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    ものみの塔 1955 | 5月1日
    • 新しい世は,サタンの支配下にある世を驚かすものと思われますが,しかしそれは人々の単なる夢ではありません。その希望は,清い祝福を受けるに先だつて与えられるご馳走です。最も尊い宇宙の造り主によつてしつかりと保証され,その霊感の言葉の中にはつきりと約束されている新しい世についての知識は現実的のものであります。それは,古い世の歩んで来た状態,その危険に瀕している状態,そしてこれから先のあなたの歩む道筋<コース>を変える必要について示しております。この知識は堅い希望を与えます。そしてそれはあなたの道筋<コース>を導きます。それはあなたの道を指し示すかがやかしい火のようであつて,それは,完全な地上で永遠の生命を受ける驚くほどの運命をはつきりとあなたに見せます。新しい世のなかにおける,この敬虔な新しい生活の状態に堅く信頼することは,今日唯一のたしかな希望であります!

  • あなたに対する全時間宣教奉仕?
    ものみの塔 1955 | 5月1日
    • あなたに対する全時間宣教奉仕?

      キリスト・イエスはキリスト教宣教のために全時間の開拓奉仕をしました。彼は洗礼をうけて,荒野における40日の断食の後に,この奉仕に従事しましたが,『天の御国は近づいた』という耳目を驚かす言葉で宣教を始め,3年半の後の死にいたるまでこの奉仕を続けました。さらにその伝道の業をできるだけ広範囲に,また早く拡張するため,イエスはペテロ・アンデレ,若い富める支配者,そして多くの他の人を招待し文字通り『すべてのものを棄てて,イエスに従う』ようすすめました。―マタイ 4:17,19; 19:21-27,新世。

      御国のこの良いたよりを今日早く伝道するため,『ものみの塔』協会は類似の全時間宣教のための特別な取り極め,つまり『開拓者』取り極めをつくつています。献身をなし,洗礼をうけた円熟のクリスチャン信者で,すくなくとも1年のあいだ効果的にまた熱心に奉仕した方ならどなたでも参加することができます。その奉仕に従事する方は,1月最小限100時間を家々で伝道することに同意します。それに加えて,自分個人の研究を行い,また会衆の集会に出席して参加しなければなりません。それぞれの経費は自分自身で賄うことも要求されています。

      そのような全時間キリスト教宣教奉仕は怠けもののためでないことは明白です。それは長い時間とつらい業を意味するからです。その奉仕は貪欲の者のためではありません。利己的な収益を得ようとする機会は無いからです。見栄を求める者のためでもありません。その奉仕に関連した称号,名誉,あるいは特別の衣服はないからです。

      今日,『ものみの塔』協会の指示の下に行われるこの全時間キリスト教宣教で,若い人も年老いた人も参加しております。ある者は10歳台で,また別の人は80歳台ですが,全地に亙り1万7000人以上が参加しています。多くの人は,毎年々々長年にわたつて行つています。アメリカ合衆国だけでも,1250人以上の方は,この奉仕に10年以上従事しています。12人の方は,40年以上経つた今でも奉仕しています。これだけに止まらず,たとえつんぼ,盲,または椅子車に禁足されていても,ある人は全時間の要求を定期的に果しています。

      ホンドラスにいる全時間奉仕者は,60歳で,健康も良くなく,また家族を扶養しなければなりませんが,その要求を果し続けています。その人は時間極めの大工の仕事をして家族を扶養しており,その伝道の活動の中でも毎週23の聖書研究を司会しています。コスタリカに住んでいる別の全時間クリスチャン奉仕者は,不具者で子供が3人いますが,全時間奉仕を続けています。1週間の3日を政府の仕事にさいて家族を養い,残る4日間は毎日宣教に従事しています。その人についてある宣教者はこう言いました『その人とその3人の子供が家から家へと伝道したり,街頭に立つているのを見て,心を打たれる思がする。その人と聖書研究をする多くの人が,活潑な奉仕者になるのは,本当に素晴らしい。その人はいつも元気良く,そして全時間奉仕者がなぜもつと多くいないのか不思議がつている。』

      キリスト教宣教の重要性

      キリスト教宣教はヱホバの御名立証の業をいたします。それは,ヱホバが完全な愛,智,義,全能の神であり,またいかなる時でも万物を完全に治め,そして良い十分の理由の故に悪を許されていると人々に知らせるからです。それは偽りの教のために浴びせられた非難を御名から取り清めます。さらに又,忠実な宣教奉仕をするとき,ヱホバは正しい方であると立証いたします。なぜならば,サタンはすべての人を神から引き離すことはできないという立場をヱホバは取られたからです。―ヨブ記 1,2章。シンゲン 27:11。

      さらにつけ加えるならば,キリスト教宣教奉仕は,正義愛好者に生命をもたらします。『神は伝道の愚かさによつて,信ずる者たちを救うのを良しとされた。』ヱホバとキリスト・イエスの知識を取ることは『永遠の生命を意味する』故に,このことは真です。その知識を得るために,ある人はその知識をもたらさねばなりません。―コリント前 1:21。ヨハネ 17:3。ロマ 10:13-15,新世。

      さらに又,キリスト教宣教奉仕の手段を通して,悪しき者は『私たちの神の報復の日』つまりハルマゲドンの警告を聞きます。ヱホバは悪人を亡ぼす以前,悪人にいつもそのことを告げられ,自分たちの取る行為に十分の責任を取らせます。それに加えて,警告をうけることにより,亡びは自分たちに臨むと彼らは知り,『人々すなわち我のヱホバなるを知るにいたらん。』― イザヤ 61:2。エゼキエル 35:15。黙示 16:16。

      そして又,キリスト教宣教に従事する人々は,現在多くの祝福をいただくことは言うまでもなく,悪人についての殺人罪というものをうけず,また神の新しい世に入る保証をうけます。『神は不義な方ではないからあなた方の業や,また聖徒たちに仕え,いまもなお仕えて御名のために表した愛をお忘れになることはない。』実際に,私たちは次のような助言をうけています『しつかりと立つて動かず,いつも主の業を多く為しなさい。主にあつては,あなた方の働きが無駄にならないとあなた方は知つているからである。』(ヘブル 6:10。コリント前 15:58,新世。エゼキエル 3:16-19)キリスト教宣教の果すこれら4つの重要な目的を考えてみるとき,各奉仕者がもし全時間奉仕に従事し得る状態であるならば,部分時間の宣教で満足すべきでないことは全く当然です。

      全時間伝道する義務

      ヱホバのすべてのクリスチャン奉仕者のうち,僅か4パーセントの者が全時間宣教に従事しているため,全時間宣教を例外なものと考える人がいるかもしれません。しかし,それは間違いの考えです。どうしても已むを得ない事情で不可能でないかぎり,どのクリスチャンもその献身の誓により全時間奉仕をする義務を持つているからです。命令はこうです『あなたのすべての心,すべての魂,すべての精神そしてすべての力を捧げて,あなたは神であるヱホバを愛さねばならない。』何ものをも差し控えてはならないのです。―マルコ 12:30,新世。

