバに対する信仰
16,17 (イ)信仰によって,モーセはどんな決定を下しましたか。(ロ)彼はどんな報いを望み見ましたか。
16 紀元前1513年,エジプトの束縛からイスラエルを解放するに際し,エホバが用いられたのはモーセです。(出エジプト 3:1-10; 12:37,38)信仰をもって行動した,モーセの両親は,生後3か月の間,モーセを隠しておきましたが,ついにあしの箱舟にいれて,ナイル川に流しました。それをパロの娘が見つけだし,彼を「己が子として育て」ました。そのため,「彼は,エジプト人のすべての学術を教へられ」,また,『言と業とに能力ある』人となりました。(出エジプト 2:1-10。使行 7:21,22。ヘブル 11:23)しかし,エジプトの教育を受け,王室における物質主義的な環境で育ったにもかかわらず,モーセは,エジプトの多くの偽りの神々を崇拝する者とはなりませんでした。それどころではありません。「信仰によりてモーセは人と成りしときパロの女の子と称へらるるを否み,罪のはかなき歓楽を受けんよりは,むしろ神の民〔イスラエル人〕とともに苦まんことを善し」としました。なぜですか。『キリスト〔神の油そそがれた者であることの特権〕によるそしりを,エジプトのたからにまさる大なる富と思った』からです。(ヘブル 11:24-26),王室の一員として,モーセはエジプトで名声を求めることができたかもしれません。しかし,モーセがそうしていたなら,エジプトの多数のパロと同様に忘れ去られていたことでしょう。彼らの悪評をとどめている,おもなものといえば,その飾り立てた墓ぐらいで,考古学者たちのすきによって地の塵の中から掘り出され,単なる好奇心の対象になっているにすぎません。モーセは彼らと異なり,神から輝かしい特権を与えられた,信仰の人として記憶されています。
17 モーセは信仰を働かせ,「報いを望んで」いました。その報いとは,復活を通して与えられる,神の新秩序における地上での,人間としてのとこしえの命です。(ヘブル 11:26)信仰をもって,モーセはエジプトを去り,後日,再びエジプトに帰って,そこで最初の過ぎ越しを仲間のイスラエル人と祝いました。そしてそのあと,彼らとともにエジプトを進み出ました。「信仰によりてイスラエル人は紅海をかわける地のごとく渡りしが,エジプト人はしかせんと試みておぼれ死にたり」。モーセの死後,信仰を持っていたゆえに,イスラエル人はカナンにおりて,エリコの征服を初め,勝利に勝利を重ねました。エリコでは,遊女ラハブが,イスラエルの斥候を友好的に受け入れたため救われました。(ヘブル 11:27-31)エホバおよび解放をもたらされるエホバの力に対して,あなたは永続的な信仰を持っておられますか。
信仰の他の模範
18 エホバは,ギデオンとバラクが,その信仰のゆえに何を行なえるようにされましたか。
18 信仰の模範となる人々をほかにも取り上げるなら,いくら時間があっても足りないであろう,とパウロは述べています。(ヘブル 11:32)たとえば,エホバから力を与えられたギデオンは,わずか300人の一隊を率いて,暴虐なミデアン人を敗走させ,その軍勢を打ち滅ぼしました。(士師記 7章)女預言者デボラによって励まされたバラクもいます。はるかに優秀な,シセラの軍隊に,信仰をもって相対したバラクを,エホバは勝利に導かれました。その勝利は,デボラとバラクの感動的な歌の中でたたえられています。―士師記 4,5章。
19 サムソンの,信仰に基づく最後の行ないはなんでしたか。
19 さらに,ペリシテ人の強敵であったサムソンがいます。最後には捕えられて盲人にされましたが,自分の死に臨んで,多くのペリシテ人を滅ぼしました。彼らが偽りの神ダゴンに犠牲をささげるために集合していた建物の柱石を倒したのです。しかし,サムソンはけっしておじけづいた,病的な自殺者ではありませんでした。彼は自分を完全な失敗者とみなし,そのみじめな生がいを終わらせようと願って,絶望のあまり,その建物を倒壊させたのではありません。エホバとその民に対する敵である,そこに集合していたペリシテ人に復しゅうするための十分の力をエホバに請うには,信仰が必要でした。―士師 16:18-30。
20,21 (イ)エフタと彼の娘はどのように信仰を表わしましたか。(ロ)キリスト以前の,他の信仰の模範をあげなさい。
20 エホバの力によって,暴虐なアンモン人に打ち勝ったエフタも非常な信仰を表わしました。自分の娘を,生がい処女としてエホバの奉仕にささげ,神になした誓いを果たしたのはその例です。(士師 11:29-40)あなたの信仰は,キリスト以前の人々,バラク,デボラ,サムソンその他のエホバの証人と同じように強いものですか。そして,エフタや彼の娘と同様,神に仕える誓いを,忠実に果たしていますか。―詩 50:14。伝道 5:4,5。
