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  • あなたは神についてどのように考えますか
    目ざめよ! 1979 | 7月8日
    • あなたは神についてどのように考えますか

      十一歳になるジェイニーに,「神様ってどんなかただと思う」と尋ねると,ジェイニーは興奮した口調でこう答えました。「神様は長い茶色の髪をしていて,尼さんのかぶっているずきんをかぶっているの。それから,黒いマントを着て,黒いつっかけ靴をはいているわ。神様って,ただ大空をぶらぶらしながら,世界を見おろしているの」。

      一風変わった考えだと思われますか。子供のたくましい想像力として一笑に付してしまいたいと思うかもしれません。しかし,今日の大人の多くはどんな見解を持っているでしょうか。神に関する大人たちの考えはどれほど明確で,どれほど事実に基づいているでしょうか。

      宗教著述家,ジャック・ドュクエスネは,自著,「今日の人々のための神」の中でこう書いています。「ちょっとの時間でも質問されると,これらのクリスチャンの大半は,結局,当惑しているのを認めることになる。そうした人々はもはや,自分たちが何を信じているのか,何を信ずべきなのか,なぜ信じているのかを知らない」。そのように感じられたことがありますか。神に関する自分の考えを言葉に表わすのは難しいと思われますか。

      神に関してはありとあらゆる考え方があります。幼いジェイニーの考えはその一つにすぎません。幾億もの人が信じているのは,すべての人の運命を前もって定め,退けられた者を永遠の責め苦に遭わせる神です。他の人々にとって,神とは人格的な存在ではなく,宇宙にくまなく存在する力のことです。中には,命のない自然の力を神と結び付ける人もいます。

      あなたは神についてどのようにお考えですか。それは明確なものですか。あるいは,神とはだれで,神は何を擁護しておられるかについて,考えがあいまいになっていますか。それとも,自分の宗教が神について描き出したもののために,神から疎外されてきましたか。そして,それは,ご自分の退けた人々を情け容赦なく責め苦に遭わせる,執念深い神を想像するのが難しく思えたからですか。

      神に関して正しい考えを持つのは,なぜそれほど大切なのでしょう。それがないなら,わたしたちは自分の崇拝の真髄を見失ってしまうからです。例えば,最近,6,000万人に上る会員を擁する英国国教会の指導者は,次のような劇的な言葉を語りました。「神は許してくださる。わたしたちはそれを認めたくはない。認めようものなら,会衆が衝撃を受ける。しかし,わたしたちは[神に]耳を傾けなくなった。また,外見を保ち,習慣的に儀式は行なっているものの,わたしたちの霊的な命は失われている」。a 自分にとって神が現実的な存在でないなら,神に関する自分の考えがぼやけているなら,わたしたちも,ただ「外見を保ち,習慣的に儀式を行なっている」ことになるでしょう。神に関する見方がもうろうとしていると,ただ“危険を冒さない”ために,神を信じるということになりかねません。わたしたちは,事実上,17世紀のフランスの哲学者,パスカルの述べた次のような“かけ”をしていることになります。「神が存在しているという方にかけるのだ。もし勝てば,まるもうけだし,負けても,損はしない」。

      あなたもきっと,神を信じると唱える大多数の人と同様,「わたしたちの上に,何か,あるいはだれかが存在するはずだ」と考えておられるのかもしれません。しかし,その場合でも,わたしたちの上に,「何か」が存在すると考えるのと,「だれか」が存在すると考えるのとでは,大きな相違があります。「何か」と言った場合,神は単なる力,宇宙の発電所のようなものであることを暗に示していますが,「だれか」と言った場合,人格的な存在を指し示していることになります。どちらが真実でしょうか。もし神が人格的な存在であれば,神は実際にどのような方なのでしょうか。数多くの意見がありますが,どうすれば真理を知ることができますか。

      はっきりとした,明確に定義された答えを与えている一冊の宗教書があります。その本は聖書です。幾百万人もの読者はその本の述べる神の概念に心温まるものを感じ,この神を愛するようになりました。聖書は神についてどんな説明をしているでしょうか。では,これからご一緒に検討してゆきましょう。

      [脚注]

      a ロンドン・デイリー・テレグラフ紙は,「コーガン博士“信仰の喪失”について司教たちに警告」という見出しの下に,1978年7月23日,第11回ラムベス会議の席上,カンタベリ大司教が400人の司教を前にして行なったこの演説について報じました。

  • 人格性をもつ神
    目ざめよ! 1979 | 7月8日
    • 人格性をもつ神

      神はどのような方ですか。では,聖書は神をどのような方として描き出していますか。聖書は神を非人格的な発電所や抽象的な“高次の原則”のようなものとしてではなく,感情や好き嫌いのある,知的な存在者として描写しています。そのような描写は,筋道だった論理と調和しています。どうしてそう言えますか。

      次のページに描かれている人たちのように,雲のない晩に星のまたたく空を見上げたことがあるでしょう。その天空の壮大さとそこに見られる秩序に感銘を受けたのではありませんか。単なる非人格的な力が,“盲目的な偶然”によって,そのようなすばらしい秩序を造り上げたと結論することができますか。それとも,それは知的な存在のなせる業でしょうか。

      なぜ知性を有する創造者の存在を信じるかと尋ねられた際の,一実業家の次の回答は,納得のゆく答えとなっています。

      「うちの工場の女の子が,17の部品から成る肉切り機の組立て方を学ぶのに大体二日かかります。各々別個の軌道を持つこれら無数の天体は,すべて宇宙の中で実に見事につり合いを保っていますが,それは単に偶然に起きたのかもしれません。

      「それらの天体は,十億年もの間揺れ動いた結果,ついに自ら秩序を造り上げたのかもしれません。一介の刃物製造業者にすぎない私には分かりませんが,私に分かることがあります。それは,肉切り機の17の部品を洗いおけに入れて,今後170億年揺すり回したところで,肉切り機が出来上がることは決してないということです」。

      ちょうど,知性を持つ人間だけが肉切り機の部品を精密な機械へと組み立てられるのと同じように,論理的に考えれば,ご自分の意のままになる,恐るべき力を備えた理知ある存在者のみが,高度に組織された宇宙を秩序正しく配置されたという結論に達します。

      聖書はこの良識ある結論と少しも矛盾していません。聖書は次のように述べているからです。

      「あなたがたの目を高く上げて見よ。だれがこれらのものを創造したのか。それは,数によってそれらの軍勢を引き出される方であり,そのすべてを名によって呼ばれる。あふれる動的勢力ゆえに,彼は

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