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善良さを示して造り主を覚えなさいものみの塔 1967 | 8月1日
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に言いました。「わが兄弟よ,われはなんぢらが自ら善に満ち,もろもろの知識に満ちて,互に訓戒し得ることをかたく信ず」。(ロマ 15:14,文語)善意に満ち,神のみことばとご要求に対する知識に満ちているなら,クリスチャンはある事柄が良いか悪いか,自分の行為が霊と光の実つまり善良さを生み出すかどうかを判断できます。ここでわたしたちは真のクリスチャンが慎重に考慮すべき事柄を幾つか順に取りあげましょう。まず考えるべき影響は,
21 わたしたちの判断いかんがエホバへの崇拝を左右することを述べなさい。
21 エホバ。エホバに喜ばれますか,喜ばれませんか。その行為また言行はエホバのほまれとなり,善であり正義であられる神と一致するものですか。もしそうでないなら,それが良いことであり,ふさわしいことであるとは言えません。神のみこころにそわないことがらにどうして道義上の美質を求めることができますか。クリスチャンが行ない,口にする事柄にはエホバへの崇拝がかかわっています。「この世にならふな,神のみこころの善にして悦ぶべく,かつ全きことをわきまへ知らんために心をかへて新たにせよ」。(ロマ 12:2,文語)つぎに考えるべき点は,
22 (イ)クリスチャンはどんな仕事をもっていますか。(ロ)それはわたしたちの判断とどのように関係していますか。
22 御国の事柄。クリスチャンはキリスト・イエスを王とするエホバの御国の事柄に関する奉仕をゆだねられています。御国の事柄を忠実に果たすクリスチャンの仕事は指導者キリスト・イエスの預言的な命令に基づいています。「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。(マタイ 24:14)御国の福音の伝道は進められますか。それとも妨げられますか。それは,天使の指導下にクリスチャンが伝える「永遠の福音」にふさわしいですか。(黙示 14:6)これに関連して次の点も考えねばなりません。
23 クリスチャンが他の人に与える影響という観点で自分の行動を見守らねばならないのはなぜですか。
23 他の人々。クリスチャンの行動は他の人の益にも害にもなり得ます。永遠の福音は「地に住む者,すなわち,あらゆる国民,部族,国語,民族」に伝えられねばなりません。それは,「神をおそれ,神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを伏し拝め」ということを,すべての人に呼びかけるものです。(黙示 14:6,7)エホバの証人はこの偉大な造り主に自ら仕え,他の人も仕えることをすすめていますから,他の人またその人とエホバとの関係に与える影響という観点から自分の行動を見守らねばなりません。自分が伝える福音にふさわしく日を送ることにより,クリスチャンは他の人がエホバ神の恵みと善意を得るのを助けることができます。またクリスチャン各自にきわめて身近な人々のことがあります。
24 クリスチャンはどこでだれを大きく助けられますか。
24 愛する人々。クリスチャンは自分の愛する人々がエホバ神に対してもつ関係に心を配ります。そして家族という親密な間柄にある者として,互いを大いに助けることができます。ここであてはまるのは「自分の骨肉に身を隠さない」という原則です。(イザヤ 58:7)ついで考えるべきものは,
25 クリスチャン会衆のためにできる良いことを幾つかあげなさい。
25 会衆。「だから,機会のあるごとに,だれに対しても,とくに信仰の仲間に対して,善を行おうではないか」。(ガラテヤ 6:10)クリスチャン会衆を支持し,会衆の益と幸福に注意するのは良いことです。会衆の集会に出席し,集会の始まる以前に会場に行き,機会に応じて集会に参加するのは適当なことです。親が年齢によらずすべての子供を会衆の集会に伴い,人の妨げにならぬよう集会の間しずかに聞くようにさせるのは神の霊の実です。そうすれば,おとなも子供も,御国会館に来た者すべてが,備えられた霊的食物の益に十分あずかれるでしょう。所有する御国会館またその設備に必要な手入れをするのは良いことです。そして,必ず考えるべきことは,
26 善良さを示すという主題全体はどんなことを扱うものですか。
26 自分とエホバとの関係。エホバとの良い関係と悪い関係について聖書は述べています。「愛する者よ。悪にならわないで,善にならいなさい。善を行う者は神から出た者であり,悪を行う者は神を見たことのない者である」。(ヨハネ第三 11)善良さを示して自分の造り主を覚えるという主題全体は,実際には偉大な造り主エホバと自分との関係を扱うものです。
27 若者に対しても年配者に対しても,聖書はどんなことを明らかにしていますか。
27 このことは,子供,若者,おとな,老人など,あらゆる年齢の真のクリスチャンにあてはまります。親も子供も聖書の大切な真理のことばを心にとめるべきです。「幼な子でさえも,その行いによって自らを示し,そのすることの清いか正しいかを現す」。(箴言 20:11)ごく幼い子供もそうですか。そうです。子供を持つ人々にはすばらしい機会があるではありませんか。自分の子供のすることが清さと正しさを現わすようにすることができるのです。
28 以上のことを心にとめ,わたしたちは次に何をしますか。
28 わたしたちは日常生活において,どんな道をとるか,どんな聖書の原則に従うかについて決定を迫られることがありますが,次の記事の中では,そうした生活上の諸問題に前述の聖書の原則をいかにあてはめるかという点をとりあげましょう。つまりここで学んだ事柄を個々の場合にあてはめるのです。どうぞ次の記事を見てください。
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「目ざめている」ものみの塔 1967 | 8月1日
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「目ざめている」
◆ アーモンドの木(シャーケード)のヘブル語名は「目ざまし」という意味である。アーモンドは冬の休眠に続いて一番早く開花するものの一つであり,パレスチナでは1月下旬か2月上旬に花をほころばせるので,この名前は適切である。聖書のエレミヤ書 1章11,12節には,「あめんどう」(シャーケード)につづいて「見張って」(ショーケード)という表現を使った言葉のしゃれがある。「〔エホバ〕の言葉がまたわたしに臨んで言う,『エレミヤよ,あなたは何を見るか』。わたしは答えた,『あめんどうの枝を見ます』。〔エホバ〕はわたしに言われた,『あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ』」。
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