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6イ イエス ― 神のような者; 神聖を備えた者新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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6イ イエス ― 神のような者; 神聖を備えた者
ヨハネ 1:1 ―「言葉は神(a god)であった(神のようであった; 神性を備えていた)」
ギ語,καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος(カイ テオス エーン ホ ロゴス)
1808年
「言葉は神(a god)であった」
「新約聖書」(ニューカム大主教の新しい翻訳に基づく改訂訳: 修正本文付き),ロンドン。
1864年
「神(a god)は言葉であった」
エンファティック・ダイアグロット訳(エ21,行間の読み),ベンジャミン・ウィルソン訳,ニューヨークおよびロンドン。
1935年
「言葉は神性を備えていた」
聖書 ― アメリカ訳,J・M・P・スミスおよびE・J・グッドスピード訳,シカゴ。
1950年
「言葉は神(a god)であった」
クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳,ブルックリン。
1975年
「神(すなわち神性を備えた者; 不定冠詞を伴い,(小文字)は言葉であった」a
「ヨハネ福音書」,ジークフリート・シュルツ訳,ドイツ,ゲッティンゲン。
1978年
「神のような者はロゴスであった」b
「ヨハネ福音書」,ヨハネス・シュナイダー訳,ベルリン。
1979年
「神(不定冠詞を伴い,小文字)はロゴスであった」c
「ヨハネ福音書」,ユルゲン・ベカー訳,ドイツ,ウュルツブルク。
ギリシャ語θεός(テオス)は単数形の叙述名詞で,動詞の前に置かれており,しかも定冠詞を伴っていないため,上記の翻訳では,「神」(a god),『神性を備えている』,「神のような者」といった表現が用いられています。これは無冠詞のテオスです。「言葉」であるロゴスが共にいる神(the God)は,原文において ὁ θεόςというギリシャ語の表現を取っており,テオスの前に定冠詞「ホ」の付いた形で示されています。これは冠詞の付いたテオスです。冠詞を伴う名詞の構造は実体や人物を指し示すのに対し,動詞に先行する単数形の無冠詞の叙述名詞はあるものの特質を示します。ですから,「言葉」もしくはロゴスが「神」(a god)であった,または「神性を備えていた」,または「神のような者」であったというヨハネの表現は,「言葉」もしくは「ロゴス」が,これと共にいた神(the God)と同じであったことを意味するものではありません。それは単に,「言葉」つまりロゴスのある特質を表わしているに過ぎず,その方が神と全く同一であることを示すものではありません。
ギリシャ語本文中には,マルコ 6:49; 11:32; ヨハネ 4:19; 6:70; 8:44; 9:17; 10:1,13,33; 12:6など,動詞に先行する単数形の無冠詞叙述名詞の例が数多く見られます。対象となっているものの特質や特性を明らかにするため,英訳聖書の場合,翻訳者たちはこれらの箇所で,叙述名詞の前に不定冠詞“a”を挿入しています。これらの句において叙述名詞の前に不定冠詞が挿入されているのですから,ヨハネ 1:1の無冠詞の叙述名詞θεόςの前に不定冠詞“a”を挿入し,これを“a god”(神)と読むようにするのはそれと同様に正当なことです。聖書はこうした訳し方が正確であることを確証しています。
フィリップ・B・ハーナーは,「聖書文献ジャーナル」(Journal of Biblical Literature,第92巻,フィラデルフィア,1973年,85ページ)に掲載された,「限定詞としての無冠詞叙述名詞: マルコ 15章39節およびヨハネ 1章1節」と題する自分の論文の中で次のように述べています。ヨハネ 1:1にあるような,「無冠詞の述語が動詞に先行している[文節]は主として限定詞的意味を持つ。これは,ロゴスがテオスの特質を有していることを示しているのである。述語であるテオスについて,これを特定されたものと取る根拠はどこにもない」。ハーナーは結論として,その論文の87ページでこう述べています。「ヨハネ 1:1の場合,述語の持つ限定詞的働きは極めて顕著であるゆえに,その名詞を特定されたものとみなすことはできない」。
マルコとヨハネの福音書のうち,さまざまな英訳聖書が,動詞の前にある単数形の無冠詞叙述名詞に不定冠詞を付けて訳出し,対象となる名詞が不特定のものであって限定詞的役割を果たしていることを示そうとしている箇所を下に掲げます。
聖句
新世界訳
ジェームズ王欽定訳
アメリカ訳
新国際訳
改訂標準訳
今日の英語聖書
an apparition(幻影)
a spirit(霊)
