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真の幸福は実現不可能な夢ですか目ざめよ! 1977 | 10月22日
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真の幸福は実現不可能な夢ですか
正常な人であれば,だれしも幸福であることを願います。しかし,目覚めている時間のうち,真の幸福に満たされている時間はどれほどありますか。正直に言って,あなたは自分の生活に喜びを見いだしておられますか。
このような質問に対する大抵の人の答えは,幸福の水準が満足のゆくものでないことを示しています。特に現代になって,本当に幸福といえるひとときが,以前ほど訪れなくなったと感じる人は少なくありません。労働者,旅行者,買物客などの顔の表情は,多くの場合に,幸福よりも心配や悲しみや無感動を反映しています。
また,わたしたちの世代の生活のテンポはこれまでになく速くなっており,日常生活のもたらす圧力は大きくなってきています。物事を成し終えようとすると,時間が瞬く間に過ぎ去ってしまうことに人々は気づいています。そのような人々は,幾年もの年月を経てから振り返ってみて,物事を急ぐ余り自分が真の幸福を置き去りにしてきたことに気づき落胆する場合が少なくありません。
一評論家は,「幸福とは,人間の経験する状態の中でも,極めてまれで,最も高く評価され,また最も誤解されている状態である」と書いています。しかし,幸福を定義するのはそれほど難しいことではありません。ある辞書によると,幸福であるとは,『楽しさ,満足,もしくは喜びを特徴とし,またそれらの感情を示してい』ます。
確かに,本の中で幸福を定義するのは難しいことではありません。しかし,現在および将来に,生活の一部として幸福を味わうことは,多くの場合に実現不可能な夢のように思えます。
金銭や名声を得れば幸福か
金銭や名声を追求することを生きがいとしている人は少なくありません。そのような人々は,そうすることが幸福に至る道だと思っています。しかし,本当にそうでしょうか。
もちろん,貧乏が人を幸福にすることはまれです。だれしも,貧乏であるよりは,富んでいるほうが幸福だと考えるでしょう。しかし,事実の示すところによると,貧乏が幸福をもたらさないのと同じく,富も幸福をもたらしません。ですから,聖書の中にある一つの箴言は,賢明にも,「わたしに窮乏も富も与えないでください」と述べています。―箴 30:8,新。
世界でも指折りの富豪とされる,ある著名な億万長者は,莫大な富を持ってはいても,自分は幸福でないと語りました。実際のところこの人は,長年の間,召使い以外のだれにも会わず,身だしなみにも注意を払わなくなり,長期間にわたって自分の健康を顧みずに生活して死にました。
別の億万長者の生涯は,不幸な結婚生活の繰り返しでした。その莫大な富を考慮に入れて,何が最大の幸福をもたらすか,と尋ねられたとき,その億万長者は少し考えてから,「気持ちの良い浜辺を散歩してから泳ぐことだ」と答えました。そのぐらいのことなら,非常に貧しい人でも,お金を使わずにたびたび行なえます。
女優および作家として成功を収めたひとりの人はこう語りました。「成功について言えば,多くの場合,認められるために払った高価な犠牲に見合わない」。この「成功」なるものを勝ち取り,それを保ってゆくために,余りにも多くの心痛がありました。
テレビのあるコメディアンが自殺したことも,この点を反映しています。このコメディアンは弱冠22歳で名声と富の両方を手にしました。そのテレビ番組の製作者は,この若い俳優が「幸福を見いだすために,すべてをつぎ込んだ」ことについて述べています。しかし,この俳優は幸福を見いだせませんでした。それどころか,悲しみをつのらせていったのです。この悲しみは,「どこへ行けばしっくりするのだろうか。自分の幸福はどこにあるのだろうか」という点に端を発していました。製作者がその俳優に,「君はまさに幸福そのものじゃないか。君はスターなんだよ」と言うと,俳優は,「いや,もうそんなものはぼくにとって幸福とは言えない」と答えました。その後,この俳優は自らの命を絶ちました。
富を蓄積することに伴う様々な問題は,聖書の次の言葉が真実であることを示しています。「富もうと思い定めている人たちは,誘惑とわな,また多くの無分別で害になる欲望に陥り,それは人を滅びと破滅に投げ込みます。金銭に対する愛はあらゆる有害な事がらの根であるからです」。神のみ言葉によると,そのようにして富を追い求めれば,『多くの苦痛で刺される』結果になることが少なくありません。―テモテ第一 6:9,10。
