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    ものみの塔 1985 | 2月15日
    • ニサン14日 ― 記念すべき日

      「わたしの記念としてこれを行なってゆきなさい」― コリント第一 11:24。

      1 イエスはどのように世を征服されましたか。

      「勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」。イエスはご自分の死の前夜,慰めと励ましを与えるそのような言葉を述べて,忠実な11人の使徒たちを強められました。イエスはご自分が世の征服者であることを実証しておられました。エホバへの忠節を破らせようとする,敵対者である悪魔サタンのあらゆる企てに首尾よく抵抗されました。そして今,何時間か後に迫った苦しみの杭の上での死を前にして,まさしく最後まで忠誠の歩みを忠実に貫くことを確信しておられました。―ヨハネ 16:33。ヘブライ 12:2。

      2 イエスはなぜ「主の晩さん」を制定されたのですか。

      2 すべての人にとって重要なこの出来事は,今から1,952年前,ユダヤ人の教暦で陰暦第一の月に当たるニサンの14日に生じました。この日は,イエスの足跡に従う献身的な追随者たちにとって,決して忘れてはならない日となります。イエスは,その後に生じようとしていた事柄の意義を,ご自分の忠節な追随者たちが決して見落とすことがないようにするため,記念すべき特別な晩さん,使徒パウロが「主の晩さん」と述べたものを制定されました。パウロは神の霊感のもとに,イエスがその制定に際して,当時その場に居合わせた弟子たちに,「わたしの記念としてこれを行なってゆきなさい」と命令されたことを述べています。(コリント第一 11:20,24)あなたがイエスの追随者であることに関心をお持ちなら,イエスはなぜそのように命じられたのか,その命令はわたしたちに何を行なうことを求めているのか,それは自分の将来にとって何を意味するかを認識しておられますか。

      記憶に残る日

      3 なぜ,またどのような状況で,ニサン14日は初めて記念すべき日とされましたか。

      3 ニサン14日が,記念すべき日として取り分けられたのは,人類史上これが最初ではありませんでした。西暦前1513年,エホバはご自分の僕モーセを通してイスラエル人にこのように命じられました。「この日[ニサン14日]はあなた方のための記念となり,あなた方はエホバに対する祭りとしてこれを代々祝わなければならない」。当時のこの祝いを行なうよう,人々を促したものは何でしたか。エホバご自身がこう答えておられます。「これはエホバに対する過ぎ越しの犠牲であって,神はエジプト人に災厄を下された際,エジプトにいたイスラエルの子らの家々を過ぎ越(された)」― 出エジプト記 12:14,27。

      4 イスラエルがエジプトから救出されたことにはどんな重要な問題が関係していましたか。

      4 人間と動物を含め,イスラエルのすべての初子がエジプトで畏怖の念を起こさせる救出を経験したのは,そのニサン14日の夜のことでした。その出来事は,エジプト人が崇拝していた悪霊の神々に加えられた先の九つの打撃の頂点をなすもので,ごう慢なファラオに以前エホバが語られた目的を強調するものでした。エホバはこう言われたのです。「実際には,この目的のためにあなたを存在させておいた。すなわち,あなたにわたしの力を見させるため,こうしてわたしの名を全地に宣明させるためである」。数日後,エホバが幾百万というイスラエル人と入り混じった大集団を紅海で救出し,ファラオの軍の精鋭を溺死させた時,エホバのみ名と力は一層明白に示されました。モーセとイスラエルの子らが,「エホバに向かってわたしは歌う。神はまことに高められたから」と歌ったのも少しも不思議ではありません。―出エジプト記 9:16; 15:1。

      5 過ぎ越しの祝いはどんな目的を果たしましたか。

      5 イスラエル人がその父祖アブラハムに約束された土地に定住した後,過ぎ越しは,申命記 16章1節から8節の命令に従って,エルサレムで年に一度,国を挙げて祝われることになりました。このようにエホバは,ニサン14日が神の予型的な民の思いの中で常に際立ったものとなるよう取り決められたのです。それはどんな目的を果たしますか。その日はエホバのみ名を高め,エホバの偉大な救出の業を記念する日となるはずでした。ですから,幾世紀ものちに,「過ぎ越しの祭りのため年ごとにエルサレムに行くのが習わしであった」と言われている,イエスの両親にとって,過ぎ越しはその心と考えの中で,極めて重要な意義を持つものでした。その息子イエスは,ユダヤ人の習慣に従い,両親と共にいました。―ルカ 2:41,42。

