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今日に於ける希望のかがやかしい光ものみの塔 1955 | 5月1日
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新しい世は,サタンの支配下にある世を驚かすものと思われますが,しかしそれは人々の単なる夢ではありません。その希望は,清い祝福を受けるに先だつて与えられるご馳走です。最も尊い宇宙の造り主によつてしつかりと保証され,その霊感の言葉の中にはつきりと約束されている新しい世についての知識は現実的のものであります。それは,古い世の歩んで来た状態,その危険に瀕している状態,そしてこれから先のあなたの歩む道筋<コース>を変える必要について示しております。この知識は堅い希望を与えます。そしてそれはあなたの道筋<コース>を導きます。それはあなたの道を指し示すかがやかしい火のようであつて,それは,完全な地上で永遠の生命を受ける驚くほどの運命をはつきりとあなたに見せます。新しい世のなかにおける,この敬虔な新しい生活の状態に堅く信頼することは,今日唯一のたしかな希望であります!
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あなたに対する全時間宣教奉仕?ものみの塔 1955 | 5月1日
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あなたに対する全時間宣教奉仕?
キリスト・イエスはキリスト教宣教のために全時間の開拓奉仕をしました。彼は洗礼をうけて,荒野における40日の断食の後に,この奉仕に従事しましたが,『天の御国は近づいた』という耳目を驚かす言葉で宣教を始め,3年半の後の死にいたるまでこの奉仕を続けました。さらにその伝道の業をできるだけ広範囲に,また早く拡張するため,イエスはペテロ・アンデレ,若い富める支配者,そして多くの他の人を招待し文字通り『すべてのものを棄てて,イエスに従う』ようすすめました。―マタイ 4:17,19; 19:21-27,新世。
御国のこの良いたよりを今日早く伝道するため,『ものみの塔』協会は類似の全時間宣教のための特別な取り極め,つまり『開拓者』取り極めをつくつています。献身をなし,洗礼をうけた円熟のクリスチャン信者で,すくなくとも1年のあいだ効果的にまた熱心に奉仕した方ならどなたでも参加することができます。その奉仕に従事する方は,1月最小限100時間を家々で伝道することに同意します。それに加えて,自分個人の研究を行い,また会衆の集会に出席して参加しなければなりません。それぞれの経費は自分自身で賄うことも要求されています。
そのような全時間キリスト教宣教奉仕は怠けもののためでないことは明白です。それは長い時間とつらい業を意味するからです。その奉仕は貪欲の者のためではありません。利己的な収益を得ようとする機会は無いからです。見栄を求める者のためでもありません。その奉仕に関連した称号,名誉,あるいは特別の衣服はないからです。
今日,『ものみの塔』協会の指示の下に行われるこの全時間キリスト教宣教で,若い人も年老いた人も参加しております。ある者は10歳台で,また別の人は80歳台ですが,全地に亙り1万7000人以上が参加しています。多くの人は,毎年々々長年にわたつて行つています。アメリカ合衆国だけでも,1250人以上の方は,この奉仕に10年以上従事しています。12人の方は,40年以上経つた今でも奉仕しています。これだけに止まらず,たとえつんぼ,盲,または椅子車に禁足されていても,ある人は全時間の要求を定期的に果しています。
ホンドラスにいる全時間奉仕者は,60歳で,健康も良くなく,また家族を扶養しなければなりませんが,その要求を果し続けています。その人は時間極めの大工の仕事をして家族を扶養しており,その伝道の活動の中でも毎週23の聖書研究を司会しています。コスタリカに住んでいる別の全時間クリスチャン奉仕者は,不具者で子供が3人いますが,全時間奉仕を続けています。1週間の3日を政府の仕事にさいて家族を養い,残る4日間は毎日宣教に従事しています。その人についてある宣教者はこう言いました『その人とその3人の子供が家から家へと伝道したり,街頭に立つているのを見て,心を打たれる思がする。その人と聖書研究をする多くの人が,活潑な奉仕者になるのは,本当に素晴らしい。その人はいつも元気良く,そして全時間奉仕者がなぜもつと多くいないのか不思議がつている。』
キリスト教宣教の重要性
キリスト教宣教はヱホバの御名立証の業をいたします。それは,ヱホバが完全な愛,智,義,全能の神であり,またいかなる時でも万物を完全に治め,そして良い十分の理由の故に悪を許されていると人々に知らせるからです。それは偽りの教のために浴びせられた非難を御名から取り清めます。さらに又,忠実な宣教奉仕をするとき,ヱホバは正しい方であると立証いたします。なぜならば,サタンはすべての人を神から引き離すことはできないという立場をヱホバは取られたからです。―ヨブ記 1,2章。シンゲン 27:11。
