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神の目的とエホバの証者(その57)ものみの塔 1963 | 3月1日
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新しい集まりの場所にむかって進む
最大の大会となったのは,ドイツ,ニュールンベルグの巨大なツエッペリンワイズで開かれたものでした。第二次世界大戦以来,エホバの証者がこの施設を利用するのは,これで3回目です。ヒットラーは1週間のラリーの会場としてこれを建築し,ナチの力と威信を示そうとしました。k
エホバの証者を根絶しようとしたヒットラーの第三帝国の手で激しく迫害されたドイツのエホバの証者にとって,また御国の設立以来40年目の御国の音信にとって,8月14日,10万7423人が集まって心をふるいたたせる講演,「神の御国による世界支配は近し」を聞いたことは,何と大きな勝利だったのでしょう。別の時「兄弟のよしみと善意のうちに開かれた〔エホバの証者の〕おだやかな集まり」について,ある論説記者の書いた言葉はツエッペリンワイズにおけるニュールンベルグ大会にもあてはまるものです。
疑いなく今は最も危険な時代である。しかし武器もなく,おだやかな人々が歴史上いちばん危険な時代に登場した。破壊者が時代の脚光をあびるのは常であるゆえに,この人々はそれほど目立たなかったかも知れないが……。
しかしそうとも言えぬ。一見したところ無力な,陰険なところのないこの人々の中には,何か不思議な力がひそんでいるように見える。アティラやヒットラーのような流血の侵略者の中に成功をおさめた者があるだろうか。どんな場合にも彼らは汚名の記念碑を残した。しかしこの「無力な人々」は彼らの墓を乗り越えて新しい集まりの場所にむかって進んで行く。
そこで柔和な人々は実際にあやうきにいるのではない。彼らの持つ約束された遺産を奪おうとすることこそ,最も危険な賭けなのである。l
たしかにエホバの証者は前途の危険を恐れていませんでした。年鑑は大会に関する記事を次のように結んでいます。
このすばらしい「勝利の御国」大会をもってエホバの証者の奉仕年度は終了したが,エホバが容れるところのないまでに大きな祝福をそそぎ,1956奉仕年度のいっそうの拡大を目ざす制度の態勢がととのえられたことには,少しの疑問もない。すべての国民,民族,言語の中から「大ぜいの群衆」が崇拝のためエホバの宮に来つつある。新世社会はその人々を受け入れ,至上支配者に専心の献身をささげるように教え,援助することを願っている。a
部分的な報告によれば,各国における大会の閉幕後,25万7124冊に上る冊子「キリスト教国それともキリスト教 ― 世の光はどちらですか」が証者の手によって教職者およびおもな出版物の編集者に宛て,送られました。この冊子を受け取ったことに対する反応は,怒りあるいは悲しみを表わしたものから,条件つきの賛成あるいは好意にみちたものに至るまでさまざまでした。b
第二次世界大戦後10年を経た1955年までに,毎年2回,25回にわたってものみの塔ギレアデ聖書学校に学生が入学しました。1943年のギレアデ創立から1955年夏に至る12年半のあいだに,59ヵ国から2721人の学生が入学し,そのうち2631名が所定の課程を終えました。病気,学業不成績その他の理由で落伍したのは90人です。2487人が卒業証書を授与され,144人は学業成績が所定の水準に達しなかったので卒業証書を授与されていません。課程を終えた者のうち,1136人はアメリカを除く58ヵ国から呼ばれた奉仕者で,1495人はアメリカ国籍を持つ者でした。なお833人が独身の男子,796人が独身の女子,既婚者は1002人となっています。さて1955年当時,これらの宣教者はどこにいて,何をしていましたか。
記録をしらべると,北アメリカ12ヵ国で働くギレアデ卒業者は663人を数え,そのほか144人が大西洋,カリブ海,地中海諸島の国々に,340人が南アメリカに任命されています。ヨーロッパでは278人が伝道しており,アフリカには108人が34ヵ国にいます。アジヤにおいては18ヵ国に186人が散在し,太平洋諸島で神権的な務に励む宣教者は85人いました。
