-
新しい世の交わりをよろこぶものみの塔 1961 | 8月15日
-
-
者や,その寛大の結果を目撃する者にもよろこびを感じさせます。ダビデ王は彼の息子ソロモンが後に建てる宮の建築材料を準備しました。そのとき,「彼らかくまごころよりみづから進んでヱホバにささげたれば民そのささぐるをよろこべりダビデ王もまた大に喜びぬ」。それで,ダビデはエホバに祈りました,「汝の民をしてこの精神をいつまでもその心の思念に保たしめその心をかたく汝に帰せしめたまへ」。―コリント後 8:1,2,新口。歴代志上 29:9,14,18。
9 物質的なものや労力の面で寛大であることの他にどんな面で私たちはこの性質を示すことができますか。
9 それで今日でもある仕事に参加するとき,たとえば御国会館をつくるとか,大会の仕事をするとき,私たちの労力や金銭を強制的にではなく,また懇願されずに,自発的にささげるなら,よろこびを感じます。兄弟たちが寛大な気持からそのようなわざをしているのを見ると,私たちもよろこびます。そして,全会衆内のすべての人の心の中に寛大の精神をよびおこします。しかし,エホバの民のよろこびに全くあずかるためには,物質の面で,時間の面で,そして労力の面で寛大であることだけでは十分でありません。私たちは自分自身に対して,私たちの行いについて,ゆるしを与えるということにおいて,寛容の面において,また互いに交わることにおいて,特にクリスチャン活動において,寛大であることが必要です。
10 (イ)交わりを求めたい欲求は,根本的にはどこから生じますか。(ロ)この世の人々が友を選ぶとき,何がしばしばそのことを制御しますか。
10 他の者との交わりを求めることは,必ずしも悪い意味の利己主義ではありません。それは根本的には自分自身の愛を表わすものです。私たちは交わりを持つことが必要です。私たちはそのようにつくられているのです。神は最初から男に交際相手としての援助者を与えるのを良いと見られました。人がひとりでいるのは良くなかったからです。(創世 2:18)この交わりを求める願いこそ,男と女が結婚を求める最初の原因であります。(創世 2:24)同様に友をつくることは,根本的には友を求めたいという必要をみたすものです。この世の人々は,類似している社会的な背景あるいは教育的な背景を持つ人々を友にします。または,共通の利害と趣味を持つ人々を友にします。つまり,会話とか活動になんらかの共通性を持つためです。彼らは自分の幸福になんらかの面で貢献できる人を友にします。たいていの場合,この世的な友情は利己的な必要をみたすだけであって,人が他の人の必要にもはや貢献しなくなるとき,あるいはさらに分の良い別の友情関係が得られると,最初の友だちは捨てられてしまいます。友情と言われるものの中に真の友情が欠如していることは,今日きわめて明白にあらわれています。人々はほんとうに「自分を愛する者」になりました。―テモテ後 3:2,3,新口。
11 新しい世の社会の交わりを楽しむときに,何に警戒することが必要ですか。
11 新しい世の社会のクリスチャンの交わりでは,兄弟たちとの交わりが自己の利害を求めるだけとか,交際を求める私たちの必要をみたすだけに限られないように気をつけねばなりません。私たちが真理に接するとき,数多くの種類の社会的背景,教育的な背景,そして人種的な背景からあらゆる種類の人々が来ているのを知ります。もし私たちがこの世にいたなら,そのような人は私たちの幸福にすこしも貢献しないと感じて,友にしなかったかも知れません。そして新しい世の社会内でも私たちは他の者以上に特定な者にひかれませんか。いっしょにいると気楽に感じ,自分の気持が向上させられ,満足をおぼえさせられるような人と交わりを持つのは,たしかに自然なことです。しかし,もし仲良くして行けるだけの者だけとの交わりを求めるなら,それは自分の利己的な関心事を追求するだけではありませんか。御国会館にいるときいつも同じ者だけと交わるなら,党派と分派をつくることになりませんか。そうです。人間的な見地だけにしたがって,無思慮にも階級差別をつけることになるかも知れません。―ヤコブ 2:4。
12,13 特別な友情は悪いものですか。しかし,私たちは何をすべきですか。
