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  • 違いがあるのはなぜか
    目ざめよ! 1971 | 4月22日
    • 違いがあるのはなぜか

      表紙の数字はいずれも想像ではなく,事実です。

      樹木は多くの場合,人間よりもはるかに長く生きます。ブナの木の中には,樹齢250年から300年というのも珍しくありません。英国特有のがんじょうなカシノキの樹齢は,500年にも達します。カリフォルニアのセコイアの巨木は,樹齢1,000年でまだ青年というところです。実際に年輪を数えてのことですが,セコイアは3,000年から4,000年生きてきたことが知られています。

      事実,セコイアの木に関して,フェルジナンド・C・レーン博士は,「樹木の物語」の中で,「セコイアが,老齢というだけの理由で倒れた記録は見あたらない。だからもし,落雷とか,火事,嵐などの危険を排除できれば,これらの巨木のあるものは,1万年の樹齢に達するかもしれない」と述べています。

      ところが今では,アメリカ西部産の松が非常に長生きをし,セコイアをさえしのぐことが,調査によって明らかにされています。これらの植物にくらべると,人間の寿命はがっかりするほど短く思われます。なぜそうなのでしょうか。

      そうです,なぜ人間はカメよりも早く死ぬのでしょうか。ガラパゴス諸島に住む大ガメなどは,一様に100年から150年生きます。200年の線を突破したカメもいることが記録に残っています。しかし,人間が100年も生きることはごくまれです。

      そういえば,オオムまで時たま,100年以上生きるのがいるのはなぜですか。その最高記録は140年といわれています。

      なるほど現代人の寿命は,地球上の大部分の他の生物・植物・動物のそれよりも長いものです。しかし,その生物さえ,あるものは人間よりも長生きし,しかもその差は約2倍から50倍という非常に大きなものです。これが不可解な,そして考えさせられる事実であることを,あなたもきっと認められるでしょう。

      知力のない植物や単純な知能の爬行動物,鳥などのあるものが,命という,はかりしれない価値の所有物を,知性を備えた人間よりも長く楽しんでいるのです。あなたにはこれが道理にかなったことに思えますか。むしろ,その逆であるべきではないでしょうか。

      人間には創造者があるという信仰を受け入れるなら,物事はこうなるべく定められていたのだという説は,ある樹木や動物のほうが地上最高の創造物である人間よりも神にとって価値がある,と言うに等しいといえます。ところがイエスは,山上の垂訓の中で,ご自分の弟子たちに対し,天の御父にとって彼らは鳥や植物よりもはるかにまさっている,と話されています。(マタイ 6:25-30)事実,聖書は,動物植物を問わず,地上のすべての生物の上に支配権を行使する任務を,人間が神より授けられたと述べています。(創世 1:26-30)では当然,支配する者が,下位者より先に死ぬはずがありません。

      進化論を支持して創造主に対する信仰を捨てたところで,解決にもならず,実際には解けないなぞにぶつかったままになります。進化論は,人間を進化の窮極の所産として描きますが,つぎの疑問は消えません。つまり,なぜ進化は,生命の持続期間という重要な問題において,樹木やカメには気前よくし,人間にはけちけちしたかということです。

      こうした質問に,満足のいく答えを提供するのが,「目ざめよ!」誌のこの号の目的です。それで若い人も,お年寄も,一読なさる価値があります。アンドリュー・カーネギーは晩年になってこう言ったことがあります。「もし若さと健康が得られるなら,私は自分の全財産を差し出そう。……自分の生涯をもう一度くり返すことができるなら,私は喜んですべての物を売るであろう」。あなたもきっと命を愛し,現在の平均寿命よりも長く生きるためなら,進んで高い代価を払われるでしょう。ところが,その願いの実現が見られるという合理的で堅い基礎に立って,そして到達可能な希望がなぜあるのか,その理由を少しの時間と努力とで,知ることができるのです。

  • あなたは人生から望むものを得ていますか
    目ざめよ! 1971 | 4月22日
    • あなたは人生から望むものを得ていますか

      地上に住むもののうち,計画を立てるのは人間だけです。知力も,視力もない植物は計画を立てません。動物は本能に支配されます。彼らが,子を産むために巣や穴を作るとしても,それは本能が彼らを動かして,そうさせるにすぎません。人間だけが,将来のことを真剣に考え,それに関心をもち,そのために働きます。

      また,人間は単に命を維持し,子孫をふやすだけではなくそれ以上の目的をもっているのです。人間は理想や目標をもち,その実現を計ります。人間の能力と可能力が,動物のそれを上回ることは千倍以上です。人間がその目標を達成するためには時間が必要です。ですから地上の生物のうちで,時間を意識し,時間に関心をもつのは人間だけです。カメでも樹木でも,時計やカレンダーには興味がありません。

      あなたはどのくらい先のことを計画していますか。一生の間に何を成し遂げたいと希望していますか。自分の能力が余すところなく使われている,または将来使われるだろうと思いますか。あなたがしたいこと,つまりもし時間があれば自分にもできると思うことが,どれほどありますか。

      たぶんあなたは,音楽や,美術,文学,語学などの才能をのばすこと,木工,機械,設計または建築について学ぶこと,あるいは歴史,生物学,天文学,または数学を勉強すること,またはある特殊の植物を栽培したり動物,鳥,魚を飼育することを希望しているかもしれません。それとも旅行して新しい土地を見,多くの場所の人々を知り,友だちになって,新しい見方をもちたいと思っているかもしれません。多くの人は,この中のひとつだけではなく,たくさんのことをしたいと考えます。しかし命があまりにも短いため,実際に行なうことは,ごく限られています。それでも願いはあります。ただ時間が足りないのです。

      学ぶ能力と独創力は人間の身体よりも長寿

      長寿を望む理由はたくさんあります。にもかかわらず,価値のある事柄をなし遂げる人間の能力は,一定の年齢に達すると自然に下り坂に向かうので,結局は長寿も無価値なもの,目的のないものになる,という考えがふつうになっています。しかし,学ぶ能力や思考力や,創作的才能が,一定の年齢をすぎると,すべておとろえるというのは事実でしょうか。そうではありません。証拠はその逆を示しています。

      有名な画家チシアンは,99歳でなお,「だれとも比較できぬほどのしっかりした手つきで」傑作を生み出していました。米国最高裁判所のホルメス判事は,90歳の時にギリシア語の勉強を始めました。オーケストラの指揮者だったアルツーロ・トスカニーニは,85歳でなお,ひとつのオペラの楽譜を全部暗記することができました。これらの人たちは,そのような高齢の時に「一生を終えようとし」「死ぬのを待つばかり」でしたか。仮りにそうであったとしても,それはたしかに,彼らが,自分自身に喜びを,そして,他の人々に益と楽しみをもたらしたものを,もはや生み出すことができなかったからではありません。

      ジョセフ・C・バックレーは,「隠退に関するハンドブック」の中で,人間の学ぶ可能力について示し,次のように述べています。「学ぶ能力はきわめて徐々に減退するものであるから,われわれは80歳にしてなお12歳の時の学習能力を持っている」。

      このことを裏づけるのは,「あなたの知力は年とともに増進する」という記事が伝えた,年齢が知力におよぼす影響についての研究結果です。この記事は,ジ・アメリカン・ウィークリーの記事の要約で,1959年1月号のリーダーズ・ダイジェストにのったものです。それによると,127人のグループが,1919年,大学1年の時に受けた知能テストを,30余年後にまた受けました。あとの試験で彼らが得た点は,一般的な知識にかんするクイズや実際的な判断の試験の場合だけでなく,論理や明せきな思考力を要するテストの場合にも,以前の点より高いものでした。「概念把握」テストでは,平均的な知能の人たちが,70代,80代をとおして,高い点をとりつづけました。ミシガン大学が行なった一調査は,記憶力と学習能力が,一般的な事柄にかんする知力と同様,年とともに徐々に,そして均一的に減退するものでないことを示しています。

