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  • 結婚の絆が切れそうな時
    ものみの塔 1963 | 12月15日
    • ならば,みじめな結果となります。

      クリスチャンである夫と妻はたしかに恵まれています。二人は神の聖霊を持っています。聖霊を持つとき,節制,愛,柔和,親切など御霊の実を結ぶことが可能となります。(ガラテヤ 5:22,23)御霊の実を結ぶことは,結婚生活になんとすばらしい祝福となることでしょう。不信者と結ばれたクリスチャンは,不信者が神のご要求を知らず,聖書の原則を行なわなくても,そのことを理解しなければなりません。そのため難しい事態が時に起きても,クリスチャンは神の御霊の実を結ぶことを怠りません。そうしながらエホバ神に希望と信仰をおいて歩むとき,ペテロがクリスチャンの妻に述べた喜ばしい結果を刈りとることになるでしょう。「同じように,妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば,たとい御言に従わない夫であっても,あなたがたのうやうやしく清い行いを見て,その妻の無言の行いによって,救に入れられるようになるであろう」― ペテロ前 3:1,2,新口。

      もめごとの絶えないこの世で別居と離婚はよくあることで,それに伴なう問題や悲しみもつきません。クリスチャンは,悲痛な別居,悲しみ,つらい経験がもはや人間を苦しめることのない,正義の新しい世を待ち望んでいます。しかしこの古い世のたそがれの時であるいま,その悩みの最中にあって,あなたは結婚配偶者との別居を考えるほどの深刻な事態に直面するかも知れません。最終的な決定を下すのはあなたですが,まず別居を正当なものとする聖書的な理由を考慮して下さい。どんな結果になるかをも考えて下さい。自分自身を吟味してごらんなさい。円熟したクリスチャンの監督に相談して,健全な助言を仰いで下さい。たとえつらくても,不信者の配偶者と一緒に暮すことから生まれるかも知れない良い結果を十分に考えて下さい。何時か夫があるいは妻が共にエホバを崇拝する者となるかも知れないのです。その時の喜びを考えてごらんなさい。それは別居しなかった事の結果です。いずれにしても神の前に責むべきところのない者となり,神の祝福と報いを得るよう努めなさい。

  • 神につかえるよろこび
    ものみの塔 1963 | 12月15日
    • 神につかえるよろこび

      P. イドレオスの経験

      私の両親はギリシャ人です。私自身は今世紀の初め,小アジアのスミルナで生まれました。第一次世界大戦が始まって間もなく,スミルナの町はギリシャ人とトルコ人とがたがいに戦うところとなりました。幾千もの住民がトルコ軍に連れて行かれ,私もその中の一人でした。―まだ十代を過ぎぬ少年がトルコの捕りょとなったのです。

      劇的とも言える日々が過ぎました。その生活を通して,私の心には様々な疑問が浮かんで来ました。捕われの身となって日を送る,それが自分に定められた運命なのだろうか ― 人生がまさに始まろうとするこの時期に。こんな苦しみをいつまで耐えねばならぬのか。こうした考えが,日夜,私の脳裏をおそいました。そうした自分にとってたゞ一つの慰めとなったのは,手元にあった小さな「新約聖書」で,ひまを見つけてそれを読みました。しかし,理解出来ぬところがたくさんありました。

      捕りょ生活が続くうち,いつのまにか祈りをしていました。どうか自由の身にしてくれるようにと祈っていたのです。もし自分が再び解放されるなら,残りの生涯を神への奉仕に専心してさゝげよう,とさえちかっていました。

      これといった釈放のきざしもないまま日が過ぎてゆきました。聖書は読み続けましたが,とくにその勉強を黙示録にしぼりました。自分が興味を感じたのは,スミルナの教会の使いに宛てられた言葉です。黙示録 2章10節に次の言葉を見つけました。「なんぢ受けんとする苦難をおそるな,視よ悪魔なんぢらを試みんとて,汝らの中のある者を獄に入れんとす。汝ら十日のあひだ患難を受けん」。しかし,数えてみるまでもなく,「十日」はずっと以前に過ぎているはずなのに,自分の苦難はなお続いており,依然捕われの身でした。しかし実際には,この聖句を現代のスミルナにあるギリシャ正教会とそれにかゝわる私自身の経験にあてはめた私が間違っていました。その後,18才以下の子供がみな釈放され,私もその中にはいっていましたが,それはアメリカのある団体の調停によりました。私たちはボートで送られて,対岸の小島キオスに来ました。