宣教者の働く国々における拡大すべてが,宣教者の精力的な活動によるものではないにしても,進んだ神権的訓練を受けたこれらの宣教者が時間を惜しまず人々の家で熱心に伝道したことは,わざを進める大きな力となり,また他の人に対する手本ともなりました。ギレアデ創立前の1942年,北アメリカには7万5589人の伝道者がいました。これとくらべて1955年における伝道者の人数は23万6124人を数え,人口922人当り1人のエホバの証者という割合になっています。大西洋,カリブ海,地中海諸島についてこれを見ると,971人に1人の証者がおり,伝道者の総計は1942年の1297人とくらべて1万9615人に増加しています。南アメリカにおけるこの比率は余り高くなく,6435人に1人のエホバの証者,合計して1万8800人がいるに過ぎませんが,それでも1942年当時の807人にくらべれば著しい増加です。ヨーロッパにおいては22万7374人の証者で1746人に1人の割合となっています。しかし1942年には2万2796人でした。アフリカ大陸は1942年の1万70人にくらべて1955年には9万8146人の伝道者を数え,2068人に1人の証者という比率を示しています。アジアは「暗黒」大陸と言えるでしょう。1955年における伝道者の総数は4541人で,28万人に1人の証者がいたに過ぎません。しかし1942年にはわずか406人の証者がいただけです。太平洋諸島では1942年の4275人が1955年までに3万8325人に増加しており,2800人に1人の証者という比率になっています。
大ぜいの群衆が集められていることは明らかです。第二次世界大戦中,とくにヨーロッパにおける増加は著しいものでしたが,世界的に見ると,とくに1945年以降,増加の著しいことが分かります。たとえばアメリカについて見ると,1956年度年鑑はこう述べています。
アメリカのエホバの証者は,かってない最高数18万7120人の伝道者が良いたよりを伝道したことを考え,1955奉仕年度中に与った特権に喜んでいる。過去の年月を回顧すると,1940年には5万8000人の伝道者がいたに過ぎない。それから1946年まで,その年を含めて7年間,伝道者の人数は5万8000人から6万6000人であった。それ以来,多少の差はあっても毎年約1万2000人の新しい伝道者が加わって,着実な増加がつづいている。c
1942年には全世界で11万5240人のエホバの証者が良いたよりを伝道し,1945年にはその数が14万1606人であったことにも留意して下さい。1956年度年鑑は更にこう述べています。
過去10年間を振り返ってみると,エホバ神が御自身の見える制度を用いて50万人の善意者を集め,養われてきたことを見て感慨をあらたにせざるを得ない。このすべての人々は自分の立場を表明し,資格を持つエホバの証者であることを証明した。新世社会は10年のあいだに50万人の増加を見たのである。d
このようにして御国支配の50年目を迎えたエホバの証者は,64万2929人を数えたことになります。将来の発展は確実でしたが,増加する反対にも直面しました。新聞およびラジオの報ずるところによれば,ポーランドでは1955年3月,5人のエホバの証者がアメリカのスパイとして偽りにも告訴され,長期の徴役を宣告されました。マルコ伝 13章9節およびルカ伝 21章12節は,この「終りの時」にあってなおエホバの証者の上に成就しつつありました。
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聖書の章と節ものみの塔 1963 | 3月1日
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聖書の章と節
1250年(西暦)頃,ヒューゴ・ド・サンクト・カロ枢機卿は,聖書を章にわけました。1545年,フランス人の印刷屋ロバート・ステフンが,クリスチャン・ギリシャ語聖書を節に分けました。章と節の番号のついた最初の完全な聖書は,1560年に出版されたジェネバ聖書です。今日出版される聖書のほとんどは,依然同じ区分を用いています。
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