      そうとなると人間は,肉体の弱さや病気がその生産性を妨害しなければ,そして死が今のように早くそれを停止させてしまわなければ,もっともっと多くのことができるわけです。多くの場合に人間は,ある才能を実際に伸ばしはじめたときに,または問題をほんとうに見抜く力ができかけたころに,命を断たれます。

      たとえあなたが,自分の才能とか能力をのばすことにそれほど深い関心をもたなくても,あなたが愛する人たち,家族,友人,または一般の仲間など,他の人々に対する関心はどうですか。生涯を終えるまでに,その人たちのためにしてあげたいと考えていることを,全部してしまえると思われますか。

      配偶者やむすこ,娘と最後のひと時をすごしたくて,またはその人たちに最後のくちづけをしたくて,その時を ― 年月日を ― 自分から進んで選び定めることのできる人が実際にいるでしょうか。あなたはできますか。あなたはその人たちとともに,春の新鮮さや,夏の黄金色の暖かさを,また秋のさわやかさや冬の静かな美を,そして,日没や日の出を楽しむことを,いつをもって最後にしたいと思われますか。そんなことは,考えたくもないことではないでしょうか。もしあなたが家族を,友人をほんとうに愛し,その人たちに関心をもっているならば,その人たちの幸福に寄与し,その人たちのために物事を行ない,その人たちと良きものをともにする特権が,将来死によって閉ざされるということは,当然とは思えないはずです。もしあなたの命を,その人たちの命とともに,人間の現在の寿命よりもはるか先まで伸ばすことができるとすれば,それはなんとすばらしく,なんと望ましいことでしょう。

      人類の将来に対する関心

      わたしたちは,人間のつくったロケットが月に達し,人間が月面を歩くのを見る時代に生活しています。しかし,人間は今日,危険や,犯罪や,暴力行為の心配なく,安心して地上を歩くことができないでいます。あなたは長生きをして,この状態が変化するのを見,またあなたの周囲の人々が慎み深く,思いやりがあり,愛をもって助け,隣人に誠実な関心をもつ人ばかりとなる時代に住んでみたいとは思われませんか。この変化はどうしてもこなければなりません。さもなければ,世界は自滅するまで現在のような破壊的行為をつづけ,人類は滅びてしまうでしょう。生きることを可能にし,また多くの特異な備えをもつこの地球という遊星は,けっして巨大な永遠の墓場となるためにあるのではありません。

      あなたは,自動車,ジェット機,大量生産の時代に住んでいます。しかしこれはまた,窒息して死にかけた,都市の人口過剰時代,スモッグの時代,そして空気,土地,川,海の汚染の時代でもあります。あなたは長生きをして,小川や川や湖がふたたび輝くばかりに澄み,野原や森が自然の美を取りもどしたところを見,また新鮮で,汚れていない,かぐわしい空気を吸ってみたいとは思われませんか。これもまたこなければなりません。もし人類が生き残ることを望むのであれば,現在の汚染度は,いまのような地球の誤用を,そう長く許さないところまできています。

      あなたは,人工心臓,心臓移植,腎臓機械の時代,抗生物質の時代に住んでいます。しかし病気はなくならず,偏頭痛からガンや心臓発作に至るまでみなあります。あなたは生きて,病気がほんとうに征服されるとき,そして病気の中のおもな「殺し屋」ばかりでなく,人間が年を取り,老化し,死んでゆく原因そのものが拭い去られる時に,住みたいとは思われません。

      事実,もしあなたが健康に恵まれ,平和で快適な環境の中で住むことができ,そして,満足のゆく興味深い仕事をもつとともに,知識を広め深める機会が与えられ,また思いやりのある開けた人々の間に住めるとすれば,早く命を終えたいと思うでしょうか。

      あとでわかりますが,今生きている人々がこうした事柄を目撃することを希望でき,また数年だけでなく,現在の人間の寿命のなん倍も長く生きることを希望できると信じてよい理由があるのです。それはどんなものでしょうか。その希望は道理にかなったものでしょうか。すでに知られ,科学的に確証されている事実と矛盾しないものでしょうか。

      [5ページの図版]

      愛する者たちのためにしてやりたいことはいくらでもある。命がもっと長ければどんなにすばらしいだろう

  • 人間の寿命について,わたしたちは何を知っているだろうか
    目ざめよ! 1971 | 4月22日
    • 人間の寿命について,わたしたちは何を知っているだろうか

      大部分の人にとって,人間の現在の寿命の長さは,周知の事実というにすぎません。不思議に思うこともなければ,変わるものと見るべきでもない,と人々は考えます。そして,「いつだってこうだったんだ。これから先も変わりやしない」と言います。人々は老化と,それに伴う衰弱,また死の原因を知っているとは言いません。しかしこれがどうにもならないものであることは,確かに感じています。

      あなたはどうお感じですか。この問題について少しでも調べてみたことがおありですか。人間の寿命はいつもこのように短かかったのでしょうか。ほんとうに変化は不可能でしょうか。変化しうると考えるのは「非科学的」でしょうか。

      あなたは,たとえば,医学者たちがいまだに,人間が老いて死ぬ理由をはっきり知らないことをご存じでしたか。1967年のサイエンス・イヤーという本によると,4日間にわたる老寿学者(老齢現象の研究に携わる専門家)の会議で,「老年化の過程は,いまだに大部分がなぞである」ということに意見が一致し,「メリーランド州,ボルチモア市にある,ボルチモア市立病院のネイサン・W・ショック博士は,『何が老年化の原因なのか全くわからない』」と言いました。

      老年化にかんする学説的な論がないわけではありません。それはたくさんあります。そのほとんどのものは細胞の死にかんするものです。現在行なわれているたいていの論によると,成長期には,からだは,死ぬ細胞よりも多くの細胞をつくり出します。成人の場合には,毎秒30億の細胞が死んで,同時間内に,そのほとんど ― 全部ではない ― が補充される,と考えられています。それで明らかに,古い細胞の死と,新しい細胞の形成の間には不均衡が生じます。この細胞生産の減退が,身体のおとろえ ― 筋緊張が失われる,反応が遅くなる,感覚が鈍くなる,骨がもろくなる,しわが寄る,最も深刻な問題として,臓器の働きが減退する ― つまりわたしたちがいう,年を取る原因であると信じられています。

      1969年2月号のサイエンス・ダイジェストにのせられたひとつの記事は,つぎのように述べています。「ロングアイランド,アップトンにあるブルックヘブン国立研究所のハワード・J・カーチス博士によると,細胞の集合的なおとろえは,退行性の病気,および老化の徴候として現われる」。

      老年化はいつからはじまるのでしょうか。同記事によると,ショック博士は,この問題を10年研究したのち,「老年化は成長がとまったとき」,すなわち18歳から20歳で「はじまる」と信じています。それからどうなりますか。同記事はつづけてこう述べています。「ほとんどすべての機能がそのときから,徐々におとろえはじめる。30歳でその速度は増すが,極端に速くはなく,死ぬときまでその状態がつづくのである。端的に言えば,われわれは,20歳で山を越え,30歳以後は,その下り坂が急勾配になる,ということである」。ショック博士も,彼の研究にもとづいて,その原因は細胞の死にある,と信じています。

      問題は,科学者たちがいまだに,なぜ人間の細胞はある期間を経ると繁殖しなくなり,人間に必要な細胞の供給をやめてしまうかを知らないということです。

      人間はどれほど長く生きられるか

      わたしたちが知っているように,ある人々はたしかに,100年ないしそれ以上生きます。大英百科事典(1968年版,人間の寿命の項)によると,現代になって,一番長生きをして死んだことが一般に真実として信じられている人は,ピエール・ジョーバートです。彼は1701年の7月15日に生まれ,1814年11月16日に,113歳と124日で死亡しました。

      あなたはこれが,人間の生き得る最高の年齢だと思いますか。たとえば聖書は,「モーセはその死たる時120歳なりしがその目はかすまずその気力は衰へざりき」と述べています。(申命 34:7)6年と8か月ばかりの差ですから,それも可能だろう,とあなたはお考えかもしれません。