裕福になっても解決しない
国の生活水準を引き上げれば,人々はずっと幸福になる,と考えられていたこともありました。ところが今日,精神障害を抱える人々の大多数は,より裕福な国々に住んでいるのです。
例えば,US・ニューズ・アンド・ワールドリポート誌の中に,「幸福の追求 ― 裕福なアメリカにおける捕らえ所のない目標」という見出しがありました。その記事は一部次のようなものです。「富と余暇の増えてゆく時代にあって,アメリカ人は,幸福がこれまでになく捕らえ所のないものとなっていることに気づいている。……多くのアメリカ人にとって,最良の時代は最悪の時代のような様相を呈しだしている」。
米国には,うつ病の治療を要する人が,推定一千万人もいます。また,近年になって,精神医学の世話になる子供の数は驚くほど増加しています。
このように,物質の富や名声,あるいは過度の娯楽,飲酒,麻薬,そして不道徳な習慣などによって,「幸福」を必死になって追い求めても,確かに幸福は得られませんでした。それどころか,そのような仕方で幸福を追求した結果,ますます不幸になってしまったのです。
一時は非常にもてはやされた,今世紀の発明の中にも,多くの人々にとって不幸の原因となったものは少なくありません。例えば,自動車はある程度の喜びをもたらしましたが,同時に大規模な交通渋滞,欲求不満,そして公害などを引き起こしました。その上,毎年,自動車事故のために,世界中で幾万もの人が命を失い,幾百万もの人が負傷し,その結果,言うに言われぬ悲しみの原因を作り出しています。
テレビは教育や啓発を与える点で重要な役割を果たし得たはずですが,実際には教育的なものとはほど遠くなっています。最近の調査によると,平均的なアメリカ人家庭では,毎日6時間と18分テレビを見ます。調査の結果,人々がテレビを見る時間の大半は,憎しみ,残虐行為,暴力,そして不道徳などを取り上げた番組を見ることに当てられているのが分かりました。
このすべてが人々,中でも若い人々に及ぼす悪影響が深く憂慮されています。ワシントン大学の一児童心理学者の推定によると,平均的なアメリカ人の子供は高校を卒業するまでに,テレビで1万8,000件もの殺人を目撃します。それは,子供に幸福感を抱かせるのに全く役立ちません。
では,一世代の間に,戦争,殺人,そして事故などで幾百万もの人が命を失い,犯罪が増大し,人種や国民間の憎悪が続き,病気や老齢や死がすべての人に臨む,この世界で,真の幸福を得ることを期待できますか。現在,あるいはこれから先の将来に,幸福を実現するのは可能ですか。
問題に満ちた今日の世界にあっては不思議に思えるかもしれませんが,これらの質問に対して肯定の答えを出すことができます。現在でも,本当の幸福をある程度味わうことができますし,将来においては,完全な幸福が現実のものとなるのです。しかし,どのようにしてですか。また,それはどこで,どんな状況の下で現実のものとなるのですか。
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どのようにして本当の幸福を見いだせますか目ざめよ! 1977 | 10月22日
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どのようにして本当の幸福を見いだせますか
現在幸福を味わう上で鍵となる要素は何ですか
現在でも,本当の幸福をかなりの程度見いだせますが,さらに,間近い将来には,それをはるかにしのぐ幸福が必ずもたらされます。
これは希望的な観測などではなく,世界各地に住む,幾十万もの人々の生活に,今日実際に見られる事柄,および人類の将来に必ず起きようとしている事柄に基づいているのです。
現在幸福を味わう上で鍵となる要素は何ですか。その答えは,だれが意見を述べるかによって,かなり異なります。例えば,悪など存在せず,したがって,ほとんどどんな事柄にも喜びを見いだせると考える人がいます。しかし,この世の中には非常に悪い事柄が数多く見られるのですから,そのような考えは自己欺まんにすぎません。
もう一方の極端に走る人もいます。そのような人は,どんなものにも,どんな人にも,ほとんど良い点を見いだすことができません。その理由で,なかなか幸福感を味わえないのです。そうした人々は,「死んでいない者を幸福な者とみなしてはならない」と述べた,古代ギリシャの詩人ソフォクレスと似たような見方をしています。
しかし,以上の見解はいずれも極端な例です。この両極端の間に,幸福に至る平衡の取れた見方があるのです。一般的に言って,大抵の権威者たちは,大いに必要とされる幾つかの基本的な要素に関して同意を見ています。