a ghost(幽霊)
a ghost(幽霊)
a ghost(幽霊)
a ghost(幽霊)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a real prophet(真の預言者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a slanderer(中傷する者)
a devil(悪魔)
an informer(密告者)
a devil(悪魔)
a devil(悪魔)
a devil(悪魔)
a manslayer(人殺し)
a murderer(殺人者)
a murderer(殺人者)
a murderer(殺人者)
a murderer(殺人者)
a murderer(殺人者)
a liar(偽り者)
a liar(偽り者)
a liar(偽り者)
a liar(偽り者)
a liar(偽り者)
a liar(偽り者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a prophet(預言者)
a thief(盗人)
a thief(盗人)
a thief(盗人)
a thief(盗人)
a thief(盗人)
a thief(盗人)
a hired man(雇われ人)
an hireling(雇い人)
a hired man(雇われ人)
a hired hand(雇われ手)
a hireling(雇い人)
a hired man(雇われ人)
a man(人間)
a man(人間)
a mere man(ただの人)
a mere man(ただの人)
a man(人間)
a man(人間)
a thief(盗人)
a thief(盗人)
a thief(盗人)
a thief(盗人)
a thief(盗人)
a thief(盗人)
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6ロ 「証しをするものは三つ」新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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6ロ 「証しをするものは三つ」
「証しをするものは三つあるのです。霊と水と血であり,その三つは一致しています」
― ヨハネ第一 5:7,8。この翻訳は,C・ティッシェンドルフ(第8版,1872年); ウェストコットとホート(1881年),アウグスチヌス・メルク(第9版,1964年); ホセ・マリア・ボーベル(第5版,1968年); UBS; ネストレ-アーラントによるギリシャ語本文と一致しています。
小文字写本,No.61(16世紀)およびNo.629(ラテン語およびギリシャ語,14-15世紀)とウル訳クは,「三つあるのです」の後に,次の言葉を加えています。「天には,父,言葉,そして聖霊; そして,これら三つは一つである。(8)また,証しをするものが地に三つある」。しかし,シナ写,アレ写,バチ写,ウル訳,シリ訳ヘ,ペはこれらの言葉を省いています。
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6ハ ご自身のみ子の血をもって新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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6ハ ご自身のみ子の血をもって
使徒 20:28 ― ギ語,διὰ τοῦ αἵματος τοῦ ἰδίου
(ディア トゥー ハイマトス トゥー イディウー)
1903年
「ご自身のみ子の血をもって」
現代英語聖書,F・フェントン訳,ロンドン。
1950年
「ご自身の[み子]の血をもって」
クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳,ブルックリン。
1966年
「ご自身のみ子の死によって」
今日の英語聖書,アメリカ聖書協会,ニューヨーク。
文法的に言えば,この句は,ジェームズ王欽定訳やドウェー訳がしているように,「ご自身の血をもって」と訳すことができるでしょう。これは多くの人にとって難解な句とされてきました。アレ写,エフ写,ベザ写,シリ訳ヘ(欄外)(モファットの訳はこれらに基づいている)が,「神の会衆」とではなく,「主の会衆」と読んでいるのは恐らくそのためです。本文をそのように読むなら,「ご自身の血をもって」という読み方には少しの困難も伴いません。しかし,シナ写,バチ写,ウル訳は「神」(定冠詞を伴う)と読んでおり,ここを普通に訳せば,『神の血』となります。