      6 イエスがご自分の忠実な使徒たちと,西暦33年の過ぎ越しを祝うことを切望された理由はどこにありますか。

      6 イエスはヨルダン川でバプテスマを受け,宣教を開始された後,地的な母親であるマリアとその息子たち,つまり異父兄弟たちと共に過ぎ越しを引き続き祝ったことでしょう。しかし,西暦33年のニサン14日には,ご自分の十二使徒とその宴を祝うよう取り決められました。ルカは,イエスがこの時のことをどう感じておられたかについて,「わたしは,苦しみを受ける前にあなた方とこの過ぎ越しの食事を取ることを,非常に強く願っていました」と記述しています。(ルカ 22:15,今日の英語聖書)イエスはなぜそれほど強い願いを抱いておられたのでしょうか。なぜなら,日没から始まったその記念すべき日にほどなく生じることになっていた出来事の意義をご存じだったからです。それに,その出来事が,西暦前1513年の昔に生じた事柄をはるかにしのぐであろうこともご存じでした。その出来事は,かつてないほどにエホバのみ名を高め,地のあらゆる家族に最終的な祝福をもたらす基盤となるのです。加えて,イエスは亡くなる前に,忠節な追随者であり続けるよう弟子たちを勇気づけるため,弟子たちに告げるべきことがたくさんありました。わたしたちは福音書の詳細にわたる記述のおかげで,言わば,イエスの言われた事柄や行なわれた事柄を聴くことができます。―ヨハネ 12:31; 17:26。

      何が生じたか。それは何を意味したか

      7 (イ)イエスは,その最後の過ぎ越しの食事中に生じたどんな出来事の後にご自分の死の記念式を制定されましたか。(ヨハネ 13:1-30)(ロ)主の晩さんを制定されたときのイエスの手順を述べてください。

      7 イエスは食事の最中に立ち上がり,弟子たちの足を洗うことによって,謙遜さに関する完全な模範を示されました。次いでイエスは,「あなた方のうちの一人がわたしを裏切るでしょう」と言われました。そのすぐ後でユダに向かい,「あなたのしている事をもっと早く済ませなさい」と言われました。ヨハネの記述は,「彼はすぐに出て行った。それは夜であった」となっています。(ヨハネ 13:21,27,30)イエスがご自分の死の記念式を制定されたのはその後のことでした。目撃証人であるマタイが,生じた出来事をどのように説明しているか,聞いてみましょう。「彼らが食事を続けていると,イエスはパンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われた。『取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています』。また,杯を取り,感謝をささげてからそれを彼らに与え,こう言われた。『あなた方はみな,それから飲みなさい。これはわたしの「契約の血」を表わしており,それは,罪の許しのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです。しかしあなた方に言いますが,わたしの父の王国であなた方と共にそれの新しいものを飲むその日まで,わたしは今後決してぶどうの木のこの産物を飲みません』。最後に,賛美を歌ってから,彼らはオリーブ山に出て行った」― マタイ 26:26-30。マルコ 14:22-26; ルカ 22:19,20; コリント第一 11:23-26もご覧ください。

      8 記念式を制定されたときのイエスの言葉と行ないの意味を理解するのは,どうして非常に重要なことですか。

      8 イエスがその時に言われた事と行なわれた事の背後にはどのような意味がありましたか。パウロはキリストの油そそがれた追随者すべてがこの点を認識することがどれほど重要かを強調し,「そのようなわけで,だれでも,ふさわしくない仕方でパンを食べたり主の杯を飲んだりする人は,主の体と血に関して罪を負うことになります」と言いました。確かに,油そそがれた者の中で,エホバの目に「ふさわしくない」者となり,結果的に不利な裁きを招くようなことを望む人は一人もいません。さらに,「大群衆」は,油そそがれた残りの者の友にふさわしい者とみなされることを願うべきです。したがって,1985年4月4日の木曜日に再び行なわれる記念式が近づいているので,わたしたちすべてがこの問題を一緒に詳しく再吟味するのは時宜にかなったことです。―コリント第一 11:27。

      9 (イ)イエスの言葉を,「これはわたしの体です」と訳すよりも,「これはわたしの体を表わしています」と訳すほうが正確なのはなぜですか。(脚注参照)(ロ)イエスはパンにどのような特別の意味を付与されましたか。(ハ)ぶどう酒についてはどうですか。