      愛にみちる全宇宙の神が,機会を与えられ,捕囚の苦しみの中でした,私のちかいの真実さをためされたのは,こゝキオス島での事でした。その機会がどうおとずれたかお話ししましょう。

      学友の一人は,ジョージ・ギャンガスというアメリカの「聖書研究生」と文通していました。この人は彼のおじさんにあたり,今日なお活発なエホバの証者であり,これまで35年間,ものみの塔協会ブルックリンベテルで働いて来た人です。この「ギャンガスおじさん」が,私の友だちに書いた手紙,送って来た本はみなすぐ私のところにまわってきました。それらのものを読んでゆくうちに,こゝにこそ真の崇拝と永遠の生命へ導くものがある,との確信がわいて来ました。

      多くの議論を重ねたのち,自分が読んだ本や小冊子が述べる事柄の中に,確かに真理が含まれていると,感じました。神に対する私の約束の誠実さをこゝろみるために,エホバはこうして機会を設けられたのだと思いました。聖書の勉強をどんなに喜んだ事でしょう。パスター・ラッセルによる数巻に分かれた「聖書の研究」,ルサフォード判事の初期の著作などをむさぼるように読みました。とくに私が強く感銘を受けたのは「神のたて琴」という本です。これと同時に,英語の勉強にも力を注ぎました。

      奉仕と浸礼

      やがて,キオス島にも小さいながら聖書研究グループがまとまり,アテネにあったものみの塔協会ギリシャ支部との連絡も始まりました。神の御国の良いたよりを宣べ伝えるために,野外の宣教奉仕を始めたのは,そのすぐ後の事です。当時の宣教活動と言えば,主として簡単なパンフレットを配ることだけでした。しかし,私たちの仕事にいろんな圧力が加えられるようになったのもそのころです。それでも,神の言葉を束縛できるものはありません。ものみの塔協会は,アテネの支部を通じて,私たちが良いたよりを広め,宣教の仕事を全うできるよう,あらゆる援助の手をつくしてくれました。協会の代表者の特別な訪問も取りきめられました。兄弟たちと共に神の言葉を学び,共に真理を伝道した当時の生活は実に楽しく感ぜられました。

      しかし,これはほんの始まりにすぎなかったのです。神に奉仕すること,それが私の心を純粋な喜びで満たしました。1925年5月はじめ,ギリシャ最初の全国大会がアテネで開かれました。この大会は私のそれまでの歩みにおいて大きな里程標となりました。水の浸礼によってエホバへの献身を象徴する機会を得たからです。その年以来私は,アテネの「クラス」に加わり,神への奉仕にいよいよ進み,エホバの恵みに喜びました。

      パリで

      6年後の1931年5月,他に10人のギリシャのクリスチャン兄弟姉妹と共に,私たちにとっては最初の,エホバの民の「大きな」国際大会に出席する機会に恵まれました。それが開かれたのはパリのプレイール会館でした。そこではじめて当時ものみの塔協会会長であったJ・Fルサフォードに会いました。アメリカ,イギリス,オーストリア,ドイツ,ポーランドなどから来たたくさんの兄弟たちにも会いました。出席者の合計は3500人に満たなかったとは言え,その「大きな」大会の記憶は今でもはっきり残っています。

      このパリ大会は私の全生涯に強い影響を与えずにはおきませんでした。これによって真理に対する認識は深まり,神と神の地上の組織に対する愛はいよいよ強くなりました。とくに私の心をとらえたのは,ルサフォード兄弟の話をドイツ語,ポーランド語,フランス語などに通訳した若い兄弟たちです。その立派な仕事に強く心をうたれ,驚きの念さえ感じました。自分もいつかあのようになれたらと思わずにはいられませんでした。でも,のちにこの望みが実現したのです。それは25年もたってからのことです。1956年,ルサフォードについで,ものみの塔協会会長となったナタン・H・ノアがアテネで講演したおり,その話をギリシャ語になおす仕事が与えられたのです。

