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    ものみの塔 1954 | 7月1日
    • 南アフリカ

      一人の若い婦人は,この世間的な事がらのために前の年に聖書研究を止めていましたが,その人のところに再訪問したところ,その人はその週末に『ものみの塔』研究に出席しました。この『ものみの塔』研究に初めて出席した時に,質問をいくらかその人は答えました。その人は,次の日曜日に,40マイルも遠い場所での巡回大会に出席し,洗礼の話しを含めてその大会を非常によろこびました。そんなにもよろこびましたので,2週間後には近くの別の大会に出席し,そしてそこで洗礼をうけました! その時から3ヶ月のあいだ,その姉妹の毎月の野外奉仕の平均時間は,22時間です。

      スエーデン

      スエーデンの兄弟たちのうち195名は,ヤンキー野球場で行われたヱホバの証者の新世社会の大会に出席しました。また,スエーデンの兄弟たちはゴッテンベルグでスエーデンの新世社会の大会を開催しました。それは8月の終りでしたが,報告の示すところによると,ニューヨーク市でヱホバの証者が残したのと同じほどの大きな印象がゴッテンベルグでも残されたようです。ヱホバの証者たちは,違つた人々です。彼らはヱホバの民です。古い,そして死につつある世にいる人のうちである人は,そのことを認めているようです。事務所に送られた次の手紙の書き抜きは,大会に集まつた人々に宿舎を提供したまじめな多くの善意者が見たり聞いたりしたことに強く心が動かされたということを,良く示しています。『私たちが宿泊した御主人と奥さんは,よろこんで涙を流していました。私たちが,そのお宅に宿泊したということで,そんなにもうれしかつたのです。私たちは宿泊料をお払いしようと思つたのですが,受け取ろうといたしません。そして,こんな風に言つていました。「あなた方が來ていただいたのは,私たちにとつて大きな特権です。もしあなた方が,私たちのところに宿泊していただけなかつたならば,メツシエレンの大会にも行かなかつたでしようし,またどこに神の御国を探して良いのかも知らなかつたでしよう。でも,いまはどこに探すかということを知つています。ほんとうは,私たちがあなた方にお金を払うべきです。そして,ヱホバの証者が今度この町に集まる時,私たちは全部の部屋をお貸したいとぜひ思います。そうですね,今度お会いする時には,私たちもまたヱホバの証者でしよう。」』

      英領 ホンドラス

      昨年の奉仕年度中で,もつともはげましを与えることがらは,14人の兄弟たちが新世社会の大会に出席したことです。一人の兄弟は,集会の重要性を知つていましたので,全部の家族である3人の大人と5人の子供たちみんなをつれてゆくことにしました。査証を求められた時に,アメリカの領事はびつくりしました。宗教の大会に出席するだけに,なぜそんなにも多くの時間とお金を費すのか,領事には分りませんでした。しかし,大会に出席した人は,費したすべての努力以上に報いをうけたと感じ,そして大会の時に示された一致と,また人種的偏見のないことに非常に心をうたれて帰つてきました。それで,それらの人々は,前以上にずつと熱心になりました。

  • 忠実の目標から外づれる
    ものみの塔 1954 | 7月1日
    • 忠実の目標から外づれる

      『なぜならば,すべての人は罪を犯し,神の栄光に達しないからである。』― ロマ 3:23,新世

      1 ヱホバはどんな種類の神ですか? 彼は誰と交りますか?

      私たちの神であるヱホバは聖い神であり全智の神です。そして,最高の尊貴を持たれている王です。ヱホバ神は,絶対的に清浄で,また正しくて,汚れを持たず,正義に全く献身されています。ヱホバ神は,汚れたもの,清くないもの,そして不法のことをするのに没頭している者たちを非常に強く嫌います。この絶対的に聖くて,汚れのない神は,ただ汚れのない,潔い者たち,そして彼への忠実を保つ者たちとだけと交ることができます。(詩 41:11,12)ヱホバ神だけが,全き心からの献身,愛,そして奉仕をうけるのに正しく価値ある方です。イスラエル人たちにたいして,彼はこう言われました。『私はあなた方の神であるヱホバであつて,あなた方は自らを潔め,聖なることを証明しなければならない,なぜならば私は聖いからである。』ダビデはこう言いました『おお神よ,あなたは悪をよろこばず,また,悪しき人は一人もあなたと共にいることはない。』― レビ記 11:44,新世。詩 5:5,カトリック聖書。

      2 ヱホバは祝福し,そして幸福にさせるちからを持つていますか? なぜ『はい』と言えますか?

      2 この聖い神はまた聖い王であり,そしてまた幸福な神です。(テモテ前 1:11)彼は常に全き幸福の状態におられます。それですから,尊貴を持たれているこの方は,真の幸福の一番の源であります。あらゆる祝福と,あらゆる完全な贈りものは彼から流れて来ます。『天の光の父』として,ヱホバは常にその力の最高の高さにおられ彼に交るものたちに幸福と祝福をもたらします。彼にとつて,それ以上の高さの地位にまで力を築き上げることも,またそのような最高の地位から力が衰えてゆくということもありません。この『天の光の父』は,私たちの自然界の太陽とは違います。太陽は東から日出して,天空の最高に来,それから西の日没のところに落ちて行く時,日時計には影の変化が生じます。ヱホバは祝福を与え,そして幸福にする絶対最高の力を持つており,そしてヱホバのなされることに,私たちは全き確信を持つことができるのです。それらの点について,ヤコブはこのように書きました。『あらゆる良い贈り物と,あらゆる完全な賜物は,上からのものである,というのはそれは天の光りの父から降るからである。そして,父については,影が廻つて生ずる変化というものはない。』― ヤコブ 1:17,新世。

      3 ヱホバは誰に合法の認めを与えますか? なぜ?

      3 幸福で聖い神は,また友情のある神であり,忠実な助け手であります。そうです,彼と関係をもつている,聖くそして義しいすべての人たちにたいして,彼は本当に友であります。彼こそ,もつとも信頼を置ける友であります。彼はただ,友人としての関係を保ち続ける者だけと交渉を持たれます。彼の友だちは,個人的にも,また彼を王として認めるにしても,彼にたいして誠実,全き献身そして忠実を持つことによつて特徴が表されています。その証明を証した友たちに対して,彼らはヱホバの幸福な制度に交るものとして,ヱホバは神権的な合法の認めや,恵みや祝福を与えます。(ロマ 11:2)アブラハムの場合に気をつけてみましう。アブラハムは,神の証明された友として合法の認めを与えられ,そして信仰によつて義とされました。『アブラハムはヱホバに信仰を持ち,そしてその信仰は義しきものと認められ,彼はヱホバの友と呼ばれるようになつた。』ヱホバがその友の如き助け手であつた時,イスラエルは国民として幸福でした。イスラエルよ,あなた方は幸福である! あなた方のように,ヱホバの救いを楽しむ民は,誰であろうか? あなた方の助け手は楯であり,剣である方はあなた方の高貴な方である。』― ヤコブ 2:23,申命記 33:29,新世。

      4 その友たちにたいして,ヱホバは何の目的を立てますか? あなたはそれを説明できますか?

      4 神権的な友情関係を持つ神は,何を目的とされますか? この最も大いなる友は,善を目的とされます。その善は,神であると共に王である彼自身と,また彼と聖なる一致を持ち,調和を保つすべての人々に,終りない幸福とよろこびをもたらすものです。聖なる神は,その僕たちにたいする善の目的を表わし示されますが,それは,よろこびに充ちたある存在期間から,次の期間へと,幸福の漸進的な状態を経験する機会を僕たちに与えることによつてなされるのです。どんな期間であつても,楽しまれた幸福の真の状態は,全き満足,よろこび,そしてたのしみの状態です。というのは,神と合法的な一致にいる彼の友だちのたのしみとよろこびのために,幸福な神によつて新しくもたらされる善きものが全く豊富にあるからです。『神を愛する者たちの善のために,神はそのすべての業を協力させられるということを私たちは知つている。それら神を愛する者たちは,彼の目的に従つて召されているのである。』― ロマ 8:28,新世。

      自由意志への導き

      5 愛ある父として,ヱホバはどのように自らを表わしますか? なぜ?