21 エホバに信仰を置いたダビデは,ペリシテ人の巨人ゴリアテに打ち勝ち,やがて勇敢な王となってエホバの民の益を擁護して戦いました。その信仰のゆえに,彼は神の心にかなう者でした。(サムエル前 17:4,45-51。使行 13:22)サムエルは子どもの時からエホバに仕え,神に対する信仰をけっして捨てませんでした。(サムエル前 1:19-28; 7:15-17)もちろん,エホバに非常な信仰を表わした預言者はほかにもいます。信仰に基づく,さまざまな行ないに触れたパウロは,次のような人々について語っています。「彼らは信仰によりて国々を服へ,義をおこなひ,約束のものを得,ししの口をふさぎ,火の勢力を消し,剣の刃をのがれ,弱よりして強くされ,戦争に勇ましくなり,異国人の軍勢を退かせたり」― ヘブル 11:33,34。
22 (イ)キリスト以前の,エホバの証人のある者は,「まさった復活を」得ようと努めましたが,それはどのように「まさった復活」と言えますか。(ロ)彼らが,油そそがれたクリスチャンをほかにしては「全うされない」のはなぜですか。
22 忠実なエリヤとエリシヤはエホバから力を与えられ,ふたりの婦人のむすこたちを死からよみがえらせました。(列王上 17:17-24。列王下 4:17-37)パウロは,死んだ子どもを復活により生きかえらせてもらった婦人について述べた後,こう付け加えました。「ある人はさらに勝りたる復活を得んために,免さるることを願はずして極刑を甘んじたり」。(ヘブル 11:35)その復活は,エリヤとエリシヤを通して神がもたらされたものより,「まさりたる復活」であるという意味です。なぜですか。なぜなら,その当時,よみがえらされた人々は,もう一度死なねばならなかったからです。ところが,キリスト以前の忠実なエホバの証人は,神の約束された新秩序における地上に復活し,再び死ぬ必要はありません。パウロがそのあとに示しているように,それらの証人は,「信仰によりてあかしせられたれども,約束のものを得ざりき。これ神は我ら〔油そそがれた,キリストの追随者〕のために勝りたるものを備へ給ひし故に,彼らも我らとともならざれば,全うせらるる事」がないからです。(ヘブル 11:39,40)14万4,000人を数える,油そそがれたクリスチャンの復活は,天における霊の命への復活ですが,その復活は,天の御国の建てられたあと,西暦1918年に始まりました。(黙示 12:1-5; 14:1,4; 20:4-6。コリント前 15:50-55)それらのクリスチャンは,キリスト以前の忠実なエホバの証人が地上に復活する前に,天にいりて「全うされ」ます。
23 パウロのあげている,信仰の他の模範にはどんなものがありますか。
23 それらの証人が残した,信仰の他の模範を思い出させながら,パウロは次のように書きました。「その他の者は嘲笑とむちと,またなはめと牢獄との試練を受け,ある者は石にて撃たれ,試みられ,のこぎりにてひかれ〔確実ではないが,ユダヤ人の言い伝えによると,イザヤは,マナセ王の命で,そのような死にあった〕,剣にて殺され,羊,山羊の皮をまとひて経あるき,乏しくなり,悩まされ,苦しめられ,……荒野と山と洞と地の穴とにさまよへり」。彼らの信仰の多くの行為を熟考する人は,パウロの次のことばに同意されるにちがいありません。「世は彼らにふさわしくなかった」― ヘブル 11:36-38。
24,25 (イ)初期クリスチャンは信仰を表わしましたか。(ロ)それと比較しうるような,エホバへの信仰は今でも存在していますか。
24 わたしたちを『雲のごとく囲む』,キリスト以前の,数多くのエホバの証人の忠実性を深く考えると,わたしたちの信仰は強められます。(ヘブル 12:1)クリスチャン・ギリシア語聖書に示されているように,初期クリスチャンも同様な信仰を表わしました。初期クリスチャンに関しても,次のように述べられています。「彼らはときには拷問にかけられ,あるいは民衆を喜ばせるために,闘技場内で,飢えた野獣の前に投げ出された。しかし,迫害は彼らの信仰を強め,彼らの側に多くの改宗者をもたらす結果となったにすぎない」― ユージン・A・コリガン,マックスウェル・F・リットウイン著「古い世界から新しい世界へ」,1932年,90,91ページ。
25 しかし,エホバ神に対するそうした信仰は今なお存在しています。エホバの証人は同様な信仰を大胆に表わしています。(マタイ 10:28)ラーベンスブルクのナチス強制収容所に留置された,女のエホバの証人に関して,フランスのシャルル・ドゴールのめいにあたるジュネビエーブ・ドゴールはこう述べています。「すべてのかたがほんとうに非常な勇気を示され,その態度に,ついには親衛隊員までが敬意を示すありさまでした。信仰を捨てさえすれば,直ちに自由の身になれたのですが,そうするどころか,皆さんは抵抗をやめず,本や小冊子を収容所内に持ち込むのに成功さえしました。そうした文書のために何人かが絞首刑になりました」。ユージン・コーガンは自著「地獄の理論と実践」の中で,「エホバの証人の挑戦に親衛隊が対処し得ないという印象はぬぐうべくもなかった」と書いています。(43ページ)さらに,プリンストン大学のエベンスタイン教授は次のように述べています。「エホバの証人が強制収容所で受けた苦しみは,ユダヤ人,平和論者,共産主義者が経験したものよりさらにひどかった。小さい教派とはいえ,各会員は,たとえ崩壊しえても,けっして占拠されることのない要塞のようであった」― ザ・ナチ・ステート。