      私たちに課せられた責任を避けることはできません。『善を行う仕方を知りながら,行わないならば,その人にとつて罪である。』各人は『自分の持つもの』に従う義務があり,『多く与えられた者に多くのことが要求せられ,人から多くのものの管理を任せられる者は,普通よりも多くのものを要求せられる。』あなたの隣人に真理の知識を与える義務があるのであつて,『汝の手善をなす力あらば,これを為すべき者に為さざること勿れ。』― ヤコブ 4:17。コリント後 8:12。ルカ 12:48,新世。シンゲン 3:27。

      クリスチャン奉仕者の伝道する真理にまだ接していない多くの人をも考えてごらんなさい。外国の宣教地については言うまでもなく,アメリカ合衆国内であつても,定期的に証言をうけていない孤立した区域は全く多くあります。もし私たち自身のように隣人や友を愛するならば,その人々にも御国の希望と生命への道を知らさねばなりません。

      そして又,時の短いことをも考えて下さい。現在の時代について,『これらの事すべてが起らない中は,この時代は決して過ぎ去らないであろう。』とイエスは言われました。聖書の予言も又次のように示しています。すなわち,サタンとサタンに属くすべての者がヱホバにより亡ぼされる時まで僅かな時しかないとサタン自身知つているということです。罪を犯した現代バビロンにヱホバが亡びの災をもたらすとき,善意者たちに『彼女から出よ』とすすめても,それは遅すぎます。マタイ 24:34。黙示 18:4; 12:12,新世。

      各個人の準備は必要

      キリスト教宣教奉仕は,あらゆるものにまして愛の表現です。愛が真実であらせるためにそれは,実際的な仕方で表現しなければなりません。宣教に実際的で,全時間それに従事し得るために,各個人の準備は必要となります。時間,健康,また金とか衣服のような物質的な資産のごとく私たちの所有するものをでき得るかぎり最善に利用することは是非必要なものです。

      全時間宣教奉仕をすると,時間を良く計画し,その時間の計画通り厳重に守らねばならないことが要求されます。といつても,他の人の福祉が関係する場合でも例外を設けない程厳重であつてはなりません。パウロの次の諭しの言葉に注意すべきです『あなた方の歩き方が愚か者のようではなく,賢い人のもののように,良く注意を払いなさい。いまの時代は悪い故に,自分の良い時を買い求めておきなさい。』― エペソ 5:15,16,新世。

      全時間宣教奉仕の要求に沿い,その要求に適い続けるため,体を良い状態に保つことは必要です。そうすれば,自分の精力を費すのに,健全な心の霊をも用いなければなりません。パウロのように,節制をする必要があります。『自分の体を打ち叩いて,奴隷のごとくに従わす。』充分の睡眠を取らねばなりませんが,そのためには,適当な時間に就寝することが必要です。特に『食を貪る者』であるならば,食事について節制をしなければなりません。―コリント前 9:27,新世。シンゲン 23:2。

      また全時間宣教奉仕の祝福を楽しみ続けたいと願うならば,お金を費すこと,および他の物質的な資産,衣服,家具,自動車,所有するすべてのものの使用に良く注意を払わなければなりません。智恵と愛は,両方の極端を避けるようにと示しています。つまり,ケチに倹約して必要な食物や衣服を持たないとか,または不注意にお金を浪費するという両方です。

      神の御意を行い,キリスト・イエスの足跡に従うという献身の誓を全く果していると知り,心の奥底から来る満足感を考えてごらんなさい。それに又,『推薦の手紙』であるその骨折の実,すなわちいまヱホバに奉仕し,そして永遠にわたり新しい世の祝福を楽しむ善意者を見るときに生ずるよろこびについてはどうでしようか? それは,部分時間の宣教にあなたが満足を覚えず,全時間奉仕に従事されたからなのです。

      キリスト教宣教奉仕よりも重要な業はほかにありません。聖書に述べられている義務の故に不可能な場合を除いて,全時間その奉仕に従事するよう。努めるべきです。それには各個人の充分な準備が必要です。しかし,その祝福は全く受けるに価値あるものです。

  • ヱホバは御自身の民を導く
    ものみの塔 1955 | 5月1日
    • ヱホバは御自身の民を導く

      『あなたはその救われた民を愛の恵みのうちに導き,あなたの力をもて彼らを必らず聖き住居に連れられる。』― 出エジプト 15:13,新世。

      1,2 (イ)聖書は,ヱホバの指導についてどんな素晴らしい模範を表し示していますか?(ロ)どんな二つの理由の故に,これらの事を考慮するのは時機に適つていますか?

      ヱホバは昔,御自身の民の力ある,恵み深い指導者であることを立証されました。記念すべきある場合に,彼はその民をエジプトの束縛から解放して約束の相続地に導き,また別の大きな場合に,バビロンの束縛から解放して故郷に戻らせました。遂に今日,ヱホバは再び御自身の民を現在の悪い世の組織制度から解放し,愛子の御国に導かれます。ヱホバ御自身,その指導の貴重な前例について詳細なことを多く記録せしめられました。それによつて,私たちは多くのことを学び得るばかりでなくまた学ぶべきであります。『以前に書かれたすべての事柄は,私たちを教育するために書かれたものである。』まつたく,私たちの大いなる神が指導者として行動される際に表わすいろいろな特質を,より深く知り,より強く悟り得るものと期待できます。しかし,これ以外に,別の目的もあります。今日,幸にもヱホバに導かれる者たちの中にいる私たちの責任を考慮することは,大切なことであり,また時機にかなつたことです。汎く言つて,その責任は二つの見出しに分かれます。第一に,私たちのための指導に忠実に従い,どのようにして真の追随者になるかを私たちはみな学ばねばなりません。しかし,また同時に,多くのヱホバの証者はいろいろな程度と立場につく指導者として行うよう召されており,私たちの一人として『神の恵みの御親切を受けながら,その目的を失し』ようとは欲しません。―ロマ 15:4。コリント後 6:1,新世。

      2 私たち個人の立場と責任の問題に来る前に,また正しい理解と精神をもつてその問題に接するため,まず私たち全体の立場を見てみましよう。ヱホバが昔御自身の民を導かれたことについて,私たちの注意をひく顕著な事柄の幾つかを見ます。それから,それらの事柄が,ヱホバの現在の導き,およびそれに私たちの果さねばならぬ役目についての仕方と目的をどのように啓発するかを見ます。すでに述べたあの大きな前例,つまりイスラエルがエジプトを去つたときからの旅行の前例から始めます。

      ヱホバはイスラエルをどのように導かれたか

      3 イスラエルと結ばれたヱホバのすべての関係の背後には,何がありましたか?

      3 イスラエル人がエジプトを去つた時から,荒野を通る40年の旅行についての記録された歴史を私たちが勝手に研究し,ヱホバはどのようにイスラエル人を導いたかについて結論をつくることはゆるされません。イスラエルの旅の終り頃に,ヱホバ御自身モーセに歌の言葉を書かせ,それにより私たちは,その関心を持つ事柄に注意を向けます。まず,昔しのイスラエルと結ばれたヱホバのすべての関係の背後の目的は,その歌の始めにはつきり述べられています。『私はヱホバの御名を讃めたたえよう。あなた方は私たちの神に栄光を捧げよ!』 ヱホバの聖なる御名のほまれと立証こそ,考慮すべき主要な事柄です。ダビデも又そのことを認め,こう言いました『地のいずれの国か汝の民イスラエルの如くなる。そは神ゆきて(エジプトより)かれらを贖い,己の民となして大なる名を得たまう。』イザヤもまた同じことを強調してこう書きました『なんじはかくおのれの民をみちびきて栄光の名をつくり給えり。』― 申命 32:3,新世。サムエル後 7:23。イザヤ 63:14。

      4 ヱホバの導きに,どんな特質は表わされましたか? それらは記録の中にどのように描写されていますか?