      ではモーセの先祖アブラハムはどうでしょう。聖書の記録によると彼は,「175年」生きて死にました。(創世 25:7,8)また,アブラハムの先祖であるセムはどうですか。創世記 11章10,11節には,彼が600年生きたことがしるされています。あるいはセムの曾祖父メトセラはどうですか。世界的洪水前の時代の彼の齢は「都合969歳」でした。そして死にました。(創世 5:25-27)あなたは,これらの人々のうちの,どこか二人の間に一線を引いて,ここから先の年齢は「非科学的である」とか「不合理である」と考えますか。

      答えるまえに,つぎのことを考慮してみてください。

      1968年版大英百科事典は,先ほどとりあげた記事の中で,現在の人間が生きる年数の平均と,人間が生きることのできる年数とは,二つの異なった事柄であることを示しています。人間はどれほど長く生きられますか? 人間が生きられる長さは,「仮定的な数字であって,正確に査定することはいまの知識では不可能である。恐らく人間の寿命には極限があるであろう。しかし,人間の生命の可能な存続を制限しているに違いない原形質のなにかの特性が発見されるまでは,人間の寿命の正確な存続期間を知ることはできないであろう」と同事典は述べています。

      あなたはこのことに驚きますか。その記事はさらにつぎのように述べています。「最初この説は不合理のように思える。たしかに人間は1,000年も生きられない。だから,一人の人間が1,000年生きる可能性はまずない,ということをすべての人が認めるかもしれぬが,それでも,その説を真実とする,あるいは間違いとする,科学的証拠はないのである」。

      それで人々は,メトセラがあれだけ生きられたことを認めず,かえって笑い草にするかもしれません。しかし真に科学的な基礎の上に立ってそうすることはできません。というのは,真の科学は,人間の命に,特定の,または絶対的な限界がないことを,はっきりと知っているからです。

      あなたなら,人間の生きられる最大限の長さを何年としますか。仮りに120年を確実な最大限としたとしましょう。ではあなたは,人間が120年と1分生きられるということを,断固として信じようとしないでしょうか。そしてもし,1分の延長を快く認めるとすれば,なぜ120年と1日または1週間1か月,1年等々の延長を認めませんか。

      1960年から63年にかけて,国立心臓研究所の生物統計学研究部部長をつとめた,ハロルド・F・ドーン博士は,先ほど取りあげた参考書の,人間の寿命にかんする記事の中で同様の例を使い,結論として,「寿命にかんする現在の知識をもとにしては,人間の寿命の正確な数字を打ち出すことはできない」と言っています。

      より長く生きることにつき,医学はどんな希望を与えるか

      では医学者や寿命の研究者は,将来に対するどんな希望を与えていますか。人間がまもなく100年の線を突破してカメと競争できることを期待していますか。あなたが延長された寿命を楽しめるという,信頼できる希望を少しでもさしのべていますか。もし彼らがそうしていないならば,別のところからくる希望がありますか。

      1967年のサイエンス・イヤーはこう述べています。「医学界で楽観的な見方をする人たちは,今日ある多くの問題が解決されるかもしれないと考えて,21世紀を楽しみにしている。しかしほとんどの専門家は,平均寿命がことわざにさえなっている70年より大幅に伸びることを疑っている」。

      なるほど,新聞や雑誌には,時おり,どこかの科学者の予測である,寿命の大幅な伸びについての,ややセンセーセショナルな予言がのります。しかし,人間の寿命が,そのような劇的な延長に向かって少しでも前進しているという動かない証拠は,その筋から提出されていないのです。1968年3月のサイエンティフック・アメリカン誌が述べているとおりです。

      「たとえ老死の主因 ― 心臓病,卒中発作,ガン ― が除去されたとしても,平均寿命が10年以上延びることはまずないであろう。そうすると,文明国の現在の平均寿命である約70歳は,約80歳となるだろう」。

      ではこれは,長生きできるという真の希望がない,ということですか。ブナの木や,カシノキやセコイアが生きつづけるのに,人間は代々死につづけるという意味ですか。この逆を信じるための確かな基礎を持つ情報源がありますか。

      確かな希望の源

      あります。しかもそれは,老年化と死の根本原因を明細に示すだけでなく,どうすれば人間の命が地の生きた植物や動物のそれより長くなり,また実際に長くなるかを示すものです。それは,科学者たちがよく引き合いに出す,「ことわざにさえなっている」人間の齢の数を教えているのと同じ本です。それは聖書です。聖書は詩篇 90篇10節でこう述べています。「われらが年をふる日は70歳にすぎず,あるひは壮かにして80歳にいたらん,されどその誇るところはただ勤労とかなしみのみ,その去りゆくこと速かにして我等もまた飛び去れり」。

      「しかしこれは,人間の寿命の短かいことを証明するだけじゃないか」とあなたは言われるかもしれません。たしかに,何千年も昔に書かれた詩篇が,人間の齢にかんするかぎり,状態があまり変わっていないことを示しているのは事実です。しかし聖書は,いつもそうであった,つまり人間は70年あるいは80年以上生きたことがないとか,将来もそれ以上生きられない,とは言っていないのです。実を言えば,ノアの日の世界的大洪水前に住んでいた,9人の男子のことを記録しているのは聖書なのです。そしてその記録によると,平均寿命は847年でした。―創世 5:1-31。

      一般の科学者は,人間がなぜ年を取るのか『よくわからない』ことを認めます。聖書はそれを簡単なことばで説明しています。それによると,人が年を取って死ぬのは,最初の両親から伝えられた遺伝的罪と不完全さのためです。そういうわけで,使徒パウロはこう書いています。「それ一人の人[アダム]により罪は世に入り,また罪によりて死は世に入り,すべての人,罪を犯しし故に死はすべての人に及べり」― ロマ 5:12。

      人間の創造者は,人間が特定のものに依存して生きるように,人間を造られました。人間は,空気を吸い,水を飲み,食物を食べなければなりませんでした。こうしたものがなければ,人間は死んでいたでしょう。しかしこうした物質だけが関係していたのではありません。人間の命は,創造者との正しい関係にも依存していたのです。神の御子は,ヘブル語聖書を引用して言われました。「人はパンだけではなく,エホバの御口から出るいっさいの発言によって生きねばならない」。(マタイ 4:4,新)最初の人間は,エホバの明白な律法をもっていましたが,それを犯してしまって,人間と神との関係をそこないました。この誤まった行為が不完全という結果を招き,その不完全さが最後に死をもたらしました。最初の夫婦が子どもを生みはじめたとき,遺伝の法則が原因して,彼らの子孫は彼らの罪ある性質と,その結果である不完全さとを受け継ぎました。―詩 51:5。

      科学者は,人間は最高ここまで生きられるという,確実な限界を,『科学的に』定めることができないのを認めます。聖書が示すところによると,寿命はもともと制限されていませんでした。神は最初の人間夫婦に,彼らが従うかぎり死ぬことはない,と告げられました。(創世 2:16,17)わたしたちをも含めて全人類に,病気と,苦痛と,年を取ることと,死をもたらしたのは,不従順によって神との正しい関係を彼らが絶ったことでした。それいらい人類は徐々に弱くなり,寿命は洪水前の平均何百歳から,現在の70歳または80歳へと短かくなってきました。

      聖書の説明の意味するところは,罪がなければ,人間は年が寄るのを経験しないし,弱くなって死病にかかることもないということです。したがって,罪を除き去り,神との正しい関係をとりもどせば,結果として終わりのない命が得られるわけです。実は,聖書が提供するのはまさにそれなのです。「偽りなき神は,創世の前に,この生命を約束し給ひしが」と,使徒パウロがテトス書 1章2節に書いているとおりです。イエス・キリストは地上におられたとき,「わたしは,彼らが命を持ち,しかもそれを満ちあふれるほど持つために来ました」と言われました。(ヨハネ 10:10,新)イエスは,その豊かな命を天だけのものとされたのではありません。というのは,イエスが弟子たちに向かって,父にこのように祈りなさいと教えられたからです。「あなたの王国を来させてください。あなたの御意志を,天におけるように地にも行なってください」― マタイ 6:10,新。