26 クリスチャンの信仰はどんな結果をもたらしますか。
26 あなたがエホバに対して同様な信仰を持ち,それを保ち続けるなら,永遠の命がもたらされるのです。使徒パウロは,クリスチャンが,「信仰の極,すなはちたましひの救を」受けることについてしるしました。(ペテロ前 1:9)しかし,「持続する,健全な信仰を持つにはどうしたらよいのだろうか」と尋ねるかたがおられるかもしれません。確信を持ってください。エホバの助けを得て,多くのことが行なえるからです。
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いつも『信仰において健全で』ありなさいものみの塔 1970 | 9月1日
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いつも『信仰において健全で』ありなさい
「老人には……信仰に健全ならんことを勧めよ」― テトス 2:2。
1 信仰は何にたとえられますか。しかし,神のしもべにはどれほどの信仰が必要ですか。
信仰は,人の霊的な状態と肝要な関係があるので,生命の維持に不可欠なミネラル,つまり微量元素にたとえられるかもしれません。人間や動物そして植物が正常な機能と健康な状態を持続するためには,コバルト,銅,亜鉛などのミネラルが少量必要です。たとえば,悪性貧血の予防にはコバルトが必要です。コバルトを含有するビタミンB12を1日につきわずか1,500万分の1オンス(1オンスは約28グラム)摂取するか否かが,貧血症を起こすか起こさないかの別れ目になります。それ以下の量では不十分です。同様に,信仰は(徳,知識,節制,忍耐,敬虔,兄弟の愛また博愛とともに),クリスチャンの霊的な健康と命にとって不可欠なものです。(ペテロ後 1:5-7)もちろん,少しばかりの信仰を持つだけでは不十分です。クリスチャンには,わずかな信仰以上のものが必要です。もっとも,人間にしても動物にしても,微量元素を取りすぎると病気になることがあります。しかし,神に対する信仰が多すぎるということはけっしてありません。エホバに対する非常な信仰,強い健全な信仰をつちかい,かつそれを所有することは,神のしもべにとってきわめて重要です。
2,3 クリスチャンはどうすれば,いつも『信仰において健全であり』えますか。
2 キリストの使徒パウロはテトスに次のように書き送りました。「されど汝は健全なる教に適ふことを語れ。老人には自ら制することと謹厳と謹慎とを勧め,また信仰と愛と忍耐とに健全ならんことを勧めよ」。(テトス 2:1,2)いつも『信仰において健全である』ことは,年老いたクリスチャンに限らず,すべてのクリスチャンにとって肝要です。なぜなら,「信仰がなければ,神を喜ばすことは不可能である。神に近づく者は,神がおられること,また神を熱心に求める者に神が報いてくださることを信じていなければならないからである」― ヘブル 11:6,新。
3 しかし,どうすればクリスチャンは,いつも『信仰において健全』でありえますか。必要な要素となるものには次の事柄が含まれます。(1)神のみことばの定期的な研究。(2)エホバにたゆまず祈り続けること。(3)クリスチャンの集会に出席する習慣。(4)信仰を表明する敬虔なわざを絶えず行なうこと。
あなたの信仰と神のみことば
4 クリスチャンの信仰はおもにどんな方法によってつちかわれ,かつ維持されますか。
4 健康と生命の維持に不可欠な微量元素は,かたよらない食事を取っていれば十分まかなわれるものです。クリスチャンにとってたいせつな要素である信仰もそれと比較できます。つまり,信仰はおもに,バランスの取れた霊的な食事をすることによって,つちかわれ,維持されるのです。ルステラのギリシア人に向かって,パウロとバルナバは,生ける神を「天より雨を賜ひ,みのりの時をあたへ,食物と歓喜とをもて汝らの心を満ち足らはせ給ひし」かたと説明しました。(使行 14:14-17)しかし同時に,エホバは霊的な食物の供給者でもあられます。イエス・キリストはいみじくもこう語られました。「『人が生きるのはパンのみにはよらず,エホバのみ口から出るすべてのことばによる』と書かれている」― マタイ 4:4,新。申命 8:3。
5,6 (イ)ヨシュアの信仰と,神のみことばの間には,どんな関係が見られますか。(ロ)どうすれば,信仰を増し加えることができますか。
5 エホバは,ヨシュアの指揮下にあるイスラエルに,カナンの地で多くの勝利を収めさせました。(ヨシュア 12:7-24)しかしヨシュアは,公の式典の際などに,単に見えのために神聖な聖書を引用するといった軍事指導者ではありませんでした。彼は神のみことばの研究生であり,そのために物事を霊的な見地から考え,エホバに信仰を持っていました。彼は神から与えられた次の助言を深く心に刻んでいたのです。「ただ勇気をもち,大いに強くあり,わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを必ず行ないなさい。それから右にも左にもそれてはならない。あなたがどこに行っても賢く行動するためである。律法のこの書をあなたの口から離してはならず,あなたは昼も夜もそれを小声で一心に読まねばならない。すべてそこにしるされているとおりに行なうためである。そうすれば,あなたの道は成功し,かつ賢く行動できるからである」― ヨシュア 1:7,8,新。