ところが,それと同時に,そのような評論家のほとんどすべては,幸福を味わうための最も大切な要素を見過ごしています。そして,この点が見過ごされると,やがて他の事柄もうまくゆかなくなってしまいます。
まず最初に,問題に満ちたこの世界にあって,現在でも生活をより幸福なものにするのに役立つ基本的な要素に注目しましょう。それから,より重要な一つの要素を見極め,それが将来のより大きな幸福とどのように関係しているか調べることにしましょう。
自分にあるものを感謝する
確かにわたしたちは,日常生活でいやな事柄に数多く直面します。しかし一方では,感謝できる事柄,すなわちそれについて思い巡らす時間を持ちさえすれば,幾らかの幸福をわたしたちに与えてくれる事柄もあります。
わたしたちが今,ある程度の幸福を享受できることをよりよく認識する一つの簡単な方法は,逆境について考えてみることです。だれしも,今この時に享受している幸福を失わせ得る悲劇について考えることができるでしょう。そうであれば,現在そのような悲劇が起きていないのですから,ある程度の幸福を享受していることになります。ですから,自分の生活状態が余り幸福だと思わなくても,逆境について考えれば,多くの場合,自分が思ったよりも恵まれた状態にあることを認識するのに役立ちます。
自分にあるものを感謝することには,もちろん命そのものに対する感謝も含まれています。気のめいるような問題をたくさん抱えていても,死んでしまうよりは生きているほうが良いのではありませんか。自殺をするのは精神的に取り乱した人だけです。そうです,命は“慕わしい”ものであり,わたしたちはできるだけ寿命を延ばそうとします。
生の反対は死であり,死んでしまえば何の楽しみもありません。「死者は何事をも知らない」と聖書の述べるとおりです。(伝道 9:5,口)それゆえ,その前の節には,「生ける犬は,死せるししにまさる」と述べられているのです。(伝道 9:4,口)生きていて,しかも人間であるということは,岩や樹木や動物として存在するよりも,あるいは死体になってしまうよりもはるかに優れています。こうした事柄について考える時間を作りさえすれば,わたしたちは,自分が人間として生きていることに幸福感を抱けます。
また,正しい見方を持てば,生活上のちょっとした事柄の多くは,幸福を増し加えるのに役立ちます。陽光のさんさんと注ぐ気持ちの良い日は楽しいものです。樹木,花,動物,山,川,湖など自然界の創造物についても同じことが言えます。雑踏している都市にも,気分を浮き立たせる,気持ちの良い日がありますし,気分をさわやかにする快適な場所もあります。
あなたはものを見ることができますか。中には,盲目であるために,目が見えない人もいます。目の不自由な人に,視力を取り戻せたら幸福だと思うか尋ねてごらんなさい。あるいは,少しの間,目を閉じて,日常の事柄を行なおうとしてみると良いでしょう。そうすれば,視力がどれほど貴重な賜物であるか,より良く認識できるでしょう。
味覚や嗅覚についても同じことが言えます。これまでに何百回となく自分の好物を食べたことがあるでしょう。それでも,その好物がまた調理されているにおいをかぐと,やはりうれしく思います。
そうです,わたしたちは生活上の本当に良いものに決して飽きることがないように造られているのです。『自分にとって祝福となっている事柄を数え上げる』なら,わたしたちはそれらの祝福を感謝するようになり,いっそう幸福になれます。
仕事を楽しむ
幸福であるためには活動が必要です。なすべき有益な事柄があれば,生活により大きな満足を覚えます。仕事は実際にわたしたちにとって祝福となるのです。
全然仕事をしなくてもよい状態は望ましいことのように思えるかもしれませんが,実際にはそうではありません。もしすべてのことがなんとなく奇跡的に行なわれるなら,生活は信じられないほど退屈なものになります。わたしたちは適度の活動をして生活してゆくように造られているからです。
自分のしている仕事が興味深いものではない,あるいは重要ではないと思えても,それは生活の糧を備えるのに役立ち,あなたが生きてゆくのに貢献しているのではありませんか。それでは,その仕事はあなたにとって重要なのです。また,それは社会全体にとっても重要です。きまりきった仕事,つまり“退屈”な仕事と思えるものすべてがなくなったとしたら,社会はどれほどの期間その機能を保ってゆけるでしょうか。
確かに,あなたの仕事は,他の人の仕事ほど望ましいものではないかもしれません。しかしほとんどの場合,そのような仕事は,自分の福祉だけでなく,他の人々の福祉にも何らかの点で役立っているのです。そのような見方をすれば,自分の仕事を立派に成し遂げようとすることに幾らかの満足感を抱けます。カナダ王立銀行の月報が述べているとおりです。