      地上で永遠に生きるというこの見込みが,あなたには非現実的に思えますか。ところがあなた自身のからだの中には,人間が老年化現象や死を経験せずに生きるべくつくられている証拠があるのです。それでこれからその証拠をよく調べて,それがいかに聖書の差しのべる希望の合理性を確証づけるものであるかをごらんになってください。

      [9ページの図版]

      一般の科学者は,なぜ人間が年を取るのかわからないことを認めている。しかし聖書は簡単なことばでそれを説明する

  • 永続するように設計されている
    目ざめよ! 1971 | 4月22日
    • 永続するように設計されている

      もし人間が永久に生きるように創造されたのであれば,当然わたしたちは,人間のからだとその脳の中に,そのように設計された証拠があることを期待します。

      人間は,神の助けによって,何百年でもなく,何千年ですらなく,永久に生きるための仕組を物語る,知的,肉体的備えをもっているでしょうか。

      永遠の命が価値あるもの,望ましいものであるためには,人間は,永遠に役だつ脳を必要とするでしょう。その脳は,知識を無限に取り入れられるものでなくてはならないでしょう。また,人間が絶え間なく進歩できるように,以前の知識の上に新しい知識を継続的に蓄積してゆくことを可能にするものでなければなりません。

      人間はこのような脳をもっていますか。たしかに持っています。そして地球上の生物のうち,これをもっているのは人間だけです。地の創造物の中で,人間の頭脳は特異な存在です。1970年のワールドブック百科辞典(第2巻・459ページ)は,そのことについて,「人間の脳は,どの動物の脳よりも高度に発達している」と述べています。

      実際に,人間の脳と動物のそれとの間には大きな隔たりがあって,両者がそれぞれ違う目的のためにつくられたことを示しています。どの動物にも,以前の知識の上に絶えず蓄積してゆく能力はありません。ある程度まで訓練を受けることはできますが,特別に訓練された事柄を,子どもに伝えることはできません。牧羊犬でも盲導犬でも各世代が,前の世代と同じ訓練を受けねばなりません。動物は本来,創造主が彼らの中に植え付けられた本能によって導かれます。そのために,何百年たっても,鳥は巣を,ビーバーはダムを,ミツバチは巣をつくりつづけるのです。彼らがそれ以上進歩することはありません。

      人間だけが,過去の知識の活用を可能にする頭脳をもっています。だからこそ,人間だけが,火を利用し,電気や原子エネルギーを開発できるのです。だからこそ人間だけが,種々の機械やコンピューターを作って使うことができ,ロケットで月に行くことさえできるのです。人間はほんらい本能に導かれるものではなく,理性の力に導かれるものです。

      そうです,人間だけが,永久に学びつづけ進歩しつづけることを可能にする脳を持っているのです。それは人間が永久に生きるように,神が意図されたからです。しかし動物に対しては,神はそれを意図されませんでした。創造者はそれぞれに,必要に適した頭脳を与えられ,人間のは永久に役だつように,動物のは短い生涯に役だつようにされたのです。

      驚嘆すべき受容力

      人間の脳の受容力にはたしかに畏怖の念を感じさせられます。ワールドブック百科辞典によると,もし科学者に,人間の脳1個に匹敵する電子計算機が設計できるとすれば,その計算機は,ニューヨーク市のエンパイア・ステート・ビルディングと同じほど大きくなければならないだろう,ということです。

      脳の重要な部分は,神経細胞<ノイロン>と呼ばれる細胞です。人間の脳には約100億の神経細胞があると推測されています。この神経細胞について,ライフ誌(1963年6月28日号)はつぎのように述べています。

      「脳の中の神経細胞は,互いに何千という連結をつくる。しかし人間の大脳皮質が準備する無数の余分の連結は,資料を受け入れ分析する脳の受容力を事実上無限大に増大させるものである。そして資料を扱うこの強大な力こそ,人間を,他のどの生物とも比較にならぬ上位のクラスに置くものである」。

      個々の神経細胞の受容力も驚くべきものです。生化学者のアイザック・アシモブは言いました。

      「健康で成熟した,正常な知能の人間は,各神経細胞の中に,2,000万を上回るRNA分子(リボ核酸分子)[記憶を『整理保存するシステム』の働きをすると考えられている]を持つかもしれぬ。……わずか25鎖でできている1個のRNA分子が,1,000兆の異なる組み合わせの,どれでも持つことができるのである……実は,すべてのRNA分子は何百という単位を含有する ― 25だけではない」― 1966年10月9日号,ニューヨーク・タイムス・マガジン。

      ではこの神経細胞の構造は,人間の脳にどんな可能力を与えるのでしょうか。アシモブはこうつけ加えています。

      「したがって,RNAが,人間によって置かれるかもしれない,学習と記憶の荷をいくらでも ― そしてその量の10億倍でも ― 完全に扱い得る,整理保存するシステムを提供することは,疑問の余地がない」。

      考えてごらんなさい! 脳は,人間が70年ないし80年の生涯のうちにその上に置き得るどんな荷でも扱えるばかりか,その10億倍も多い荷が扱えるのです! ですから脳は10億生涯役だつわけで,実際にそれは,神の助けによって永久に役だつことを意味します。

      脳がもし完全に使われることになっていなかったとすれば,神がかくも絶妙な脳を持つ人間を創造したことは,道理にかなっていますか。70年か80年の間にほんの小部分しか使えないような脳をなぜ創造するのですか。エホバ神は,地上で永遠に生きるように人間をつくられ,その目的に適した脳を人間に与えられたと考えるほうが,はるかに道理にかなっています。そしてそれは聖書が示すところでもあります。

      しかしながら,永久に働くようにつくられた脳は,また永久に働くからだを必要とします。人間のからだは,永遠に生きる可能力をもっていますか。

      細胞の更新

      人間のからだは絶えず変化する状態にあります。さきほど述べたように,古い細胞は死んで除かれ,新しい細胞が形成されてそれに代わります。これによってからだは現在の状態にささえられているのです。

      この作用は毛髪や指の爪にも見られます。きょう切っておいても,絶えずのびつづけているので,またすぐに切らねばならなくなります。他の体細胞もほぼ同様の働きをします。ニューヨーク・タイムス紙の科学記事担当記者ウォルター・スリバンは,つぎのように述べています。

      「われわれのからだの細胞は,(脳細脳などわずかの例外を除けば)たえず補充されていて,事故や病気を防止すれば,これは無限につづくはずのものであるが,何かの影響で,細胞の交代作用が完全にゆかない」。―「われわれだけではない」,1964年,282ページ。

      細胞の寿命は種類によって異なります。たとえば,白血球は約13日,赤血球は120日生存します。

      ジョン・フェイファーは,「人間の脳」という本(1955年,3ページ)の中で,つぎのように述べています。「もっとも活動の鈍い組織に思える骨にさえ着実に変化が生ずる。人間のからだの物質はすべて,約7年ごとに完全にいれ変わる,と推測されている。言いかえれば,あなたのからだは,7年前の『あなた』であった分子をただの一個も含んでいないということである」。

      したがって,人間のからだを永久に生かしつづける作用が,人間の中に存在するわけです。それは細胞の更新です。インディアナ大学動物学部のT・M・ソネボーンは,この作用について,「体内で正常に成長し繁殖する細胞が,無限の成長と繁殖の可能力を有するらしいことは明らかである。……このように不死の素質は細胞に存在する」と言いました。ですから,働きはそこにあるわけです。しかしそれ以上のものが必要なのです。それは,罪に原因する不完全性の除去です。そうすれば,人間の細胞は一定の年数を経ても正しく繁殖します。神は,わたしたちが今経験している罪と死ののろいを取り除くことができます。しかものちほどわかりますが,神はすでにそのための準備をされているのです。

      脳の更新

      おおかたの科学者は,神経細胞,すなわち主要な脳細胞は再生しないと考えてきました。脳細胞は一生いれ代わらないもので,もしひとつがこわれれば,その補充は不可能である,と考えられていたわけです。ところが,「あなたの脳 ― 優秀なコンピューター」という本(1962年,52ページ)にはつぎのように書かれています。