      9 イエスは,「これはわたしの体を表わしています」と言われました。a この言葉を述べた際,イエスはパンに特別な意味を付与されました。パンは,「世の命のため」にお与えになった,ご自身の罪のない肉の体の象徴でした。(ヨハネ 6:51)同様に,ぶどう酒の杯について,「これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪の許しのため……注ぎ出される……のです」と言われた時,杯の中の発酵したぶどう酒を,ご自身の血の象徴として用いておられました。その血は,「新しい契約」を発効させるための基盤となるのです。イエスが流された血は,「罪の許し」をもたらす手段ともなります。―マタイ 26:28。エレミヤ 31:31-33。ヘブライ 9:22。

      10 パンとぶどう酒にあずかることは何を意味していますか。

      10 では,記念式の祝いに際してパンとぶどう酒にあずかる人々については,どのような意味がありますか。パンとぶどう酒にあずかるという行為自体は,それらの人たちがキリスト・イエスの贖いの犠牲からすでに益を得ていること,それも特別な仕方で,また特別な目的のために益を得ていることを,表象物にあずかる人々と見守る人々に明らかに示します。どうしてそう言えますか。キリストの犠牲に対する信仰とエホバへの献身に基づき,神は彼らを,イエスの人間としての犠牲の恩恵にあずかるにふさわしい者とみなされます。どんな目的のためですか。それらの人たちが人間としての完全さを与えられ,そのようにして神のみ前で義なる立場を得られるようにするためです。エホバは次にこれらの人々をご自分の聖霊によって生み出され,彼らは神の霊的な子となります。それらの人たちは今,天の相続財産と引き換えに,地上で生きる権利を犠牲にする立場を取っています。このすべては,彼らが主の夕食にあずかる前に生じていることです。―ローマ 5:1,2,8; 8:15-17。ヤコブ 1:18。

      11,12 (イ)ぶどう酒を飲むことは,どんな二つの付加的な事柄を示していますか。(ロ)イエスが表象物にあずかる人々と結ぶ契約について説明してください。

      11 では,ぶどう酒を飲むことには,ほかにどんな意味があるかを考えましょう。エホバは,ご自分の霊的な子たちに義が帰せられるようにし,彼らと養子縁組を行なわれましたが,それら子たちはいまだに不完全な肉体を着けています。依然として罪を犯す傾向があり,そのことを自分でも認めています。それら子たちは,ぶどう酒を飲む時,「罪の許しのため,多くの人のために注ぎ出され」た,キリスト・イエスの血に日々依存していることを認めるのです。―ヨハネ第一 1:9,10; 2:1。

      12 しかし,ぶどう酒を飲むことには,まだほかの意味があります。ぶどう酒にあずかる人々は,エホバが遠い昔,預言者エレミヤを通して予告された「新しい契約」に入れられていることを証しします。この契約はイエスの血によって発効しました。この契約の当事者は,エホバ神と,集合的に霊的イスラエルを構成する霊的な子たちです。各成員は神から選ばれます。この契約の仲介者であられるイエスは,その契約により,14万4,000人の契約の当事者たちがアブラハムの胤の一部となるように援助されます。(エレミヤ 31:31-34。テサロニケ第二 2:13。ヘブライ 8:10,12; 12:22-24。ガラテア 3:29)それらの人々は,イエスが「王国のための契約」に入れられる人々でもあります。その結果,それらの人々はやがて,エホバからの命の祝福を地上のあらゆる家族に伝えるため,王イエス・キリスト共々用いられることになります。―ルカ 22:28-30。ヨハネ 6:53。啓示 5:9,10。創世記 22:15-18。

      13 今,ニサン14日に記念すべき事柄とは何ですか。

      13 確かに,記念すべきこの日にイエスが語られた言葉の深い意味を調べてみると,エホバが愛するみ子を備えてお示しになったその愛を思い起こさざるを得ません。信仰を持つ人間すべてに対する贖いとしてご自分の命を提供されたイエスの愛も思い起こさせられます。(ヨハネ 3:16。ローマ 5:8。テモテ第一 2:5,6)とはいえ,その晩イエスが追随者たちと話し合われた貴重な真理はほかにもあります。この極めて親密な会話を記しているのは,聖書筆者の中でも使徒ヨハネだけです。

      栄光,愛,一致

      14 (イ)記念式ごとに,どのようにエホバに栄光が帰せられていますか。(ロ)イエスを記念することにおいて,愛はどんな役割を果たしますか。このことは,表象物にあずかる人すべてが思いの中で,どのような自己吟味をするよう促すはずですか。