「自分に任されている小さな事柄を立派に果たせる従業員は,極めて大きな事業の成功に貢献している。そして,熱意と決意をもって自分の務めに打ち込み,自分の能力を出しきる者は,物事を成し遂げたという満足感を抱く。その満足感が幸福の一つの要素となる」。
より肝要な要素
幸福になるためのより肝要な要素の一つは,他の人々との関係とかかわりがあります。他の人々の示す友情,愛情,温情,そして理解 ― そうです,愛なくしては本当の幸福を味わうことができません。
確かに,雑踏している都市のようなところにいると,人間がみないなくなれば良いと思うことが時にはあるかもしれません。しかし,全く独りだけになりたいと本当に思う人がいるでしょうか。少しの間であればそれも望ましく思えるかもしれません。しかし,たとえ失望したり,怒りを覚えたりすることがあっても,他の人々がいなければ本当の幸福は見いだせないというのが事実です。ある期間独房に監禁されていて幸福になった人は一人もいません。
しかし,単に他の人々が周りにいるというだけで,幸福になれるわけではありません。本当に重要なのは,幸福になるための肝要な要素である愛を自分が示すことです。そして最善の結果をもたらす種類の愛は,暖かくて,愛情深いだけでなく,正しい原則に基づいた愛です。
「愛: 幸福に資する最も大切な要素」。これは,「今日の心理学」誌に載せられた一つの見出しです。その記事の中で,心理学者ロバート・M・ゴードンは次のような注解を述べています。
「愛は人間の生活の中で最も重要な資産である。愛は,生活上の選択や生活様式を導く価値感を形成するのに大きな役割を果たす。子供のころに愛の欠如を経験した人は,その時点ですでに不幸であり,さらに将来いつまでも不幸が付きまとうような価値感を身に付けてしまう」。
愛が欠如していて,愛の結果である幸福が見られないと,金銭や物質がその代わりになってしまうことは珍しくありません。しかし,愛の示される人間関係から得られる幸福を,金銭や物質が十分に補なうことは決してありません。
では,子供のころ十分に愛を受けなかったなら,本当の幸福を味わうことは決してできないという意味ですか。いいえ,そうではありません。愛は,何歳になってからでも,培ったり,育んだりできるものだからです。どうしてそのようなことが言えるのですか。生来備わっている人間の社交性の一部として,人は愛を示し,また愛に答え応じるよう造られているからです。神は人間を創造する際,この能力を賦与されました。そして,幼少時に失意をもたらす経験をしたとしても,愛を再び燃えたたせることは可能です。
そうです,人間は生来,他の人々の愛を求め,その愛に答え応じるものなのです。カナダのマクリーンズ誌は次のように述べています。
「多くの科学者たちは,幸福感の最初の表われである,赤子が笑顔で示す反応について研究してきた。……
「それらの科学者たちは,普遍的に当てはまる人間のパターンを発見した。どの人種に属する赤子も,生後六か月になるまでは,親しみ深い大人に対して必ずといって良いほどほほえみかける。
「人類のこの本能的な社交性は,赤子がおもちゃや哺乳びんにほほえみかけることはめったにないのに,人間には必ずといって良いほどほほえみかけるという事実に表われている」。
「黄金律」
他の人々の行なう事柄は,わたしたちの幸福に影響を及ぼします。それと同様に,わたしたちの行なう事柄も,他の人々の幸福に影響を及ぼします。わたしたちの幸福は,家族や友人など他の大勢の人々の生活と密接な関係があるという事実を無視するわけにはゆきません。
他の人々の幸福を犠牲にして自分の快楽を追求するようなことは何としても避けなければなりません。この原則は「黄金律」と呼ばれ,聖書の中に記されています。「黄金律」の次の言葉を語ったのはイエス・キリストでした。「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」― マタイ 7:12。
そのようにして,愛,親切,正直,そして公平などの特質を示して他の人々を扱うなら,どんなことが起きますか。他の人々を親切に扱うなら,赤子が笑顔に答えて笑うように,それらの人々も親切な行為に答え応じるでしょう。確かに,すべての人がそのような反応を示すわけではありません。しかし,大抵の人は,好意的な反応を示すでしょう。
そうすれば自分の幸福を増し加えることになります。イエスの言われたとおり,「受けるより与えるほうが幸福である」からです。(使徒 20:35)この良い例は,夫を亡くしたある老婦人の場合です。その婦人はこう書いています。
