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招待なしに人の家を訪問することは禁止されるべきか目ざめよ! 1972 | 3月8日
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はありません。この方法を用いるすべての宗教的,慈善的事業に適用できます。家庭訪問を行なうデンマーク国立ルーテル教会の牧師もその法律にひっかかるでしょう。そうです,そのような法律は宗教の自由を大いに妨害し,共産主義,ナチ主義,ファシストなどの最悪の特色を模倣するものとなるでしょう。
提案されたこの法律はまた表現の自由も阻害するものとなります。というのは,デンマークの憲法は次のように述べているからです。「すべての人は,印刷物,書面,口頭などによって自己の思想を公表する権利をもつ。検閲その他妨害となる制限はいかなる場合においても設けられないであろう」。
しかし,聞いてもらう手段が取り去られるなら,聞いてもらう権利をもっていてもそれは空しいものになります。そしてその一つの手段は,招待されなくても人々の家を訪問することです。したがって,表現の自由には,ラジオやテレビ,新聞などを通して話を聞いてもらうことのできない,そして別の方法である戸別訪問によって話を聞いてもらわねばならない人々すべての権利が関係しています。表現の自由は,他の通信手段の利用に必要な多額のお金のない人々にも与えられるべきです。
自己を自由に表現する権利は,印刷物を配布する権利でもあります。多数の人々に配布したいと思うなら,配布を書店だけに限るわけにはいきません。それに書店の経営者が偏見をもっていて,ある出版物は店に出さないということも考えられます。またすべての人が本屋に行くわけでもありません。
また,そのような印刷物の出版には費用がかかりますから,表現の自由の権利には,出版者がその費用をまかなう権利も含まれていなければなりません。もしこれが許されなければ,出版の自由は金持ちだけに限られてしまうでしょう。そのために,スウェーデンでは,この個人的な訪問の禁止は,「合憲性をもつ出版の自由の法令とおそらく矛盾するだろう」という意見が出ています。
こうしたことがあるにもかかわらず,一部の人々は,もし人がある事柄を知りたいと思えば,自分のほうから行動を起こして出版者のところへ行くことができると主張します。しかしこの論議は不合理です。もしある事柄を知らされることがなければ,人々はどうしてそれに気づくでしょうか。もしまだ知らされていないなら,どこに行けばその問題のことが学べるのか,どうしてわかりますか。
加えて,提案されているそのような法律は政治上の自由も制限するでしょう。陳情書に署名をしてもらうなどの政治上の問題に関係したことのある人ならだれでも,それをするには個人的な訪問が必要であることを知っています。個人的に訪問すれば説明もできるし,ある程度説得することもできます。
個人には何ができるか
自由に代償はつきものです。ある程度の不都合もその代償の一部かもしれません。不正直なセールスマンにだまされる危険もその代償に含まれるかもしれません。そのような詐欺を禁ずる法律は必要です。しかし戸口で行なわれるというだけの理由で,すべての商取引を禁止することはできません。いくつかの商店経営者が不正直だというだけの理由で,すべての商店や市場での商取引を禁ずるでしょうか。なぜひとつの販売形式を禁止して他を禁止しないのでしょうか。ひとつを禁じ他を許す法律は,はなはだしく差別的で,まさに自由の土台を打ち砕くものであることは明らかです。
前もっての招待なしによその家を訪問する自由が次のことを意味するのは事実です。つまりそうした訪問は時に都合の悪いときとぶつかり,していることをじゃまされるということです。しかしそれには,基本的自由を保存するための代償としての価値がないでしょうか。ドアをあけて訪問者に,「今は都合が悪い」とか,「あなたと話す気はない」とか言うのは,それほど途方もなくむずかしいことでしょうか。玄関で,どの訪問者を入れ,どの訪問者を返すかを自分自身で決定することは,重要な自由のために支払う代価としてそんなにも高価なものでしょうか。
この次に,招待していない人があなたの家の玄関に近づいたとき,そのことを考えてみてください。独裁国家に住むよりは,少々の不都合をきげんよくがまんするほうがましなのではないか,と自問してみてください。訪問者を選択する権利と同時に,自分自身そうした訪問を行なう権利を与えてくれる国に住んでいるならば,それは喜ぶべきことではないでしょうか。
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遺言を書きましたか目ざめよ! 1972 | 3月8日
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遺言を書きましたか
あなたは自分の財産が勝手に持ち去られ,あなたの意志に反する仕方で他の人々に分配されることを望みますか。もし遺言がないと,実際にそのようなことが起こりうるのです!
遺言とは,自分の死後に財産をどのように扱ってもらいたいかを告げる法的な陳述です。遺言は自分の財産にかんする自分の考え,自分の意志の最後的な表示です。
厳密に言うと,英語の“last will and testament<遺言書>”の“will”は(土地などの)不動産と関係があり,“testament”は動産と関係があります。しかし広い意味では今日,「遺言<will>」はその両方を含めた意味で使われています。あなたは遺言書を書きましたか。
もし人が遺言を書かずに死ぬと,アメリカの場合,政府はやむなく立ち入り,法律に従ってその人の財産を処分します。これはその人が望んでいた分配方法と全く違うものかも知れません。そのわけで遺言は非常にたいせつなものと言えます。
とはいえ,たいていの人は遺言書の作成を延ばします。遺言書は死を思い出させるからです。死はだれにとってもあまり考えたくない事柄です。しかしクリスチャンは,自分が死んだときあとに残る家族の者に特別な考慮を払わねばなりません。
クリスチャンが,「もはや死のなくなる」神の新しい秩序で間もなく生きるようになることを期待しているのは事実です。しかし今からその時までの間,命を保てるかどうかは確かでなく,だれでも死に直面する可能性があります。この事実を無視することはできません。(伝道 3:19,黙示 21:4)クリスチャンである家族のかしらは身近な者,とりわけ自分の家族を養う責任があることを知っています。
クリスチャンである家族のかしらは,生きている間,自分の家族を霊的,物質的に養うために勤勉に働きます。(テモテ前 5:8)ですから,万一自分が死ぬようなことがあっても,家族が生活に困らないようにしておきたいと思うでしょう。遺言はそのことに役だちます。ある人々が遺言の作成を法的な特権と考えるのはそのためです。
遺言 ― 法的な特権
たしかに遺言書を作成できるのは特権です。すべての国が遺言を考慮しているわけではありません。18世紀の有名な英国の法学者ウィリアム・ブラックストン卿は次のことを述べています。「遺言書を作成し,死後に財産を処分する権利は文明国家
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