6 ヨシュアの場合,「昼も夜も」神のご要求と教えとを熟考することは至上命令でした。したがって,あなたも自分のすべき事柄を調整して,神のみことばを定期的に読み,かつ研究すべきではありませんか。もちろん,そうなさるべきです。そのうえで,聖書にしるされている事柄を生活に当てはめるなら,あなたは自分の信仰を増し加えていることになります。そうすれば,あなたも,「どこに行っても賢く行動する」でしょう。そればかりか,あなたの霊的健康と命は,聖書の研究と,それを生活に当てはめるかどうかにかかっています。パウロは適切にもテモテにこうさとしました。「汝キリスト・イエスにある信仰と愛とをもて,我よりききし健全なる言の模範を保ち(続けよ)」― テモテ後 1:13。
あなたの信仰と祈り
7 ダビデは迫害者に包囲された時,どうしましたか。それはなぜですか。
7 ダビデは信仰の持ち主でしたが,自分の力だけにたよろうとはしませんでした。彼は定期的にエホバに祈りをささげました。迫害された時,ダビデは巧妙な策だけで敵の裏をかこうとしたり,人間の力だけにたよって敵に当たろうとしたりはしませんでした。その代わりに,彼はエホバに助けを請いました。たとえば,詩篇のある篇の中で,ダビデは次のように自分の気持ちを言い表わしています。「エホバよ われ汝をよばふ 我いへらく汝はわがさけどころ有生の地にてわがうべき分なりと ねがはくはわがさけびにみこころをとめたまへ,われいたく卑くせられたればなり 我をせむる者より助けいだしたまへ 彼らはわれにまさりて強ければなり 願くはわがたましひをひとやよりいだし われに聖名を感謝せしめたまへ」。(詩 142:5-7)ダビデはエホバの助力を請い救いを求めて祈りました。しかし,それは利己的な理由からではなく,神の御名をほめたたえるためにでした。エホバは,ご自分に献身した人々のそうした祈りを聞かれます。ですから,現代の神のしもべたちが,「たゆまず祈り続け」るのは非常にたいせつなことではありませんか。―ロマ 12:12,新。
8 (イ)信仰はクリスチャンの祈りの対象として適切なものですか。(ロ)迫害を受けている仲間の信者に,文字どおりの援助の手を差し伸べることがたとえできなくても,何を行なえますか。
8 信仰はクリスチャンの祈りの適切な対象となります。それは神の霊の実であり,自分の信仰に霊が表わされるようエホバに願うのは,クリスチャンにとってふさわしいことです。(ルカ 11:13。ガラテヤ 5:22)使徒たちは主イエス・キリストに,「われらの信仰を増したまへ」と願いました。(ルカ 17:5)彼らは信仰を増し加えることの必要性を認識していたのです。今日のクリスチャンも,その熱心な祈りの中に,使徒たちと同様な願いをこめることができます。またエホバに仕える仲間のしもべたちが,永続する健全な信仰を保てるようにと祈るのもふさわしいことです。遠い地に住む仲間の信者は,激しい迫害にあいながら,きびしい信仰の試練を受けているかもしれません。そういう人たちには,文字どおりの援助の手を差し伸べることはできません。しかし,彼らの信仰が尽きてしまわないようにと祈ることによって,仲間の信者を助けられるのです。イエスがシモン・ペテロのためにそうされたことは,次のことばから明らかです。「シモン,シモン,みよ,サタン汝らを麦のごとくふるはんとて請ひ得たり。されど我なんぢのためにその信仰の失せぬように祈りたり,なんぢ立ち帰りてのち兄弟たちを堅うせよ」― ルカ 22:31,32。
9 神を崇拝する仲間の者のために祈るほか,彼らが強い信仰にとどまるために,あなたは何を行なえますか。
9 前節に引用された,イエス・キリストのことばは,仲間の信者が耐え忍ぶ信仰を持つようにとの祈りに加えて,できるならば,その人たちを励まし,霊的に強めるよう努めることの必要を示唆しています。パウロは,ローマのクリスチャン兄弟と姉妹との交わりを渇望して,こう告げました。「われ汝らを見んことを切に望むは,汝らの堅うせられんために霊の賜物を分け与へんとてなり。すなはち我なんぢらの中にありて互の信仰により相共に慰められんためなり」。(ロマ 1:11,12)したがって,神を崇拝する仲間の者が,強い信仰にとどまるため,エホバから強められるよう,クリスチャンは祈ることができます。さらに,自分の信仰を表明する会話を通して,仲間の崇拝者を霊的に建て起こすことができます。クリスチャンの集会に出席するなら,仲間の信者と交わり,彼らを励ます,すばらしい機会を得ることになります。
あなたの信仰とクリスチャンの集会