「血をもって」という句のあとに,τοῦ ἰδίου(トゥー イディウー)というギリシャ語が続いており,この句全体は「ご自身の血をもって」とも訳せます。この「ご自身」という語のあとに単数形の名詞が省かれているものと考えられます。それは,恐らく,神と最も近い関係にある,独り子イエス・キリストであると思われます。J・H・モールトンは「新約ギリシャ語文法」(A Grammar of New Testament Greek,第1巻[序文],1930年版,90ページ)の中でこの点にふれ,次のように述べています。「ἴδιος(イディオス)について話を終える前に,明確に示された名詞を伴わないὁ ἴδιος[ホ イディオス]の用法について述べておかねばならない。これはヨハネ 111 ; 131,使徒 423; 2423に見られる。我々はパピルスに,近い関係にある者に対する愛称語としてこうした単数形の用いられている例を見いだす。……Expos.VI.iii.277ページで,わたしはあえてこのことを取り上げ,使徒 2028を『ご自身のものである方』と訳したいと思う人々(B・ワイスを含む)への励ましとした」。
ホートも,「ギリシャ語原語による新約聖書」(The New Testament in the Original Greek,ウェストコットおよびホート編,第2巻,ロンドン,1881年,付録,99,100ページ)でこう述べました。「現在あるすべての文献に影響を及ぼすようなごく初期の写しを作るさい,ΤΟΥΙΔΙΟΥ[トゥー イディウー,『ご自身の』]のあとのΥΙΟΥ[ヒュイウー,『み子の』]が脱落したと考えられなくはない。これを挿入すればこの句は少しも難解でなくなる」。
新世界訳聖書はこの句を字義通りに訳出し,ἰδίουのあとに角かっこに入れた「み子」を加えて,「ご自身の[み子]の血をもって」と読んでいます。
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6ニ 「すべてのものの上におられる神」新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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6ニ 「すべてのものの上におられる神」
ローマ 9:5 ― ギ語,καὶ ἐξ ὧν ὁ χριστὸς τὸ κατὰ σάρκα, ὁ ὢν ἐπὶ πάντων, θεὸς εὐλογητὸς εἰς τοὺς αἰῶνας· ἀμήν
(カイ エクス ホーン ホ クリストス ト カタ サルカ,ホ オーン エピ パントーン,テオス エウロゲートス エイス トゥース アイオーナス; アメーン)
1934年
「肉の系譜によれば,キリストは彼らから出たのです。すべてのものの上におられる神が代々にわたってたたえられますように。アーメン」。
リバーサイド新約聖書,ボストンおよびニューヨーク。
1935年
「キリストも(生来の系譜に関する限り)彼らの出です。(すべてのものの上におられる神がいつまでもたたえられますように。アーメン。)」
新訳聖書,ジェームズ・モファット訳,ニューヨークおよびロンドン。
1950年
「キリストも,肉によれば彼らから出たのです。すべてのものの上におられる神が永久にほめたたえられますように。アーメン」。
クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳,ブルックリン。
1952年
「肉によれば,キリストは彼らの種族の出です。すべてのものの上におられる神がいつまでもたたえられますように。アーメン」。
改訂標準訳,ニューヨーク。
1961年
「生来の系譜によれば,メシアは彼らから出たのです。すべてのものをしのぐ至上の位におられる神がいつまでもたたえられますように。アーメン」。
新英訳聖書,オックスフォードおよびケンブリッジ。
1966年
「人間としてのキリストは彼らの種族に属しています。すべてのものを支配しておられる神がいつまでも賛美されますように。アーメン」。
今日の英語聖書,アメリカ聖書協会,ニューヨーク。
1970年
「メシアは彼らから出ました。(わたしは人としてのその出身について語っています。)すべてのものの上におられる神がとこしえにたたえられますように。アーメン」。
新アメリカ訳,ニューヨークおよびロンドン。
これらの翻訳は,神に言及し,かつその備えのゆえに神がたたえられるようにと述べる独立した文あるいは節の文頭にあるものとしてὁ ὤν(ホ オーン)を扱っています。ここと詩編 67:19,七十人訳ではθεός(テオス,『神』)という主語のあとにεὐλογητός(エウロゲートス,『たたえられる』)という述語があります。―詩編 68:19の脚注参照。