      14 「今や人の子は栄光を受け,神は彼に関連して栄光を受けておられます」と,イエスは言われました。(ヨハネ 13:31)イスラエルがエジプトから救出された時以来,ニサン14日は,神のみ名,神の主権,神の力の立証と結びつけられていました。死に至るまで示されたイエスの忠実さと,のちにイエスが神の力によって復活させられ,栄光を受けられたことによって,今や神のみ名に一層大きな誉れと栄光が帰せられました。(箴言 27:11と比較してください。)イエスはご自分の弟子たちに,「わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛する」ようにという「新しいおきて」を守るなら,弟子であることが証明されると言われました。(ヨハネ 13:34,35)わたしたちの兄弟愛の深さは,イエスがその時わたしたちのために表わされた愛に対するわたしたちの認識を反映するものです。―ヨハネ第一 4:19。

      15 (イ)表象物にあずかるのにふさわしい人々すべての前に,どのような命の希望が置かれていますか。(ロ)イエスに対する愛はどのように示されますか。

      15 いつの日か天の住みかで生活することになるという希望は,キリストの共同支配者になるよう選ばれた人々の前に置かれている喜びの一部です。(啓示 20:6)イエスはこの希望を紹介し,「わたしはあなた方のために場所を準備しに行こうとしているのです……わたしは再び来て,あなた方をわたしのところに迎えます」と,言われました。(ヨハネ 14:2-4)終わりまで忠実を保つ人々すべてには,何とすばらしい形の帰宅が待ち受けているのでしょう! そのためイエスは,「もしわたしを愛するなら,あなた方はわたしのおきてを守り行なうでしょう」と,訓戒しておられます。このおきてとは,教えて弟子を作るようにとの命令を含む,イエスのおきて全体を意味します。―ヨハネ 14:15,21。マタイ 28:19,20。

      16 (イ)イエスは追随者たちの間の一致の必要性をどのように強調されましたか。この一致が非常に重要なのはなぜですか。(ロ)イエスの追随者はみな,何に直面しなければなりませんか。しかし,そうするのに何が助けとなりますか。

      16 イエスの追随者にとって,イエスとの一致,および互い同士の一致は非常に重要なものです。イエスはこの事実を強調するために,ぶどうの木とその枝の例えを用いておられます。一致があれば,実を産み出すことになり,それが今度はみ父に栄光をもたらすことになります。(コリント第一 1:10。ヨハネ 15:1,5,8)迫害と反対はイエスの追随者すべてに臨みます。しかし,イエスがサタンの攻撃すべてをものともせず,世を征服する者として忠誠を保たれたことを知ると,本当に信仰が強められます。―ヨハネ 15:18-20; 16:2,33。

      17 ヨハネ 17章に記されているイエスの祈りにある求めの幾つかを説明してください。

      17 イエスは,その晩の終わりに,み父に対する心からの祈りをささげます。み父に栄光を帰すことがイエスの請願の中で第一の場所を占めています。ご自分の追随者たちが世から離れているとき,邪悪な者サタンから守られるようにとイエスは祈っておられます。さらに,ご自分とみ父の間に存在するその同じ愛ある一致が,いよいよ数を増す,イエスの足跡に従う人々の間で成長し続けるようにとも祈っておられます。―ヨハネ 17章。

      18 1984年の記念式の出席者の合計を考えるとき,表象物にあずかった人々が非常に少ないのはなぜですか。

      18 わたしたちは,イエスが1,952年ほど前のその夜に弟子たちに分かち与えた貴重な真理と考えをごくわずかながら考慮してきました。しかし,これらの事柄は,なぜニサン14日がまさしく記念すべき日であるのかを理解する助けとなるに違いありません。ですから,昨年,主の晩さんを守り行なうために集まる重要性を理解したエホバの証人とその友が,741万6,974人に達したのも少しも不思議ではありません。それでも,その膨大な数の群衆の中で,表象物にあずかったのはわずか9,081人でした。なぜでしょうか。なぜなら,今日,エホバの証人の大多数は,自分自身を,「み座の前と子羊の前に」立つ「大群衆」の一部とみなしているからです。それらの人々は,14万4,000人が「千年のあいだ[キリスト]と共に王として支配する」天で生活することではなく,永遠の住みかとして地球上で生活することを待ち望んでいます。―啓示 7:9; 20:6。詩編 37:11。