      5 聖なる神は,また愛ある父でもあります。彼は最初にして最も大いなる父でありますので,友の如き従順な子たちで成り立つ家族のような制度を,どのように運営するか,彼は最も良く知つております。すべての霊者と最初の人間アダムは,完全に創造されてヱホバの子たちとなりました。それぞれは,神の像と様子にしたがつて造られ,そして自由意志というすばらしい贈り物をいただきました。自由意志というこの能力は,聖なる信用であつて,賢明に用いられるべきでした。天使であれ人間であれ,それぞれの造られたものは,その自由意志を良い方法に用いて,絶えず聖なることと,永遠の生命を得るという結果になるか,または悪い方法に用いて,腐敗,不潔,そして遂には死に果てるということもできました。最初から,創造者 ― 父は,その自由意志の子たちが,完全な幸福な状態にい続ける良い道に導こうと手段を講ぜられました。それで,彼らが自発的に,自由意志より忠実の路に従い続けたならば,彼らは目的あるものとされ,よろこびをつねに与えられ,そして幸福と良きことの源である聖なる神と密接な関係を保ち続けたことでしよう。―詩 25:21。シンゲン 11:3。ルカ 3:38。創世 1:26。

      6 彼よりも低いものたちの正しい道を導くのに,どんな手段をヱホバは取られましたか?

      6 自由意志を持ちながらも,神よりも低くつくられたものたちの正しい路を導くため絶対の自由を持つ神は,それではどんな手段を取られましたか? それは忠実の目標を設けることによつてです。その目標とは,つくられたものが,その最高の恩恵者である神とともに王である方に心からの全き献身を献げるかどうかを示すものです。また,その目標はある行いについて合法的な制限を置くものです。そのある行為以上につくられたものがその自由意志を勝手に用いて,しようとする時,神より認められないものでしよう。ヱホバは全能の神でありますので,彼より低く造られたものの相対的自由について,安全な境界をはつきり定め示す絶対の権利を確かに持つて居られました。それですから,そのように合法的に発表された制限によつて,つくられたものは,低い関係すなわち従属の関係にいるものであるということが常に思い起されました。また,つくられたものは,最高の主権者である神の御意をいつもたしかめ知らねばならないということを思い起されました。イエス・キリストは,地上にいる時に,これらのことを良く認識しておられていました。(マタイ 26:39)それに,そのような合法的な制限によつて幸福な存在をすぐ楽しむために是非必要なものが与えられないからといつて,つくられたものは,神によつて,辛いくるしいことがなされたということはありません。さらに,子たちが合法的な権利を持つているものを,神は禁じて差し控えることはありませんでした。そして,最後に,善を行うことについて,ヱホバはその友を試験する権利を持つておられました。アブラハムの友としての関係は,アブラハムの一人息子を犠牲にするようにと言われることによつて試験されました。そのことは,ヱホバが,彼の独り子を贖いとして与えるという良いことを予表しました。―創世 22:1-4。

      7 神の僕たちは,神の二つの職務を,どのように尊重すべきですか? 彼らはどのように神の栄光を表わし示しますか?

      7 ヱホバの制度の中にいるすべてのものにとつて,彼は聖なる神であると共に,絶対の王であります。その二つの職務を持つているために,ヱホバは全き心からの献身と,完全な従順,そして熟練した奉仕を要求する権利を持つています。ヱホバに対して,全く心からそのように行うことは,完全な忠実です。つくられたものが,神であると共に王である方の定められた忠実についての合法的な目標を尊重するならば,この真に聖なる方への忠義と誠実を,彼らは表わし示します。友情の関係を表わし示すものと神が考えられるこの定められた目標にかなうことにより,彼らはヱホバの前で合法的な立場を持つものです。自由意志で決定して,そして愛の心からヱホバの御意をしようと欲するものたちをつくられるのが神の目的でありますから,この神の定められた型に従うものたちは,ヱホバに讃美と栄光を捧げるようになります。それで誠実なものたちは,忠実の目標に従い達することにより,全き心からの献身のうちに神の栄光を表わし示しているということが,聖書から見て言えるでありましよう。(列王紀略上 9:4。詩 26:1-11,12)このことを支持するものとして,ヨシュアは次のように言つて真理を述べました。『彼は,全き心からの献身を求める神であられる。』― ヨシュア 24:19,新世。

      罪

      8,9 罪とは何ですか? ギリシヤ語とヘブル語で,『罪』という言葉の背後にある基礎の意味は何ですか?

      8 さて,全き心からの献身,完全な従順,そして忠実を保つという目標が破られるならば,どういうことになりましようか? それは,目標から外ずれることになります。それは神の律法を破るという非常に悪いことになり,その結果は,神の栄光に達しないということになります。あらゆるものにもまして,それは,神であると共に王である方に対しての叛逆となります。これらはみな罪と呼ばれます。このために最も重い罰である死をうけるのは当然です。今日の国家でも,国家への叛逆は,最も重い罰である死が,その叛逆者にもたらされるのと丁度同じです。いま私たちは,そのような聖くない立場におるのであります。パウロは次のように正しく言いました。『なぜならば,すべての人は罪を犯し,神の栄光に達しないからである。』― ロマ 3:23,新世。

      9 使徒パウロは,ギリシャ語を話す聴衆にギリシャ語で語りましたが,そのギリシャ語では,罪(ギリシャ語でハマーテイア)という言葉は,もともとに外ずれるということを意味しました。例えば,道から外ずれるという具合です。それから,その言葉は,あることをするのに失敗する,私たちの目的に失敗する,私たちの点から外ずれる,間違いをするという意味になりました。パウロはヘブル人でしたので,彼の読んだ聖書のヘブル語の部分では,罪する(ヘブル語でハタ)という動詞は,同じようにもともとは外づれる,それで失敗するという意味でした。例えば,シシ記 20章16節(新世)にはこう書かれています『この民のすべてのなかより,七百人の選ばれた者は左利きの者であつた。これらの者たちは,投石器で石を投げたが,毛すぢも間違わず外ずれなかつた。』またシンゲン 19章2節はこう言つています『考える前に行うことは無益なことである。急いですることは,目標から外ずれることである。』(モハット訳)次のシンゲン 8章36節にも注意してください『私(智慧)から外ずれるものは,自らを害するものである。私を憎む者は,死を愛す。』(ア訳)それで,罪とは,神の御意と律法をすることから外ずれる,または失敗するということです。『罪を行う者は,誰であつてもまた不法のことを行つているのである。それで,罪は不法である。』『すべての不義は罪である。』― ヨハネ第一書 3:4; 5:17,新世。

      10 天使たちが試験されたという証拠はありますか? もしあるならば,それは何時でそしてどのようにしてですか?