G・B・ウイナーは自著,「新約聖書の慣用句に関する文法」(A Grammar of the Idiom of the New Testament,第7版,アンドーバー,1897年,551ページ)の中でこう語っています。「主語が主要な概念を成している場合,とりわけそれが他の主語と対照を成している場合,述語は主語のあとに置かれることがあり,時にはその位置になければならない。詩編 67:20,セプトゥアギンタ[詩編 67:19,七十訳]と比較。そしてローマ 9:5の場合も,もしὁ ὢν ἐπὶ πάντων θεὸς εὐλογητός[ホ オーン エピ パントーン テオス エウロゲートス]などの言葉が神に言及しているなら,これと同じであり,これらの語の位置はきわめて適切であり,むしろこの位置になければならない」。
ローマ 9:5の構文に関する詳細な研究が「第四福音書の原作者と批評論文」(The Authorship of the Fourth Gospel and Other Critical Essays,エズラ・アボット著,ボストン,1888年,332-438ページ)の中で行なわれています。345,346,および432ページで,アボットはこう述べています。「しかし,ここで,ὁ ὤν[ホ オーン]はτὸ κατὰ σάρκα[ト カタ サルカ]によって,ὁ χριστός[ホ クリストス]から分離されている。読む際には,この間に休止が入るべきである。τό[ト]が付されることによってκατὰ σάρκα[カタ サルカ]が特別に強調されているため,その休止は長くなる。また,これに先行する文は文法的に完結しており,論理的にも他の何をも必要とはしない。キリストがユダヤ人から出たというのは肉に関する事柄だからである。一方,すでに(334ページで)見たように,この節のすぐ前に記されている,キリストの到来がもたらす計り知れない祝福によって最高潮となる数々の祝福は,当然のことながら,すべてのものを支配しておられる方である神に対する賛美と感謝の念を示唆している。同時に,頌栄は文末の᾿Αμήν[アメーン]という語によっても示されている。それゆえ,いかなる観点からしても,これを頌栄の構文と取るのが平易で自然である。……σάρκα[サルカ]のあとに休止を入れるのが自然であることは,我々のもとにある最も古い写本類のこの語のあとに点の打たれている事実にも示されている。これを立証している写本としてはアレ写,バチ写,エフ写,L……がある。大文字体の写本,アレ写,バチ写,エフ写,L……の他に,σάρκαのあとに終止符を打っている小文字写本を少なくとも26は挙げることができる。その終止符は一般に,それらの小文字写本が αἰῶνας[アイオーナス]や᾿Αμήν[アメーン]のあとに打っているのと同じである」。
ですから,ローマ 9:5は神に賛美と感謝を帰しているのです。この聖句はエホバ神とイエス・キリストとを同一視するものではありません。
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6ホ 「偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの」新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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6ホ 「偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの」
テトス 2:13 ― ギ語,τοῦ μεγάλου θεοῦ καὶ σωτῆρος ἡμῶν Χριστοῦ Ἰησοῦ
(トゥー メガルー テウー カイ ソーテーロス ヘーモーン クリストゥー イエースー)
1934年
「偉大な神およびわたしたちの救い主であるキリスト・イエスの」
リバーサイド新約聖書,ボストンおよびニューヨーク。
1935年
「偉大な神およびわたしたちの救い主であるキリスト・イエスの」
新訳聖書,ジェームズ・モファット訳,ニューヨークおよびロンドン。
1950年
「偉大な神およびわたしたちの救い主であるキリスト・イエスの」
クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳,ブルックリン。
1957年
「偉大な神およびわたしたちの救い主であるイエス・キリストの」a
「聖書」(La Sainte Bible),ルイ・スゴン訳,パリ。
1970年
「偉大な神およびわたしたちの救い主であるキリスト・イエスの」
新アメリカ聖書,ニューヨークおよびロンドン。
1972年
「偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの」
「現代英語の新約聖書」,J・B・フィリップス訳,ニューヨーク。