      19 次週の研究の基盤となるのは何ですか。すべての人が出席するのはなぜ重要なことですか。

      19 しかし,主の晩さんと「ほかの羊」の「大群衆」との関係について幾つかの疑問が生じました。(ヨハネ 10:16)ですから,今年もまた記念式が近づいている今,誤解する人が一人もいないように,それらの問題を次の記事で討議するのはふさわしいことでしょう。―テサロニケ第一 5:21。

  • 「ほかの羊」と主の晩さん
    ものみの塔 1985 | 2月15日
    • 「ほかの羊」と主の晩さん

      「[イエスは]わたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります」― ヨハネ第一 2:2。

      1 『王国の良いたよりを宣べ伝える』業からどんな明確な結果が生じてきましたか。

      イエスは言われました。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。(マタイ 24:14)1914年の世代の人々の中には,今なお生きていて,エホバの証人が忠実にこの命令を果たしてきたことを証しする人がいます。その業の結果,この世の失敗に幻滅した,正直な心を持つ幾百万という人々が良いたよりに積極的にこたえ応じてきました。それらの人々はエホバ神に献身し,神の王国に忠誠を表わし,その献身を水のバプテスマによって明らかにしました。1984年にこのような知恵の道を選んだ人は17万9,421人に上ります。それらの人々は,事実上神のみ名の民に向かって,「わたしたちはあなた方と共に行きます。神があなた方と共におられることを聞いたからです」と言ったことになります。―ゼカリヤ 8:23。

      2 イエスがご自分の「ほかの羊」を集める時期を決定したのはどんな要素ですか。

      2 増加の一途をたどる,この崇拝者の「大群衆」は,イエスがご自分の「ほかの羊」として描写された人々の一部です。(啓示 7:9,15。ヨハネ 10:16)その崇拝者たちは,地上の楽園で永久に生きるという壮大な希望を抱いています。(詩編 37:29)イエスはまず最初に,羊のような人々の「小さな群れ」を集めることに牧者としての集中的な注意を向けたあと,ご自分のこれら忠実な追随者たちを集める,と予告されました。イエスは,その「小さな群れ」に対して新しい契約の仲介者となっておられます。(ルカ 12:32。ヘブライ 9:15)羊のような民の二つの級を集めて「一つの群れ」にするという点を念頭に置けば,使徒ヨハネがなぜ,イエス・キリストは『わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためのなだめの犠牲です』と述べたかが理解できます。―ヨハネ第一 2:1,2。

      見解の変化

      3,4 (イ)主の晩さんを祝うことに関し,多くの人はどのように見解を変えましたか。(ロ)『食べまた飲むたびに』と述べたパウロは何を言わんとしていましたか。

      3 「ほかの羊」の新たに集められた人々で,かつてミサや聖餐式を行なう習慣があり,その頻度も行ない方も,自分たちが属していた特定の宗教組織の信条に左右されていたという人々は少なくありません。しかし,今やそれらの人々は,主の晩さんが年に一度だけ祝うべきものであることを理解するようになりました。なぜ年に一度なのですか。ユダヤ人の過ぎ越しは毎年一度だけ祝われており,イエスはその同じ過ぎ越しの夜のニサン14日に記念式を始められたのです。イエスは弟子たちに次のように語られました。「わたしの記念としてこれを行なってゆきなさい」。パウロはこう付け加えています。「このパンを食べ,この杯を飲むたびに,あなた方は主の死をふれ告げてゆくのであり,それは彼が到来する時にまで及ぶのです」。(コリント第一 11:24-26)イエスが,弟子たちは年に一度巡ってくる過ぎ越しの日に,イエスの死の祝いを行ない続けなければならない,という意味でそう言われたことは明らかです。したがって,この祝いは,クリスチャン会衆が存在する期間中,幾「たび」も祝われてきました。事実,記念式はすでに1,952回祝われてきました。

      4 「ほかの羊」級が理解するようになった,以前の見解とは異なる別の重要な点があります。その級のうち少なからぬ人々は,ある教会で以前行なっていたようにパンとぶどう酒にあずかるのではなく,「さらに調整を加えられ」,自分たちの立場が見守る人の立場に変化したことに気づいています。なぜそうなるのでしょうか。そして,表象物にあずかる人だけではなく,見守る人々のことも考慮に入れた手順を支持する聖書的な根拠があるでしょうか。―コリント第二 13:11。テモテ第二 3:16,17。