      「神経細胞は,からだの他の種類の細胞と異なり,分裂できないものと,多年信じられていた。こわれた神経細胞は永久に失われ,脳が受けたその損害は回復不能と考えられた。ところが最近,ネズミの脳が研究されたとき,こわれた部分にいくつかの新しい細胞が発見された……。

      「これは,人間の脳も,ひょっとするとその損傷をある程度回復させることができるかもしれない,ということを暗示するものである」。

      人間が不完全な状態にある今は,脳細胞の大規模な再生もしくは回復は起こらないかもしれませんが,神の予定の時にそれが起こらないとだれが言えるでしょうか。

      脳細胞は,他の細胞と同じ分裂・再生の作用を行なわない,そして将来も決して行なわない,という主張を事実として受け入れるとしても,それは脳細胞は少しも再生しないという意味でしょうか。1969年秋の号のアメリカン・サイエンティスト(288ページ)によると,そうではありません。神経の専門家ポール・A・ウェイスは,その中でつぎのように報告しています。

      「私は,神経に対する[以前の]固定的な見解を完全にくつがえす観察を,全く偶然に行なうことになった。静止した固定物と考えられていたものが,人の一生のあいだ止むことなく成長し,しかも,成人のからだの最も増殖の速い細胞に匹敵する速度で成長する,流動の絶え間ない構造物として,突如わたしの前に姿を現わしたのである」。

      彼の説明によると,脳細胞は再生しますが,それは,からだの他の細胞と違い,分裂と増殖によるのではありません。その代わりに,脳細胞は,絶えず新しい物質をつくりだして,からだの他の部分の働きを指令するあいだに自分が放出してゆくものを補充します。これは,完全な新しい機械1台分の部品を全部持ちながら,新しいものを作らずに現在ある同種の機械の部品のスペアとしてそれらの部品を使うことと比較できるでしょう。

      ウェイスは,脳の中で行なわれている,彼の言うこの異質な作用について,「われわれの脳細胞は,来週になれば,きょうのものと同じではなくなる」と言っています。それで脳細胞は,その構成物質を絶えず補給しながら,同時に一方では,所有者が教育と環境をとおして作りあげた『経路』をそこなわずにおく,ということをしているのかもしれません。

      いずれにしても,つぎのことはたしかです。つまり創造者は,脳細胞が永久に自分をささえ,かつ修理していくのに必要なものを供給し得るということです。

      もとの状態にもどる

      神は男と女を創造されたとき,永遠に生きる可能力と見込みを,彼らに確かに与えられました。彼らの思いと肉体は完全で,永久の営みを行ない得るものでした。彼らは,地とその上に住むすべての生物を,愛をもって支配するはずでした。それが彼らの最初の姿でした。しかし彼らが神に反逆したとき,退化が始まりました。

      それでも,人間の歴史が始まって間もないころの人々は,現在のわたしたちよりもずっと長生きしました。それはわたしたちよりも完全に近かったからです。ノアの日の洪水以前に住んでいたある人たちの年齢を見てごらんなさい。

      名前 死亡したときの年齢

      アダム 930

      セツ 912

      エノス 905

      カイナン 910

      マハラレル 895

      ヤレド 962

      メトセラ 969

      幾世紀もたつうちに,とりわけ洪水後,寿命は短くなっています。セムは600年生きました。さらに後代のアブラハムは175年生きました。モーセの時代までには,平均70歳ないし80歳に低下しています。―詩 90:10。創世 5:3-27; 11:10,11; 25:7。

      この歴史からすれば,昔の人々の中には,現在の七,八十年の10倍以上長生きした人たちがいたわけです。人間の精神と肉体が不完全になってからでも,1,000年近くその営みをつづけたのであれば,罪が除かれて神の祝福と支配のもとにおかれるときには,それらが永久に営みを行ないうることは確かです。

      聖書の詩篇作者は,神に向かって,「われなんぢに感謝す,われは畏るべく奇しくつくられたり」と言いました。(詩 139:14)そうです,神は人間に,脳とからだの奇しき組み合わせを授けてくださったのです。神は,人間を,地上で永遠に生きるようにつくられたのです。

      しかし,なかには,完全になって永遠に生きるなんて,さぞかし退くつなことだろう,と思う人がいるかもしれません。それはほんとうでしょうか。

      [12ページの図版]

      人間の脳は,10億生涯 ― 実際に永遠に役だつようにつくられている

  • もし永遠に生きるとすれば,あなたは何をしますか
    目ざめよ! 1971 | 4月22日
    • もし永遠に生きるとすれば,あなたは何をしますか

      科学者たちは長年,人間の寿命を延ばそうと試みてきました。しばしば打ち出される寿命の目標は100年です。

      多くの人は,その目標が達成されるといいと思っているでしょう。ところが,永遠に生きる見込みについて話すと,その見込みは『望ましくない』と言います。なぜですか?

      彼らはこのように論じます。『永遠に生きるなんて単調なことにちがいない。することがなくなってしまう』。『永遠の生命は完全さを要求する。そして完全であることは退くつなことにちがいない。病気,問題,悪業などが少しもなければ,人々は良い事柄の価値を認めなくなるだろう』。こういう論法は理くつにかなっているように思えるかもしれません。しかしそうでしょうか。

      そういう見解を口にする人の多くは,人が言っているのを聞いて口まねしているにすぎず,立止まって,自分で問題をよく考えたのではありません。

      善の真価を認識するのに悪は必要ではない

      たとえば病気は,健康と対照させるのにほんとうに望ましいものといえますか。妻がガンで徐々に衰弱し,死んで行くのを見守る夫に,これはどれほどの説得力を持つと思いますか。実際のところ人々は,健康だから生活に退くつするのでしょうか。環境があまりにも快適なために,また良い食物があるために,生活にあきるのでしょうか。健全な仕事が十分にあり,平和と正義が豊かなために,生活がいやになるのでしょうか。

      それとも,生活を退くつなものに思わせるのは,これらとは逆の事柄でしょうか。生活をいやなものに思わせるのは,多くの病気やわずらいごとや,争いではありませんか。

      そればかりではありません。健全な考えをもっていればおのずとわかるように,わたしたちの肉体の感覚を鈍くするのは,病気と老衰です。これは,飲食と活動の喜びを少なくします。

      完全さは退くつなものではない

      完全な状態で永遠に生きれば,ついには生きる喜びがなくなってしまうだろう,と人が言うのを聞くとき,立止まってよく考えてください。ふつうの人は,1年に1,000回以上食事をします。30歳の人は,3万回以上食事をしてきたことになります。しかしその人は,ただ数千回食べただけの時よりも,食事の楽しみが少なくなったと断言できるでしょうか。わずか一日しか絶食していないからつぎの食事はつまらない,ということになるでしょうか。いいえ。食物を楽しむのにききんによる栄養失調を経験する必要はありません。それは,9本の指のありがたさを味わうために,残る1本の指を切り捨てる必要がないのと同じです。

      しかし,完全な男または女は,空腹になったり,のどがかわいたり,疲れたりすることがあるのでしょうか。たしかにあります。神の御子イエス・キリストは,地上におられたとき完全な人間でしたが,それでも飢え,かわき,疲れをおぼえました。聖書にしるされているイエスの生涯の記録を読めばよくわかります。―ヨハネ 4:6,7。マタイ 4:2。ルカ 8:22-24を比較。

      わたしたちは,「完全」の意味を誤解しないようにしなければなりません。神の完全さを除けば,他のすべての者の完全さは相対的であって,絶対的なものではありません。つまり,造られた目的に適合する完全さです。完全なハンマーは,くぎを打つのにりっぱに役だちます。しかし,それをのこぎりとして使いますか。もちろん使わないでしょう。のこぎりは完全であっても,なんとか使える程度のハンマーにさえなりません。それぞれの完全さは相対的で,それが設計され,作られた目的と関係をもちます。