ここでは二つの名詞がκαί(カイ,「および」)で結ばれており,最初の名詞の前には定冠詞τοῦ(トゥー)が付いているのに対して,二番目の名詞の前には定冠詞がありません。同様の構文がペテロ第二 1:1,2にも見られますが,2節では神とキリストのあいだの違いが明確にされています。このことは異なった二者がκαίで結ばれている時,前者に定冠詞が付いているなら,後者に定冠詞を繰り返し付ける必要のないことを示しています。ギリシャ語本文中のこうした構文の例は使徒 13:50; 15:22; エフェソス 5:5; テサロニケ第二 1:12; テモテ第一 5:21; 6:13; テモテ第二 4:1に見られます。この構文は七十人訳にも見られます。(箴言 24:21の脚注参照)「新約ギリシャ語イディオム・ブック」(An Idiom Book of New Testament Greek,C・F・D・ムール著,英国,ケンブリッジ,1971年,109ページ)によると,『偉大な神,およびわたしたちの救い主であるイエス・キリストという考えは……[定冠詞が]繰り返されていなくても,κοινή[コイネー]ギリシャ語において可能』です。
テトス 2:13に関する詳細な研究が「第四福音書の原作者と批評論文」(The Authorship of the Fourth Gospel and Other Critical Essays,エズラ・アボット著,ボストン,1888年,439-457ページ)の中で行なわれています。その452ページで次のような注解がなされています。「新約聖書から例を取ってみることにしよう。マタイ 21:12に,イエスが,『神殿で売り買いしている者たちすべてを追い出した』,τοὺς πωλοῦντας καὶ ἀγοράζοντας[トゥース ポールーンタス カイ アゴラゾンタス]ことが記されている。ここで,売っている者と買っている者が同一の人物として示されているなどとは道理の上から考えられない。マルコでは,ἀγοράζονταςの前にτούςが挿入されていて,両者が区別されている。ここでは,両者の区別が読者の知力で間違いなく判別できるようにされている。我々が取り上げている例の場合[テトス 2:13],σωτῆρος[ソーテーロス]の前の冠詞が省かれていることは,わたしにとって少しも問題ではない。その理由はἡμῶν[ヘーモーン]を加えることによってσωτῆρος[ソーテーロス]が十分に特定されている(ウイナーの説)からではない。というのは,神もキリストもしばしば『わたしたちの救い主』と呼ばれており,ἡ δόξα τοῦ μεγάλου θεοῦ καὶ σωτῆρος ἡμῶν[ヘー ドクサ トゥー メガルー テウー カイ ソーテーロス ヘーモーン]だけであれば,ごく当然のこととして,単一の主体,すなわちみ父である神に適用されると理解されよう。しかしながら,σωτῆρος ἡμῶν[ソーテーロス ヘーモーン]にἸησοῦ Χριστοῦ[イエースー クリストゥー]が加えられていることにより事情は全く異なってくる。それによって,σωτῆρος ἡμῶνは,パウロの通常の言葉遣いに従って,彼がὁ θεός[ホ テオス]と呼ぶ方とは区別される人物もしくは存在者に限定されることになる。そのため,あいまいさを避けるための定冠詞を繰り返して付ける必要はなかったのである。同様に,テサロニケ第二 1:12の場合も,κατὰ τὴν χάριν τοῦ θεοῦ ἡμῶν καὶ κυρίου[カタ テーン カリン トゥー テウー ヘーモーン カイ キュリウー]という表現は単一の主体に適用されると考えるのが自然であり,二人の別個の主体が意図されているのであれば,κυρίουの前に冠詞が必要とされるであろう。しかし,κυρίου[キュリウー]にἸησοῦ Χριστοῦ[イエースー クリストゥー]が付け加えられるだけで,冠詞を挿入することなしに,二人の別個の主体に適用されることになる」。
ですから,テトス 2:13では,エホバ神とイエス・キリストという二人の方のことが言及されています。聖書全巻を通じて,エホバとイエスを同一の存在とみなすことはできません。
a フランス語からの翻訳。他は英語からの翻訳。
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6ヘ イエス ― アブラハムが存在する前からいる新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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6ヘ イエス ― アブラハムが存在する前からいる
ヨハネ 8:58 ―「アブラハムが存在する前からわたしはいる」
ギ語,πρὶν ᾿Αβραὰμ γενέσθαι ἐγὼ εἰμί
(プリン アブラアム ゲネスタイ エゴー エイミ)
4/5世紀
「アブラハムがいた前からわたしはいる」
シリア語訳 ― 印刷版: 「シリア語重ね書き写本からの四福音書の翻訳」(A Translation of the Four Gospels from the Syriac of the Sinaitic Palimpsest),アグネス・スミス・ルイス訳,ロンドン,1894年。
5世紀
「アブラハムがいるようになる前からわたしはいた」