      5 (イ)人がイエスの犠牲から益を受けるために踏まなければならない基本的な幾つかの段階を説明してください。(ロ)神はなぜ,キリスト・イエスの追随者である14万4,000人のために特別な仕方で行動されたのですか。

      5 キリスト・イエスの「なだめの犠牲」から益を受けるどんな人の場合にも,踏まなければならない幾つかの特定の段階があります。その人が抱く希望が天の命であろうと,地上の楽園での命であろうと,それには関係がありません。その基本的な段階とは次のとおりです。(1)神の言葉に関する正確な知識を取り入れる(ローマ 10:13-15),(2)信仰を働かせる(ヘブライ 11:6),(3)悔い改め(マタイ 4:17),(4)転向(使徒 3:19),(5)献身(ルカ 9:23),(6)バプテスマ(マタイ 28:19)。神が14万4,000人,つまり「小さな群れ」の一人としてお選びになる人々に対し,特別な仕方で行動されるのは,これらの段階が踏まれたあとのことです。どんな目的で行動されるのですか。人が,キリスト・イエスと共なる祭司また王となる見込みを持つ,神の霊的な子となるためです。(啓示 20:4,6)いま生きるこのような霊的な子たちはわずかな残りの者にすぎず,それらの人々こそ表象物にあずかるのにふさわしい人たちです。それで,この点から,エホバの証人の大多数が観察者であって,表象物にあずかる者ではない理由が分かります。

      過ぎ越しと記念式

      6 一部の人が,「ほかの羊」は表象物にあずかるべきであると主張したのはなぜですか。このことからどんな質問が生じますか。

      6 ある人々は,増え続ける大勢の「ほかの羊」も表象物にあずかるべきである,と言い出しました。そうした人たちの論法によれば,『律法は来たるべき良い事柄の影を備えており』,律法の要求の一つとして,イスラエル人も割礼を受けた外人居留者も過ぎ越しを守るべきであったのだから,「一人の羊飼い」のもとにある「一つの群れ」の羊のような人たちの二つの級は共に記念式の表象物にあずかるべきだ,ということになります。(ヘブライ 10:1。ヨハネ 10:16。民数記 9:14)このことから,過ぎ越しは記念式の予型だったのかという重要な質問が生じます。

      7 過ぎ越しはどんな点において,「来たるべき良い事柄の影」でしたか。

      7 エジプトで過ぎ越しを守り行なった時のある特色が間違いなくイエスに成就したことは確かです。パウロはイエスを過ぎ越しの子羊になぞらえ,「わたしたちの過ぎ越しであるキリストは犠牲にされた」と述べました。(コリント第一 5:7)過ぎ越しの子羊の血を戸口の側柱と入口の上の横木に振り掛けることによって,イスラエル人の各々の家の中にいた初子は確かに救出されました。同様に,「天に登録されている初子たちの会衆」が救出,つまり「贖いによる釈放」を受けるのは,キリストの血を振り掛けることによっています。(ヘブライ 12:23,24。エフェソス 1:3,7)さらに,過ぎ越しの子羊の骨は一本も折られることがなく,この点もキリスト・イエスにおいて成就を見ました。(出エジプト記 12:46。詩編 34:20。ヨハネ 19:36)したがって,過ぎ越しが,ある点において,「来たるべき良い事柄の影」を備えた律法にある数多くの特色の一つであったというのは事実です。これらの特色すべては,「神の子羊」であるキリスト・イエスを指し示していました。―ヨハネ 1:29。

      8-10 (イ)血に関するどんな重要な点において,過ぎ越しは記念式と異なっていましたか。(ロ)記念式と結びつけられている契約は,どのようにもう一つの相違点を際立たせていますか。(ハ)このことからどんな結論が得られますか。

      8 それでもやはり,過ぎ越しは主の晩さんの厳密な予型ではありませんでした。なぜでしょうか。過ぎ越しがエジプトで制定された際,焼いた子羊の肉は食べましたが,過ぎ越しの子羊の血は食べませんでした。しかし,それとは対照的に,イエスはご自分の死の記念式を制定された際,その場に居合わせた人々に,パンとぶどう酒によって象徴されている,ご自分の肉を食べ,ご自分の血を飲むよう明確に教えられました。(出エジプト記 12:7,8。マタイ 26:27,28)この極めて重要な点 ― 血 ― において,過ぎ越しは主の晩さんの予型ではありませんでした。