      10 完全な忠実という目標によつて,天使たちが試験をされたという聖書の証拠はありますか? あります。ペテロはノアの時代に『罪を犯した』または目標から外ずれた天使たちのことを述べ,そして神はそれら天使たちの不法に対して,彼らを罪するのを差しひかえなかつたと述べています。(ペテロ後 2:4,5)どんな自由意志の道にこれらの天使たちは従いましたので,その生命の路についての明白な禁止をも犯し,そして全き心からの献身にも反対してしまうようになりましたか? 聖書は,このことについて,次のように答えています『さて,人は地の表で,その数が増し始め,娘たちが生まれるようになつた。その時,神の子たち(天使)は人の娘たちに気がつき,彼らが美しい者であることを見た。神の子たちは,選んだすべての娘たちを自分の妻にした。』(創世記 6:1,2,新世)幾年か後に,神が天使たちの上に置いた合理的な制限の一部をイエスは,表わし示しました。天にいる誠実で聖い天使は,結婚したり,嫁いだりすることはないとイエスは言いました。(マタイ 22:30)それですから,ノアの時代の大洪水以前に,人間の娘たちと同棲したすべての天使たちは,完全な従順という目標から外ずれてしまいました。これらの悪い心を持つた天使たちは,神の真の友では全然ないということを証明し,彼らの首領である悪魔サタンと共に,神の敵としてヱホバの天の家族制度からおい出されています。それで,彼らは自らの自由意志をつかつて悪の道に走りましたので,自分自らの上に不幸をもたらし,その最後は全くの絶滅ということになるでしよう。―ルカ 8:31。

      エデンにあつた忠実の目標

      11 エデンで神が置いた忠実の目標は何でしたか?

      11 しかし,最初の完全な人間については,どうでしようか? 聖なる友であると共に恩恵者であるヱホバ神の前にあつて,その道を賢明に導くよう人間の前におかれた忠実の合法的な目標は何でしたか? それは,明白に言われた特定な律法であつて,その律法を破るならば,それは友情の関係を破つたもの,叛逆,そして罪の行いと,神は,考えられるでしよう。その律法は,完全なアダムと彼の美しい妻に明白に置かれました。『そしてヱホバ神はまたこの命令を人間においた「庭園にあるどの木からも,あなたは十分満足に食べてもよい。しかし,善と悪を知る木については,あなたはその木から食べてはならない。なぜならば,あなたがその木から食べる日に,あなたは必らず死ぬであろうから。」』この目標については,不明瞭のところは全くありませんでした。その目標はやさしく理解できました。その目標はやさしく守れました。この目標から外ずれた結果もまた明白に述べられていました。すなわち,そのような叛逆の行いにたいして,人間は必らず死ぬであろう。―創世 2:16,17。

      12,13 アダムとエバの前に神は目標を置かれましたが,なぜそのことは当然に正しいことでしたか?

      12 人間の福利のために,ヱホバ神は忠実のこの目標をつくられましたが,そのことについてはヱホバ神は絶対の権利を持つて居られました。人間が自分自身のことを知つていたよりも,ヱホバは人間をより良く知つていました,なぜならばヱホバは人間を創造された方だからです。この変らずにある目標によつて人間が,その創造者 ― 至高者に依存する低い者であるというのを忘れないことは,人間の福利のためであるとヱホバは知つておられました。神と人間の間にそのような導きの道標を準備することによつて,実際にヱホバは,愛の神として真の愛を表わし示しました。この合法的な制限を受けたからとて,アダムと彼の妻になにも辛く苦しくなることはありませんでした。というのは,楽園の庭園にいて幸福な生活をするのに,彼らから必要なものが取り去られるということではないからです。他の木から果実を食べる合法的な権利を彼らは持つていました。しかし,この特別な木についてだけ,彼らから食べる権利は失われていました。

      13 若しアダムが,受けるにふさわしいことを証明したならば,非常に価値ある賜物が彼のために準備されていました。ヱホバ神は,エデンと呼ばれる地の区域の東の方にあつた大きな地域にアダムとエバをおきました。この大きな地域は,非常に高い程度にまで開墾されていました,というのは神によつて設計されて置かれ,美しい楽園で庭園であると共に荘園になつていたからです。それに加えて,この地域には,あらゆる種類の害を加えぬ動物で一杯でした。同様に,果実を結ぶ木や,あらゆる種類の植物で,この地域は良く植えられていました。実際には,この地域はたんに始まりのものであつて,遂には計り知れない鉱物の資源を持つ全地球にまで拡大されるべきでありました。神の与えられたこのすばらしい美と,平和と,調和,そして大きな自然の富の中にあつて,アダムとエバは幸福な家庭を持ちました。あらゆる完全な贈り物をされる大いなる神は,その証せられた友としてアダムにそのようなものを永遠に持つという価値ある権利を,渡す前に,アダムを試験をしましたが,神は確かにそうする権利を持つておられました。誰が今日,財産の非常に価値ある賜りものを自由に敵に渡すようなことをしますか? 正常な心を持つている人は,そうしないでしよう。神の場合も同じです。人間は最初に,神であると共に王である方に対して忠義を守る友,そして信頼するに足る友であることを自ら証明しなければなりません。この原則と一致して,ヱホバ神は後に,地上にいるイエスを試験されましたが,それはイエスが新しい世の王となるのに果して適しており,そして価値があるかということを試験されたのでした。―創世 2:8。ヘブル 2:18。

      14 さらにどんな理由によつて,ヱホバはアダムと彼の妻を試しましたか?

      14 最初にアダムとエバは,このすばらしい地域に置かれましたが,その寿命はどれ程の期間か定められていませんでした。地上に栄えていた他の動物は,彼らに与えられていた制限された寿命を持つていたことは明らかです。(ペテロ後 2:12)どの特別な動物の種類も,その寿命だけ生きて,地の増しつづける富に貢献をし,それから死んで行きますが,それはその子孫が,その族または種に割りあてられた終生の仕事をして行くためです。(偶然なことですが,動物が死んで行くのをアダムが見たことは,忠実の目標を守わないことに対する刑罰として,ヱホバがアダムに発表して用いられた言葉『死』に強い力がつけ加えられました。)しかし,アダムについては,ヱホバ神は彼の寿命をはつきりと定めませんでした。むしろ,アダムの寿命の期間は,開放の状態であり,忠実の合法の目標を守ることに依存しました。しかしなから,人間の構造は,もともと人間が永久に生きることができるようつくられたものです。それで,贈りもののうちで最も大きな贈りもの,すなわち終ることのない寿命である永遠の生命を楽しむのに,アダムとその子孫たちが価値あるものであるかどうかを試験する更に別の権利を,神は持つておられました。このより大きな贈りものは,庭園にあつて,『生命の木』として知られている別の合法的な道標と結びつけられていました。

      善と悪

      15,16 (イ)この忠実の目標は,あきらかにどんな種類のものでしたか?(ロ)他の法定の象徴について,どんな例がありますか?

      15 忠実の目標が,『善と悪を知るの木』に結びつけられていたということには,何が意味され,示されているようですか? この禁じられた木を実際に触れても,また食べても,身体の上に益もまた害も生じなかつたことは明らかです。むしろ,この木と関係を持つことは,良心に影響するようでした。後になつてアダムにエバがこの木の果実を食べた時に,その肉体の上に表われた反動を聖書は記録していませんが,しかし彼らの良心は,すぐに罪を犯したと感じたということを聖書ははつきりと示しています。『それで,二人の目は開け,彼らは,裸であることを自覚し始めた。』(創世 3:7,新世)彼らの目が開いたといつても,それは彼らの身体の目を指していることはありません,なぜならばその違法の行いをした時に,彼らの目は十分に開いていたにちがいありません。それで,反応をしたのは「彼らの心の目」または良心です。そして,また神の智慧で満たされた大きい頭脳の能力をうけたことではありません。(エペソ 1:18)別の興味ある事実はこうです。正しいものと間違えているもの,あるいは善と悪との間を『知る』,または裁くことは常に支配者であるということです。アダムを庭園から追放した時に述べられた神の言葉の中に,このことは言われています。その言葉から,アダムは何が『善』また何が『悪い』かということを『知る』ために,自分自ら裁き人になろうと決定したことが推測されます。そうすることによつて,彼は天の至上の権威を拒絶しました。『それからヱホバ神は言われた「ここに人間は私たちの一人のようになり,善と悪を知るようになつた。」』これらの言葉によつて,次のように結論づけられます。すなわち,神であるとともに王である方と,人間の間にある互いの政府的な関係にあつて,その木は合法的なしるしまたは象徴,道標として役立つたということです。―創世 3:22,新世。