さらにつけ加えるならば,キリスト教宣教奉仕は,正義愛好者に生命をもたらします。『神は伝道の愚かさによつて,信ずる者たちを救うのを良しとされた。』ヱホバとキリスト・イエスの知識を取ることは『永遠の生命を意味する』故に,このことは真です。その知識を得るために,ある人はその知識をもたらさねばなりません。―コリント前 1:21。ヨハネ 17:3。ロマ 10:13-15,新世。
さらに又,キリスト教宣教奉仕の手段を通して,悪しき者は『私たちの神の報復の日』つまりハルマゲドンの警告を聞きます。ヱホバは悪人を亡ぼす以前,悪人にいつもそのことを告げられ,自分たちの取る行為に十分の責任を取らせます。それに加えて,警告をうけることにより,亡びは自分たちに臨むと彼らは知り,『人々すなわち我のヱホバなるを知るにいたらん。』― イザヤ 61:2。エゼキエル 35:15。黙示 16:16。
そして又,キリスト教宣教に従事する人々は,現在多くの祝福をいただくことは言うまでもなく,悪人についての殺人罪というものをうけず,また神の新しい世に入る保証をうけます。『神は不義な方ではないからあなた方の業や,また聖徒たちに仕え,いまもなお仕えて御名のために表した愛をお忘れになることはない。』実際に,私たちは次のような助言をうけています『しつかりと立つて動かず,いつも主の業を多く為しなさい。主にあつては,あなた方の働きが無駄にならないとあなた方は知つているからである。』(ヘブル 6:10。コリント前 15:58,新世。エゼキエル 3:16-19)キリスト教宣教の果すこれら4つの重要な目的を考えてみるとき,各奉仕者がもし全時間奉仕に従事し得る状態であるならば,部分時間の宣教で満足すべきでないことは全く当然です。
全時間伝道する義務
ヱホバのすべてのクリスチャン奉仕者のうち,僅か4パーセントの者が全時間宣教に従事しているため,全時間宣教を例外なものと考える人がいるかもしれません。しかし,それは間違いの考えです。どうしても已むを得ない事情で不可能でないかぎり,どのクリスチャンもその献身の誓により全時間奉仕をする義務を持つているからです。命令はこうです『あなたのすべての心,すべての魂,すべての精神そしてすべての力を捧げて,あなたは神であるヱホバを愛さねばならない。』何ものをも差し控えてはならないのです。―マルコ 12:30,新世。
私たちに課せられた責任を避けることはできません。『善を行う仕方を知りながら,行わないならば,その人にとつて罪である。』各人は『自分の持つもの』に従う義務があり,『多く与えられた者に多くのことが要求せられ,人から多くのものの管理を任せられる者は,普通よりも多くのものを要求せられる。』あなたの隣人に真理の知識を与える義務があるのであつて,『汝の手善をなす力あらば,これを為すべき者に為さざること勿れ。』― ヤコブ 4:17。コリント後 8:12。ルカ 12:48,新世。シンゲン 3:27。
クリスチャン奉仕者の伝道する真理にまだ接していない多くの人をも考えてごらんなさい。外国の宣教地については言うまでもなく,アメリカ合衆国内であつても,定期的に証言をうけていない孤立した区域は全く多くあります。もし私たち自身のように隣人や友を愛するならば,その人々にも御国の希望と生命への道を知らさねばなりません。
そして又,時の短いことをも考えて下さい。現在の時代について,『これらの事すべてが起らない中は,この時代は決して過ぎ去らないであろう。』とイエスは言われました。聖書の予言も又次のように示しています。すなわち,サタンとサタンに属くすべての者がヱホバにより亡ぼされる時まで僅かな時しかないとサタン自身知つているということです。罪を犯した現代バビロンにヱホバが亡びの災をもたらすとき,善意者たちに『彼女から出よ』とすすめても,それは遅すぎます。マタイ 24:34。黙示 18:4; 12:12,新世。
各個人の準備は必要
キリスト教宣教奉仕は,あらゆるものにまして愛の表現です。愛が真実であらせるためにそれは,実際的な仕方で表現しなければなりません。宣教に実際的で,全時間それに従事し得るために,各個人の準備は必要となります。時間,健康,また金とか衣服のような物質的な資産のごとく私たちの所有するものをでき得るかぎり最善に利用することは是非必要なものです。
全時間宣教奉仕をすると,時間を良く計画し,その時間の計画通り厳重に守らねばならないことが要求されます。といつても,他の人の福祉が関係する場合でも例外を設けない程厳重であつてはなりません。パウロの次の諭しの言葉に注意すべきです『あなた方の歩き方が愚か者のようではなく,賢い人のもののように,良く注意を払いなさい。いまの時代は悪い故に,自分の良い時を買い求めておきなさい。』― エペソ 5:15,16,新世。