      4 いま,御自身の民の大指導者ヱホバの示された優れた特質に注意しましよう。その特質は多くありますが,しかし調べてみると,それらは著しい対照,といつても平衡のとれた対照を持つていることが分ります。ヱホバは一方に『戦人』として戦う力を持ち,火のように怒り,そして敵を粉砕し得る力を持つと立証され,また他方においては,エジプト王の束縛から贖い出された民に愛の御親切を持ち,イスラエルをやさしく保護し導いて,しかも必らずその終局の『聖なる住居』に連れられるという父の如き力と能力を示されました。ヱホバは,無限に屈強であるとともにやさしい指導者であるとたしかに立証されました。モアブの平野でモーセは,その言葉の初めに,イスラエルに次のことを憶い起させました『あなた方は,旅行をしてこの地に来るあいだ中,あなた方の神ヱホバは,丁度人がその子を抱くようにあなた方を抱いたことを見た。』モーセの結びの歌の中に再びヱホバの導きについて心ゆすぶる愛ある描写を見ます。そして,意味深い形容を多く持ち,あらゆるほまれといさおを受けるヱホバの権利の特質を述べて終つています。『ヱホバは彼(イスラエル)を荒野の地に,獣の吼える荒漠とした地に見た。ヱホバは彼を取りかこみ,目の瞳孔のごとくにいたわつて,守られた。鷲がその巣を動かして,雛の上を飛びまわり,その翼を伸げて雛をいだくように,ヱホバのみが彼を導かれた。外国の神は彼と共にはいなかつた。』― 出エジプト 15:1-3,6,13。申命 1:31; 32:10-12,新世。

      5 イスラエルは,神が彼らのためにされたことを感謝しましたか? それは,イスラエルについての神の目的を無効にしましたか?

      5 前述の引用文からだけで,イスラエルは,良く言うことを聞く子供のように,ヱホバのなされたすべての事に強く感謝したにちがいないと,人は結論するかもしれません。しかし,実際にそうでしたか? 悲しいことに,それは全然逆なことでした。シナイ山の時以来,またモーセがモアブの荒野でイスラエル人に呼びかけ証言した通り,イスラエルの子たち,特にエジプトを去つた時代の者は,『邪しまな曲れる』者でありました。彼らは『亡びをもたらす如くに行い,私(ヱホバ)の行くように命じた道から急ぎ離れた。……私はこの民を見たが,まつたく強情な民である。』ヱホバの予言と御決意の通り,その時代の者は,ほんの僅かな例外を除いて,荒野で死にました。しかし,ヱホバは御自身の最初の目的を決して棄てられなかつたのです。それどころか,御使を用いて以前と同じくイスラエルを導き続け,最初の時代の子たちを首尾よく約束の地に導き,その地を与えました。―出エジプト 32:7-9,34。申命 1:34-40; 32:5,新世。

      6,7 (イ)さらに二つのどんな特質は,こゝで示されましたか?(ロ)神の指導について他のどんな大きな前例は,聖書に見出されますか?

      6 このことは,御自身の民を導かれるヱホバの指導についてさらに二つの特質をはつきり示します。それは,ヱホバの豊かな恵みを示しています。その恵みには,ヱホバの栄光と多くの奇蹟のしるしを見ながらもヱホバの声を聞かず,尊敬の態度を取らなかつた者たちになされた正義の裁きで平衡が保たれています。―出エジプト 34:6,7。民数紀略 14:22,23。

      7 この見出しの下で,もちろんもつと多くのことが言えます。しかし,ヱホバの導きの仕方と目的についての主要な主題に従つて,神の民がバビロンの捕われから解放され復帰したとき,聖書にはどう述べられているかを学び知りましよう。

      バビロンからの復帰

      8 私たちの研究の分野は,いまどんな面で広がりますか?

      8 いま研究の分野が大きく広がるのを見てごらんなさい。すでに考慮した記録は,多くの予言的な型の基礎を与えていることは真実ですが,しかし主として歴史的なものです。これと対照して,ユダヤ人のバビロンからの復帰についての記録は,主に予言的なものです。そのことに関する最も重要な事柄は,出来事の起つた時よりもずつと以前に記録されていたからでした。実際のところ,イザヤが特別に霊感をうけ,追放からの復帰について語る躍如とした多くの言葉を書いたのは,そのときより約200年位以前のことでした。さらにすばらしいことは,これらの予言は,後の時代,つまりヱホバが御自身の民を現代のバビロンより新しい世の制度,シオンに導かれる現在の時代のために実際には書かれたという事実です。

      9 多くの予言は,どんな三つの面で成就されているように見えますか?

      9 附随する聖書の証拠の支持とともに,それらの予言はしばしばこの欄で討議されました。そしてそれらの予言はキリスト前537年およびその後の年に,どのように文字通りの最初の成就をしたかが示されました。それから,キリスト・イエスを中心にして彼の初臨のときに,多くの場合,縮図的な成就をいたしました。しかし,その主なる成就は,総体的の予言と相俟つて,再臨の現在に集中され,いま統治している王キリスト・イエスの指示のもとに行われている非常な出来事の中に見られることに疑いありません。この基礎を認めて,主題に関連するこれらの予言の特別な表現と面について注意を限定しましよう。

      10 イザヤの予言の中の誰に,私たちは特に紹介されますか? 彼の任務と特質について,なんと言われていますか?

      10 初めに,神よりその代表者として奉仕するよう任命された方に紹介されます。『わが扶くるわが僕,わが心よろこぶわが撰人をみよ。我わが霊をかれに与えたり。かれ異邦人に道をしめすべし。』この方は,ヱホバ御自身と同じく,疲れを知らず忠実な導きをする同じ特質を表わすとそのすぐ後に予言されています。『かれは衰えず,気落ちせずして道を地にたておわらん。もろもろの島はその教えをまちのぞむべし。』それから,予言は拡大され,この僕のなす大きな任務について語つています。そのたしかな任命は,彼が忠実なユダヤ人の残れる者だけでなく,異邦人の大いなる群衆をも暗やみと束縛から解放し,栄光の光と自由に導くという保証であります。『われヱホバ,公義をもて汝を召したり,われ(主なる指導者として)なんじの手をとり,汝をまもり,なんじを民の契約とし異邦人のひかりとなし,しかして盲の目を開き,俘囚を獄よりいだし,暗きにすめるものを檻の内より出さしめん。』次に,このすべての事に対するほまれと栄光は,競争者をゆるさぬヱホバに属するという事実が繰り返し述べられています。『われはヱホバなり是わが名なり。我はわが栄光をほかの者に与えず,わがほまれを偶像にあたえざるなり。』― イザヤ 42:1,4,6-8。

      11 イザヤの予言の『僕』をどのようにして識別することができますか?