      16 この木の道標としての性質については,似ている意義を持つものがあります。それは,ラバンとヤコブの間の合法的な徴としてギレアデにつくられた証しの塚は,両人の互いの合法的な行いを牽制しました。(創世 31:48-53)別の例えは,現代のものです。非常に重要な法定の書類が封筒に入れられ,糊で封せられて,その上に公式の印がおされている場合に,開封する資格のない人は,その封筒を開けるべきではありません。もしそのような人が開けるならば,書類の機密性を破ることになります。罪となるのは,封印を実際に破ることではありません。禁ぜられている封印を見過してしまうという不法のくわだてこそ罪となるものです。その禁ぜられている封印とは,封筒の内部にあるものにたいして単に法定の象徴または防禦するものです。

      17,18 (イ)『善』と『悪』の定義は,何ですか?(ロ)何が善であると,誰が決定しますか? これは何を確証づけますか。

      17 次の質問は,『善』とは何ですか? そして『悪』とは何ですか?ということです。善とは,正しくて完全で,そしてヱホバの規則と正しい振舞いの原則と調和一致するものです。悪とは丁度その正反対です。悪とは,間違いであり,正しい振舞いの規則と原則と調和しないものです。創造者である神は,数日の創造の日の結果を『善し』と言われ,判断されました。(創世 1:10,12,18,21,25)成熟していないもの,または子供は,正しい振舞いについて規則をつくり,そうして何が善であり,何が悪いかを定めることができますか? もちろんできません。それですから,地上の父親たちは,子供たちをこらしめて,至上の権威によつて明白に定められている善の標準に従わせようとしているのです。(ヘブル 12:7-11)善であることの規則を決定するのは,下の位のものではありません。そう決定する方は,法律を作る上位のものです。ヱホバ神こそ最終の裁き主でありまた支配者です。そして,実際に何が善く,何が悪いかを決定される方です。

      18 ある人はイエスのところに来て,何が善であるかについて彼に尋ねました。イエスは,正しい答えを彼に与えて,こう示しました。すなわち,ヱホバ神だけが善を決定される唯一人の方であり,また神はつねに正しいことを命令されるのであるからつくられたものは,神の命令することに従わねばならないということです。『さて,みなさい! ある一人の人が彼のところに来てこう言つた「先生,永遠の生命をえるために,どんな善を私はしなければなりませんか?」 イエスは彼に言われた「何が善であるかについて,なぜ私に尋ねるのか? 善である方は一人おられる。生命に入りたいと欲するならば,いましめをつねに守りなさい。」』― マタイ 19:16,17,新世。

      19,20 (イ)この地に,罪はどのように導き入れられましたか?(ロ)原罪は,性の密通となぜ関係がありませんでしたか?

      19 悪魔サタンは卑劣にも,何が善であるかを決定するヱホバ神の権利に対して,論争を引きおこしました。それはいまから約6000年前,エデンの中のことでした。サタンはエバに悪い考え方をうつし,下位のもので低いものである彼女の中に悪い欲望をかき立てて至上の支配者ヱホバを無視させ,ヱホバの代りに,何が善いか悪いかについて彼女自らで判断させようとしました。『それを食べたその日に,あなたの目は必らず開き,また必らず神のようになつて,善と悪とを知るようになると神は知つているからである。』エバの中にあつたこの悪い欲望は,充ちみちて彼女はその禁ぜられた木を食べるという行いをするようになりました。『それで,女は,木の果実が食物として善く,目に美しく,見るからに良いものであるのを見た。女はその果実を取り始め,食べ始めた。後に,夫が共にいた時女はいくらかの果実を夫に与えた。そして夫はその果実を食べ始めた。』ここにおいて,アダムとエバは,完全な従順と忠実という神の目標から外づれ,永遠の恥辱を自らの身にもたらしました。全くその時から彼らは不幸,不法,不潔そして結局には死という道に入り従いました。彼らは至上主権者御自身の規則と言葉を無視し,そして重い叛逆という行いをいたしました。―創世 3:5,6,ヤコブ 1:14,15新世。

      20 キリスト教国の中の或る宗派はこんな風に主張しています。すなわち,アダムの原罪は,密通をしたことと関係していたというのですが,その主張は間違いであるということに注意しなければなりません。性交は問題とする点ではありませんでした。それは,人間にたいする定められた目標となるのではありませんでした。それより前の命令によつて,夫と妻が性関係を持つことは,合法的となつて許されていました。(創世 1:28を見なさい)アダムの原罪は,定められた目標から外づれることをした悪い行いでした。アダムは,神であると共に王であるヱホバを拒否して叛逆し,何が善であり,何が悪であるかについて規則の別な形式をうけ入れましたが,それが彼の原罪でありました。

      結果は聖くない

      21,22 アダムの罪の結果は何でしたか? 家族の無資格とは何ですか?

      21 この一つの叛逆の行いは,意識的にした罪のものであり,その結果はアダムだけではなく,アダムより生じた彼の家族にも全地に亙つて,災いをもたらすこととなりました。『一人の人によつて罪は世に入り,その罪によつて死が世に入つた。それで,死はすべての人に及んだというのはすべての人はみな罪を犯しているからである。』(ロマ 5:12,新世)アダムは,いまや法律を破つたものであり,以前には神であると共に王であつた方の敵となりました。それで,直ちにヱホバによつて法庭に呼び出され,女とまたサタンの支配した蛇とともに有罪であると判定され,宣告されました。アダムと彼の妻は,それ以後は叛逆者として神の聖い制度から追い出されました。人間は,エデンの完全な庭園から追放され,最後には死ぬという限定された寿命を与えられました。そして,顔に汗をながして生活を立てるために,未だ開墾されていない地の部分に住まねばなりませんでした。(創世 3:16-19)ヱホバ神は,もはや彼らの愛ある友でもなければ,賢い助言者でもありませんでした。そして,アダムとエバは神の制度より追い出されてしまいましたので,彼らはその未熟でまた未経験な判断にしたがつて,自給自活の道を構じなければなりませんでした。激しい仕事の辛い苦しさ,人間のつくつた制度がもたらした失望と悲しみ,そして彼らの息子が,気の狂つた人殺しの兄弟によつて殺されて,最初の人間が死ぬのを見るという非常な悲劇これらすべての苦しみは,かつては完全な人間であつたという構造の機能をだめにしてしまう傾向へと導きました。病気がひろまり,そして遂には死がその後に続きました。完全な人間イエスが木の上にかかつた時,彼の神経系統の上に生じたおそろしい苦しみは,どのように彼の死を早めたかを忘れないでください。

      22 子供たちは両親の資産と負債を相続します。アダムは,聖くない者,叛逆の追放者,エデンの美し庭園の地を持つ権利を有しない者,限定されない生命の寿命を持つ権利を有しない者として,死にましたので,これらの無資格または不利益は子孫の上にも来ました。それで,叛逆の族長として,アダムはすべての人間の人種の上に,家族の無資格をもたらしました。

      23,24 (イ)最初の1600年間,どんな種類の記録を罪はつくりましたか?(ロ)これらの結果に対して,ヱホバはどのように見られましたか?