12 すると,会衆内のある者と特別の友情を楽しむ,つまり他の者よりも密接な友情を持つことは悪いという意味ですか。必ずしもそうではありません。聖書の言葉によると,ヨハネは「イエスの愛しておられた(他の者以上に好まれた,欄外)弟子」と言われています。他の節の示すところによると,ヨハネとイエスの間の友情は普通以上のものでした。しかしそのわけでイエスは他の者との交際をやめ,彼らを愛さなくなったということはありません。彼は兄弟たちに対して,最も寛大にあふれる愛を表わされ,彼らのために自分の身を惜しまず,全く彼らのためには自分の生命を捨てるほどでした。たしかにイエスの場合に,彼は「その行いすべてにおいてよろこび」を感じました。彼は御父の御心を行なうことによろこびを持たれました。そして,弟子たちもそのよろこびを分かち合い,他の者にそのような無私の愛を示してもらいたいとのぞんだので,死ぬ直前に弟子たちにこうさとしました,「わたしがこれらのことを話したのは,わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため,また,あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。わたしのいましめは,これである。わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい」。―ヨハネ 21:7; 15:11,12,新口。
13 私たちが兄弟全部と共通に楽しむ交際に加えて,そのような個人的な友情のあることを認めることが必要でしょう。真理に長くいた人々特定な経験を分かち合った人々,そして同様な信仰の試練に耐えた人々は,当然に共通な理解と相互の友情を持つようになるでしょう。この友情によって,たがいの持つ忠節と忠実という性質を知るようになります。そのような友情こそ,私たちがよろこぶことのできるものです。それをねたむというようなことがあってはなりません。ねたみの気持からある人々は他の兄弟特に制度内で顕著な立場にいる人々と個人的な友情関係を持とうとします。しかし,そのような友情は自己の利益をはかるものであって,幸福をつくり出しません。真理にあって成長するにつれて,他の兄弟と共々に御国奉仕に参加しなさい。迫害や非難を耐え忍びなさい。クリスチャン愛と友情のきずなは,自然に,永遠につづく仕方の中にだんだん強くなり,私たちは互いによろこびます。
私たちの愛情をひろげる
14 「受けるよりは与える方が幸いである」という原則は,新世社会内における私たちの交わりにどのように適用しますか。
14 私たちは,兄弟に対する『愛情を小さくしたい』とのぞみません。むしろ,兄弟たちに対するあなたの愛を『ひろげ』て,彼ら全部をうけ入れ,彼らとあなた自身の交わりを寛大に分かち合いなさい。「受けるよりは与える方が,さいわいである」との原則は,この交わりという事柄にたいへん良く適用します。たとえば,ひとりの善意者は集会に出席し始めます。その人は恥ずかしがり屋でありまた,教育が足らないので,自分の意見を発表できないと思います。最初はこの人と話をするのがむずかしく思われます。しかし,私たちはこの新しい羊を愛する故に,その人を援助してくつろいだ感じを持たせようと努力します。幸福なクリスチャンの交際の気分の中に,彼はその恥ずかしい気持をなくし始めます。宣教学校で訓練をうけるので,彼は神の目的について自分の考えを述べ始めます。それから,宣教に効果的に参加することができます。程なくして伝道のわざに加わって幸福な経験を楽しみ,それらの経験を私たちと分かちます。恥ずかしい気持とか無口ということはなくなってしまいます。いまはよろこびでみちあふれており,私たちは真理においての彼の進歩を見てよろこびます。そして,彼が兄弟として私たちと交わっているのに幸福を感じます。もしこの新しい人を私たちの中に入れず,私たちの心を『閉じて』『開か』なかったなら,このことはあり得なかったでしょう。―コリント後 6:12,13。使行 20:35。
15,16 私たちは兄弟たちに対する興味をどのように示すことができますか。