シリア語クレトニア写本 ― 印刷版: 「四福音書のクレトニア訳」(The Curetonian Version of the Four Gospels),F・クローフォード・バーキット訳,第1巻,英国,ケンブリッジ,1904年。
5世紀
「アブラハムが存在する前からわたしはいた」
シリア語ペシタ訳 ― 印刷版: 「ペシタ訳からの英訳シリア語新約聖書」(The Syriac New Testament Translated into English from the Peshitto Version),ジェームズ・マードック訳,第7版,ボストンおよびロンドン,1896年。
5世紀
「アブラハムがいるようになる前からわたしはいた」
グルジア語訳 ― 印刷版: 「古代グルジア語訳ヨハネ福音書」(The Old Georgian Version of the Gospel of John),ロバート・P・ブレーク,モーリス・ブリエール共編,「東方教会教父研究」(Patrologia Orientalis),第26巻,第4分冊,パリ,1950年。
6世紀
「アブラハムが生まれる前からわたしはいた」
エチオピア語訳 ― 印刷版: 「エチオピア語……新約聖書」(Novum Testamentum……Ethiopice),トーマス・ペル・プラット編,F・プラエトリウス改訂,ライプチヒ,1899年。
ヨハネ 8:58で言い表わされている行為は,「アブラハムが存在する前」に始まり,今でも依然として進行状態にあります。このような状況のもとでは,一人称単数,直接法現在形のεἰμί(エイミ)は直接法完了形に訳すのが適切です。これと同じ構文は,ルカ 2:48; 13:7; 15:29; ヨハネ 5:6; 14:9; 15:27; 使徒 15:21; コリント第二 12:19; ヨハネ第一 3:8にも見られます。
この構文について,「新約聖書の慣用句に関する文法」(A Grammar of the Idiom of the New Testament,G・B・ウイナー著,第7版,アンドーバー,1897年,267ページ)はこう述べています。「時として,現在形が過去時制をも含むことがある。(Mdv.108)例えば,その時点より前から始まり,依然として続いている状態をその動詞が表わしている場合 ― 次の例に示される継続状態:ヨハネ 15:27 ἀπʼ ἀρχῆς μετʼ ἐμοῦ ἐστέ[アプ アルケース メト エムー エステ],8:58 πρὶν ᾿Αβραὰμ γενέσθαι ἐγὼ εἰμι[プリン アブラアム ゲネスタイ エゴー エイミ]」。
同様に,「新約聖書ギリシャ語文法」(A Grammar of New Testament Greek,J・H・モールトン著,第3巻,ニゲル・ターナー,英国,エディンバラ,1963年,62ページ)は次のように述べています。「ある行為が過去に生じ,論じられているその時点に至るまで継続していることを表わす現在形は,実質的に完了相と同じである。ただ一つ違っているのは,その行為が依然として継続状態にあるとみなされていることである。……新約においてこのような例は多く見られる: ルカ 248; 137……1529……ヨハネ 56; 858……」。
イエスとエホバを同一視しようとして,ἐγὼ εἰμί(エゴー エイミ)は,神によって用いられるヘブライ語の表現アニー フー,「わたしは彼である」と同じものであると主張する人がいます。しかし,このヘブライ語の表現は人によっても用いられることを覚えておかなければなりません。―歴代第一 21:17の脚注参照。
イエスとエホバを同一視しようとして,出エジプト 3:14(七十訳)を引き合いに出す人もいます。そこには᾿Εγώ εἰμι ὁ ὤν(エゴー エイミ ホ オーン)という句があり,これには,「わたしは存在者である」もしくは「わたしは存在している者である」という意味があります。出エジプト 3:14の表現はヨハネ 8:58の表現とは異なっていますから,その主張を正当なものとして認めることはできません。(出エジプト 3:14の脚注参照)クリスチャン・ギリシャ語聖書全体を通じて,イエスとエホバを同一の存在者とみなす根拠はありません。―ペテロ第一 2:3の脚注; 付録6イ,6ホ参照。
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7イ コブラは音に反応する新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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7イ コブラは音に反応する
詩編 58:4,5 ―「耳をふさぐコブラのように耳が聞こえない。……それは蛇使いの声を聴くことがない」。