      23 追放されてから後に,何が善であり,何が悪であるかについて,アダムはその聖くない不完全な判断に依存しなければなりませんでしたから,彼の930年という寿命の残つている年の間,彼はますます真の忠実という神の最初の目標から外づれていつたことでしよう。腐敗して下落して行くこの傾向は,次から次へと時代がたつにつれて彼の子供たちはより大きな堕落をするということへ導きました。ついに約1600年の後に,人間はそんなにも堕落して聖くなくなり,完全な忠実という目標から非常に外づれましたので,ヱホバは地に人間をつくつたことを残念に思い心苦しく感じました。ただノアだけが,全く義しいものであると証明されました。ノアもまた罪人として生まれましたので,完全という神の始めの目標から外づれてはいましたが,しかし彼の時代の他の人たち程に堕落していませんでした。詩 51:5。

      24 『ついに神は,人間の悪が地に大きくなり,人間の心にある考えはいつも悪だけに傾いているということを見られた。それでヱホバは地に人間をつくられたことを残念に思い,心苦しく感じました。それでヱホバは言われた「私が創造した人間や,家畜や,匍う動物や,天の飛ぶものを,地の表面からふき去ろう。なぜならば,私はそれらのものをつくつたことを残念に思うからである。」しかし,ノアは,ヱホバの目の中にあつて恵みを受けました。ノアは義しい人でした。その当時の人々の中にあつて,ノアは欠点のない人であるということを証明しました。ノアは神と共に歩きました。』(創世 6:5-9,新世)ある人はこんな風に尋ねるでしよう。ノアの時代の大洪水で,8人の良い人を除いて,神はすべての人を滅ぼしたのであるならば,その後になつて,人間が完全の状態にまで引き上げられ向上される見込みはどのようでしたか? この質問の答えについては,次に続く記事を見てください。

  • 人間が完全な忠実に達する道
    ものみの塔 1954 | 7月1日
    • 人間が完全な忠実に達する道

      1 回復された地上の楽園を得るということは,誰に関係することですか?

      前の記事の中で,人間は神に対する忠実を破り,そして目標から外づれましたので,どのように楽園を失つたかが分りました。いまから,罪人アダムの贖われた子孫たちは,回復された楽園をどのように得るかを研究しましよう。彼らが地上の回復された楽園を得るといつても,それは最初のアダムの家族のすべての者が,無条件で戻ることを意味しません。そうではなく,これは,別のアダムの下にある新しい家族制度に来る人々だけに関係するということが判ります。別のアダムとは,生命を与える父であつて,賢い牧羊者のように新しい群に注意を払います。イザヤ 9:6。ヨハネ 10:11-16。

      2,3 アダムをエデンから追放して後に,神はなぜ彼に律法を与えませんでしたか? 生活のすべての関係支配する律法の完全な法典は,何時そして誰に与えられましたか?

      2 まず次の質問をしましよう,アダムがエデンの楽園から追放された後に,ヱホバは彼に完全な従順という目標を再び語りましたか? エデンの庭園での法庭の裁きの後に,叛逆したアダムにむかつて神が再び語つたという証拠はありません。アダムが完全であつた時に,神は彼に律法を与えました。しかしアダムは利己的な心をもつてその神の律法を破りましたから,いまや不完全で叛逆したアダムに,神は律法を繰り返して話したりまたは新しい律法を与えて,アダムが最高の法律を与える神にたいして完全な忠実という目標に達するかもしれないなどと希望することはないでしよう。後になつて,ヱホバはアダムの子孫たち,たとえばアベル,エノク,ノアそしてアブラハムに話しをされました。これらの人たちは不完全ではありましたが,聖い人たちでありましたので,神は御自分の目的をいくらか示されました,そして神はアブラハムに責務を与え,彼に命令法令,また律法を与えたという記録があります。(創世 26:5。ペテロ後 1:1,21; 3:2)しかし,生命のすべての関係を支配する律法の,完全でそして詳細をつくした法典が,それらのうちの誰かに与えられたという記録はありません。実際に,モーセの時代まで神はそのようなすべてのものを含む律法の法典を与えなかつたと,パウロは示しています。しかしながら,罪とその友である刑罰の死は,王として支配し続けました。だが,アベル,エノク,ノアそしてアブラハムを含んで人間は,どれ程までに人間の完全さについての神の目標から外づれていたかを決めることはできませんでした。どの程度まで,人間は『神の栄光』に達していないかを知ることはできまんでした。なぜ?『なぜならば,(モーセを通しの)律法にいたるまで,罪は世にあつたが,律法のない時,誰も罪を負わせられることはない。しかしながら,死は王としてアダムよりモーセに至るまで支配し,アダムのした過ちの状に似ずに,罪をしなかつた者たちをも支配したのである。アダムは,将来に来るべき者に似ているものである。』ここにおいて,アダムのような者,すなわち第二のアダムの来ることをパウロは暗示しています。―ロマ 5:13,14,新世コリント前 15:45

      3 しかし,モーセの時以前にも,ヱホバは他の律法を与えて,違犯者であるということを明らかにしませんでしたか? そうです。アブラハムに与えられた律法の他にもノアに与えられたもので,血を食べることを禁じ,また殺人を禁ずる律法がありました。(創世 9:4-6)アブラハムの孫の子にあたるヨセフは,主人の妻と淫行をすることは神に対して罪を犯すことであると語りました。(創世 39:7-9)ヱホバは,アビメレクの王を差しとめて,彼が知らずにアブラハムの妻と姦淫を行つてヱホバに対して罪を犯すのを防ぎました。(創世 20:6,7)これらの特定な律法は,ある人間の関係を支配しました,しかしそれらは,イスエルのような一国民を支配する完全な法典をつくり上げませんでしたし,また神であるとともに王である方への聖なる献身の特別な道を詳しく述べるものではありませんでした。生活のあらゆる面で,神であると共に支配者である方にたいしての特別な行いを支配するそのような法典は,仲立ちであるモーセを通して神が紀元前1513年律法をイスラエルに与えた時までありませんでした。

      4,5 その律法の契約は,合法的には誰とだけに結ばれていましたか? どんな関係をそれは確立しましたか? それは,どのように聖いことを含みましたか?

      4 律法の契約は,ただユダヤの国民とだけに結ばれていましたが,彼らがその契約の下で学んだこと,そしてその契約が指し示したことがらは,結局にはすべての国家の民に利益となるべきものでした。律法の契約は,10のいましめと,そして約600の追加された律法によつて構成された法規の一つの法典でした。全部の法典は,憲法として役に立ち,そしてイスラエル人を聖なる国民へと組織し,それでイスラエルは神であると共に王であるヱホバとの間に政府関係を持つようになりました。このことについて,ヱホバはイスラエルに次のように言いました。『もしあなた方が私の声に固く従い,そして私の契約を守るならば,あなた方は,たしかに他のすべての国民の中より私の特別な所有物となるであろう。なぜならば,全地は私のものであるからである。そしてあなた方は,私にとつて祭司と聖なる国民の国となるであろう。』― 出エジプト 19:5,6,新世。

      5 モーセを通して与えられたこの律法の法典は完全でした。それは正しいもので,良く,そして聖なるものでした。(詩 19:7。ロマ 7:12。テモテ前 1:8)その法典は,聖なることの高い標準を表わし示しました。『聖い』そして『聖いこと』という言葉は,この律法の契約と関連して130回以上用いられています。その法典には,次のことがらを命ずる律法が書き含まれていました。すなわち,聖い安息日職務を掌る祭司たちへの聖い衣服,神であると共に王である方と彼の聖い僕たちとの間にある聖い集りの場所聖い注ぎ油,『聖いことはヱホバに属す』という文字が刻みこまれている大祭司の冠,聖い事がら,聖い大会,聖い寄附などです。また,民は清い食物を食べたり,体をいろいろ洗つたり,罪の代りの犠牲をささげたり,そして死んだものから離れていることによつて,彼らの神であると共に王である聖い方の前にあつて厳格に清さを保たねばならないと,律法は更に命令しています。―出エジプト 16:23; 28:2; 29:29; 30:25; 39:30。レビ記 5:15; 23:3。民数紀略 18:19。

      叛逆

      6,7 第一と第二のいましめを破ることは,なぜにそのような重い罰をうけるのが当然でしたか?