15 あなたの交わりで寛大であるとは,あなたの兄弟たちに関心を持つということです。「おのおの,自分のことばかりでなく,他人のことも考えなさい」。あなたの兄弟たちの霊的な進歩に誠実な興味を持ち,彼らがクリスチャンとしての円熟に向かって一歩一歩進んで行くときよろこびなさい。いっしょに研究している者が集会に来て「ものみの塔」研究で最初の注解をするとか,野外奉仕を始めるとき,私たちはなんと幸福に感ずるのでしょう。私たちは新しい人の進歩を仲間の御国伝道者によろこんで語ります。彼が集会に来ると,私たちは彼を僕たちや出席している他の人々に紹介します。結局のところ,これは奉仕者であるわたくしたちのすいせん状ではありませんか。しかし,これは私たちの努力の結果であるというような誇り高ぶる気持に警戒するため,他の兄弟が同様な経験を持つとき,彼らといっしょによろこびましょう。また,同じようにクリスチャンとしての進歩をしている他の新しい人々ともいっしょによろこびましょう。―ピリピ 2:4。ロマ 12:15,16。
16 集会に出席するという点で弱く不定期な人々にも興味を持ちなさい。また,霊的な病気にかかる危険にいる人々に興味を持ちなさい。彼らが集会に来るとき,あるいはあなたが彼らのところを訪問するとき,励ましの言葉を与えなさい。そのような交わりで暖かい感じを持つようにさせなさい。パウロは次のように書きました,「だれでも自分の益を求めないで,ほかの人の益を求めるべきである」。ときどき親しみにあふれた微笑をうかべ,心あたたかい握手をし,あるいは経験談を分かち合うなら,霊的に病気な人の心も励まされ,エホバの奉仕を再び活発にしたいという気持をいだくでしょう。このように寛大であること,他の者にも興味を持つことは,私たちの交わる会衆のよろこびに大いに貢献します。―コリント前 10:24,新口。
17 兄弟たちの中にあたたかい交わりが欠けていると感ずるとき,何をするのが良いことですか。
17 ごく時折,こんな言葉を聞くことがあります,「私たちの会衆内には何か悪いところがある。兄弟たちの中に暖かさはなく,私が集会に行っても,なんだかのけ者にされたような気がする」。もしエホバの御霊がいくらかでも欠けているなら,そして会衆内によろこびがないなら,会衆内の全部の者,特に監督たちが注意を払わねばなりません。しかし,暖かみが欠けていると感ずる人は,むしろ次のことを正直に自問する方が良くありませんか,「兄弟たちの中によろこびを促進させるために私は何をすべきか。私が集会へ行くのは,私自身のために何かを得ようとするためか。あるいは注解という面で,そして兄弟たちとの交わりという点で,何かに役立ちたい気持から,集会へ行くのか。私は他の人を暖かく招待し,新しい人々と会うか。私は兄弟たちに真実の興味を持っているか。あるいは,自分の利害だけを考えて自己中心になるか。多分,ぶつぶつ不平を言う人が冷やかなので,暖かさに欠け,近づきにくいのかもしれません。愛と真実のよろこびが得られるためには,両方の側で貢献しなければなりません。たとえ人が答え応じないということがあっても,私たちは善を行なうことに断念せず,機会のあるごとにそのような人に激励の言葉を与えつづけます。
18 私たちの兄弟については,どのような事柄に興味を示すべきですか。しかし,何を避けるべきですか。
18 仲間のクリスチャンたちに「個人的な興味」を持つといっても,彼らの個人的な事柄や家族の事柄について口出して,「他人のことに節介する」ことではありません。たしかに私たちは兄弟たちの社交的な集まりを楽しむことができます。そのような時は最も楽しいものであって,私たちの幸福に大きく貢献します。(1960年6月1日号のものみの塔211,212頁を見て下さい)しかし,他の人の個人的な事柄に立ち入ることや,社交的な訪問に多くの時間をかけ過ぎることは,霊的な交わりのよろこびを減少させてだめにしてしまうでしょう。(ペテロ前 4:15。箴言 25:17)私たちは神権的な活動や兄弟たちの霊的な福祉に興味を感ずるべきです。兄弟たちの神権的な交わりからよろこびを受け,その奉仕の経験によろこびそして私たちの神エホバの御名をたたえるのに共にあずかって幸福を感じなければなりません。たしかに私たちは兄弟たちの中に大きなよろこびを見出します。使徒パウロはピリピ人に次の言葉を書きました,「わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜び……」。―ピリピ 4:1,新口。テサロニケ前 2:19,20。
19,20 (イ)どんな事柄は正しい基礎の上に新しい世の交わり建てる助けになりますか。(ロ)どんな面で新しい世の社会内の交わりは家族の交わりのようですか。