「[夫]の亡きあと,私は子供や孫たちに与えるよう心掛けており……子供や孫たちはそれを喜んでいます。しかし,正直なところ,彼らに与えるときに私のほうがはるかに大きな喜びを味わっています」。
この老婦人が「与え」なかったとすれば,他の人々からある程度の幸福を奪い,自らも相当程度の幸福を得そこなったことでしょう。この婦人は,英国の哲学者ジョン・スチュアート・ミルの言葉が真実であることを悟りました。ミルは,本当に幸福な人々というのは,「自分の幸福以外の事柄,つまり他の人々の幸福について常に考えている人」だと述べました。
優れた結果
人々の間でふさわしい種類の愛が示されると,人々を隔てる障害すべてを打破することができます。あらゆる国のエホバの証人は,他の人々に分け隔てなく示される愛のもたらす優れた結果を見ているので,それが真実であることを知っています。エホバの証人は,「黄金律」を実践し,「与えること」を行なってゆこうとしています。
それゆえにこそ,世界的な見地からしても,エホバの証人は,国家主義や民族主義など分裂を引き起こす障害を克服する点で,他のどんな人々よりも進んでいるのです。例えば,百人余りのナイジェリア人のエホバの証人が,米国ペンシルバニア州で開かれたエホバの証人の大会に出席するための旅を終えた後,アフリカ人の代表者はこう語りました。
「このような訪問のすばらしい一面は,エホバの民が一つの大きな,そして幸福な家族として生活している有様をじかに見,『あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです』というヨハネ 13章35節のイエスの言葉の成就を見られたことです」。
同様に,エホバの証人の集会に出席し始めた二人の新しい人々はこう述べました。「私たちが最も感銘を受けたのは,互いに対するエホバの証人の愛のこもった関心です。現在,私たちが最も高く評価しているのは,この愛のこもった交わりです」。米国ニューメキシコ州に住む,新しく交わり始めた一人の人はこう書いています。「私は幾つかの集会に出席して,会衆の示してくれた愛と親切に感銘を覚えました」。別の男の人は,以前の望ましくない生活の仕方を変えて,より良い生活をするようになりましたが,変化するために何が役立ったかと尋ねられて,「私に愛を示してくれた人がいたのです。私に関心を示してくれた人がいたのです」と答えました。
「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」と言われたのはイエスでした。(マタイ 22:39)隣人愛を示すことには,他の人々の権利や財産を尊重するだけでなく,協力する精神も含まれています。協力して物事が行なわれると,多くの場合に良い結果が得られます。例えば,最近,カナダのブリティッシュ・コロンビア州ケロウナで開かれた,エホバの証人の大会の後,大会の開かれた競技場の責任者はエホバの証人に次のような手紙を寄せました。
「私はこの競技場で20年以上働いておりますが,このような手紙を書く必要に迫られたことはこれまでにありません。この催しの間競技場の職員に示してくださったこれほど優れた協力に,心から感謝する手紙を使用者に書き送るのはこれが最初で最後になるでしょう。
「管理およびこの大会関係の一般的な仕事に当たった皆様がたの兄弟姉妹たちは,とても有用なかたばかりでした。これらの兄弟姉妹のお陰で,この催しは私共が競技場経営の道に入って以来,扱わねばならなかった務めの中で最も楽しいものとなりました。
「当競技場をご利用いただきましてありがとうございました。再度ご利用いただけるときに,私共がこの職にあることを願っております」。
また,イエスは「隣人を自分自身のように愛さねばならない」と言われたのですから,それにはわたしたちの最も近い隣人も確かに含まれねばなりません。最も近い隣人とは自分の家族の成員を指しているといえるでしょう。家族の取り決めを造られたのは神ですから,その取り決めの中に幸福が見いだされるのは至極当然なことです。
ここでも「黄金律」を当てはめ,家族内の他の成員に無私の気持ちで与えるなら,良い結果がもたらされるでしょう。離婚寸前であったにもかかわらず,イエスの言葉を実行に移して,大いに強められ,より幸福になった家族は少なくありません。行動に関するこれらの優れた原則を適用すればするほど,家庭は幸福になります。それらの原則を無視するなら,取り返しのつかない結果を招きかねません。
また,ちょっと考えてみれば,家族生活の中には幸福の源となる素朴な楽しみが数多くあるものです。マクリーンズ誌の中には,その一つの例が示されています。