10 信仰とクリスチャンの集会との間にはどんな関係がありますか。
10 人体にとって適当な栄養の摂取はきわめて重要です。良い食物を定期的に食べるなら,一つには,欠乏すれば病気の原因となる微量元素を摂取して,健康を保てます。同様に,クリスチャンの集会,また神の備えられる他の霊的な宴に定期的に出席し,かつ参加するなら,その人の信仰は強化されます。こうして,その人は神を喜ばせ,エホバに対する忠誠が試みられる場合には,その信仰は,必要な要素を備えていることでしょう。
11 クリスチャンは,動揺しない信仰を持たねばなりませんか。
11 パウロは,イエス・キリストが,その忠実な死によって,油そそがれた追随者たちのために天の命への道を開いたことを示しています。しかしながら,その命を得るためには,彼らは「十分な確信に基づく信仰を持ち,真実の心をいだきつつ近づ」かねばならず,さらに,「約束してくださったかたは忠実であられるから」,『彼らの希望を公に言い表わすことを,たじろぐことなく続ける』よう,さとされています。(ヘブル 10:19-23,新)クリスチャンは,神がご自分のみことばの中で保証されている事柄は確実であることを知っています。また,たじろいだり二心を持ったりして,エホバからは何物をも受けることのない人たちと異なっています。(ヤコブ 1:5-8)アブラハムは,「不信をもて神の約束を疑はず」,年老いた族長である自分を,「多くの国人の父」とならせると「約し給へることを」,神が「成し得給ふと確信」していました。クリスチャンはこのことを覚えています。―ロマ 4:16-22。
12,13 (イ)クリスチャンが定期的に集まり合うのは,きわめて肝要なことです。なぜですか。(ロ)初期クリスチャンが集まり合った時,それは彼らの信仰にどんな影響を及ぼしましたか。(ハ)神のしもべたちの集まりで注意深く聞くなら,ほかにどんな良い結果が得られますか。
12 クリスチャンの集会では,自分の信仰を口で言い表わす,つまり公に宣べ,かつ他の人々を助けることができます。神を認めない見解がはびこっている今日,クリスチャンが互いを助け,信仰から離れ去らないようにするため,定期的に集まることはきわめて肝要です。パウロは適切にも,こうしるしています。「互いに顧みて,愛と良いわざとを励まし,ある人たちの習慣のように,集まり合うことをやめず,互いに励まし合い,その日の近づくのを見て,ますますそうしようではないか」。(ヘブル 10:24,25,新)初期クリスチャンがともにつどった時,彼らの信仰は建て起こされました。テルツリアヌスはこう述べています。「われわれは神の書物を読むために集まる。……その神聖なことばをもって,われらの信仰を養い,希望を高め,かつ確信を強めるのである」―「弁明」,39章,3節。
13 イスラエル人は,霊の思いを強める,国家的な祝祭を毎年3回催しました。(出エジプト 23:14-17。申命 16:16)その一つは,かりいおの祭りで,この祝祭には7年ごと(安息の年)に,成人も子どももともに集合して,神の律法が読まれるのを聞きました。(申命 31:10-13)祭司エズラと彼の補佐たちがその時節(ユダヤ暦の第7月の間)に,エホバの律法を読み,それを説明した時のことが特別に記録されていますが,それは男,女および「すべてききてさとることを得るところの人々の前で」行なわれました。その結果,バビロンの流刑から少し前に帰って来た人々は注意深く聞き,そして理解することができたので大いに喜びました。その時,彼らは非常に楽しいかりいおの祭りを祝いました。(ネヘミヤ記 8章)今日も同様です。クリスチャンの集会や大会で注意深く聞くエホバの証人は,そうした集まりから多くの霊的な教えを受け,そのゆえに歓喜することができます。その教えを生活に当てはめる時の喜びはなおさらです。
14 いつも『信仰において健全である』ために,クリスチャンの集会はどんな点で助けとなりますか。
14 クリスチャンの集会は信仰を建て起こし,いつも,『信仰において健全である』ための助けとなります。集会に出席する人は励まされ,霊的に強められます。古代シリアのアンテオケにおいて,ユダとシラスは,「多くの言葉をもって兄弟たちを励まし,また力づけ」ました。(使行 15:30-32,口語)クリスチャンの集会では,「虚偽なき信仰」がはぐくまれます。テモテ,その母ユニケおよび祖母ロイスも,そうしたクリスチャンの集会に出席することによって,同様な信仰を持つよう助けられたにちがいありません。(テモテ後 1:5)『信仰において健全』な人となり,かつその状態を持続するための教えは,おもにクリスチャンの集会で与えられます。なぜなら,それらの集会で,たとえばクリスチャンの監督は,「健全なる教に適ふことを語り」続けるからです。―テトス 2:1; 1:5,9。
15 真理の正確な知識で一度啓発された人が,故意にクリスチャンの集会に出席するのをやめるなら,どんなことになりかねませんか。