19 新しい世の交りの特権を十分に楽しむためには,兄弟たちに対する私たちの関係が正しい基礎の上に建てられるようにしなければなりません。もし私たちが年少者であるなら,会衆内の年長者に敬意の欠けた態度を示すとか,過度になれなれしい態度を示すことのないように注意しなければなりません。むしろ,「父親」のように接しなさい。異性に敬意を表わし,交わりを清く健全なものに保ち,クリスチャンの交わりで楽しむ特権を濫用すべきではないでしょう。兄弟との交わりを楽しむために,度を越してまでもおしゃべりをしなければならぬということはありません。真実の興味に欠ける偽善的な友情というものに警戒したいとのぞみます。―テモテ前 5:1,2。ロマ 12:9。
20 新しい世の社会との交わりにはいる者はちょうど家族の中に来るようなものです。家庭内では,各人はお互いの弱点や良い性質を良く知るようになります。そして,互いに思いやりを示します。また自分を正しい者に見せかけようとしません。家族の他の者は,そのような見せかけをすぐに見抜いてしまうでしょう。そして,家族の各人は,自然に振舞うことのできることに幸福を感じます。そして,当人独特のくせがあっても,家族の他の者から認めてもらえるし,反対をうけることはないと考えています。同じことは新しい世の社会について言えます。兄弟たちは私たちを信用します。そして,彼らは自然であって,自分が正しい者であるという振りをしません。これは幸福な関係をつくり出します。同時に私たちはみな互いに助け合って,新しい世の生活の仕方に心を変えることに興味を持っています。私たちはめいめい寛大になり,親切と思いやりを持って,新しい世の社会内のよろこびの精神に貢献するようにつねにつとめましょう。そして,自分のことよりも互いに興味を持ち,よろこびに溢れた御国奉仕にたがいに建ておこし,エホバに賛美をささげましょう。―ロマ 12:2。箴言 19:22。
-
-
各地からのニュースものみの塔 1961 | 8月15日
-
-
各地からのニュース
フェロー諸島から
ある時ひとりの兄弟が,耳を傾けて熱心に聞いた若い男の人に,「ものみの塔」誌を配布しました。その人は,このことについてもう少し話したいから,夜来るようにとその伝道者を招待しました。兄弟はその晩その人を訪問しましたが忙しいでした。何回訪問してもやはり同じことでした。でもついにその若い男の人は,いつも断わるのはわるいと思って,兄弟を招じ入れ,お茶でも入れましょうといいました。その時だけが話し合える唯一のチャンスでした。この若い男の人も彼の妻も鋭い関心を示し,制度や,教え方,いまの時代のもつ意義その他についてたくさんの質問をしました。彼らはまた書籍を求め,もっと話を聞くことを望みました。デンマークでの地域大会から帰った後,この開拓者の兄弟はもう一度その夫妻を訪問しました。大会のことを聞いたり,プログラムを見たりして若い男の人は言いました,「あなたたちが徹底した訓練を与えられているのが分かりますね」。もうひと晩多くの疑問について討論したあと,確実な取りきめがつくられて,組織的な聖書の研究が始まりました。それは,最初の訪問から5ヵ月目のことで,何回もむだ足を運んだあとのことでした。
ベルギー
良い成果をあげるには,雑誌を配布するだけでは不十分です。それを記録しておいて再訪問をすることも,伝道者にとってはたいせつなことです。孤立した地域のある特別開拓者が,新しい伝道者と一緒に奉仕をしていました。彼は,ある婦人に2冊の雑誌を配布しましたが,住所を書きとめるのを忘れました。開拓者はそれを書きとめる必要を巧みに彼に説明しました。そのことは彼らがその婦人を再訪問した時,家の中に招じ入れられたことで示されました。再訪問の話が終わってから,「御国のこの良いたより」という小冊子の勉強が始まり,翌週もそれを続ける約束ができました。次の週に開拓者が行ってみるとどうでしょう,その婦人は,家主さんやおじさんも勉強に参加するよう招待していたのです。そのため,5冊の本と1冊の聖書が配布され,3つの予約が得られました。その研究はずっとつづいて,これらの婦人はいまでは伝道者です。あなたが見出した興味をもつの人の住所を忘れずに書きとめて再訪問して下さい。―エホバの証者の年鑑より―
-