「歴史家ウィル・デュラントは,知識を取り入れることに幸福を見いだそうとして,幻滅を見いだしたことについて語っている。旅行をすることに幸福を見いだそうとして疲れ果て,富に幸福を見いだそうとして不和と心配を見いだした。著作活動に喜びを見いだそうとしたが,疲労を味わうことに終わった。
「ある日,デュラントは,一人の婦人が赤子を抱いて,小さな車の中で人を待っているのを見た。一人の男が列車から降りて車のところへやって来て,その婦人に優しく口づけし,寝ているのを起こさないよう注意しながら,赤子にも軽く口づけした。その家族は車に乗って畑を横切って去って行った。後に残されたデュラントは,真の幸福とは何かを認めさせられてぼう然としていた。
「後日デュラントはこう記している。『生活のごく普通の働きすべてには,何らかの喜びがある』」。
そうです,自分の持っている良いものを認識し,あらゆるレベルの人間関係において正しい種類の愛を示すなら,幸福を増し加える面で驚くべきことを行なえます。これは,問題に満ちた世界においてさえ真実です
しかし,さらに重要な要素があります。その要素なくしては,わたしたちの生活は真に幸福なものとなり得ない,といえるほど重要なものがあるのです。幸福になるためのこの極めて重大な要素とは何ですか。次の記事はそのことを教えてくれます。
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幸福であるための最も肝要な要素目ざめよ! 1977 | 10月22日
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幸福であるための最も肝要な要素
物質はある程度の幸福をもたらすことができます。幸福になるためのより重要な要素は,(前の記事に指摘されていたとおり)人間が互いに対して示すことのできる純粋な愛です。しかし,人間の幸福の源として,他の何物にも勝って重要な要素があります。
イエスが「隣人を自分自身のように愛さねばならない」と言われたとき,イエスはそれが人々の守るべき最大のおきてのうちの第二のものであると語られました。(マタイ 22:39)それでは,第一の,そして最も重要なおきては何でしたか。
イエスはこう言われました。「あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない」。(マタイ 22:37,38)このおきてを守るときにのみ,現在,そして将来に最大の幸福を見いだせます。
なぜそう言えるか
どうしてそう言えるのですか。それは,エホバ神が人間の創造者であられるからです。神は人間の体と精神を形造られました。ですから,人間が幸福であるために何が最も役立つかを,人間よりもはるかによくご存じです。
心理学者や哲学者は,人間が行動する際にどんな原則や規則に従うのが最善かについて,実験をしたり,推測したりしますが,エホバ神にはそのようなことをする必要はありません。神は人間を創造したのですから,どの道が人間にとって最善であるかをよくご存じです。ですから,神の語られる事柄に注意を払うなら,幸福になる上で人間が入手できる最善の助言を得ることになります。
神の律法と原則に従った生活をすればするほど,わたしたちは幸福になります。例えを用いて考えてみましょう。もし自動車を運転する人すべてが,各々自分の交通規則を作ることができたらどうなりますか。その結果として生じる混乱を容易に想像できるでしょう。交通量の多い交差点を車で通りかかったり,さらに歩行者としてそうした交差点を横断しようとしたりするのは命懸けのことになってしまいます。運転をする際の道理にかなった規則を定める上位の権威がどうしても必要です。そのような規則があれば,すべての人が益を受けられるでしょう。
同様に,創造者であるエホバ神は,人間の行動に関する最善の規則や原則を制定されました。それらは本当に効果があり,実際的で,最善の結果をもたらします。それらの規則や原則を無視すれば,交通法規を守らないドライバーと同様,問題を身に招くことになります。地球上にこれほど多くの問題が見られる根本的な理由は,人々が自分自身の規則を作ろうとしていることにあるのです。
より幸福な人々
聖書は,創造者を「幸福な神」と呼んでいます。(テモテ第一 1:11)それで,人間の行動に関する神の教えを守って神の意志を行なう人々は,その幸福を反映し,またその幸福をある程度味わうことができます。
それゆえ詩篇作者は,「ああ万軍のエホバよ,あなたにより頼む人は幸いです」と書き記したのです。また,「幸いなるかな,自分の道においてとがのない者たちは。エホバの律法のうちを歩む者たちは。幸いなるかな,その諭しを守り行なう者たちは」と言われています。そうです,「自分の神がエホバである民は幸いです!」―詩 84:12; 119:1,2; 144:15,新。