      6 ある現代の人は,生きている神を無分別にも非難し,第一と第二のいましめを破つた者たちに,神が死の宣告を命ぜられたことについて悪くいいます。彼らの主張によるとそれらのいましめは,たんに道徳の律法であるというのです。(申命 13:6-10。レビ記 20:2)そのような人々は,次の事実を知つていません。すなわち,これら二つのいましめは,たんに道徳の法典への紹介であつたばかりでなく,国民についての書かれた法律の標準の一部であつたという事実です。実際には,憲法の前文であり,そしてそれだけに限らず,各イスラエル人が,最高の王ヱホバに対して持つた個人的な忠誠をそれらのいましめは支配したということです。第二のいましめによれば,心からの全き忠誠が要求されていることに注意しなさい。『あなた方は,それら(偶像)に礼をしてはならないし,また奉仕をするよう誘われてもならない。なぜならば,あなた方の神である私ヱホバは心からの全き献身を求める神である。』(出エジプト 20:5; 34:14,新世)それですから,イスラエル人が,ヱホバ以外の他の神に奉仕して,清い崇拝から離れ脱落し,または偶像に奉仕して偶像崇拝をするようになる時,それは第一と第二のいましめを破ることになります。国の中で最も重い犯罪を犯したのですから,最も重い刑罰をうけるのも当然であります。

      7 聖書についての権威ジョージ・ブッシュが,この点について言つていることを聞いてごらんなさい。『出エジプト記についての手帳,批判,そして実際』という本の第3巻4頁で,彼は次のように言つています。『偶像崇拝は,もつとも悪化した人間の道徳の教えから見ても過ちとなつたばかりでなく,国家に対する叛逆の行いとなつたのである。偶像崇拝をすることは,実質上には,彼らの認めていた支配者の権威を拒絶したことであつた。それは,原の契約を破るもので,神に対する公やけの叛逆であり,誓いの忠誠を全く棄て去ることであつた。それであるから,あらゆる政府の確立された原則に基いて,彼らは最も重い罰をうけるのは,全く当然なことであつた。』

      8 (イ)今日の国家の法律は,主権の威厳に反対して行われる行いを,どのように述べていますか?(ロ)今日のヱホバの証者は,何に慎重な考を払つていますか,そしてなぜ?

      8 実際に,今日の国家の法律に従うと,主権の力の威厳に反対する前述の行いは,高い叛逆であると考えられます。そのような犯罪は,叛逆罪と言われます。叛逆罪とは,法律的には,主権の力に反対して行われた行為のことです。またはもつと特定の時には,主権の支配者の威厳を傷つけるいろいろな罪過の行為のことです。ボービアーの法律辞典(1934)の689頁は,それを『重い叛逆』であるとはつきり示しています。それですから,ヱホバの主権の威厳に対して,アダムがエデンで犯した罪過や,そして多くのイスラエル人たちが,彼らの神であり王である主権者への忠誠を破つたことは,現在の法律の標準に従つてさえも,非常に重大な罰を受くべき犯罪をしたことになるのです。罪とは何であるかを明白に示し,そして聖いことを強くすすめた律法の下に,イスラエル人たちはおりましたから彼らは祝福をうけることもできましたが,また失敗をして,目標から外づれ,そして律法を破つたために不幸な結果をうけたのでした。(申命 28:1-68)小心な悪口者たちに次のことを注意させなさい。すなわち,今日のヱホバの証者は,第一と第二のいましめの基調となつている原則に,いまでも慎重な考慮を払い,いかなる国の国旗に対しても敬礼せず,また偶像崇拝をしないということです。それは,ヱホバ神への全き心からの献身が,できるだけ清いままの状態でいるためです。

      9 律法の手段によつて,ユダヤ人たちは自らを義とするのに成功しましたか? あなたの答えは,なぜそうですか?

      9 不完全なイスラエル人たちが,この律法を完全に守つて,全くの聖さと正義という神の高い啓示された標準にまで達することはできましたか? 答えは,もちろん「いいえ」という,否定です。そのことは,律法の契約の行われていた約1500年の間,ユダヤの国民について書かれている聖書の記録に示されています。自分自らを義しいと思つた多くのユダヤ人たちは,律法の働きによつて彼らは聖くなり,そして,聖さについての神の高い標準にかない,また神は律法によつて彼らを義しいものと言い表わす,あるいは彼らを義としなければならぬと考えました。しかし,パウロは強調して,次のように示しています『しかしながら,律法の働きによつては,人間は神の前にあつて義しいと言われない』― ロマ 3:9-20,新世。

      なぜに律法の契約

      10 どのような面で,律法はユダヤ人たちに役立ちましたか? 律法は彼らに何を示したにちがいありませんか?

      10 それでは,聖い完全な律法は,なぜユダヤ人たちに与えられましたか? 聖書に示されていますが,それには理由が三,四あります。第一に,聖さについての合法的な標準は,ユダヤ人たちにとつて鏡として役立つたに違いありません。法律の要求に反対して行う自分たちの生活を調べて,この鏡を見る度毎に,その鏡は罪とは何であり,そして彼らが神の完全な栄光からどれ程に離れていて,不十分であるかを示したに違いありません。このことについて,パウロは正しく次のように言つています『律法がなかつたならば,私は実際に罪を知るようにならなかつたであろう。』『なぜならば,律法によつて,罪についての正確な知識があるのである。』(ロマ 7:7; 3:20,新世)律法によれば,彼らの神であるとともに王である方の不快を和らげるために,動物の犠牲が必要でした。そして,その律法の下にあつて,彼らは全き心からの献身が不足しており,また欠点を持つているということを見る度毎に,真の贖い主が必要であると彼らは強く認識したに違いありません。それで,彼らが信仰を持つことのできるキリストへの願いを彼らは持つたにちがいありません。『この信仰が到達する以前には,私たちは律法の下にあつて守られ共に閉じ込められ,必らず表われるべきはずの信仰を待ち望んでいた。結局において,律法は,キリストに導く私たちの教師であつた。それは,信仰によつて私たちが義と言われるためである。』― ガラテヤ 3:23,24,新世。

      11 さらにどんな理由によつて,律法の契約は与えられましたか? 事実は何を示しますか?

      11 律法はどれ程にユダヤ人たちを導いて,キリストが来られた時に,彼をうけ入れさせねばなりませんでしたか? ヱホバ神との新しい関係を始めるようキリストが現われた時,律法はユダヤ人たちをして第二のアダムを認めさすことができたにちがいありません。そのことは,律法に書かれていました。『そして,あなた方は私の命令と裁きの決定を守らねばならない。もし人がそれらを守るならば,そのものはそれによつて生きるに違いない。私はヱホバである。』(レビ記 18:5,新世。ロマ 10:5)別の言葉で言うならば,その当時に全く聖い神の標準として役立つたすべての律法を残らず守つた人は,罪の無い人であつたでしよう。または,ヱホバから義しいと言われ,完全な人間としての生命を持つ権利が与えられたものでしよう。それで,この人は,罪を犯す以前の最初の完全なアダムと相当します。それですから,律法の契約によつて忠実なイスラエル人たちは注意をいつも払つていて,完全な贖い主としての資格を持つそのような完全な人を認めることができたのでした。これは又,彼らの約束されたメシヤすなわちキリストが果さねばならぬ別の要求でありました。完全に聖く,そして罪が無く,また神であると共に王であるヱホバに全く心から献身していて,しかも完全な人間としての生命の権利を持つというこの非常に大切な要求に,イエス,キリストはかなつていましたか? それにたいしては,全く確定的の肯定の答えです。イエスは彼の忠実を守りました。イエス自ら,自分は義しいと考えていた当時のパリサイ人たちを非難してこう言いました『あなた方のうちの誰が私を罪に定めるのか?』(ヨハネ 8:46,新世)イエスの資格についてのこの点に対して,パウロは次のように証言を加えています『このような大祭司は,私たちにふさわしいものとなつた。その方は愛ある御親切な方であり,偽りなく,汚されず,罪人から離れてそして天よりも高くなつたのである。』― ヘブル 7:26,新世。

      12 なぜ律法は相当せる贖いが必要でしたか? 誰がその贖いを与えましたか?

