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幸福であるための最も肝要な要素目ざめよ! 1977 | 10月22日
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すべての人がそのような反応を示したわけではありませんでした。
事実,聖書の述べるところによると,極めてよこしまな者もおり,「その日以来,イエスを殺そうとして相談した」ほどでした。考えてもみてください。そのような奇跡的な優れた業に対して,そのような邪悪な反応を示すとは何という堕落した行ないなのでしょう。特に,それらの人々が当時の僧職者であったことを考えればなおさらです。これらの僧職者たちは非常によこしまで,「ラザロをも殺そうと相談した」ほどでした。―ヨハネ 11:45,53; 12:10,11。
それでもイエスは,神と隣人を愛するという,二つの大きなおきてを実践することをやめようとしませんでした。イエスは,他の人々がどう行動しようと,最大の幸福と益は,神の意志を行なうことから得られることを知っていたのです。それゆえイエスは,自制心を保ち,親切で愛のある態度を捨てないでいられました。聖書が次のように述べているとおりです。「彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁くかたに終始ご自分をゆだねました」― ペテロ第一 2:23。
人間に世の諸問題を解決できる可能性がないときに,この世とその悪について過度に憤りを覚えるなら,自分の幸福を損なう結果になることをイエスはご存じでした。イエスは,天のみ父と同様,この邪悪な事物の体制を神が終わらせる日の来るまで,この体制が悪化の一途をたどることをご存じでした。
完全な幸福 ― いつ
ですから,他の人々に原則に基づいた愛を示し,神に対して魂をこめた愛を示す人々は,今の生活に見られる諸問題すべてはつかの間のものであることを知っています。やがて,問題に満ちたこの体制全体は,その体制に伴う悲嘆とともに,全く一掃されてしまいます。
このことは,正しい事柄を行ないたいと願う,正直な心の持ち主にとって何を意味しますか。それは,神の造られる新秩序がこの地球上に永遠にわたって建てられる時が間近に迫っていることを意味しています。その時,完全な幸福が実現されるのです。
聖書預言は,神が悲嘆や問題を終わらせる時の近いことを,極めて明確に示しています。神は,腐敗して,疲弊した古い事物の体制の代わりに,ご自分の天の王国の支配下にある義の新秩序を必ずもたらされます。その支配,つまり天から治める政府こそ,イエスが他の人々に教えられたものです。(マタイ 6:9,10)その支配は全地に及び,それは全人類にとって唯一の政府となります。他の王国すべては,全く存在しなくなっているでしょう。(ダニエル 2:44)その王国の下では,今日部分的にしか考えることのできないような幸福が,この地球上で毎日の現実となるのです。
その新秩序に関する神の約束は次のようなものです。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。(啓示 21:4)病気や老齢さえも過去のものとなります。その時に生きている人々は,神が最初の男女を創造したときに意図しておられたとおり,心身共に完全になるからです。その結果,人々は,復興したパラダイスの地で永遠に生きられるようになります。―ルカ 23:43。
何とすばらしい時代になるのでしょう。考えてもみてください。病気,悲しみ,問題,そして死などすべては,神の義の支配の下で一度限り,永遠に除き去られます。墓の中からも死人はいなくなり,死者は再び命を受け,愛する人々のもとへ戻るのです。というのは,「義者と不義者の復活がある」からです。―使徒 24:15。
最後には,幸福をそこなう無節操な人々はいなくなります。こう記されています。「正しい人は地にながらえ,誠実な人は地にとどまる。しかし悪しき者は地から断ち滅ぼされ,不信実な者は地から抜き捨てられる」― 箴 2:21,22,口。
そうです,生活上の様々な問題があっても,今日より大きな幸福を見いだすことができるのです。そして,将来,完全な幸福を見いだせるでしょう。ですから,真の幸福は実現不可能な夢ではないのです。
しかし,その幸福を自分のものにするには,本当の幸福の唯一の源である,創造者エホバ神を信頼し,エホバ神に仕えることを学ばねばなりません。そうすれば,神の預言的な言葉の中に予告されている,深い満足と喜びをもたらす時代を楽しみにして待つことができます。神の預言的な言葉はこう約束しているのです。「温和な者たちは自ら地を所有し,平和の豊かさに必ずや無上の喜びを見いだすであろう」― 詩 37:11,新。
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ボリビアにおける信仰の奇妙な混合目ざめよ! 1977 | 10月22日
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ボリビアにおける信仰の奇妙な混合
ボリビアの「目ざめよ!」通信員
ボリビアに住む約500万の人々のうち,200万人ほどはアイマラ族とケチュア族のインディアンです。彼らはカトリックを信仰していると言いますが,先祖の崇拝した神々と“聖人”とを混同しています。およそ四世紀間もカトリック教会が存在しているボリビアに,そうした状態が見られるのはなぜでしょうか。
カトリックの宣教師の働きに関して,ロバート・バートンは「ボリビア小史」と題する著書の中で次のように述べています。「彼らは,原住民にキリスト教を理解させようと努めるかわりに,改宗者を大勢得ることを目的として仕事を開始した。実際多くの宣教師は,キリスト教の教義と未開人の迷信的な考えとが類似しているかのように見せかけた。今日まで二つの宗教の混合が続いているのはこのためである」。
こうした「二つの宗教の混合」が顕著に表われるのは,トドス・ロス・サントス,つまり万聖節です。キップ・レスターとジェーン・マッキールは「ディスカバー・ボリビア」と題する著書の中でこう述べています。「カンペシーノ[土着の農夫]にとってトドス・サントスの祭りは,こうした聖日を守るクリスチャンのしきたりとチュルパスにささげられる崇拝とが結合したものである」。
チュルパスとは,チチカカ湖周辺に見られる,成形していない石で造られた円形の塔のことです。
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