      11 しかし,このほまれある僕は誰ですか? 前述のところから,最初に言われていることは,ヱホバがこの方の上に霊つまり目に見えぬ活動力を置き,その任務を遂行させるために権能と力を与えるということに気がつくでしよう。これは,鎖状に連なつている証拠の重要な結びに注意を向けさせます。すなわち,イザヤ書 61章1-3節(どうぞ読んで下さい)に記録されている予言です。そこには,この油注がれた僕に霊の働が注がれた結果と,また牢獄のような束縛の中にいた者たちを自由に導いたことについて,より多く述べられています。イエスは,ナザレの会堂で同郷の人に話しかけたときに,この後の聖句を引用し,その日御自身の上に成就したと話しました。(ルカ 4:17-21)読者の多くが良く知つておられるように,これが,イザヤの多く述べた『僕』を識別する唯一つの連鎖というわけではありません。例えば,ヱホバの僕に投げかけられるくるしみと恥辱を述べているイザヤ書 53章からの引用文は,キリスト教徒ギリシヤ語聖書の中で多くの場合キリスト・イエスに適用されています。

      12 この『僕』は,イザヤ書 55章3,4節でどのように描写されていますか? この予言の現在の適用に,どんな聖句は光を投げかけていますか?

      12 いまイザヤ書 55章を調べてみると,ある興味深い重要な事柄を知ります。ただヱホバのみが与え得る霊的御準備の必要を認識する者たちに訴えて,ヱホバはこう述べられています。『耳をかたぶけ,我にきたりてきけ。汝らのたましいは活くべし。われ亦なんぢらととこしえの契約をなしてダビデに約せし変らざる恵をあたえん。視よわれ彼をたててもろもろの民の証とし,又もろもろの民の君となし命令する者となせり。』(イザヤ 55:3,4)ヱホバの僕であるこの方は,全き権威を持ち,又指導者として行い,そして指示と命令を発するという明瞭な言葉を知ります。これは命令の言葉です。『全く,その予言者に耳を傾けない魂は,民の中から確に亡ぼされるであろう。』彼はヱホバの『忠実にして真の証者』であり,さし迫るバビロンの亡びのこの時代に,次のような緊急の命令を述べています『彼女の罪に与からず,その災を受けるのを望まないならば,わが民よ,彼女から出よ。』『忠実また真実と呼ばれる』ヱホバの代表者である彼は,天の軍勢を導いて,彼の支配に反対するこの世の諸国民を攻めます。『彼の口からは,鋭い長い剣が出で』敵の軍勢の最終的な刑執行をもたらす命令を出します。エジプト王とその軍勢を亡ぼす時にヱホバの示された戦闘力と能力に,なんと良く似ているのでしよう!―使行 3:19-23。黙示 3:14; 18:4; 19:11-16,新世。

      13 イザヤ書 11章1-5節で,ヱホバの僕が指導者であるというどんな確証を知りますか?

      13 この点で,いまイザヤの予言からの別の聖句に注意を向けるよう望みます。その句は,すでに考慮した特徴と密接に連なつており,さらに強い確証を与えるものです。キリスト・イエスは,ダビデの子であり正当な世嗣として『ダビデに約せし変らざる恵』を相続するということを忘れてはなりません。その恵は,詩篇 89篇33-37節で美しく述べられているように,ダビデの裔に約束された破れることのない御国契約の中に概括されています。それで大いなるダビデであるこの方が,イザヤ書 11章の冒頭の節で『エッサイ(ダビデの父)の株より一つの芽いで,その根より一つの枝』と述べられているのは,適当なことです。(識別の証拠として黙示録 22章16節を見なさい)さて,それに続くイザヤ書 11章1-5節を自分自身で読んで下さい。それは,ヱホバの霊によりこの方に与えられた指導についてのすばらしい平衡のとれた特質を示しており,また彼を賢い,強い,理解力のある指導者となし,『地の柔和な者たち』のために,父の如き力と能力を表わしています。そして『正義はその腰の帯となり,忠信はその身のおびとなる』ため,彼に全幅の信頼を置くことができます。また,『彼はその口の杖でもつて地を撃ち,唇の息でもつて悪しき者を殺す』と述べられている黙示録 19章15節と結びつく連りに注意しなさい。

      14 キリストの導きのすばらしい結果について,予言はどのように告げていますか?

      14 彼の指導の最後の結果は,非常に栄光のあるすばらしいもののために,彼の聖なる全領域内で害を加え,破壊をなす生物または物は一つもありません。すべての動物たちの間であつてさえも,平和と調和があり,人間が動物を導くのは,気持よい仕事になります。『小き童子にみちびかれる』と書かれてある通りです。そのような幸福な関係は,シオンつまりヱホバの制度に住む者たちのあいだですでに得られています。彼らはヱホバの霊を持ち,キリストの導きに忠実に従つています。―イザヤ 11:6-9。

      画面は変る

      15 イザヤ書 11章はどんな言葉を用いることにより変化した見地を示していますか?

      15 しかし,これがすべてではありません。イザヤ書 11章は,さらにヱホバの任命した指導者および僕のなす素晴らしいことがらを予言していますが,異つた言葉が用いられ,異つた見地を示しています。いままでのところ,モーセの時代のイスラエルとの諸関係,およびバビロンからのユダヤ人の復帰について考慮した聖句は,その代表者を通してヱホバが道を導かれた移動性の指導という考えを伝えています。しかし,いまや画面は変り,静止して高く掲げられた旗の手段によつて行われる指導を説明しています。10節と12節には,こう言われています。『その日エッサイの根たちてもろもろの民の旗(ヘブル語でネフス)となり,もろもろの邦人はこれに服いきたり栄光はそのとどまる所にあらん。ヱホバは国々の為に旗(ネフス)をたててイスラエルの追いやられたる者をあつめ,地の四極よりユダの散り失せたるものを集へ給わん。』

      16 この予言の中で言及されている旗とは誰ですか?

      16 イザヤ書 62章10-12節や他の聖句と関連して,この聖句は以前の『ものみの塔で』研究され,『旗』と翻訳されたヘブル語の言葉は,縦列の民の先頭に進む指導者によつて高く掲げられる旗を意味するのではないことが示されました。むしろ,それは高い高地に設置される静止の旗を意味します。私たちはいま,イザヤ書 11章10節の語る『その日』にいます。そして,ヱホバによつて立てられた栄光を持ち秀立する旗,すなわちいま統治しているヱホバの王,キリストイエスを明白に見る理解と信仰の目は,本当に幸福であります。彼はシオンの山の高い高地,つまり神の設立した御国に即位し,たしかにその旗であります。それはどんな目的のためですか?

      17 どんな主要な目的のために,旗はあげられましたか? このことは,イスラエルの時代にどのように適用しましたか?