      12 実に一人の神がおられ,また神と人間との間に一人の仲立ちがおられる。すなわち人間キリスト,イエスである。彼はあらゆる人間のために御自身を,相当する贖いとして与えられた。イエス,キリストは,最初の完全なアダムに相当した人間であつたとこの聖句は確証しており,そしてまた不従順の故に失われたアダムの魂の代りに,人間の贖い主として彼の魂を与えられたということをも確証しています。神の律法は,あるものにたいしてはそれと相応せるもの,魂にたいしては魂というこの要求を前もつて予表していました。『しかし,もしも命をなくすような事故が起きるならば,あなた方は魂に対して魂を与えねばならない。』忠実な人間の多くの人のために贖いとして自分の魂を与えたとイエスは個人的にも証言しました。『人の子が来たのは,仕えられるためではなくて,仕えるためであり,多くの人のために引き換えの贖いとして自分の魂を与えるためである。』― テモテ前 2:5,6。出エジプト 21:23。マタイ 20:28,新世。

      新しい道

      13 人間のために,どんな新しい道が必要でしたか? なぜ? 誰を通して新しい道は來ましたか?

      13 すでに学びましたように,律法の契約による取り極めは,不完全で堕落したユダヤ人たちを,完全で聖いという神の高い標準にまで引き上げませんでした。それで,神より見て,人間がその完全さに引き上げられることは,ちがつた取り極めによつてなされねばなりません。『実に,律法(契約)は,なにものをも完全にしなかつた。しかし,より良い希望がもたらされたことは,完全にしたのである。そのより良い希望を通して,私たちは神に近づいているのである。』それでは,人間を神に近づけるのに成功し,そして遂には,神より見て人間を義しきものまでに引き上げる,そのより良い取り極めとは何ですか? 西暦33年ヱホバはイエスの『苦しみの杭に律法を釘づけすることによつて』合法的に律法を終結させましたが,その時に律法契約の制度は終りました。それは新しい取り極めへの道を開きました。その新しい取り極めは,神の前にあつて正義へと人間を引き上げるものであり,贖い主であるイエス,キリストによつて指導されるもので,神の恵みある御親切の道です。『罪があなた方の支配者であつてはならない,というのは,あなた方は律法の下にいるのではなくして,恵みある御親切の下にいるからである。』『律法はモーセを通して与えられた。恵みある御親切と真理は,イエス,キリストを通して来たのである。』― ヘブル 7:19。コロサイ 2:14ロマ 6:14。ヨハネ 1:17,新世。

      14,15 (イ)新しい道は,どのように明白に始められましたか? 先ぶれは,どんな発表をしましたか?(ロ)『終りのアダム』は誰ですか? 人間を向上させる新しい計画について,彼はなぜに実際的な説明を与えることができましたか?

      14 地上で宣教した3年と半年の間,イエスは完全に引き上げられ,向上される新しい道を全く準備し,そしてその新しい道が忠実な人間の永遠の福利のためにどのように働くかを示されました。西暦29年の秋に,ヨルダンの河でイエスが洗礼をうけた時に,キリストの先ぶれの発表者であつた洗礼者ヨハネは,次のような注意を引く驚きの言葉を発しました,『「みなさい,世の罪を取りさる神の小羊! ………私が水で洗礼をし始めたのは,彼がイスラエルに明白に表わされるためである。」……「天から鳩のように聖霊が降りてくるのを私は見た。そしてそれは彼の上にとどまつた。……それから,私はそれを見て,このものは神の子であると証言するのである。」イエスの献身した日に,ヱホバ神の聖なる活動力は,鳩の形のさまに現われて,イエスの上にくだりました。それは目に見えるはつきりした方法のうちにされたものでしたが,天の父は,罪を取り去るための贖いの犠牲として,イエスが完全な人間の生命を捧げるのをうけ入れられたということを証明しました。このようにして,罪は真にゆるされ,罪の結果からの奇蹟的ないやしと,また新しい正義の世にあつて,完全で,罪のない生命を永遠に楽しむという希望が得られる新しい予定は始められました。ヨハネ 1:29-34,新世。

      15 この献身の日より以後,イエスは神によつて新しい霊的のものと認められ,天にあつて霊の生命を持つ希望が与えられました。『最初の人アダムは,生きている魂となつた。終りのアダム(イエス,キリスト)は,生命を与える霊となつた。』(コリント前 15:45,新世)イエスは苦しみの杭の上にかけられて死んで,彼の人間としての犠牲が完成されるまで,さらに3年と半年の間,完全な人間としての肉体ではありましたが,この地上にあつて,いろいろな実際的な説明を与えることを神より許されました。それらの説明は,人間を完全にまで引き上げ向上されるというこの新しい予定が,ヱホバの予定の時にどのように行われるかということを示すものでした。

      新しい家族の報い

      16,17 (イ)神の合法の手順によれば,ヱホバは,人間を回復させる予定をどのようにして可能にいたしますか?(ロ)人間の家族の処罰と,また義と認めることの間に,どんな対照を聖書は与えていますか?

      16 『終りのアダムが,生命を与える霊となつた』ことは,第二のアダムであるイエス,キリストが,新しい家族の取り極めの下にあつて生命を与えるということを示しているにちがいありません。最初のアダムは,族長または家族の首でありましたが,子孫たちに生命を伝える前に,非常な罪人となりました。それですから,子供たちを持ち始めた時,彼は子供たちに,罪に満ちた大きな無能力,病気,そして死を伝えました。アダムの子孫にはそれらのものを取り去ることは,決してできなかつたのです。このように,最初のアダムのために,ひどい家族の処罰は,古い人間の種族からもたらされているのであつて,その刑罰は病気とか死の形に表われて,いまでもひき続いているのです。古いアダムの家族に属する成員たちには,決してうける価値のないような愛ある恵みと御親切をヱホバ神は持たれていますので神は,忠実の目標から一度も外づれたことがなく,そして人間としての生命の権利の価値を持つている新しいアダムを準備されました。神の合法の手順によれば,このことによつて何がなし得られますか? それによつてもつともすばらしい救いの予定はでき,新しい家族の首を中心とする新しい人間の家族が形づくられることなのです。そのような新しくて義しい家族の首は,全く十分に価値をうけるような義しい記録を持つておりますので,彼の新しい家族制度の成員になるよう紹待されるすべての人々にたいして,善,いやし,そしてついには完全という生命の結果を伝える力を合法的にもまた実際にも持つているのです。古いアダムの家族のうえにある家族の処罰と,『終りのアダム』であるイエス,キリストの義しい贖いの行いによつて,信ずるものに来る報いについて,どのようにパウロは対照しているかに注意をいたしなさい。

      17 『それで,(最初のアダムの)一つの過ちによつて,すべての種類(古いアダムの家族全部)の人々への結果は処罰であつた。それと同じ様に,(第二のアダムであるイエス,キリストの)義とする一つの行いによつて,(信じそして従う)すべての種類の人々への結果は,生命をうけるのに義であると認めることである。一人の人(最初のアダム)の不従順によつて,多くの人は罪人とされたが,それと同じく一人の人(第二のアダム)の従順によつて,多くの人は義なるものとされるであろう。』― ロマ 5:18,19,新世。

      回復の型

      18 イエスのくびきを負い,真の幸福をうけるために,誰が,イエスの弟子になるよう招待されましたか?