      弾圧と増加

      1930年代も半ばをすぎてから,ギリシャで良いたよりを伝える宣教の仕事には,多くの障害や弾圧が加えられるようになりました。1936年8月に始まった独裁体制を笠に着た偏狭な既成宗教組織は,私たちのクリスチャン活動を沈黙させる事を目論み,拘束的な法律の摘用をせまりました。

      1940年のある晩,アテネで集まった私たちが,毎週の「ものみの塔」研究をしていた時,数人の警官が踏み込み,出席者の全員を警察に連行しました。一同は市内の各所に分散して拘留され,各自の宗教的信念を否定するむねしたゝめた書面に署名しなければ,流刑に処すとのおどしを受けました。こうして24日間拘留された後,全員が釈放されましたが,私にとってこれほど強い励みを感じた経験はありません。自分の心はいよいよ強められました。エホバによりたのもうとの気持は一層深くなりました。そして,いかなる苦難にあおうとも,決してエホバへの忠実はすてない,との決意をいよいよ新たにしました。

      第二次世界大戦が始まり,ギリシャもそれに巻き込まれるとともに,私たちの宣教活動にむずかしい問題が多くなりました。粗暴で,一片のあわれみも持たないドイツ・ナチス軍の占領が始まりました。ニューヨーク,ブルックリンのものみの塔協会本部との連絡は一切遮断されました。しかし,こうした弾圧とともにおとずれたのは大きな増加です。禁令下におかれた私たちは委ねられた仕事に一層の努力を注ぐようになりました。それで,戦争が終った時に,私たちの数は戦前の7倍にもなっていたのです。

      組織と訓練

      アメリカのものみの塔協会本部との連絡は再開されました。1946年,ギレアデ聖書学校を卒業した二人が,ギリシャでの宣教の仕事を神権的に再組織するため,私たちの国に派遣されて来ました。その時の喜びは今なお忘れられません。こうして私たちに示されたエホバの組織の愛と深い関心に感謝せずにはいられなかったからです。自分に許された特権は大きくなりました。はじめに,「兄弟たちへの僕」として,次いで,支部の僕として働く任命を受けたのです。たしかに障害や問題はたくさんありました。しかし,それにまさって豊かに注がれたものはエホバからの祝福です。

      1950年,ニューヨーク市で開かれた神権増加大会とブルックリンベテルでの特別訓練の年が来ました。ニューヨークに着いてすぐ妙な経験がありました。すくなくとも自分には初めての事でした。移民局の係官数人が上船し,私と他に数人を検束したのです。私たちはエリス島に送られました。あれこれと取り調べられたのち,翌日には釈放されましたが,一時は大会の出席はおろか入国さえ許可されないのではないかと思われました。当時は,朝鮮動乱の最中で,アメリカ政府が出入国者の動向に神経をとがらせていた事が主な理由のようです。

      続いて1953年と1958年に開かれた二つのニューヨーク大会とその前後に受けた訓練は,それぞれ私の生涯を画する大きな出来事として記憶に残っています。ノア兄弟のアテネ訪問も付け加えねばなりません。その際ギリシャ・ベテルの家族を収容する立派な4階の建て物をつくる許しを得ました。今,その建て物は完成され,事務と印刷の仕事が行なわれています。

      私的な事ですが,おわりにひと言ふれさせていただきます。1953年,愛らしい娘,フィリス姉妹は私の妻となりました。それで今,クリスチャンとしての私の生活には,共に心を分けあう貴重な仲間があります。そして,二人は,エホバへの全時間奉仕に共に楽しく日を送っております。

      私が,エホバの道を歩きはじめたのは1924年のことでした。その時以来,エホバの神権組織と歩みを共にするために,絶えず努力を続けて来ました。これまでの私の生涯を通じて,いつも感じて来たのは,愛あるエホバのみ手が必ず私たちを導く,という事です。エホバの偉大なあわれみ,強い守り,深い愛を実際に経験して来ました。まさに豊かな生活,喜びあふれる日々を送って来ました。この上なにを望みましょう。ただ,みなさんが同じ道に進まれることを願うだけです。