      9 見過ごしてはならない事柄がほかにもあります。イエスは関連した二つの契約について弟子たちと論じられました。つまり,「新しい契約」と「王国のための契約」です。(ルカ 22:20,28-30)この二つの契約は共に,表象物にあずかる人々がキリスト・イエスと共なる祭司また王となる見込みを持つことと関連していました。しかし,イスラエルでは,割礼を受けた外人居留者はひとりも祭司や王になれませんでした。この点に関しても,イスラエルの過ぎ越しの宴と主の晩さんとの間には相違が見られます。

      10 では,このことからどんな結論が得られますか。割礼を受けた外人居留者がパン種の入っていないパンや苦菜,過ぎ越しの子羊を食べたという事実を根拠にして,記念式に出席する,今日の主の「ほかの羊」の人々もパンとぶどう酒にあずかるべきであるとは言えないということです。

      記念式に出席することの重要性

      11 「ほかの羊」は,どんな重要な理由で記念式に出席すべきですか。

      11 しかし,これは,「ほかの羊」級の人々が記念式の祝いに出席するのは重要ではないということを示していますか。決してそうではありません! この祝いは,イエスの羊のような追随者たちすべてが,極めて特別な意味でイエスを記念すべき機会です。その機会に「ほかの羊」は,キリストが流された血に対する信仰ゆえに,「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」とエホバからみなされる程度にまで,すでに益を得ていることを思い起こすのです。そのような理由で,彼らは「[神の]神殿で昼も夜も……神聖な奉仕を」ささげることができます。(啓示 7:14,15)それにまた,「エホバの怒りの日」に死を免れ,その後に人間としての完全さに達する喜びを得るという希望を持ち,『エホバを求め,義を求め,柔和を求め』つづけるべきであることを記念できます。最終的にそのような人々はエホバから実際に義と宣せられますが,そうなるのはイエスが王国をみ父に渡された後のことです。―ゼパニヤ 2:2,3。コリント第一 15:24。啓示 20:5。

      12 記念式の話を聴くことからどんな益がもたらされますか。

      12 出席すべき別の重要な理由は,記念式の話の中で論じられる真理が単なる「初歩の教理」という乳ではなく,「神の奥深い事柄」,『円熟した人々のものである固い食物』であることです。(コリント第一 2:10。ヘブライ 5:13-6:1)聖書的なその話は,エホバが人類家族の祝福のため非常にすばらしい王国の取り決めを設けて示してくださった愛に対する認識を深めるものです。それは,『わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスを一心に見つめる』機会ともなります。イエスがわたしたちのために示された愛も,イエスが経験された苦しみも,当然のものと考えてはなりません。(ヘブライ 12:2,3)それに加えて,イエスが記念式を制定された際,使徒たちと話し合われた貴重な数々の考え ― 一致,愛,エホバのみ名に栄光を帰することなどに関する考え ― は,「小さな群れ」だけではなく「ほかの羊」も分かち合えるものであるということは,だれでも認めることができます。

      すべての人に愛ある関心を示す

      13 出席者全員に表象物を回すのはなぜ重要なことですか。

      13 主の晩さんに出席した人すべてが,イエスの制定された手順を思い起こすのは重要なことです。人から人へとパンとぶどう酒が実際に回されることは,その晩に論じられたばかりの神聖な物事に対する認識を深める助けとなります。この方法により,各人は自分の命の希望が天的なものか地的なものかを示し,自分の態度を明らかにすることができます。a 正しい手順に従えば,会衆はその晩に全地で行なわれている事柄と歩調を合わせることになります。―コリント第一 14:40。

      14 長老たちは,記念式の夜に病気で休んでいる油そそがれた者にどのように愛ある関心を示せますか。

      14 会衆内の油そそがれた者の一人が病気になり,記念式に出席できない場合のことを考えてみましょう。そのときはどうしますか。長老の一人がその病気のクリスチャンのところに表象物を持って行くよう,手を尽くさなければなりません。そして,都合がよければ,その長老は表象物を手渡す前と,適切な祈りで閉じる前に,ふさわしい注解を少し述べることができます。病気の人はどんなにか励まされることでしょう! 愛ある関心を表わすそうした行為は,会衆内の愛の精神を促進します。(31ページもご覧ください。)― 詩編 133:1。

      15 主の晩さんに敬意を示すことができる他の幾つかの方法を挙げてください。

      15 手順,ならびに記念式で用いられる表象物の種類について,ほかにも興味深い幾つかの質問が提起されています。それらの質問に対する答えは,19ページにある「主の晩さんに敬意を示す」と題する見出しの記事に載せられています。責任を持つ長老たちが,その記事の中で概略が示されている事柄に注意深く従うのは良いことでしょう。