15 クリスチャンの集会に定期的に出席するならいつも,『信仰において健全である』よう,助けられます。反対に,それらの集会に,故意に,しかも理由もないのに絶えず欠席するなら,信仰は弱まり,あるいは信仰を失うに至る道,また,聖霊に対する許されない故意の罪への一歩を踏み出すことにさえなるかもしれません。(マタイ 12:31,32)神の真理の正確な知識で一度啓発された人が,故意に罪を犯し,神の御子を否認するなら,その人は御子を踏みつけているのです。集まり合うことをやめないようにとクリスチャンにすすめた後,パウロはこう述べました。「我らもし真理を知る知識をうけたる後,ことさらに罪を犯して止めずば,罪のために犠牲もはや無し。ただおそれつつ審判を待つことと,逆ふ者をやきつくすはげしき火とのみ遺るなり」。使徒はさらに次のように付け加えています。「モーセの律法をなみする者は慈悲を受くることなく,二,三人の証人によりて死に至る。まして神の子を踏みつけ,己が潔められし契約の血を潔からずとなし,恩恵の御霊を侮る者の受くべき罰の重きこといかばかりと思ふか」。(ヘブル 10:26-29。申命 19:15)ですから,信仰を失い,神の御子を否認するような危険を冒してはなりません。その結果は,永遠の滅びです。感謝をもって,クリスチャンの集会に定期的に出席し,『信仰において健全である』ために集会の果たす重要な役割を認めてください。
あなたの信仰とわざ
16 信仰とわざとの間にはどんな関係がありますか。例をあげて説明しなさい。
16 霊的な萎縮を防ぐには,人体の筋肉と同様に,信仰も養われ,また働かされねばなりません。ヤコブは人が自分の信仰を敬虔なわざによって表わすことの必要性を実に印象的な仕方で強調しました。彼はこうしるしています。「〔息〕なきからだの死にたる者なるがごとく,行為なき信仰も死にたるものなり」。(ヤコブ 2:26〔新〕)この行ないは,エホバがイスラエル人に与えられた律法の行為をさしているのではなく,信仰を持っていることを示す働きを意味しています。(ガラテヤ 2:15,16)アブラハムは,自分のむすこイサクを犠牲として進んでささげる態度を示し,信仰を持っていることをはっきりと実証しました。アブラハムの信仰は,『行為と共にはたらき,行為によって全う』されました。エホバに信仰を置くことにより,アブラハムは神によって義とみなされ,この族長は「エホバの友」と呼ばれるに至りました。ラハブも,イスラエルの斥候を隠し,そのわざによって自分の信仰を証拠だて,その結果そうしたわざのために義なる者と宣言されました。―ヤコブ 2:18-25,新。ヨシュア記 2章。
17 『信仰において健全である』ことを,どんなわざによって表明できますか。
17 しかし,『信仰において健全である』ことを,どのようなわざで表明できますか。数多くのわざがあります。たとえば,エホバの律法や原則によって規制されるいろいろな事柄に関する,エホバの決定を受け入れることです。また,剣をうちかえてすきとすることに関する,イザヤ書 2章4節のことばに従う。血を食べたり,輸血をされたりすることを拒む(使行 15:28,29)。性道徳や他の道徳上のふるまいに関する神のご要求を守る(コリント前 6:18。詩 15:1-5。ヘブル 13:18)。世の事柄に関するかぎり,クリスチャンの中立を保つ(ヨハネ 17:16)。要するに,エホバがご自分の霊感の下にしるされたみことばの中で,行なうようにと告げておられる事柄を受け入れ,それに進んでつき従うなら,あなたは健全な信仰を表わしていると言えます。(詩 119:105)さらに,クリスチャンの集会に出席し,参加するなら,『信仰において健全である』ことを示しています。(詩 26:12)また,戸別伝道その他の方法で,神の建てられた天の御国に関する良いたよりを定期的に宣べ伝えるなら,健全な信仰を持っていることを明らかに表わしているのです。―マタイ 24:14; 28:19,20,新。
18 信仰において成長することは可能ですか。
18 神に対する信心の証拠として,あなたはそのような信仰のわざを行なっておられますか。あなたの信仰をさらに成長させる可能性がありますか。自分の信仰はもっと健全なものでなくてはならない,と考えておられますか。もしそうなら,望みを失わないでください。確かに,現在の邪魔な事物の体制に残された時間は非常に少なくなっています。(コリント前 7:29-31)しかし,現在の事物の体制の滅亡が起こる前に,信仰を成長させるための期間は,限られてはいても,まだ残されているのです。あなたの信仰をつちかい,働かせてください。そうすれば,それに応じて,信仰は成長します。―テサロニケ後 1:3。
19 エホバに対する真の信仰があれば,どんなわざを避けられますか。
19 信仰を表明するのにふさわしいわざがあるのと同様,エホバに対する真の信仰があれば避けられる,よこしまなわざもあります。今は緊急な時です。今は,悪い,よこしまなわざにまき込まれるべき時ではありません。19世紀前,パウロは,眠りからさめるべき時が来ていることを指摘し,その理由をこう述べました。「始めて信ぜし時よりも今は我らの救近ければなり」。続けて,パウロは次のように付け加えました。「夜ふけて日近づきぬ,されば我ら暗黒の業をすてて光明の甲を着るべし。昼のごとく正しく歩みて宴楽・酔酒に,淫楽・好色に,争闘・ねたみに歩むべきに非ず。ただ汝ら主イエス・キリストを衣よ,肉の欲のために備すな」。(ロマ 13:11-14)堕落した肉のわざからできるだけ遠ざかり,神の霊の実をつちかいつつ,いつも『信仰において健全で』ありなさい。―ガラテヤ 5:19-26,新。