      人間の場合も同じです。からだが飢えやかわきを感じ,また長時間の活動のあと休息を望むのは正常です。こうした身体的知覚は,創造者が人間に備えつけられたものです。

      では,神の王国の正しい支配のもとで,神が,「彼らの目から涙をことごとくぬぐい去られ,そして,もはや死はなくなり,嘆きも叫びも,苦痛ももはやなくなる」という聖書のすばらしい約束はどうですか。これは何を意味しますか。―黙示 21:3,4,新。

      聖書はここで,エデンにおける最初の人間夫婦の反逆とともにはいり込んだ「以前の物事」が除かれることを説明しています。この「以前の物事」とは,最初の人間夫婦の罪深い行ないが,彼らの子孫である全人類にもたらした痛み,苦しみ,そして死です。―ロマ 5:12。

      聖書が述べていることは明らかに,人の目にごみがはいっても,涙腺が開いてそのごみを洗い流すことはもはやなくなる,という意味ではありません。触感,圧迫感,痛みなどの感覚をつくり出す人間の神経系統の反応についても,同じことが言えます。完全な人間でも,草の中にかくれたいばらを素足で踏むなら,完全な神経がその傷に反応しますからやはり痛みを感じます。そして,血液中に備わっている防御機構が無数の白血球とともに,傷をいやしにかかります。しかし完全な人間の場合は,それが原因で壊疽になることはありません。また完全な人間は,過酸性消化不良,かいよう,偏頭痛,関節炎,心臓病,ガンなどに悩まされることもありません。そうしたものから解放されることは,たしかにわたしたちの幸福をそこなうどころか,いっそう増すものとなるでしょう。

      興味を引くものは永久にある

      しかし永久に生きる人は,知力と体力を使う事柄を常に見いだすことができるでしょうか。その知性と脳力への新しい挑戦となるものを見つけるでしょうか。会話はいつまでも活気のある楽しいものでしょうか。それとも,みんなが知らないものはない,という段階にすぐに到達するでしょうか。

      することも,学ぶ事柄も尽きてしまうだろうと考える人たちは,創造者がこの遊星を造られたとき,いかに巨大な,そして立派な設備の作業場と実験室をもうけられたかを,考えてみようとしないのです。現在までに,人間がつくりあげてきたものを考えてごらんなさい。コンピューター,テレビ,飛行機,ロケットなど,人間の複雑な発明品がすべて,宇宙のある遠い場所から運ばれた材料で作られていないことを,忘れないでください。そうです,それらは,わたしたちが住む地そのもの,そして地の,化学元素・鉱物・金属の宝庫から取って作られたのです。なんと広大な可能性があることでしょう。

      今日では,研究により,知識が非常な速度で増加するので,個人も組織もついて行けないほどです。寿命がたいへん短いために,人々は,多くの事柄について少しずつ知るか,少しの事柄について多くを知るかのどちらかで満足しなければなりません。人々の知識は広くて浅いか,または深くて狭いかのどちらかです。多くの場合人々は,ごく狭い限られた分野での専門家になり,短い寿命が尽きぬうちに「名を挙げる」ことを試みます。科学者たちは言います。ある研究分野で,ひとつの扉を開く「かぎ」を発見するたびに,その向うに多くの他の扉を必ず発見すると。ですから,みんながなんでも知っていて,話すことがなにもないという,「物知り」ばかりで地球が満ちる恐れは確かにありません。

      あなたはご自分の家をどれほどご存じですか。生まれてこのかた,どのくらいそれを見てきましたか。いいえ,あなたが住んでいる家ではなくて,あなたが住むこの遊星 ― 宇宙飛行士が「宇宙の宝石」とよぶ,太陽のこの巨大な衛星のことです。

      世界旅行者たちですら,ほんとうにくわしく知るのは地球のごく一部で,たいてい主要都市と,いわゆる「おもなおもしろい場所」を知るくらいのことです。なかには,アリゾナ州のグランド・キャニヨン,ノルウェーのフィヨルド(峡江),アフリカのセレンヂチ平原,ニュージーランドはサウスアイランドの雪をいただくアルプス,タヒチの熱帯風景などを見た人もいます。

      すべての高山,すべての深い渓谷,すべての滝,肥沃な谷,蛇行する川,テーブル状台地,陰の深い森,岩の荒い海岸などを見たと思っても,そうしたものはほかにもたくさんあって,それぞれが独自の美と,まなこをうばう魅力をもっています。

      植物,動物,そして人々

      植物学者は,33万5,000余種の植物をあげています。アメリカだけでも1,035種の樹木があります。砂漠に育成する糸ランから,堂々たるジャイアント・セコイアに至るまで広範囲にわたり,美しい色のサトウカエデ,ホワイト・アシュ,ブルー・スプルースなどもその中に含まれます。

      地に咲く花の組み合わせを作るとすれば,100年間も,毎日ちがった組み合わが作れます。それでも,アサガオからオシロイバナ,かれんなケマンソウやスズランから,直径1㍍,重量7キロという大花の,インドネシアに育生する巨大なラフレシアといった,無数の種類に,ちょっぴり手をつけた,という程度でしょう。

      また地に住む動物はどうですか。生物学者は,80万種を越えるこん虫はいうにおよばず,哺乳動物は5,000余種,両棲類3,000種,は虫類6,000種,鳥類9,000種,魚類3万種をあげています。

      これらの生物のなかで,あなたがほんとうによく知っているのは,どのくらいですか。本や動物園で見たことがあるものも,いくらかあるでしょう。しかし,いく種類くらいの生物を彼らの自然の生息地で観察したことがありますか。その興味深い性質を見守り,それぞれの異なった性質を研究したことがありますか。たとえばハチドリは,黄玉色のハチドリ,のどの部分がルビー色のハチドリ,長さ5センチほどの小さな蜜蜂ハチドリなど400種ほどいますが,そのうちであなたがよく知っているのは何種類くらいですか。これらの鳥は生きた宝石であり,燃えるような赤,濃い紫,輝くようなオレンジ色,またエメラルド・グリーンとたま虫色の光を放ちます。あるいはあなたは,威風堂々とした巨大なコンドルや,翼幅が3.6㍍もあるアホウドリを観察したことがありますか。

      陸や海や空の生物をひとつ残らず知るには,長い時間がかかるでしょう。現在の寿命では知りそめる程度にすぎませんから,それよりもずっと長い時間がかかるでしょう。

      しかしながら,そうした生物よりもはるかに大きな興味の対象は地に住む人々です。人々も,容ぼう,服装のスタイル,食物の好み,建築様式,音楽,その他の目だつ特徴で,花とほとんど同じほどの多様性をもっています。完全になるということは,この多様性と個性をなくすることではありません。バラが完全であるためには,みな赤でなくてはならないということはありません。それと同じです。

      地の多くの人種を知るということは,現在容易ではありません。事実,多くの場合ますます危険になってきています。しかし,聖書が約束する永遠の命は,自分の創造者と彼の真理,正義,および正しい規準を愛し,それに対して感謝の念をもつ人々だけに与えられるものです。彼らは,愛,喜び,平和,寛容,親切,善良,信仰,柔和,自制という神の霊の実を結ぶことによって,この地球を,親切で,協力的で,寛容な,思いやりのある人々の霊の園にします。―ガラテヤ 5:22,23。

      ですから,工芸,金属細工,建築,造園,室内装飾,芸道,音楽,文学などにおける彼らの才能や能力は,正しい動機にもとづいて用いられます。このことは,新しい高度な表現と美を刺激するでしょう。そのような人々に会い,その活動の産物を見,また彼らと知り合う楽しみは,絶えることがないでしょう。

      神をよりよく知る

      こうしたことに加えて,永遠の命は,宇宙の主権者エホバ神をいっそうよく知ることを可能にします。これほど生活をより豊かに,より満足を与えるものに,あるいはより高潔にする事柄は,ほかにありません。

      人は永遠にわたり,わたしたちの創造者である神についてますます多くのことを学ぶことができますが,それでも,しりつくすことはできません。クリスチャン使徒パウロは,わたしたちの創造者にかんし,つぎのように書きました。「ああ神の智慧と知識との富は深いかな,その審判は測り難く,その途は尋ね難し。『たれか〔エホバ〕の〔思い〕を知りし…(や)』」― ロマ 11:33,34。伝道 3:11,〔新〕。