      17 主として,この地にヱホバの真の清い崇拝を回復し,そして永久に確立するのを導くためです。古い昔に,サタンは『光の御使』のごとく振舞い,崇拝のこの最重要な問題について偽りの導きをなし,最初にエバを欺き,次にエバを通して人類の大部分を欺きました。時が経つにつれて,イスラエルはこの罠に落ち,ついには偽りの宗教の根拠,バビロンの暗い牢獄のような捕われに導かれました。忠実な残れる者をこの囚われから解き放つた約束の解放こそ,イザヤの多くの予言に対する直接の基礎をつくつたものです。当時人を招き,人に命令を与えた旗は,丘の上に回復されたエルサレムでした。そしてヱホバの見える代表者たちはエルサレムの中で統治し,正式な大祭司たちは,再建された宮の中でヱホバの清い崇拝を行つていました。―コリント後 11:3,14。

      18 聖書からの支持とともに,今日旗のあげられることによつて何が示されるかを表しなさい。

      18 今日の私たちは,大規模になされたこれらの予言の最終の成就を目撃するという大きな特権を頂いています。1919年より始めて以来,キリストの油注がれた追随者の中の残れる者は,神の命令に注意を払い,現代のバビロンとのあらゆる結びつきを切り離して,シオンの山の旗に集まりました。しかし,これは良い事柄の始まりに過ぎません。旗を立てるということは,長く待つた御国およびその王を支持するための全地の人々の大集合の始まりを示し,また匹敵者のない最高の権利を持たれている方の崇拝と奉仕に活潑に従事することを示すからです。(ルカ 4:8)パウロは,最初に集められた者にも言及しつつ,この最重要の業に対するこの定めの時について語り,こう述べています『それは御自分で目的を立てられた神の御旨によるのであつて,定めの時の満ちるにあたつて行われるものである。つまり,天にあるものも地上にあるものも,すべてのものを共にキリストの中に集めることである。たしかにキリストの中にである……それは,キリストに初めて望みを置いた私たちが彼の栄光を讃えるためである。』― エペソ 1:9-12,新世。

      19 (イ)どんな肝要な業と質問に私たちは直面していますか?(ロ)この質問に対する正しい答を,聖書はどう示していますか?

      19 この非常に大きな仕事に面して,その達成を図る目的に神の用いる手段についての質問は強い意義を持つものであることを知ります。王であり旗であるキリスト・イエスは御国制度に集められ,またこれから集められるすべての者を導くよう任命された唯一人の御方ですか? これは,何らかの面で地上にいるヱホバのすべての僕に直接影響を及ぼす重大な質問であつて,私たちは正しい,そして又聖書的な答を望みます。バビロンから戻つた忠実なユダヤ人の残れる者を言及しつつ,ヱホバはイザヤにこう書かせました『ヱホバ宣給わく,なんぢらはわが証人わがえらみし僕なり。』(イザヤ 43:10)これは,ヱホバの僕は,時折りに一個人として語られても,別のところでその僕は集合体の意味で語られている場合があると示す多くの聖句の一つに過ぎません。他の言葉で言うと,イザヤ書 43章10-12節が最終的に成就される際,ただ一つの油注がれた僕級または群があるとき,その級は多くの個々の証者または成員によつて構成されていることを知ります。(コリント前 12:14)イエスは,これと同じ油注がれた奴隷級について話し,次のような質問を尋ねて答えられたとき,その級に委ねられた責任について語りました。『主人が家人の上に任命して,正しい時に食物を与える忠実にして賢い奴隷とは実際に誰であるか?……私はまことにあなた方に言う主人は彼を任命して全財産を管理させるであろう。』― マタイ 24:45-47,新世。

      20 これらの聖句から,どんな結論が得られますか? さらに考慮すべきどんな質問を起しますか?

      20 それで,主人はつねにどんな面でも総元締ですが,しかし自分の忠実な追随者には御国福祉の奉仕の面で多くの分担部分と責任を与えます。すでに言われたように,一人として『神の恵みの御親切を受けて,その目的を失する』ことを欲しないために,この事柄について各個人はどのように見るべきですか?(コリント後 6:1,新世)これに続く記事でこの質問を考慮いたしましよう。

  • 正しい種類の奉仕者
    ものみの塔 1955 | 5月1日
    • 正しい種類の奉仕者

      1 人はどのようにしてヱホバの奉仕者になり,そのことを証明しますか?

      ギリシャ語聖書に用いられている奉仕者(ギリシヤ語でディアコノス)という言葉は,文字通りには僕の意味です。(テモテ前 4:6,新世)つまり,ヱホバの公やけの僕であつて,神の御意をなそうという厳粛な同意で初め献身の段階を取つた後,神により任命されている者ということです。そのような奉仕者は,御名にふさわしい者と証明し,神の恵みを保とうとするために,『上にある権威』によつて置かれるあらゆる命令や任務を忠実に成し遂げようと努力いたします。そのような奉仕者はまた,神の第一の奉仕者イエス・キリストの足跡にしつかりと従う追随者であると証明し,イエスと同じく,キリストによるヱホバの設立した御国の良いたよりの伝道者になる主要な義務を必らずや認めるでしょう。このようにして,この奉仕者はイエスの如くヱホバの証者の一人であると証明し,真理について証をいたします。―ロマ 13:1。ヨハネ 18:37。イザヤ 43:10。

      2 僕または奴隷は,ヱホバの奉仕で責任を与えられますか?

      2 奉仕者という言葉の本来の意味は,僕あるいは奴隷というものであつても,他人を監督し,世話を見るということを含めて,責任を多く持つ地位にその僕が置かれるという可能性はあり得るものです。前の記事の終りに引用されているマタイ伝 24章45-47節の聖句は,すぐ後に続く譬話の中でイエスの言われたことと相俟つて,このことについての良い例です。マタイ 25:21,23を見て下さい。

      3 初期のどんな社会形態は神の是認をうけましたか,そこで指導について何が示されましたか?

      3 家族生活にしても,又はあらゆる種類の国家的もしくは共同生活にしても,人間が共に居住して以来,制度化されたある形の社会が必要でした。これはこういうことです。つまりある者は権威と指導の地位に置かれ,他の者を訓練して正しい道に指導する責任を持つということです。そのような取り極めは,神の是認をうけるものです。何故ならばノアおよびアブラハムとその子たちから特に始めて,これらの人またそれと交る者たちになされた神の御処置は,その当時にあつた族長社会の形式を認める基礎に基いていたからでした。

      4 ノアはどのように良い指導の模範でしたか?

      4 例えば,主としてヱホバの真の崇拝についての良い指導の模範として,ノアを考えてごらんなさい。それに加えて,自分の家族の7人を訓練するという面で良い仕事をなしたに違いありません。家族の各人は各々の分担を持ち,あの大きな船をつくるという非常に大きな,又最も異常な骨の折れる仕事をしたのです。彼らのうけたあらゆる嘲笑や反対ということも憶えていて下さい。ノアは自分の強い信仰の故に,なんという戦の勇気を示したのでしよう。それに,『家族を救うために方船を建造した』とき,なんと強硬に目的を達成し,そして自分の世話した者たちにはなんというやさしい愛を示したのでしよう。―ヘブル 11:7,新世。創世 6:9; 8:20。

      5 (イ)この面についてアブラハムはどのように良い模範でしたか?(ロ)アブラハムの一番古い奴隷にどんな特別の任務が課せられましたか?