1954年1月10日付,ニューヨーク・タイムズ紙,第4欄,9ページに,「蛇を音楽によって『操る』ことができるか」という見出しのもとで詩編 58:4,5に関する次の報告が載せられています。「ボルチモア[米国]にあるマウント・サイナイ病院の薬理学研究員,デービッド・I・マクト博士は,コブラの毒に関する世界的権威の一人である。(コブラの毒は血液障害などの薬物治療に一般に用いられている。)同博士は,コブラとコブラの毒について研究するうちに,インド各地から来た,高い教育を受けた多くのインド人の医者と親しくなったことを述べている。それらの医者は皆,コブラが笛などから出るある種の音楽的な音に反応を示すという点で意見の一致を見ている。彼らの報告によると,反応を強く引き起こす音楽と,そうでない音楽とがあるらしい。マクト博士は,田舎の地方で遊ぶ子供たちが,暗くなってからは歌を歌ってはいけない,コブラが子供の声に引き付けられるかもしれない,と注意されることを指摘し,何度も耳の聞こえないものとして蛇に言及しているシェークスピアは……一般の誤解をそのまま述べていたに過ぎない,と語っている。一方,マクト博士が言うには,蛇に聴力のあることを示唆している詩編 58編5節の作者は正しかった。……蛇はある生物学者たちの主張に反して,蛇使いの動作によってではなく,音によって『操られる』のだ,と同博士は述べた」。
ドイツの動物学誌,「グルジメクの動物,ジールマンの動物の世界」(Grzimeks Tier, Sielmanns Tierwelt),1981年7月号,34,35ページに発表された記事の中で,その筆者はスリランカの自分の私有地のシロアリの巣に住んでいた一匹のコブラについて同様のことを述べています。彼は蛇使いにその野生の蛇をつかまえて,踊らせてくれるよう頼みました。その筆者は次のように報告しています。「私は自分の招いたその蛇使いにコブラが確かにそこに住んでいたことを得心させた,すると彼はそのシロアリの巣の前に座り,自分の笛を吹き始めた。長い時間がたってから ― もう何も起こらないだろうと思っていた時に,コブラが穴から数センチ首を出した。蛇が口を開ける前に,その蛇使いは急いで近寄り,蛇の首を親指と二本の指の間にはさんで押さえた」。それからそのインド人は実際に蛇を踊らせました。
したがって,コブラが実際に「蛇使いの声を聴く」という証拠は存在しています。
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7ロ 異議を示す反発的な質問新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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7ロ 異議を示す反発的な質問
マタイ 8:29 ―「神の子よ,わたしたちはあなたと何のかかわりがあるのですか」。
イエスに対する悪霊たちのこの質問は,ヘブライ語聖書の中の次の8か所に出て来る,古代の慣用句の形を取った質問です: ヨシ 22:24; 裁 11:12; サ二 16:10; 19:22; 王一 17:18; 王二 3:13; 代二 35:21; ホセ 14:8。クリスチャン・ギリシャ語聖書でもシリア語訳でも,このヘブライ語の古代の表現が字義通りに訳されており,次の6か所に出て来ます: マタ 8:29; マル 1:24; 5:7; ルカ 4:34; 8:28; ヨハ 2:4。マタイ 8:29の質問は字義通りに訳すと,「わたしたちとあなたにとって何がありますか」となり,「わたしたちとあなたの間にどんな共通のことがありますか」,「わたしたちとあなたはどんな共通の事柄を有していますか」,または上記の訳のように,「わたしたちはあなたと何のかかわりがあるのですか」という意味になります。
ヘブライ語聖書の場合でも,ギリシャ語聖書の場合でも,いずれもそれは反発的な質問で,示唆されたり,提案されたり,疑われたりした事柄に対する異議を表明するものです。この点は,エズラ 4:3(エスドラス書第一 5:67,七十訳)に見られるその肯定形式の表現によって裏付けられます。その箇所は,「あなた方はわたしたちの神のために家を建てる点でわたしたちとは何のかかわりもありません」と訳されており,字義通りには,「わたしたちの神に家を建てることはあなた方とわたしたちに属しません」となります。同じ表現で命令法の形式を取ったものが,ピラトに対する彼の妻の願いを表わす文です。それは,自分の夫ピラトの前で裁判にかけられているイエスに関する願いですが,マタイ 27:19に,「その義人にかかわらないでください」と訳されています。字義通りに訳すと,「あなたとその義人の間に何もありませんように」となります。
イエスがこのごく一般的な形式に託して述べた母に対するヨハネ 2:4の質問も,これと同様の表現とみなさなければなりません。そのすべての特徴は,イエスの取るべき行動を提案する母に対する反発または抵抗にあるからです。それゆえ,この場合にもわたしたちは他の同様な質問すべてと同じ訳し方をしました。「婦人よ,わたしはあなたとどんなかかわりが
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