確かに,神に従ったところで,わたしたちが現在住んでいるこの不幸な事物の体制を変化させることにはなりません。しかし,より幸福に生活することを願い,その幸福の源として創造者にたよる人々の生活を,より良いものへと変化させる上では確かに役立ちます。そして,人々が神にたよるとき,神は人々を祝福し,ご自分の強力な活動力である聖霊をもって助けることにより,人々に答え応じられます。幸福を得させる上で,これ以上の力は,宇宙のどこにも存在しません。
問題は起きないか
それだからといって,神の意志を行なう人々が世の諸問題の影響を受けないわけではありません。そのような人々にも問題や悲しみがあります。また,他の人々と同じように,病気になり,死んでゆきます。しかしそれと同時に,幸福の源である神にたよらなかったなら味わえなかったであろうより大きな幸福を享受しています。
また,神に仕える人々は,現在自分たちの享受している幸福が相対的な幸福であることを認識しています。つまり,その幸福は他のいかなる方法によって得られる幸福よりも大きいとはいえ,完全で申し分のない幸福ではないことを認識しているのです。現時点で,幸福は完全なものとはなり得ません。
それはなぜですか。わたしたちすべては,罪と不完全さのうちに生まれてくるからです。(ローマ 5:12)ですから,わたしたちすべては過ちを犯し,憂うつで不愉快な気分になる期間を経験しがちで,その上,幸福をそこなう病気や死を経験することもあります。また,わたしたちすべては,問題に満ちた,この邪悪な事物の体制の中で生活しています。この邪悪な体制が続く限り,神のしもべたちといえども,完全な幸福を得ることはできません。
それと同時に,神のしもべたちは,神を知り,近い将来人類に対して神の意図しておられる事柄を理解していることに,大きな慰めと幸福を見いだしています。そのお陰で,不安定な世界にあっても,他の人々のように悲嘆に暮れることなく,心の平静を保てます。愛する人を亡くしたときでもそのような態度を保てます。聖書の述べるとおり,神を知っている人は,「希望を持たないほかの人びとのように悲しむこと(は)ない」からです。―テサロニケ第一 4:13。
この地球と人類に対する神のすばらしい目的を知っているので,神のしもべたちは,世の諸問題や世にいる悪人たちのゆえに,不必要に悩むことはありません。ですから,他の多くの人々のように,固い“殻”の中に引きこもったりはしません。(マタイ 24:12)神のしもべたちは,他の人々が答え応じなくても,あるいは否定的な反応を示しても,正しい事柄を行ない続けます。
イエスの模範
イエスはまさにそのような態度を示されました。イエスがラザロという名の人を死人の中からよみがえらせたときのことを思い出してください。聖書の記録によると,多くの人々はこの出来事に対して好意的な反応を示しました。しかし,すべての人がそのような反応を示したわけではありませんでした。
事実,聖書の述べるところによると,極めてよこしまな者もおり,「その日以来,イエスを殺そうとして相談した」ほどでした。考えてもみてください。そのような奇跡的な優れた業に対して,そのような邪悪な反応を示すとは何という堕落した行ないなのでしょう。特に,それらの人々が当時の僧職者であったことを考えればなおさらです。これらの僧職者たちは非常によこしまで,「ラザロをも殺そうと相談した」ほどでした。―ヨハネ 11:45,53; 12:10,11。
それでもイエスは,神と隣人を愛するという,二つの大きなおきてを実践することをやめようとしませんでした。イエスは,他の人々がどう行動しようと,最大の幸福と益は,神の意志を行なうことから得られることを知っていたのです。それゆえイエスは,自制心を保ち,親切で愛のある態度を捨てないでいられました。聖書が次のように述べているとおりです。「彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁くかたに終始ご自分をゆだねました」― ペテロ第一 2:23。
人間に世の諸問題を解決できる可能性がないときに,この世とその悪について過度に憤りを覚えるなら,自分の幸福を損なう結果になることをイエスはご存じでした。イエスは,天のみ父と同様,この邪悪な事物の体制を神が終わらせる日の来るまで,この体制が悪化の一途をたどることをご存じでした。
完全な幸福 ― いつ