      同使徒はまたエホバ神について,「それ神の見るべからざる永遠の能力と神性とは造られたる物により世の創より悟りえて明かに見るべければ……」と書いています。―ロマ 1:20。

      多くの惑星,星,星雲を擁する宇宙を知れば,神のおそるべき力と卓越した知恵に,疑問をさしはさむ余地はなくなります。神は最高の物理学者であり,化学者であり,数学者であり,設計師であり,建築師です。昔の詩篇作者は,感激してつぎのように書きました。「われらの主エホバよ,汝の御名は地にあまねくして尊きかな,その栄光を天におきたまへり 我なんぢの指のわざなる天を観 なんぢの設けたまへる月と星とをみるに 世人はいかなるものなればこれを聖念にとめたまふや」― 詩 8:1,3,4。

      目に見える創造物が,その創造者についてあかしをするとはいえ,創造者と,その属性,目的,物事の仕方,規準をほんとうに知るようになるのは,神のことばである聖書によります。

      実際に,完全な状態で永久に生きることが退くつなはずはありません。それは永久に,喜びと楽しみとおもしろさに満ちた生活となるでしょう。

      それにしても,もし人間が永遠の生命をもつならば,人々はどこに住みますか。また地球は,全部の人間を養うことができますか。

      [16ページの図版]

      人間は一生の間に,地上の美しい場所を知りつくすことができるだろうか

      [17ページの図版]

      あるいはあらゆる種類の鳥や人を知りつくせるだろうか

  • それだけの数の人間がどこに住むのか
    目ざめよ! 1971 | 4月22日
    • それだけの数の人間がどこに住むのか

      誠実な人ならば,平和と義の満ちる地,健康と体力のおとろえない地で永遠に生きるという見込みに,胸をおどらせない人はいないでしょう。聖書は,神の王国の支配のもとで,そういう状態が出現することを約束しています。この状態は,神が現在の不義の体制と,その腐敗したやりかたに協力する者すべてを除いたのち,地に行きわたります。そのときに地は,神の御子キリスト・イエスの手による義の支配を楽しむでしょう。―ダニエル 2:44。

      しかしある人々は,「もし人々が,老年と死から解放され,子どもを生みつづければ,みんないったいどこに住むんだろう」と言うかもしれません。

      そればかりではありません。聖書はさらに,以前死んだ人たちが死人の中からよみがえらされるという,感動的な約束を加えています。イエスご自身こう言われました,「このことに驚いてはなりません。なぜなら,記念墳墓の中にいる者たちすべてが彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているからです」(ヨハネ 5:28,29,新。使行 24:15と比較してください)死者が見落とされない,つまり新秩序のもとで永遠に生きるというすばらしい見込みからもれないということは,たしかに神の愛と一致します。それにしても,復活する人たちはみなどこに住むのでしょうか。

      これはもっともな質問です。今でさえ,36億という地球の人口は多すぎる,と考える人たちがいます。現在の「人口爆発」は,広範囲にわたるききん,社会不安を招く恐れがあると彼らは警告します。もし人々がもはや死なないとなれば,神の新しい秩序ではどんなことになるのでしょう。

      まず,いくつかの特定な要素を認めねばなりません。ひとつは,実際のところ地球には,今の何倍もの人口を養う能力があるということです。もうひとつは,過去数千年間に死んだ人々の数は,一部の人たちが想像するほど多くはないということです。そして最後に,生殖が永久に続くことを神が意図された,と聖書が述べていないことです。最初の人間夫婦に対する神の命令は,「地に満てよ」であって,子孫を地にあふれさすことではありませんでした。(創世 1:27,28)これらの事柄の意味をよく考えてみましょう。

      莫大な人口を収容する地球の能力

      神のたてられる新秩序のもとで命を得る人々すべてに,地球はどのくらいの場所を準備できるでしょうか。地球には十分の場所があるでしょうか。では,地球の表面を考えてごらんなさい。面積は約5億1,010万平方キロです。しかし,そのうち71%は水です。陸面は29%で約1億4,800万平方キロです。これは145億㌶をゆうに上回ります。1970年のワールドブック百科辞典は,現在の人口にかんして,「世界の人々全部が平均に配置されるとすれば,1平方マイル(2.59平方㌔㍍)当り約63人になるだろう」と言っています。これは今日生きている人すべてにひとりあたり4㌶の土地があることになります。たしかに地球は,現在の人口よりもずっと多くを収容できます。

      しかしながら,人類の歴史をとおして,多数の人々が地上に生まれてきました。それはどのくらいの数にのぼるでしょうか。ところで,人間は地上にどのくらいの期間存在してきましたか。聖書の年代表によると,その期間はあとわずかで6,000年になります。しかし,おぼえておかねばならないのは,人間の歴史が始まって1,656年後に,地球の人口は激減してわずか8人になったということです。それはノアの日の洪水のためでした。(ペテロ前 3:20)その後,西暦が始まるまでの2,370年のあいだに,地球の人口は相当の増加を見ました。それでも,ある推測によると,イエス・キリストが地上におられたころの人口は,2億5,000万は越えなかっただろうということです。事実,ワールドブック百科辞典(1970年)の推測するところは,その数の半分,つまり1億3,300万です。

      地球の人口が大幅に増加したのは,最近の世紀になってからです。このことに関して,アメリカ化学協会会長アルバート・L・エルダー博士は,1960年に開かれた同協会の会合の席上で,つぎのように語りました。

      「世界人口は,11億に達するのに,1820年まで,5,000年以上の歴史を必要とした。次の世紀のあいだに人口は2倍になった。現在は約28億であるが,1960年代の初めには30億に達する可能性がある[実際にその数に達した]。したがって,50年足らずのうちに,人口は,最初の5,000年間の増加に匹敵する増加を見たわけである」。

      ですから,今日生きている人々は,地上で生活した人々の数の,かなり大きな部分を占めているのです。事実,1966年のフロリダ州薬剤師協会大会で,一講演者は「現在の推定によると,この地上に生まれてきた者の25㌫が,今日生きている」と語りました。―1966年5月18日号のジャクソンビル・ジャーナル。

      この推定にもとづくと,人間の歴史が始まったときから現在までの人口は,わずか140億ということになります。しかしもっと多くの人が生まれてきたと考えて,さらに100億を加え,240億としましょう。彼らが住む場所はありますか。地球には145億㌶以上の土地がありますから,ひとり当りに0.6㌶以上の土地があることになります。しかし,必要な食物を生産するのに,0.6㌶で十分ですか。次のことを信じてよい十分の理由があります。つまり,食物の生産には,ひとり当り0.6㌶という土地のわずかな部分しか必要ではなく,レクリエーション地域や,動物の生息地,植物の生育地をとるだけの余裕が残るということです。

      地は十分の食物を生産する

      「今日の世界 ― その様式と文化」(1966年,76ページ)によると,地球の陸地全体の8分の1弱が,作物の栽培に適しています。耕作地の多くは,生産量が非常に少なく,農法も,多くの場合,能率の高いものではありません。しかし,理想にほど遠い状態にある現在でさえ,地球はもっと多くの人口を養う可能力をもつ,ということが認められているのです。たとえば,1970年7月13日のタイム誌は,小麦と米の新しい増産計画にかんする記事の中で,国連食糧農業機構が,「現在,世界の農業は,1,570億の人間を養うに足る可能力を有すると見ている」ことを伝えています。であれば地球が240億人を養い得ることはたしかです。