あなたは,信仰を失ってしりごみしていますか
20 クリスチャンとしての立場を維持するには何が必要ですか。
20 エホバのクリスチャン証人としての立場を維持するためには,絶えず警戒することが必要です。クリスチャンが,わずかといえども信仰を失ってしりごみするようなことがあってはなりません。なぜなら,それはついには故意の罪に発展し,悲惨な結果を招くおそれがあるからです。パウロの次の警告は適切です。「『仇を復すは我に在り,われこれを報いん』と言ひ,また『〔エホバ〕その民を審かん』と言ひ給ひし者を我らは知るなり。活ける神の御手に陥るは畏るべきかな」― ヘブル 10:30,31〔新〕。
21,22 (イ)イエス・キリストの追随者は,どんなつらい経験を予期しなければなりませんか。(ロ)クリスチャンは,迫害のゆえに何をする事態に陥ってはなりませんか。なぜですか。
21 いつも『信仰において健全である』ためには,神の真理に対していだいた最初の愛を思い起こすのは良いことです。偽りの宗教や他のあやまった考えから解放されて得た新たな自由を,あなたは深く感謝されたことでしょう。(ヨハネ 8:32)その最初の愛をけっして忘れてはなりません。もちろん,反対や,激しい迫害をさえ予期しなければなりません。ご自分の追随者が,そうしたことにあうであろうと,イエス・キリストは語られたからです。(マタイ 10:34-36。ヨハネ 15:18-20)しかし,そうした経験のために,神の真理に対する愛,またエホバに対する信仰を失ってはなりません。クリスチャンとしてすでに耐え忍んできた事柄を思い起こしてください。同時に,現在のかん難が一時的なものであるということを心に留めてください。それが過ぎ去り,そのかん難を振り返る時,あなたは,忍耐が神の是認をもたらしたことを知り,心から喜ばれるでしょう。―ヘブル 10:32-34。
22 迫害のゆえに,神の御国の良いたよりについて語ることに関する,クリスチャンの自由をけっして投げ捨ててはなりません。良いたよりを語ることに関する自由は,「大なる報を受くべき」ものだからです。パウロはさらにこう述べています。「なんぢら神の御意を行ひて約束のものを受けんために必要なるは忍耐なり。『今暫くせば,来るべき者きたらん,遅からじ』」。(ヘブル 10:35-37)神の天の御国が西暦1914年に建てられて以来,イエス・キリストの再臨は現実となっているのです。また,神に対する永続する信仰を表わした大ぜいの人々が,エホバの新しい秩序において,聖書の約束する命を享受するようになるのは間近なことです。―ヨハネ 17:3。
23,24 (イ)信仰を失ってしりごみする,ほんのちょっとした傾向をも避けるのはなぜですか。(ロ)義人およびしりごみする人に対して,エホバはどんな態度を取られますか。
23 ですから,信仰を失って,しりごみする,ほんのちょっとした傾向 ― クリスチャンの特権と責任からしりごみする,ほとんど気づかれないほどの最初のきざしを避けなさい。それは非常に見分けにくいものですから,特に危険です。たとえば,クリスチャンの集会を最初,理由もなく数回欠席していたことが,ついには欠席を常習とする事態に発展します。ゆえに,警戒が必要です。エホバの証人の会衆と単に交わっていれば救いが得られるのではありません。必要なのは,心からの信仰を働かせることです。(ロマ 10:10)ダビデは,「エホバは〔忠実な〕ものをまも(る)」と語りました。(詩 31:23〔新〕)神の恵みと保護をいただき,永遠の命を得るために,クリスチャンは尽きることのない忍耐を保ち,偉大な模範者イエス・キリストから目を離さずに,命の馳場を走らねばなりません。それは,『彼らが倦み疲れて〔魂〕を喪ふことがないため』です。―ヘブル 12:1-3〔新〕。
24 したがって,しりごみしてはなりません。いつも『信仰において健全であり』なさい。義人と,しりごみする人とに対するエホバの態度に関して,パウロは次のように述べています。「『しかし,わたしの義人は信仰のゆえに生きる』。そして,『しりごみするなら,わたしの魂は彼を喜ばない』。ところで,わたしたちはしりごみして滅びるような者ではなく,魂を生きながらえさせる信仰を持つ者である」― ヘブル 10:38,39,新。
25,26 (イ)どんな驚嘆すべき事柄が間もなく起こりますか。(ロ)したがって,今は信仰に関して何をすべき時ですか。(ハ)確固とした健全な信仰を持つ人は,どんなたまものを受けることになりますか。