      5 アブラハムも又,忠実に導いたということについての素晴らしい模範でありました。それは最初にヱホバの清い崇拝に関してです。アブラハムは,自分自身の行動に良い模範を残しただけではなく,幾百人という奴隷をも含めて自分の全家族を訓練して導き,ヱホバの義しい大義のために戦うことや,また神権的な要求に適うことに忠節に従つたという証拠があります。(創世 14:13-20; 17:9-14,22-27)さて,奴隷と言えば,アブラハムの家で一番古いあの奴隷を思い起したく望みます。その奴隷は,ハランにいる主人の近親のところに旅行をなし,御使の導きの下に,アブラハムの子イサクの妻となる女を見出し連れ戻るという任務を課せられました。記録によると,この僕は自分の責任を強く痛感し,十二分に細い所まで注意を払つてその任務を達成しました。彼は自分自身の智恵に頼らず,むしろ主人の持つ信仰と同じような信仰を持ち問題に際しては,神の指示を求めました。―創世 24:1-27。

      6 纏めてみるとき,すでに考慮した例から何を学ぶことができますか?

      6 それで,イエスや使徒たちの言葉を考慮しても,あるいは聖書に記録されている人間歴史の初期の痕跡に戻るにしても,あるいはまた,船をつくるというような実際の手仕事にしても,あるいは主人の長子のために妻を見出すという繊細な任務にしても,次のことに疑を持つことはできません。すなわち,ヱホバの僕と奴隷はしばしば大きな責任の地位に置かれ,指導という価値ある特質を行使するよう要求されます。それでは,今日のヱホバの民についてはどうですか?

      訓練の宣教

      7 どんな個人的な質問は,今日私たちに直面しますか? 私たちはどのようにその質問を外らそうとする誘惑をうけますか?

      7 人間のいままでの歴史にない程の大きな仕事は,今日真理の知識を知り,また献身の段階を見て,行つた人々によつてこの地上で為されねばなりません。あなたはその段階を取り,その誓をなし,そして神権的なヱホバの奴隷として全時間のヱホバの奉仕に加わりましたか? あなたはこう言うかもしれません「はい,その段階を取りました。でも私は油注がれた残れる者の一員ではないし,それに多くの制限やこの世的の義務もあることですから,集会に出席して機会の許す時だけ証言の業をすればもう良いと思います。」またはこう言うかも知れません「私は姉妹ですし,会衆には兄弟たちがみな責任ある地位についています。ですから,どんな面であつても,私が指導者として行うのは必要ではなく,正しいことではありません。」それでは,そのことについていま少し,くわしく見てみましよう。

      8 (イ)キリスト教国の内にいる善意者のために,どんな業が為されねばなりませんか?(ロ)これらの善意の者がシオンに集められた時私たちの業は完成しますか?

      8 すでに研究した聖句が明瞭に示すように,この終りの日には緊急な大きな業,つまり真理である御国の音信を宣べ伝え,バビロンの亡びの警告,およびいま逃げねばならぬ絶対の必要を告げる業をなさねばなりません! しかし,それでもつて私たちの任務は完成されますか? 否,キリスト教国で行われる憎むべきことを歎き悲しみ,警告の音信に注意を払おうとする人々のために,それ以上の業をしなければなりません。御存知のように,これらの良い人々は,昏酔し,飢餓に瀕した霊的状態にいるため,神の御言葉の基礎的な真理を殆ど知らないか又は何も知りません。また,逃げて保護を求めねばならぬところ,つまりヱホバの神権制度,シオンについては少しの考えもありません。それで,私たちは倦まずたゆまずこれらの人々を助け,真理の知識を得させるだけではなく,また援助をして何をせねばならぬかを悟らせ,そしてバビロンからシオンに至る大道を通らしめ,遂には高くあげられた旗すなわち統治している王イエス・キリストの保護の支配の下に集めねばなりません。遂に『一つの群,一人の牧飼』制度の内にいるこれら他の羊のために私たちは,自分の任務を全うしたと言へますか?―エゼキエル 9:4。イザヤ 62:10。ヨハネ 10:16。

      9 真のすべての信者たちにどんな原則が適用しますか? このことは聖書にどう表明されていますか?

      9 聖書に再び答を求めてみると,命令と模範の両方でなされる討議の形式を多く見出します。そして,福音の真理,つまり光の音信をうけ入れる者たちは,自分自身光を持つ者にならねばならぬと示されています。彼らはダビデのようにならねばなりません。ダビデはもとヱホバの羊の一人でしたが,自分の父の実際の羊を世話する正しい特質を訓練された後,ついにヱホバの相続,イスラエルの羊飼になるよう召されました。(詩 23:1; 78:70-72)または,別の面から言うと,信仰を働かせて神の御意をするために自分自身を献身する点にまで達した人々は適宜な業によつてその正しい種類の信仰を表明しなければなりません。『人は心で信仰を働かすことにより義とせられるが,しかし口でもつて公やけに言い表わして救われるのである。』イエスは御自分の最初の弟子たちを取り扱われた際に同じ原則を表明されました。イエスをメシヤとして信じ受け入れることは十分ではなかつたのです。弟子たちが単なる信者になることは,イエスのお望みでなかつたのです。むしろ,漁業というような日常の仕事から彼らをすぐに召し,『人を漁る者となる』ように彼らを訓練し始めました。「正しい良い心で御言葉を聞く」者たちは,「御言葉を保ち,耐え忍んで実を結ばねば』ならぬとイエスは示しました。イエスは,そのような者の上に来る責任について語り,こう言われました『どう聞くかに注意を払いなさい。持つている者には,さらに与えられるであろう。』そして,御自身とこれら答え応ずる弟子たちとのあいだの密接な結びを強調し,イエスはこう言われました。『私の母,私の兄弟は,神の御言葉を聞いてそれを行う者たちである。』簡単に言えば,正しい種類のどの信者も,正しい種類の奉仕者になるよう訓練されねばならないということです。―ロマ 10:10。マルコ 1:17。ルカ 8:15-21,新世。マタイ 5:14。ヤコブ 2:17。

      10 この原則は特別に今日どのように適用しますか?

