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信仰には何が生じているかものみの塔 1961 | 8月15日
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か。ノア,アブラハム,モーセ,ダビデ,そしてエレミヤの持っていたような信仰を持つ人々は,どこにいますか。現代の世界を見まわすとき,人間の創造者に対して持つ真実の信仰はほとんどありません。物質主義的な考えが世界を支配しているので,神の言葉より人間の意見の方が信頼され,神の律法より人間の法律の方が重んぜられ,神の力よりも人間の力の方が信用されています。
この時代の人々は,自分の身を守るために,人間の知恵に頼り,軍事力に依存しているので,最高主権者に信仰を抱いていません,「ヱホバかくいひ給ふおほよそ人を恃み肉をそのちからとし心にヱホバを離るゝ人はのろはるべし彼は荒野に棄られたる者の如くならん,彼は善事の来るをみず……」― エレミヤ 17:5,6。
この世界は,口先で神に近づきながら心は神から遠くはなれる自称クリスチャンたちでいっぱいになるでしょう。イエスは前もってこのことを知っておられたので,次のように言われました,「人の子が来るとき,地上に信仰が見られるであろうか」。(ルカ 18:8,新口)キリスト教国の宗教にそれを見出すことができません。彼らはこの世界の政府と密接な友好関係をむすびました。彼らは人間の指導者や平和のための人間の計画に信仰を示します。しかし,人類の唯一の希望である神の御国に信頼を示すのはおそいのです。
しかし,神の御国への信仰と,その保護の力への信頼は,エホバの証者の新しい世の社会内に見られます。それは,平和な世界をもたらそうとはかる肉の力に信頼を置かず,むしろエホバ神に絶対の信頼を置いています。
強い信仰
もしあなたが新しい世の社会内にいる献身したクリスチャンなら,強い信仰をつちかい,それを保つようにたえず努力しなければなりません。あなたの生活しているこの世界に信仰が欠けているからといっても,信仰をつちかうことに気をゆるめることができません。物質主義によってあなたの関心事と時間が取られてしまい,信仰を弱めさせてはなりません。いつの時でも,イエスの弟子たちが示した態度が必要です。彼らはイエスに「わたしたちの信仰を増してください」と言いました。―ルカ 17:5,新口。
モーセの信仰や使徒パウロの信仰とくらべて,あなたの信仰はいかがですか。パウロは信仰を持っていたので,宣教のために数多くの危険にも耐え忍ぶことができました。あなたは,それと同じ信仰を持っていますか,「むちで打たれたことが三度。そして一昼夜,海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし,川の難,盗賊の難,同国民の難,異邦人の難,都会の難,荒野の難,海上の難,にせ兄弟の難に会い,労し苦しみたびたび眠られぬ夜を過ごし,飢えかわき,しばしば食物がなく,寒さに凍え,裸でいたこともあった」。(コリント後 11:25-27,新口)神に奉仕するため,そのような危険に面し,身体上のつらさをも耐えるだけの信仰をお持ちですか。エホバに奉仕することは,あなたにとってそれほど重要ですか。もしそうでないなら,あなたの信仰に何が生じましたか。あなたは信仰をつちかいつづけるのに失敗しましたか。
パウロは死ぬ日までエホバに強い信仰を持ちつづけました。彼はクリスチャンになってから,約30年後に死んだのです。彼は長い年月を奉仕にささげましたが,その熱心は弱まらず,神への信頼は弱くなりませんでした。彼はいつでも最善の努力を払って宣教に従事しました。あなたはパウロと同じことをしていると言えますか。
努力しなさい
クリスチャンが宣教ではらう努力の程度は,ある意味においてあなたの信仰を示すものです。神に奉仕するためにほとんど努力しないなら,そして他の関心事に多くの注意と時間を向けるなら,あなたの信仰は非常に弱いものです。神の奉仕に熱心が欠けていることは,神の約束に全く信頼していないことを示します。あなたは御自分の信仰を建ておこし,それを強めるためにつちかう必要があります。あなたが生存するため,および神の是認を得るためにこれは肝要です。「信仰がなくては,神に喜ばれることはできない。なぜなら,神に来る者は神のいますことと,ご自身を求める者に報いて下さることとを,必ず信じるはずだからである」。―ヘブル 11:6,新口。