      18 イエスが地上で宣教をされたときのいろいろな出来事を振返つて考えてみましよう。そして,地上でヱホバを愛する人々が,完全の目標にまで引き上げられる時のその回腹の予定を行うのに,イエスがどのようにその結果,規模,そして時間を示されたかを見てみましよう。先ず,霊的な必要物を意識していた人々,罪を負わされて後悔していた人々,神を愛した素直な人々,正直な心を持つ人々,義に飢え渇いている人々,憐み深い人々,そして迫害をされた人々にたいして,イエスは真の幸福を与えたということに私たちは注意します。イエスは,偽善者や,自ら義しいと考えていた人々,また賢くしてそして知識のある者と自称する多くの人々を招待し,罪をゆるす新しい仕方の下にあつて,彼の弟子になるようすすめませんでした。「霊的の必要を意識している者は幸福である‥‥義に飢え渇いている者は幸福である‥‥あなたは,これらのことを賢くして知識のある人々より隠して,幼児に示された。荷を負つて,疲れている人々は,私の,ところに来なさい。私は生気づけよう。私の,くびきを取つて,私の弟子となりなさい。なぜならば,私は温和であつて,心のへりくだつた者であるから,あなた方は魂に生気を得るであろう。私の,くびきは親切のものであり,私の荷は軽いのである。』(マタイ 5:3-10; 11:25,28-30)『私のところに来なさい』というイエスの招待を聞いた人々は,多くの正直な心の人々であり善意者でした。そしてそれらの人々は,イエスの足跡に従うクリスチャンとなりました。今日でも多くの人は聞いて,同様な路に従います。

      19 人類を完全に回復する行いについて,どんな型をイエスは置きましたか?

      19 これらのユダヤ人の善意者たちの中で,40以上の驚くべき奇蹟をイエスは行いました。これらの奇蹟はみな,彼の将来の贖いの犠牲に基いて行われそれは人類を完全に回復する日が来る時に,イエスの用い得る力を説明し示すものでした。彼は気違いをいやし,悪の霊を出し,熱病をなおし癩病をきよめ,中風をいやし,しなびた手を回復し,12年間血が流れ続けた女をいやし,視力を回復させ,啞をして話しをさせ,腰の曲つていた婦人を真真ぐにし,水腫の人をいやし,切り取られた耳を元通りにし,そして,最後に,あらゆる奇蹟の中で最も大きなものである三つの復活を彼は行いました。回復のいやしは,なんと広い範囲に及んでいたのでしよう。イエスキリストは,新しい地の社会にあつて,永遠に続くいやしをする力を持つていますが,その力も及ばないような,罪の生み出す妨害とかまた人間の堕落という証拠は全くありません。

      20 (イ)実体の安息にあつて,イエスはどんな種類の人々をいやすと,彼は明らかに示しましたか?(ロ)このことが行われる時を,イエスはどのように示しましたか?

      20 イエスの宣教の中で,私たちを慰める別の事実はこうです。イエスは,その奇蹟のいやしをユダヤ人だけに限定しませんでした。彼が,ユダヤ人でない人,そしてサマリア人でない人を直した二つの場合がありましたが,それは,回復の時において,イエスの臣下となるよう招待されている全国民からの人々は,この大きないやしの奉仕をうけるであろうということを示しています。(マルコ 7:24-26。マタイ 8:5-10)と同様に,イエスは多くの奇蹟を安息の日に行つたということに注意するのも興味深いことです。イエスがこれらの能ある業を行つて,安息を破つていると,パリサイ人たちは実際に彼を非難した程です。安息日に善をすることは,律法にかなうものであるとイエスは言い,そして最後に彼は安息の主であると話しました。それで彼の永遠の回復の予定の時について,ここに緒が見出されます。それは,キリスト,イエスが,主として支配する千年の安息である,千年の御国支配の間であつて,誠実な人は,忠実の目標にかなうよう助けられます。―マタイ 12:1-8; 19:28。

      罪はゆるされる

      21 地上で宣教している時,他のどんな権威をイエスは明らかに示しましたか? クリスチャンにとつて,これはどんな慰めでありますか?

      21 イエスはまた,罪をゆるす権威を持つていました。イエスがこの力を持つていると言いましたので,ある学者たちはイエスを非難して,彼は神を冒瀆していると言つた程です。これに答えて,彼が奇蹟を行うことも,また『あなたの罪はゆるされた』ということも全く易しいことであると,イエスは示しました。イエスにとつて,奇蹟をすることも,また罪のゆるしを言うことも,同様に易しいものであつて,両方は回復の予定に関係しています。『「しかし,人の子は,地上にあつて罪をゆるす権威を持つていることをあなた方に知らすために,一」それから彼は中風にかかつている人に言つた。「起きなさい。寝床を畳んで,家に行きなさい。」』(マタイ 9:6,新世)真のクリスチャンが悔攻めて,罪をゆるしていただくよう,イエスの名にあつて父なるヱホバに祈る時,そのゆるしは与えられるということを知るのは,なんという大きな救いの気持をそのクリスチャンに感ぜさせることでしよう! ―マルコ 11:25。新世。

      22 ヱホバの民は,どんな幸福をいま持つていますか?

      22 『その不法の行いはゆるされ,その罪がおおわれる者たちは幸福である。その罪を,ヱホバが決して考えにいれられない者は幸福である。』(ロマ 4:7,8,新世)今日,油注がれた残れる者たちは,信仰を持つていましたので義と認められ,そして相続して来た罪の過去の記録は拭き消されました。他の羊もまた,その罪がゆるされているという印しを持つています。両方の群は,神の真理の言薬によつて,霊的ないやしをうけているという事実と相共に,ヱホバのすべての証者は,現在であつても非常な幸福をたのしんでいるということを,これは意味しています。彼らは心をいれかえており,そしてすでに霊的には聖さという高い目標にまで引き高められています。そうです,彼らは神であると共に王であるヱホバに全き心からの献身を捧げ,ヱホバに対して絶対の忠実を保とうと決心しています。しかし,その完全な標準に達するまで,人間はまだまだ長い道を行かねばならないということを私たちは知つています。でも,私たちは一歩一歩,ヱホバの準備される道をたゆまず歩みたいと願います。ヱホバは,恵みある御親切を持たれて,その道を準備されましたが,それは,人間が,神の像のうちにあつて人間としての完全に引き上げられ,向上するためです。

      23 イエス・キリスト千年の御国によつて,神が人間を引き上げ向上させることの最終の結果は何でしようか?

      23 より一層の幸福を得る時が来るのを,私たちは期待をもつて待ちのぞんでいます。その時はハルマゲドンの後です。そして肉体のいやしが,生き残つた者たちや,彼らの子孫,そして復活された者たちに対して始められます。人類は過去6000年の間,罪の中にあつて神のもとの目標から離れ,非常に低い水準にまで落ちましたが,しかし,その速度の早められた予定によつて,イエス,キリストは一千年の中に,人間の新しい家族を引き上げ向上させることをなしとげるでしよう。肉と心においても,全くの完全の状態に彼は人間を回復させますので,完全と忠実についてヱホバの再び言われる条件に,人間はたやすくかなうことができるでしよう。罪と死の王のつらい支配の下にあつた時代の痛み,苦痛,失敗,まちがい,弱さ,なやみ悲しみ,不具,短所,病気そして怠慢などはその時においては全く忘れ去つてしまうことでしよう。それから,再建のその千年の最初の部分の間に平行する予定の仕事として,全地はエデンのような楽園になるでしよう。千年が終つて,向上して高められた多くの人類が,終ることのない寿命の賜物をうけるにふさわしいかどうかを決定する最終の試験に通過した後,全く生気に溢れる人類は,聖く,完全で真に忠義を保つ者たちであつて,楽園に居ながら将来を迎えるでありましよう。彼らは,その自由意志の力を用いて,彼らの聖なる神の栄光を保ちますので,地上にいる光り輝く臣下たちは,永遠に亙つてよろこびつづけ,永しえに亙つて幸福でありましよう。(エペソ 1:21)彼らは永久に,ヱホバ神への忠実を保ち,ヱホバ神を立証いたします。

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