      10 いま述べられた原則がイエスの時代に真実であり,また力を与える聖霊があの初期の信者の群に注がれたとき真実であつたならば,五旬節<ペンテコスト>の日にペテロの引用したヨエルの予言の最終の成就がなされている今日,その同じ原則はなんと力強く適用するのでしよう! ここに,私たちの質問にたいする答えがあります。真理の伝道に答え応じた者たちは,自分自身その同じ御国の音信を宣べ伝える信頼すべき力ある伝道者になるよう訓練をうけ,教育をうけねばなりません。大きな業が全世界に亘つてなされねばならないため,また彼ら自身に意味する利益のために,真理に来るすべての者が『和解の宣教』に積極的な参加をなし,そして正しく『和解の音信』を説明して他の人々への効果的なすすめ方を学ぶことは是非とも大切です。パウロが次のように書いたのは,全くこれと深い結びつきを持つているものです。『私たちは彼と共に働く者として,あなた方に願う。神の恵みの御親切をうけて,その目的を失してはならない。』― コリント後 5:18より6:1,新世。使行 1:8; 2:17,18。

      11 今日訓練の業の必要を強調する他の聖句を引用しなさい。

      11 このことから,神の制度,シオンに来るすべての者のために強度の訓練計画の業をする絶対の必要が否応なく認識されます。初期に,『友なる市民』そして『神の家の成員』になつた者は,『使徒と予言者の基礎の上に建てられ(訓練され,また教育され)……神の霊によつて住む場所に共に建てられた。』イザヤは,神の家と都について全く同じ象徴の言葉を用い,また『ヱホバの家の山はもろもろの山のいただきに堅く立つ』いまの『すえの日』における訓練計画を述べ,次のように書きました。『多くの民ゆきて相語りいはん。いざわれらヱホバの山に登り,ヤコブの神の家にゆかん。神われらにその道を教え給わん,われらその路をあゆむべしと。そは法律はシオンよりいで,ヱホバの言葉はエルサレムより出づべければなり。』― エペソ 2:19-22,新世。イザヤ 2:2,3。

      12 この業を,協会の任命した僕たちだけに限定すると,どんな難問にぶつかりますか? それはどんな結論に導きますか?

      12 しかし,誰がこのすべての教えと訓練をするのですか? 特定の地位につく僕として『ものみの塔』聖書冊子協会の任命する会衆の円熟した男の成員だけですか? そして又,巡回の僕,地域の僕として任命された協会の旅行する代表者たちだけですか? もしそれが答えであるならば,いまあらゆる国で主の声に答え応じている多くの主の他の羊を考えるとき,その大多数の者は,必要な個人的な援助と訓練をうけ,信頼できる規則的な伝道者になるまで長い時を待たねばならないということになります。その外に,ながらく制度と交つている人々のあいだで,いまでもかなりの援助を必要とする人は多いというのが本当ではありませんか? 正しくて実際的な答とは,つまりこうです。男でも女でも真理にかたく立つ者は誰でも,その人程に進歩していない他の人を訓練するこの重要な業に参加できることです。

      13 神権的な仕方で訓練の業を成し遂げる必要は,どのようにして適えられましたか?

      13 しかし,自分は他の人を訓練する地位にいると決定したり,または誰が援助を必要としていて,どのように援助をなすべきかを自分自身で判定するというようなだらしがない民主主義的な仕方で行われるのではありません。1953年のヤンキー野球場の大会に出席された方は思い起されることでしようが,強力な家から家の訓練計画が発表されたとき,この大問題は全く神権的な仕方および実際的な仕方で取り扱われました。その時,すべての伝道者は家から家に効果的に,しかも定期的に良いたよりを伝道し得ねばならないと強く示されその時新しい取り極めが説明されましたが,それによつて任命されたすべての僕は必要な注意をこの業に払うことができます。次に,これらの僕たちは,真理にかたく立ち,宣教を信頼し得る会衆の他の者を招き,援助の手を必要とする無経験の者または弱い者を一人あるいはそれ以上の人を訓練するという特権と責任を取らせます。この訓練計画は,しばらくのあいだ行われてきたことから,あなたがたとえ油注がれた残れる者でなくても,また資格を持つ多くの男の成員がいる会衆に属す姉妹であつても,もしあなたが信頼し得る伝道者であるならば,恐らくこの業に参加するよう尋ねられたことでしよう。

      各個人の責任

      14 『正しい種類の奉仕者』になるために,どんな事を守らねばならず,またどんな事を避けねばなりませんか?

      14 あなたは協会によつて直接に任命された僕たちの一員ですか? それとも,この訓練の宣教に参加するようこれらの僕たちに尋ねられた者の一人ですか? もしそうならば,パウロがテモテに強く促した如く,『正しい種類の奉仕者』になるようあなたに強く訴えたいと望んでいます。そのことで,拒絶したりひるんで躊躇したり,また怠慢になつてはいけません。ヱホバがそのような態度を認めず好まれないということをあなたは知つておられます。(ルカ 9:62。ヘブル 6:11,12)また一方,そのような責任があなたに与えられるならば,高ぶつた気持ちを持たないで下さい。むしろ,心を健全に使つて,事柄について平衡のとれた見方を取つて下さい。ロマ書 12章3-8節に述べられているパウロの諭しの言葉は,これに関連して最も適当なものということがお分りでしよう。それを良く研究して,心に覚えて下さい。後ろの安全なところから勇壮に導くとか,または誇り高ぶつた野心の気持で先頭を威張つて歩くというように,ややもすると極端に行き勝ちのこの世の指導者の間違をしないで下さい。むしろ,神の制度の精神,つまり保護を必要とする者たちのための戦の精神,そしてまた師であり主である方によつて示された愛と謙遜の精神を記憶して下さい。主は,御自分が正しく導かれていた者たちの足をお洗いになられたのでした。パウロは再びこう書きました。『兄弟愛をもつて,互いに思い遣りを持ちなさい,率先してお互いに敬い合いなさい。あなたの仕事に怠るな。御霊に燃え,ヱホバの奴隷でありなさい。』これらのことを良く銘記されるならば,あなたの世話をする方を押えつけるとか,辛く当るとか,または我慢ができなくなるということはないでしよう。それよりも,大指導者たちであるヱホバと愛された御子キリスト・イエスの示された同じ強靭と愛を表明するでしよう。―ロマ 12:10,11,新世。ヨハネ 13:12-17。

      15,16 (イ)この訓練の業に面して,聖書はどんな援助と励ましを与えますか?(ロ)同時に,どんな責任に面しなければなりませんか?

      15 それでも,他の人を援助して訓練するという仕事は,自分に出来そうもないとあなたは感ぜられるかもしれません。その理由として,その業はややこしいと考えたり,または制度の準備するすべての備えの項目の正しい用い方とか,また家から家の業をする際に多分受けるかも知れぬ反対とか刺々しい質問を考えるかもしれません。その答として,弟子たちに話されたイエスの最後の言葉を思い出して下さい。『それで行つて,すべての国の人々を弟子とし,……洗礼を施し,私の命じたすべてのことを守るよう教えなさい。』弟子たちは,めいめい独立して行くというのではなく,キリストのいましめに従つて宣教の仕方を十二分に教えられたのと同じ様に,今日でも弟子たちは他の人に全く同じことを守るようにと教えます。それ以上多くのことを教えてもならず,またそれ以下のことをも教えてはなりません。あなた自身が訓練をうけたのと同じ仕方で他の人を援助するのは決して難し過ぎることではありません。特に初期時代と同じく今日でも,『聖徒たちを宣教の業に訓練する目的で』制度によつていろいろの地位に任命されている僕たちのことを思い起すときに,難し過ぎることはありません。もちろん,この業をあなた自身の力と智恵でするなどと努めてはなりません。完全な僕,イエスでさえも御父の霊と言葉に全く頼り,自分の任務を成就する際の支持と導きを仰ぎました。―マタイ 28:19,20。エペソ 4:12,新世。

      16 あなたを助けて,宣教についての正しい平衡のとれた見方をとるために,それは訓練の業で一つの地位を他の地位と比べることではないと指摘したいと思います。あなたが宣教者であつても,あるいは巡回の僕,地域の僕であつても,または他の経験のない姉妹を援助するように会衆の僕より頼まれている姉妹であつても,必要な指導の性質はどの場合でも同じであります。あなたは執事のようです。『執事に求めるものは,忠実である。』イエスは同じ原則を裏書きして,こう言われました。『小なることに忠実な人は,また大きなことにも忠実である。小なることに不義な人は,大なることにも不義である。』― コリント前 4:2。ルカ 16:10,新世。マタイ 25:14-30,新世をも見て下さい。

      17 (イ)コリント前書 4章15節のパウロの言葉をどのように理解すべきですか?(ロ)これに関連し,テモテについては何を学ぶことができますか?

