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人々と教会のあいだの隔たり目ざめよ! 1971 | 7月22日
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ていく精神文明に順応するため」道徳標準を下げた,と述べました。
教会はほんとうにそのようなことをしたでしょうか。たしかにしました。一例として英国教会の牧師モリス・ラッセルは,ニュージーランドのオークランド市で開かれた同性愛法改革協会の集会の席上で,教会は同性愛関係を祝福すべきである,と語りました。しかし神の律法は,「男娼となるもの,男色を行ふ者(は)……みな神の〔王国〕を嗣ぐことなきなり」と,はっきり述べています。―コリント前 6:9,10,新。
しだいに多くの牧師が,同性愛や婚前交渉を認めるようになっているので,牧師と,現代の「新しい道徳」の信奉者との間の隔たりは狭くなるかもしれません。しかし,彼らと神の真理および義の標準との間の隔たりはどうですか。それは広がっています。誠実な教会員はこのことをたいへん嘆き,よりよいものを求めて続々と教会を去っています。
埋めることのできない隔たり
この隔たりは埋めることができますか。できません。というのは,この状態こそ,その原因とともに,「事物の体制の終局」の時の特徴のひとつとして預言されていたものだからです。イエスご自身言われました。「不法の増すによりて多くの人の愛,冷かにならん」。教会の指導者たちはみずから神の律法を犯し,人にもそうするように教えました。そのために,以前,神に対してもっていた愛が冷えるという事態が,多数の教会員に生じ,彼らは教会を支持しなくなりました。あるものが,本来の役目を果たさなければ,捨てられるほかはありません。これが教会の実情なのです。―マタイ 24:3,12。
このことに関連してわたしたちは,エルサレムの宗教指導者たちが道を踏みはずして,民に真理を教える義務を怠ったとき,エルサレムにどんなことが起きたかを考えてみることができます。エルサレムと神との隔たりは,どうすることもできないほど大きくなっていました。ついに町は完全に破壊され,住民はどれいにされ,また,殺されました。エルサレムの指導者たちよりもさらに多くの不法を働いた牧師たちを神が彼らよりも寛大に扱われると考えるのは理にかなっていますか。神は,牧師たちのように「放任主義的」で,キリスト教世界の諸教会を許されるでしょうか。聖書は,否と答えます。―マタイ 7:21-23。テサロニケ後 1:7-9。
もし,あなたが教会に通うかたならば,教会の中で起きていることが心配ですか。それに対して何をしておられますか。神を喜ばすには,それに対して何をすべきでしょうか。
あなたの聖書のコリント後書 6章14節から17節〔新〕はこう述べています。「不信者と軛を同じうすな,釣合はぬなり,義と不義と何の干与かあらん,光と暗と何の交際かあらん……この故に『〔エホバ〕いひ給ふ,汝等かれらの中より出で,これを離れ,けがれたるものに触るなかれと,さらば我なんぢを受け……ん』」。もしあなたがほんとうに神を喜ばせたいならば,何をしなければならないかは明らかです。そうすれば,教会と神との間の隔たりが,あなたと神との間の,埋めることのできない隔たりとなることはありません。―テモテ後 3:5。
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正直な行ないが人を聖書研究に導く目ざめよ! 1971 | 7月22日
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正直な行ないが人を聖書研究に導く
● 正直にふるまう模範を示すと,証言をする機会の生ずる場合があります。エチオピアのあるエホバの証人は預金を引き出すために銀行に行きました。通帳を調べたところ,100ドル(3万6,000円)相当の利子が余分に払い込まれていることに気づきました。証人がそのことを会計検査官に知らせると,検査官はその正直さに驚き,それは,「考えられない行為だ」と言いました。証人はその機会をとらえて,自分はエホバの証人であり,神の律法を破ることなど自分にとっては考えられないと説明しました。その検査官はこの件でたいへん深い感銘を受け,聖書研究をすることに応じました。
― エホバの証人の1971年度年鑑より
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