あなたは能力が足らないと思うため,宣教学校で研究生の話をしたり,会衆内の責任の地位につくのをためらいますか。モーセは,神によって命ぜられたことをするには,能力が不足であると感じませんでしたか。エレミヤは神の預言者という責任の重い仕事が与えられたとき,自分は子供であると感じませんでしたか。しかし,これらの人々は信仰を持っていたので,できないと思えたことをもなしとげました。同じ信仰を持つなら,あなたも宣教で不可能と思えることをすることができます。あなたが奉仕の特権を失うなら,あなたの信仰には何が生じましたか。神が御霊によってあなたを援助されることを信用されないのですか。「奉仕する者は,神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである」。―ペテロ前 4:11,新口。
新しい世の社会内の者たちには,開拓者になって宣教に多くの時間を捧げる機会があります。多くの人々はこのわざをしたい気持を示します。しかし,そのために財産を減らしたり,世俗の仕事を変えることをためらいます。信仰が弱いからですか。パウロは彼の時間の大部分を神に奉仕するためにささげました。それらの人々は,パウロの持っていたような信仰を示したいと思わないのですか。もしさしひかえるなら,彼らは自分自身を良く調べて,その信仰を建ておこさねばなりません。どうしてものがれられぬ責任がないなら,開拓者になってあなたの時間を神の奉仕にささげて,あなたの信仰を示しなさい。パウロの持っていたような神への信頼と熱心をつちかいなさい。
むかしの人々は神への奉仕に努力を惜しみませんでした。なぜなら,それは正しいことであると,彼らは知っていたからです。彼らの行なったわざは,人々に益を与え,エホバ神に誉をあたえると,彼らは知っていました。あなたも彼らのしたと同じようなことをするだけの信仰を持っていますか。忠実を守った彼らは,そのときには神の約束の成就を受けませんでした。しかし,予定の時になると,彼らは死人の中から復活させられるでしょう。アブラハム,イサク,ヤコブについては,次のように書かれています,「これらの人はみな,信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが,はるかにそれを望み見て喜び,そして地上では旅人であり寄留者であることを,自ら言いあらわした」。(ヘブル 11:13,新口)彼らは,エホバにささげる奉仕が無益なものではないこと,およびエホバは約束をことごとく成就されるということを知っていました。今日,あなたも同様な信頼を示すことができます。そして,失望を感ずることは決してないでしょう。「偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基」いて,将来を計画することができます。―テトス 1:2,新口。
昔の人々の持っていた強い信仰は,今日でもあり得ます。それは,聖書の正確な知識,宣教活動および神への愛でつちかうことができます。この世界は肉の力に信頼します。しかし,信仰をつちかっている新しい世の社会の者はみな神に絶対の信頼を置いています。神は彼らの力,彼らの保護,そして彼らの希望です。彼らは物質主義とか,他のものによって,神への信仰を破られるようなことをしないでしょう。昔の人々のように,彼らは神に信頼し,神への奉仕にその力をことごとくささげます。「ヱホバを頼みヱホバを其たのみとする人はさいはひなり」― エレミヤ 17:7。
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忠実な羊飼は失望させないものみの塔 1961 | 8月15日
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忠実な羊飼は失望させない
興味をもつを人をどこまでも再訪問することの重要性をこの経験は再び強調しています。ある婦人が,ビリー・グラハムの集会に出席しました。そして,だれかがその婦人を訪問して一緒に聖書研究をするという取りきめがつくられました。彼女は待ちましたがやってきません。ある姉妹がその人の家に伝道に行った時その婦人は,ビリー・グラハムの団体からきた人だと思って歓迎しました。伝道者は聖書の話をし書籍を配布し忘れずに再訪問しました。その結果,定期的な聖書研究が始まりました。ですから,羊たちは忠実な羊飼たちによって見つけ出され,養われるのです。―1961年のエホバの証者の年鑑より
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