  • 読者よりの質問
    ものみの塔 1963 | 12月15日
    • 読者よりの質問

      ● 軍需工場で働くこと,陪審員をつとめること,クリスマスカードやツリーを売ることについて,クリスチャンはどんな立場をとるべきですか。―多くの問合せをまとめた質問

      ものみの塔協会は,御国の福音を,もろもろの国民にあかしするため全世界に述べ伝える目的で組織されたもので,その最も効果的な方法については惜しみなく助言を与えます。しかし他の種類の活動または仕事については,特別の推薦を行ないません。世俗の仕事に関係して起り得るあらゆる状態のために規則をつくるとすれば,ひとつひとつこの仕事はどんな場合にはよく,どんな場合には良くない,とすべてこまかく区別して,タルマドのような大部の規則集を編さんしなければならないことになります。主はそのような責任を協会に課せられていません。自分の事を決定するのは各人の責任です。このことに関係した問題の例として,クリスマスカードとかツリーを売る場合のことを考てください。もしそのことが悪いなら,クリスマスのために使われる七面鳥を売る肉屋さんはどうしますか。あるいはクリスマスプレゼントに使われるセーターを売る店員はどうしますか。どこに一線を引きますか。また,どんな場合にあなたの仕事は軍需産業になりますか。戦車製造の流れ作業列にはいって,戦争に使われる物を作る必要はありません。陪審員としての仕事についていうなら,あなたはこの仕事引き受けられますか。たとえば離婚訴訟の場合などには,姦淫以外の理由で離婚が認められることもあるのです。訴訟当事者の一方または双方の主張ともあなたは受け入れがたいこともあり,クリスチャンとしての良心がその仕事にたずさわることを許さないでしょう。

      これらの事柄に対する協会の沈黙を賛成と見なすべきではなく,また協会が公にすることを望まぬ非難と見なすべきでもありません。その沈黙は,選ぶことは個人の責任であって協会の責任ではない,という協会の考えをあらわすものです。良心の責めを感じないような行いをせねばならぬのはその人であって協会ではありません。その人にはこまかい事情がよくわかっていますが,協会にはわかりません。エホバの証者は。聖書を読み,ものみの塔協会の出版物を研究しました。それらにはクリスチャンの導きとなる正しい原則とエホバのご要求が説明されています。ですから各人は,世俗の仕事において,どうすれば良心の責めを受けずにすむか,自分で決定できるはずです。次のことを忘れてはなりません。つまり私たちはこの世のものでなく,またこの世を存続させるための計画や希望をもたなくても,この世にいるので,この世の活動から完全には分離できないということです。そこで各自が責任をもって自分の良心に従い,同じ問題に対して,人がその良心に従って異なった決定を下すことがあっても,それを批判したり,批判されたりしないようにしましょう。私たちは「他人の良心によって左右される」べきではありません,「他人の僕をさばくあなたは,いったい,何者であるか。彼が立つのも倒れるのも,その主人によるものである」。―ロマ 14:4。コリント前 10:29,新口。

      ● 使徒たちがお互を,ペテロ,ヨハネ,パウロと呼んだように,聖書の記述者たちは姓でなく名を使用したので,今日の集会においても私たちは名を使用すべきだ,と主張する人がいます。つまり,姓に「兄弟」とか「姉妹」をつけて呼ぶのは,偽りの宗教のやりかたによく似ているというわけです。これについてはどうお答えですか。―カリフォルニア州の一読者より

      偽りの宗教は,「神権政治」とか「クリスチャン」という言葉を使います。しかし私たちもそういう言葉を使います。他の人々がそれらを誤用しているというだけの理由で,私たちがその正しい用法を捨てる必要はないからです。姓に「兄弟」とか「姉妹」をつけて呼ぶのは偽りの宗教の習慣だ,ということはできません。というのは聖書もときどきそうしているからです。そして,ある翻訳が,たとえば「兄弟サウロ」となっていようと「サウロ,兄弟」となっていようと,この問題の意義には少しも影響しません。(使行 9:17; 22:13。コリント前 16:12。ペテロ後 3:15)そのうえこれらの表現はローマカトリック教会がある人を平信徒と区別するために使う言葉のような,人々を区別する

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