全時間宣教奉仕の要求に沿い,その要求に適い続けるため,体を良い状態に保つことは必要です。そうすれば,自分の精力を費すのに,健全な心の霊をも用いなければなりません。パウロのように,節制をする必要があります。『自分の体を打ち叩いて,奴隷のごとくに従わす。』充分の睡眠を取らねばなりませんが,そのためには,適当な時間に就寝することが必要です。特に『食を貪る者』であるならば,食事について節制をしなければなりません。―コリント前 9:27,新世。シンゲン 23:2。
また全時間宣教奉仕の祝福を楽しみ続けたいと願うならば,お金を費すこと,および他の物質的な資産,衣服,家具,自動車,所有するすべてのものの使用に良く注意を払わなければなりません。智恵と愛は,両方の極端を避けるようにと示しています。つまり,ケチに倹約して必要な食物や衣服を持たないとか,または不注意にお金を浪費するという両方です。
神の御意を行い,キリスト・イエスの足跡に従うという献身の誓を全く果していると知り,心の奥底から来る満足感を考えてごらんなさい。それに又,『推薦の手紙』であるその骨折の実,すなわちいまヱホバに奉仕し,そして永遠にわたり新しい世の祝福を楽しむ善意者を見るときに生ずるよろこびについてはどうでしようか? それは,部分時間の宣教にあなたが満足を覚えず,全時間奉仕に従事されたからなのです。
キリスト教宣教奉仕よりも重要な業はほかにありません。聖書に述べられている義務の故に不可能な場合を除いて,全時間その奉仕に従事するよう。努めるべきです。それには各個人の充分な準備が必要です。しかし,その祝福は全く受けるに価値あるものです。
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正しい種類の奉仕者ものみの塔 1955 | 5月1日
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ます。あなたが宣教者であつても,あるいは巡回の僕,地域の僕であつても,または他の経験のない姉妹を援助するように会衆の僕より頼まれている姉妹であつても,必要な指導の性質はどの場合でも同じであります。あなたは執事のようです。『執事に求めるものは,忠実である。』イエスは同じ原則を裏書きして,こう言われました。『小なることに忠実な人は,また大きなことにも忠実である。小なることに不義な人は,大なることにも不義である。』― コリント前 4:2。ルカ 16:10,新世。マタイ 25:14-30,新世をも見て下さい。
17 (イ)コリント前書 4章15節のパウロの言葉をどのように理解すべきですか?(ロ)これに関連し,テモテについては何を学ぶことができますか?
17 この研究の結びに近づくにあたり,コリント人に述べたパウロの次の言葉を思い出して下さい。『たとえ,あなた方がキリストにある守役を一万人持とうと,父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあつて私は善いたよりによりあなた方の父となつたのである。』(コリント前 4:15,新世)守役と父とには,どんな違いがありますか? 給料を支払われる守役は,要求されるだけの教えと訓練を与え,自分の義務を全く済ませてしまうことが主要な関心事です。そして,生徒の覚えが遅いからといつて,教課を繰り返すということはありません。自分の義務がなされると,満足しきつてその報酬を期待します。これとは別に,真の父とは,自分のことに構わず,子供を助けて実際に進歩させるのに関心を払い,しかも義務という考えよりも愛の心からいつまでも耐え忍び我慢をいたします。そして,よろこびの中に無私の気持から自分の最善を与えます。使徒自身,コリントの兄弟たちにとつてどのように父のようであつたかについては,コリント前書 4章11-13節にある前の言葉を読んで下さい。また16,17節にある続きの言葉に注意するのも興味深いことです。それは,恰もパウロの実子のようであり,良く訓練をうけたテモテに関しての事です。述べられている教育方法について言うならば,愛されたテモテに宛てた使徒の2通の手紙を研究することにより,良く知ることができます。そこに,諭しおよび警告として健全な聖書の助言が与えられており,また他人を訓練する際に,この若い奉仕者を援助して自分自身の責任を正しく果させる実際的の詳細な事柄も述べられています。パウロはこう述べています『これらの助言を兄弟たちに与えることによつて,あなたは信仰の言葉とあなたがしつかりと従つてきた正しい教の言葉に育てられ,キリスト・イエスの正しい種類の奉仕者になるであろう。』本当に,テモテは自分のための導きに忠実に従い,そして宣教において他の人の良い指導者になる仕方を救えられたのでした。私たちも又いま神の恵みの御親切をいただき,訓練をうけて他の人を援助し,それらの人も良いたよりの伝道者としてかたく立たせるという御目的を成就したいと望んでいます。―テモテ前 4:6,新世。
18 地上にいた時のイエスを心に思い浮べるとき,私たちはどのように注意を払わねばなりませんか?