25 ごく近い将来,偽りの宗教の世界帝国である,大いなるバビロンは滅ぼされ,終わりを告げます。(黙示 17:16–18:8)その後,「全能の神の大なる日の戦闘」であるハルマゲドンが起こるまで,クリスチャンは長く待つ必要はありません。その時,「地の王たち・大臣・将校・富める者・強き者」および,神の御国に敵対する他の者たちは,「御座に坐したまふ者〔エホバ神〕,小羊〔イエス・キリスト〕の怒』を避けようと努めますが,そうした努力はむなしくなるでしょう。よこしまな者たちはその際,「王の王,主の主」であられるイエス・キリストに対し,勝ち目のない戦いをまじえ,無惨な敗北を喫します。一方,イエス・キリストは象徴的な白い馬に乗り,戦いをとこしえの勝利へと確実に導かれます。(黙示 16:14,16; 6:15-17; 19:11-21)その後,直ちに,サタン悪魔とその悪霊たちは,底なきところに閉じ込められます。こうして多年待ち望まれてきたことが成し遂げられます。―黙示 20:13。
26 そうです,驚嘆すべき事柄が近い将来に起こるのです。したがって,今こそ,強い信仰に不可欠な要素を確保する機会を十二分に活用すべき時です。不利な事情にあろうと,苦しい立場にあろうと,きたるべき信仰の試練に対する備えをなし,いつも『信仰において健全である』ことを決意してください。ハバククが行なったように,エホバを大いに喜びとしてください。彼は祈りの気持ちを込めてこう語りました。「その時にはいちじくの樹は花咲ず ぶどうの樹には果ならず かんらんの樹の産は空しくなり 田はたは食糧を出さず おりには羊絶え 小屋には牛なかるべし さりながら我はエホバによりて楽み 我すくひの神によりて喜ばん 主エホバは我力にして我足を鹿のごとくならしめ 我をして我高きところを歩ましめ給ふ」。(ハバクク 3:17-19)このような確固とした健全な信仰こそ,忠実な神エホバからのたまものである,永遠の命をもたらすのです。―テモテ前 6:11,12。エペソ 2:8。申命 32:4。
[525ページの図版]
ヨシュアが成功を収めたのは,神のみことばを定期的に読んだからである。信仰においていつも健全であるためには,あなたも同じことをしなければならないのではありませんか
[526ページの図版]
ダビデは,エホバに祈ることにより,信仰を示した。あなたはたゆまず祈りをささげていますか
[528ページの図版]
クリスチャンの集会に定期的に出席するなら,いつも『信仰において健全である』よう助けられる
[529ページの図版]
行ないの伴なわない信仰は死んだものであるゆえに,戸別伝道で良いたよりを宣べ伝える人は,健全な信仰を表わしている
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「とこしえの命に導く真理」の本を用いてものみの塔 1970 | 9月1日
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「とこしえの命に導く真理」の本を用いて
● 「とこしえの命に導く真理」と題する本は,広く一般の人々に受け入れられています。アメリカの11歳のある姉妹が,この本について学友に話したところ,最初,クラスの友だちふたりが,「真理」の本を求めました。ところが,その本を見た他の友だちも求めたので,担任の先生に配布した1冊を含め,結局,全部で37冊の本を配布しました。その姉妹は,「わたしは今,クラスの友だちを忙しく再訪問しています。また,担任の先生は今,第3章を読んでいるところです」と書き寄せました。
― エホバの証人の1970年度年鑑より
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僧職者が辞職するのはなぜかものみの塔 1970 | 9月1日
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僧職者が辞職するのはなぜか
アメリカでは毎月何百人もの司祭や牧師が辞職しており,その激増ぶりは教会を根底から揺り動かすものとなっています。
「ナショナル・カトリック・リポーター」紙の推定によれば,アメリカにおいて1968年だけで少なくとも2,700名のカトリック司祭が辞職しました。「タイム」誌は,「アメリカで説教壇を去るプロテスタントの牧師は,毎年3,000人に上る」と報じています。
他の国々でも同様に大ぜいの僧職者が辞職しています。
僧職を離れる人々
僧職を離れるのはどんな人々ですか。その人々は資格や能力に欠けているのですか。
ジェスイット派の社会学者,ユージン・シャラートは,辞職したカトリック司祭数百人を対象に行なった調査を完了し,次のように語りました。「辞職するのは教会の中で最優秀の人々,すなわち最もそう明かつ進取的な人々である。…彼らはさまざまな仕事を実に巧みにまとめて行く力があり,職務能力の点でトップクラスの人々である」。
チャールズ・デビスはその一例で,彼はかつて英国の最もよく知られた指導的なカトリック神学者でした。また昨年の11月には,アメリカ第一流の
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