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  • パナマのインディアン ― 遠い過去の生活をしのばせる人々
    目ざめよ! 1971 | 12月22日
    • の中につくられた特別のへやに閉じ込められていた。そして数日間,儀式として水をかぶって沐浴した。この儀式が終わると,彼女の長い髪はたち切られ,それから結婚できる娘として紹介されるのである。

      娘は自分が結婚したい青年を父親に告げることを許されているということだ。父親はその青年に娘の希望を知らせる。青年は申し込みを受けいれても試験される。

      義父は彼を本土に連れていき,そこで大きな木を1本選ぶ。そしてそれをたきぎにし,カヌーで,家族の島の住居まで運ぶことを青年に要求する。青年がその仕事に携っているあいだに,花嫁は彼の家に行き彼の所持品を全部自分の家に運ぶ。たきぎ取りの仕事を成し遂げると,青年は,義父が死ぬまでいる家に迎えられる。義父の死後は,自分自身の家庭をつくることができる。

      グアイミ・インディアン

      16世紀にはいろうとするころ,コロンブスがここに来て,グアイミ・インディアンに会い,交易を行なった。最初,彼らは友好的であった。しかし白人が去らないので,抵抗しはじめた。そこでコロンブスとその部下は,土地のグアイミ首長,エル・キビアンを人質にした。しかし彼は逃走し,配下の戦士を指揮して攻撃をしかけ,一隊のなかのいく人かを殺した。そして1503年の4月,彼らを追い出してしまった。その後も,グアイミ族は自分たちの領土の侵略に抵抗しつづけた。

      したがってグアイミ族は比較的に現代文明の影響を受けていない。もっとも一部の者は普通に就職して,ある程度,パナマの社会にとけこんではいるが。北部パナマの彼らの地域は,辺ぴな高地の広大な部分と,ボカスデルトロ地方の海岸地帯の一部を占めている。インディアンのグループのうち,彼らは最も人口が多くて3万5,000を数え,クナ族よりも体格がよい。

      グアイミ族の女たちは長いゆったりしたスカートをはき,男たちは一般に,インディアンでない他のパナマ人と変わらない服装をしている。しかし男の多くは,上下の前歯を,のこぎりの歯の形にけずる妙な習慣をもっている。

      インディアンのグループのなかで,グアイミ族はエホバの証人の伝道に対して一番友好的な反応を示してきた。つい昨年も私は辺ぴなところにある,グアイミ族の村を一週間訪問したが,その村はほとんど全世帯がエホバの証人である。友人と私は,パナマシティからチャンギノラまで飛行機で行き,そこからアルミランテまで汽車で行った。そのあと,目的地カヨデパロマ村まではカヌーの旅であった。

      村に着くと,浜辺に一群のインディアンが私たちを待ちうけていて,たいへん暖かく迎えてくれた。ある家族は,二室の家から全員どこかに引越し,「私たちの家は今はあなたがたの家です」と言った。別の女の人は親切に食事を準備し,私たちのところへ運んでくれた。私たちの訪問を待っていたのは,新築されたクリスチャンの集会所の献堂式と結婚式と浸礼式だった。

      土曜日の朝になって,5人のインディアンの男が,それぞれの連れ合いと子どもたちを携えてやってきた。それは彼らの結婚を聖書の要求に一致して正式なものにするためであった。彼らは,クリスチャンの結婚の目的と義務と責任を説明する聖書の話に聞きいっていた。ところが,誓いをかわす前になって,5人の婦人が,ひそひそ相談していたと思ったら,さっと立って出て行った。私は胆がつぶれるほど驚いたが,すぐにほっとした。彼女たちはただ,結婚式のために服をかえに行っただけだった。10分もすると,みんな戻ってきた。足ははだしだが,白い服で晴れやかに身をよそおっていた。彼女たちは自分の席につき,正式に夫婦として結ばれた。

      それからしばらくして,彼らに多くの食物を与える海で,このグループのうちの3人と他の二人が,イエス・キリストの弟子としてバプテスマを受けた。こうして彼らは,神への奉仕に献身している他の多くのパナマのインディアンたちの仲間入りをした。

      バプテスマのあと,私たちは昼食をとった。インディアンの猟師たちは野生のブタをとってきた。ほかの者たちはやりをもって海中にもぐり,魚を取ってきた。ある家族はニワトリを,また他の家族は飼いブタを持ってきた。畑から米や料理用バナナ,バナナ,ユッカなどを持ってきた家族もいた。出席者の大部分が地面や,新しい集会所の中にすわって,手で食べた。

      そのあとで,私たちは献堂式のためにまた集まった。四方から人々がやってきて,出席者はついに189人になった。私の旅行友だちと私を除けば,あとはみなグアイミ族であった。「神は偏ることをせず,いづれの国の人にても神を敬ひて義をおこなふ者を容れ給ふ」ということに対して,私たちはともどもに創造者エホバに感謝をささげた。―使行 10:34,35。

      パナマのインディアン訪問は,遠い過去の生活を見ているようである。しかしグアイミ族の訪問を終えて帰途についたとき,私は神のみことばの理解が,異なる背景や習慣を越えて人々のあいだに生み出しうる一致と兄弟愛を考えずにはいられなかった。

  • 血はだれのものか
    目ざめよ! 1971 | 12月22日
    • 血はだれのものか

      ● 今日,動物や人間の血は多方面に用いられている。輸血に用いられるほか,ある種のノリや食品の製造に血を使用する企業もある。しかし,動物もしくは人間から取られた血はだれに属するのであろうか。その動物の所有者にか。血の取られた人に属するのであろうか。読者はどうお考えだろうか。

      ボリビアの3歳になる一幼女はその答えを知っていた。幼女のクリスチャンである両親は,その子に聖書を教える際,エホバ神は血が命を表わすものとみなしておられることを教えた。血がからだから取り出された場合,それを食べたり売ったりしてはならず,地に注ぎ出されねばならなかった。こうして血は事実上,命の源である神に帰されたのである。―レビ 17:11-14。

      その幼女の母親はある日のできごとについてこう語った。「わたしは何人かの近所の人と同じ中庭を共同で使っていますが,その人たちは,わたしが聖書について話しても決して関心をもって聞こうとはしませんでした。ある休日,それら近所の人たちが,ごちそうを作るため,1頭の羊がほふられた時,たまたま近くに居合わせたうちの3歳になる娘が,羊から血が流れるのを見るなり『血はエホバのものよ。血はエホバのものよ』と叫びました。近所の人たちはそうしたことを一度も聞いたことがなく,エホバがだれなのかも知らなかったので,あ然としていました。娘の叫び声を聞いたわたしが,何事かと思って中庭へ急いで行ってみると,娘がおとなにまじって,『さわっちゃだめ。さわっちゃだめ。それはエホバのものよ』と言っていました。隣人たちから説明を求められたわたしは,急いで家に行って聖書を取り出し,娘の言ったことが神のみことばに基づいていることを示しました。今ではそれら隣人たちはわたしといっしょに定期的に聖書を学んでおり,近いうちに,バプテスマを受けてエホバの奉仕者になりたいと願っています」。

      血に関する読者のお考えや行動は,この幼女が持っていたと同様の正確な知識と,血を尊重する気持ちとを反映するものであろうか。

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