18 予言者イザヤによつて示されたヱホバの僕および指導者,キリスト・イエスについての予言的な面については,すでに注意を払いました。私たちはまだ肉の人間である故に,イエスが地上で弟子たちと共にいたとき彼はどのような種類の人であつたか,どのような種類の指導者であつたか最後に簡単に見てみましよう。イエスの容貌は常の人と違い何人も反抗し得ないところの人を魅する微笑を持つており,また何人も背くことのできない程の威圧的の目差を持つていたという考えを強く伝える宗教的な本または絵からの偽りの印象を心から取り除かねばなりません。それとは逆に,彼の故郷の人々が抱いた軽蔑の意見から見ても,イエスは自分の完全な性質を他の人の注意に気づかせるように見せびらかしたり,強いることをしなかつたのです。イエスは完全に良い見識と中庸を働かせられました。―マタイ 13:54-56。
19 イエスはどんな種類の指導者でしたか? イエス御自身の言葉は,このことをどう示していますか?
19 さて,いま少し現代の言葉で考えてみると,先頭に立つて大股に歩き,全くその言葉が有益で組織だつており,他の人の欠点や短所には耐え忍ぶことのできない指導者イエスを思いうかべますか? そのようなことはありません。本当に,あらゆる面でイエスが完全な能力を持つておられたということについては疑問がありません。間違いもなく,浪費もなく,また悪い言葉は決して言われなかつたのです。イエスに従つた者たちは,彼を主と認めながらもその個性に威圧されるということはなく,また彼が違つた類に属するかのように,全く引き離れているのだとは感じなかつたのです。それとは逆に,霊においてもまた行動においてもイエスは弟子たちに非常に密接であつて,時折りそうすることが不可能の時を例外にして,彼は親しみ深く,また近づき易かつたのです。この非常な親密さという考えは,父が子供を導く,あるいは犬が盲人を導く時のごとく,指導に関連する主要な考えの一つなのです。弟子になるようにとある人を招かれた時,イエスは何と言いましたか? イエスの恵み深い言葉に注意して下さい。『荷を負つて疲れている人々は,私のところに来なさい。私は生気づけよう。私のくびきを取つて私の弟子となりなさい。なぜならば,私は温和であつて心のヘりくだつた者であるから,あなた方は魂の生気を得るであろう。私のくびきは親切のものであり,私の荷は軽いのである。』このことから,イエスは御自分の訓練されている者たちに対して穏やかな心を持ち,ものの分つた,恵み深く,思い遣りのある方であつたことが分ります。つまらないことでイエスは動揺されなかつたのです。また彼らを取り扱われる時もへり下つた心持ちでなし,たとえ完全であつたにせよ,自分をえらい者などと思わず,優れているなどという印象をつくらなかつたのです。イエスは真実に最も愛のある個性,そして愛せられる個性を持つていたために,いつも生気を与える友でした。パリサイ人は,もちろんその印象をうけなかつたのですが,私たちはいまイエスを友,すなわち弟子たちの指導者および訓練者として見ています。マタイ 11:28-30,新世。
20 訓練の業を行い続けて行く時,どんな事柄を心に留めるべきですか?
20 イエスは今日目に見える状で私たちと共にいませんが,彼の個性は全然変らないということを私たちは知つています。(ヘブル 13:8)イエスは私たちの模範また型であり,大きいものでも小さいものでも,兄弟たちを正しく導くことに参加するという特権を持つ者は,その模範にしつかりと従うべきであります。そのとき,あなたはイエスのように,いつも兄弟たちに生気を与え,そのようにしてあなたは自分の最善を与え,そして他の人から最善を得るでしよう。私たちの利益と模範のために,その『僕』キリスト・イエスを通してヱホバがいま成就している導きについての霊感の叙述を,いつも心に留めておきましよう。『主は牧者のごとくその群をやしない,その臂にて小羊をいだき,これをその懐中にいれてたづさえ,乳をふくまする者をやはらかに導き給わん。』― イザヤ 40:10,11。
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