ですから,他の人々に原則に基づいた愛を示し,神に対して魂をこめた愛を示す人々は,今の生活に見られる諸問題すべてはつかの間のものであることを知っています。やがて,問題に満ちたこの体制全体は,その体制に伴う悲嘆とともに,全く一掃されてしまいます。
このことは,正しい事柄を行ないたいと願う,正直な心の持ち主にとって何を意味しますか。それは,神の造られる新秩序がこの地球上に永遠にわたって建てられる時が間近に迫っていることを意味しています。その時,完全な幸福が実現されるのです。
聖書預言は,神が悲嘆や問題を終わらせる時の近いことを,極めて明確に示しています。神は,腐敗して,疲弊した古い事物の体制の代わりに,ご自分の天の王国の支配下にある義の新秩序を必ずもたらされます。その支配,つまり天から治める政府こそ,イエスが他の人々に教えられたものです。(マタイ 6:9,10)その支配は全地に及び,それは全人類にとって唯一の政府となります。他の王国すべては,全く存在しなくなっているでしょう。(ダニエル 2:44)その王国の下では,今日部分的にしか考えることのできないような幸福が,この地球上で毎日の現実となるのです。
その新秩序に関する神の約束は次のようなものです。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。(啓示 21:4)病気や老齢さえも過去のものとなります。その時に生きている人々は,神が最初の男女を創造したときに意図しておられたとおり,心身共に完全になるからです。その結果,人々は,復興したパラダイスの地で永遠に生きられるようになります。―ルカ 23:43。
何とすばらしい時代になるのでしょう。考えてもみてください。病気,悲しみ,問題,そして死などすべては,神の義の支配の下で一度限り,永遠に除き去られます。墓の中からも死人はいなくなり,死者は再び命を受け,愛する人々のもとへ戻るのです。というのは,「義者と不義者の復活がある」からです。―使徒 24:15。
最後には,幸福をそこなう無節操な人々はいなくなります。こう記されています。「正しい人は地にながらえ,誠実な人は地にとどまる。しかし悪しき者は地から断ち滅ぼされ,不信実な者は地から抜き捨てられる」― 箴 2:21,22,口。
そうです,生活上の様々な問題があっても,今日より大きな幸福を見いだすことができるのです。そして,将来,完全な幸福を見いだせるでしょう。ですから,真の幸福は実現不可能な夢ではないのです。
しかし,その幸福を自分のものにするには,本当の幸福の唯一の源である,創造者エホバ神を信頼し,エホバ神に仕えることを学ばねばなりません。そうすれば,神の預言的な言葉の中に予告されている,深い満足と喜びをもたらす時代を楽しみにして待つことができます。神の預言的な言葉はこう約束しているのです。「温和な者たちは自ら地を所有し,平和の豊かさに必ずや無上の喜びを見いだすであろう」― 詩 37:11,新。
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ボリビアにおける信仰の奇妙な混合目ざめよ! 1977 | 10月22日
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ボリビアにおける信仰の奇妙な混合
ボリビアの「目ざめよ!」通信員
ボリビアに住む約500万の人々のうち,200万人ほどはアイマラ族とケチュア族のインディアンです。彼らはカトリックを信仰していると言いますが,先祖の崇拝した神々と“聖人”とを混同しています。およそ四世紀間もカトリック教会が存在しているボリビアに,そうした状態が見られるのはなぜでしょうか。
カトリックの宣教師の働きに関して,ロバート・バートンは「ボリビア小史」と題する著書の中で次のように述べています。「彼らは,原住民にキリスト教を理解させようと努めるかわりに,改宗者を大勢得ることを目的として仕事を開始した。実際多くの宣教師は,キリスト教の教義と未開人の迷信的な考えとが類似しているかのように見せかけた。今日まで二つの宗教の混合が続いているのはこのためである」。
こうした「二つの宗教の混合」が顕著に表われるのは,トドス・ロス・サントス,つまり万聖節です。キップ・レスターとジェーン・マッキールは「ディスカバー・ボリビア」と題する著書の中でこう述べています。「カンペシーノ[土着の農夫]にとってトドス・サントスの祭りは,こうした聖日を守るクリスチャンのしきたりとチュルパスにささげられる崇拝とが結合したものである」。
チュルパスとは,チチカカ湖周辺に見られる,成形していない石で造られた円形の塔のことです。
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