      自己吟味の必要性

      16,17 (イ)ある人は,記念式に参加することについてどんなことを尋ねましたか。だれだけが答えを述べることができますか。(ロ)神はどのように,ご自分の霊によって生み出された人々に,説得力のある証拠をお与えになりますか。

      16 中には,自分が表象物にあずかる資格があるかどうかという疑念に悩まされている人がいます。この問題は,これから再び主の晩さんの祝いを迎えようとする前の数週間に生じることがあります。そのようなことを尋ねるのは,大抵の場合,最近エホバの証人と交わるようになった人々です。あなたにもこの種の疑念が浮かんだことがありますか。どうすれば,取るべき正しい道を決定できますか。

      17 パウロは主の晩さんについて,「人はまず自分をよく吟味して確かめ,こうして後にパンから取って食べ,また杯から飲みなさい」と勧めました。(コリント第一 11:28,29)パウロは,あなたが「よく吟味して確かめ」なければならない,と述べていることに気づかれましたか。もとより,このような重大な問題を円熟したクリスチャンに相談するのは間違ったことではありませんが,エホバおよびそのみ子との個人的な関係はあなた一人で決定しなければなりません。神は14万4,000人の一人が疑念を抱くままにはしておかれません。「霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています」と,保証されているのです。キリストの体の成員のだれであれ,その心の中に,自分は神の霊的な子であるとの確信を生じさせるのは,神の霊です。選ばれた人はこのことを知っており,会衆内の他の人に尋ねて確認する必要はないのです。―ローマ 8:15,16。

      18 「ほかの羊」に関するどんな歴史的な事実はわたしたちの関心をそそりますか。

      18 エホバの証人の現代の歴史は,1931年以降,王国の音信を通して「ほかの羊」に一層深い注意が払われるようになったことを示しています。次いで1935年5月31日,「大いなる群衆」b という話があり,使徒ヨハネが幻で見た「大群衆」の実体が「ほかの羊」であることが明確に示されました。新しく強調されたこの点は何を意味しましたか。「小さな群れ」を集める業が終わりに近づき,イエスが「忠実で思慮深い奴隷」の行なう管理により,ご自分の注意を「ほかの羊」を集めることに向ける時が到来したということです。―マタイ 24:45-47。

      19 自分は油そそがれた者であると主張する,比較的新しい人々は,個人的にどのような吟味を行なうよう勧められていますか。

      19 わたしたちは前述のことを念頭に置き,最近エホバの民と交わるようになった人々,そして自分は油そそがれた者級の一人であると多少なりとも主張してきたかもしれない人々すべてに,次のように申し上げます。自分とエホバとの関係を注意深く吟味してください。自分が抱いていると公言している天的な希望が,教会員はすべて天へ行くという,以前抱いていた教会の教えの名残であるということはないだろうか,自分の希望は幾分利己的な欲求や感情と何らかの関係があるのではないだろうか,と自問してください。『神は偽ることができない』とパウロは述べました。(ヘブライ 6:18)養子縁組の聖霊も偽ることができません。ですから,だれでも本当に神の霊によって生み出された人ならば,絶えず疑念に悩まされるということはなく,全く正しい良心を抱いて,自分が神の子たちの一人であることを証しできます。

      1985年の祝い

      20 エホバの証人にとって,記念式はどれほど重要なものですか。

      20 主の晩さんが真のクリスチャンすべてにとって一年で最大の祝いであることに疑問の余地はありません。重要性,目的,手順に関し,これに匹敵するものはほかにありません。したがって,地球が地軸を中心にして回転し,地上のあらゆるところで太陽が地平線の下にしだいに没してゆく時,大小の別を問わず,エホバの証人のあらゆる会衆と孤立したあらゆる群れは,主の命令に従い,共に集まります。

      21 1985年の記念式は,神の民の心にどんな態度や期待を抱かせるはずですか。

      21 ですから,羊のような弟子たちはみな,再び行なわれる記念式の祝いに共にあずかる見込みを考えて非常に大きな喜びを抱いています。今年のこの祝いがエホバの僕すべてにとって,築き上げ,励みを与える機会となりますように。「勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」と述べた,模範とすべき方,イエス・キリストが示されたのと同じような確信の霊が,この祝いによって,それら僕たちに注ぎ込まれますように。―ヨハネ 16:33。

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