      17 この研究の結びに近づくにあたり,コリント人に述べたパウロの次の言葉を思い出して下さい。『たとえ,あなた方がキリストにある守役を一万人持とうと,父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあつて私は善いたよりによりあなた方の父となつたのである。』(コリント前 4:15,新世)守役と父とには,どんな違いがありますか? 給料を支払われる守役は,要求されるだけの教えと訓練を与え,自分の義務を全く済ませてしまうことが主要な関心事です。そして,生徒の覚えが遅いからといつて,教課を繰り返すということはありません。自分の義務がなされると,満足しきつてその報酬を期待します。これとは別に,真の父とは,自分のことに構わず,子供を助けて実際に進歩させるのに関心を払い,しかも義務という考えよりも愛の心からいつまでも耐え忍び我慢をいたします。そして,よろこびの中に無私の気持から自分の最善を与えます。使徒自身,コリントの兄弟たちにとつてどのように父のようであつたかについては,コリント前書 4章11-13節にある前の言葉を読んで下さい。また16,17節にある続きの言葉に注意するのも興味深いことです。それは,恰もパウロの実子のようであり,良く訓練をうけたテモテに関しての事です。述べられている教育方法について言うならば,愛されたテモテに宛てた使徒の2通の手紙を研究することにより,良く知ることができます。そこに,諭しおよび警告として健全な聖書の助言が与えられており,また他人を訓練する際に,この若い奉仕者を援助して自分自身の責任を正しく果させる実際的の詳細な事柄も述べられています。パウロはこう述べています『これらの助言を兄弟たちに与えることによつて,あなたは信仰の言葉とあなたがしつかりと従つてきた正しい教の言葉に育てられ,キリスト・イエスの正しい種類の奉仕者になるであろう。』本当に,テモテは自分のための導きに忠実に従い,そして宣教において他の人の良い指導者になる仕方を救えられたのでした。私たちも又いま神の恵みの御親切をいただき,訓練をうけて他の人を援助し,それらの人も良いたよりの伝道者としてかたく立たせるという御目的を成就したいと望んでいます。―テモテ前 4:6,新世。

      18 地上にいた時のイエスを心に思い浮べるとき,私たちはどのように注意を払わねばなりませんか?

      18 予言者イザヤによつて示されたヱホバの僕および指導者,キリスト・イエスについての予言的な面については,すでに注意を払いました。私たちはまだ肉の人間である故に,イエスが地上で弟子たちと共にいたとき彼はどのような種類の人であつたか,どのような種類の指導者であつたか最後に簡単に見てみましよう。イエスの容貌は常の人と違い何人も反抗し得ないところの人を魅する微笑を持つており,また何人も背くことのできない程の威圧的の目差を持つていたという考えを強く伝える宗教的な本または絵からの偽りの印象を心から取り除かねばなりません。それとは逆に,彼の故郷の人々が抱いた軽蔑の意見から見ても,イエスは自分の完全な性質を他の人の注意に気づかせるように見せびらかしたり,強いることをしなかつたのです。イエスは完全に良い見識と中庸を働かせられました。―マタイ 13:54-56。

      19 イエスはどんな種類の指導者でしたか? イエス御自身の言葉は,このことをどう示していますか?

      19 さて,いま少し現代の言葉で考えてみると,先頭に立つて大股に歩き,全くその言葉が有益で組織だつており,他の人の欠点や短所には耐え忍ぶことのできない指導者イエスを思いうかべますか? そのようなことはありません。本当に,あらゆる面でイエスが完全な能力を持つておられたということについては疑問がありません。間違いもなく,浪費もなく,また悪い言葉は決して言われなかつたのです。イエスに従つた者たちは,彼を主と認めながらもその個性に威圧されるということはなく,また彼が違つた類に属するかのように,全く引き離れているのだとは感じなかつたのです。それとは逆に,霊においてもまた行動においてもイエスは弟子たちに非常に密接であつて,時折りそうすることが不可能の時を例外にして,彼は親しみ深く,また近づき易かつたのです。この非常な親密さという考えは,父が子供を導く,あるいは犬が盲人を導く時のごとく,指導に関連する主要な考えの一つなのです。弟子になるようにとある人を招かれた時,イエスは何と言いましたか? イエスの恵み深い言葉に注意して下さい。『荷を負つて疲れている人々は,私のところに来なさい。私は生気づけよう。私のくびきを取つて私の弟子となりなさい。なぜならば,私は温和であつて心のヘりくだつた者であるから,あなた方は魂の生気を得るであろう。私のくびきは親切のものであり,私の荷は軽いのである。』このことから,イエスは御自分の訓練されている者たちに対して穏やかな心を持ち,ものの分つた,恵み深く,思い遣りのある方であつたことが分ります。つまらないことでイエスは動揺されなかつたのです。また彼らを取り扱われる時もへり下つた心持ちでなし,たとえ完全であつたにせよ,自分をえらい者などと思わず,優れているなどという印象をつくらなかつたのです。イエスは真実に最も愛のある個性,そして愛せられる個性を持つていたために,いつも生気を与える友でした。パリサイ人は,もちろんその印象をうけなかつたのですが,私たちはいまイエスを友,すなわち弟子たちの指導者および訓練者として見ています。マタイ 11:28-30,新世。

      20 訓練の業を行い続けて行く時,どんな事柄を心に留めるべきですか?

      20 イエスは今日目に見える状で私たちと共にいませんが,彼の個性は全然変らないということを私たちは知つています。(ヘブル 13:8)イエスは私たちの模範また型であり,大きいものでも小さいものでも,兄弟たちを正しく導くことに参加するという特権を持つ者は,その模範にしつかりと従うべきであります。そのとき,あなたはイエスのように,いつも兄弟たちに生気を与え,そのようにしてあなたは自分の最善を与え,そして他の人から最善を得るでしよう。私たちの利益と模範のために,その『僕』キリスト・イエスを通してヱホバがいま成就している導きについての霊感の叙述を,いつも心に留めておきましよう。『主は牧者のごとくその群をやしない,その臂にて小羊をいだき,これをその懐中にいれてたづさえ,乳をふくまする者をやはらかに導き給わん。』― イザヤ 40:10,11。

      [179ページの囲み記事]

      『ヱホバはわが牧者なり,われ乏しきことあらじ。ヱホバは我をみどりの野にふせ,いこいの水浜にともないたもう。ヱホバはわが魂をいかし御名の故をもて我をたゞしき路にみちびき給う。たとえわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ,なんじ我とともに在せばなり。』詩 23:1-4

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