      ところが,240億という膨大な数の人々が,実際に地球上に生まれてきたかというと,それはまったく確かではないのです。それよりずっと少なかったことも考えられます。それに聖書は,復活した者がひとり残らず永遠に生きつづけるとは述べていません。イザヤ書 26章10節に示されている原則が,復活してきた人々のうちの,相当の数の人たちにとって,真実となるであろうことは疑えません。その原則とはこれです。「悪者はめぐまるれども公義をまなばず 直き地にありてなお不義をおこなひエホバの稜威を見るをこのまず」。そういう者たちは滅びて,ふたたび生きることはありません。(黙示 20:11-15)さらに聖書は,今生きている人たちが,神の王国の支配する地に全部生き残るとも述べていません。逆に聖書は,大多数の者が,神の側に来て神の備えに信仰を示す機会を意識的に拒絶し,そうすることによって,永遠の命よりも永遠の滅びを選ぶことを示しています。―テサロニケ後 1:9,10。ペテロ後 3:5-7。

      理想的な状態と神の祝福のもとで,地がいかに豊かに産物を出しうるかを考えれば,死から復活してくる人が,たとえ100億,200億,あるいはそれ以上であろうとも,その人たちをも含めて,さらに多くの人口を,地が容易に養いうることを理解できます。

      地を創造した神は,地を産出的にする方法をご存じです。神の王国の賢明な統治のもとで,地はかつてないほど豊かに産出するでしょう。イスラエルの国民が忠実であったときと同様に,そのときにも「地は産物をいだ(し),神わが神はわれらを福ひたまはん」― 詩 67:6。

      全地を実りの多い楽園に変えるための大規模な開墾計画が実行されることは疑いありません。今日では不毛かもしれない地域もその計画に含められるでしょう。ですから,今陸地面の4分の1ほどが乾燥あるい半乾燥地域であっても,いつまでもそのままではないわけです。

      砂ばく地方にかんして,チェンバーズ百科辞典は,「非常に見込みの薄い地域においてさえ,時たま降るにわか雨が,砂の中で長い間眠り,ひからびていた種を生きかえらせる。……川または地下水のあるところでは,砂ばくの土が産出力を宿し,水の魔力に触れるのを待つばかりであることが,すぐに明らかになる」と述べています。そしてアメリカーナ百科辞典は,「ひとたびかんがいするならば,多くの砂ばく地帯が緑地と化す」と言っています。

      今日でさえ,水と手入れとで,ある砂ばく地域は沃地と化します。エジプトやイスラエルのある部分などがそれです。反対に,もし土地に産出力を与えるかんがいと手入れを怠れば,カリフォルニアの大部分は砂ばくのようになってしまうでしょう。

      地上の膨大な人口を養うために,今多くのことができるとすれば,神の祝福のある神の王国のもとでは,どんなことができるでしょうか。エホバ神は,不毛のシナイ半島で40年間,60万のイスラエルの男子とその家族を養い,水と食物を供給するご自身の能力を実証されました。(出エジプト 12:37; 15:22-25。申命 8:3,4)エホバは幾世紀かのちにふたたび,荒地のシリア砂ばくを通ってバビロンからエルサレムに帰還した5万のユダヤ人流刑者に水を備えて,この能力を実証し,「そは荒野に水わきいで沙漠に川ながるべければなり やけたる沙は池となり,うるほひなき地はみづの源となり」という,イザヤの預言を成就されました。(イザヤ 35:1,6,7。エズラ 2:64-70)エホバは,御子の王国支配の間に,同じことを,より大規模に行なうことができます。

      満たすのであってあふれるのではない

      エホバ神は最終的に,何人の人間を地上に住ますよう意図されているでしょうか。聖書は何も述べていません。

      しかし,その時に生きる人がみな生活を楽しむことは,まちがいありません。詩篇作者ダビデの時代に,神の忠実な民に約束されたことはその時に実現するでしょう。つまり彼らは,「安平のゆたかなるを楽し」むわけです。イエスは,マタイ伝 5章5節でこれを引用し,詩篇 37篇11節のこのことばが,きたるべき世界の状態を表わす預言であったことを示されました。もし人がいっぱいで窮屈な状態ならば,神の王国の支配下で生活する人々は,たしかに平安な生活を楽しむわけにはいきません。

      エホバが人間に,「地に満てよ」と言われたことを,おもい出してください。(創世 1:28)エホバは,地にあふれなさい,とは言われなかったのです。あふれないためには,子どもを生むことをいつか止めなければならないのではないでしょうか。そうです,そうなるようにおもわれます。

      ではどうすれば,子どもを生まないようにできるのですか。それです。男と女に生殖力を授けたのはだれでしょうか。それは彼らの創造者エホバ神です。エホバが最初人間に生殖力を与えたのですから,それを停止させることもできます。しかし,そのことが生ずる正確な方法と時期とについては,神のことばは何も述べていません。しかし,わたしたちが詳しいことを知らないからといって,エホバが事態を扱いうることを疑う理由にはなりません。

      神は,この地を実りの多いパラダイス,永遠の命を得る地の住民すべてを養いうるパラダイスに必ず復興すると約束されました。神はそれを保証しておられます。神のことばは次のように述べています。「王座にすわっておられるかたが言われた。『見よ! わたしはすべてのものを新しくする』。また言われる。『書きしるせ,これらのことばは確かであり,真実だからである』」(黙示 21:5,新)そうです,神のお立てになる新秩序は,すべての人のために快適で楽しい住みかを備えるのです。

  • 永遠の生命はどのようにして得られるか
    目ざめよ! 1971 | 4月22日
    • 永遠の生命はどのようにして得られるか

      「どうすれば永遠の命が得られるのか。それを得るには大きな変化が必要だろう」という問いが出るのは当然です。変化が必要なのは事実です。しかし,だれがその変化をもたらしますか。

      医学者たちは変化をもたらすために長いあいだ働いてきました。彼らはおもに,防腐剤の使用と,公衆衛生の改善によって,人間の平均寿命を延ばしてきました。いちばん注目に価するのは,新生児と幼児の死亡率の低下です。

      しかし,単なる人間の努力の結果として,あなた自身は,どのくらい長く生きることが期待できますか。アメリカーナ百科辞典(1968年版“寿命”の項)は,つぎのように報告しています。

      「誕生時の人間の生きる見込みは,[進歩した]国々においては,19世紀の半ば以来ほとんど2倍になったにもかかわらず,60歳の時点における余命は,1年延びたにすぎない」。

      「死にかんする生物学」という本の中で,著者のレイモンド・パールは,遺伝が長寿のひけつのおもな要素である,と述べています。パールは,ユーモアを混じえてこの真理を次のように語っています。「いちばんよい長寿保険は,…相手の両親と祖父母を注意深く選択することである」。

      今日,寿命を延ばすことにかんする医学上の努力は,事実上,静止の状態にあることは明らかです。それにこのごろでは,空気,水,そして食物の汚染による危険が日ごとに高まり,寿命を縮めるおそれがあります。では,長生きをするためにはだれに待ち望んだらよいのですか。

      命の源に頼る

      もし人が,長寿を求めているならば,最初に人間に命を与えたかたに頼るのが,順当ではないでしょうか。創造者だけが,わたしたちの必要をつぶさに知って,それを満たすことができるのです。聖書は創造者について,「いのちの泉は汝にあり」といっています。(詩 36:9)「我らは神の中に生き,動きまた在るなり」と使徒パウロはアテネの人々に言いました。―使行 17:28。

      では,神が命について言われることを調べてみるのは,道理にかなっていませんか。神のことばである聖書は,地上での永遠の命を約束する,あるいはすでに死んだ人々に関する,満足のいく希望を与える唯一の源です。

      ここで,つぎのような考えが頭にうかぶかもしれません。「われわれは幾世紀ものあいだ聖書を所有してきた。しかし,人々はいまもまだ生きつづけてはいない」。聖書は,「万の事には期あり」とわたしたちに告げています。(伝道 3:1)そして,命を与える恩恵が,従順な人間すべてに臨み始めるときを示しています。聖書によるとその時は間近に迫っています。

      わたしたちの先祖である最初の人間アダムは,道を踏みはずし,神から離れて独立するという反逆的な行ないをしました。彼はわが道を行くことを決意しました。彼は『知る』こと,つまり何が善か,何が悪かを自分で決め,自分で判断することを望みました。(創世 3:5,22)神は忍耐強く,人間に独立の営みを試みさせてこられました。しかし人間は今困惑の絶頂にあります。そして今はまた,神が,この世代のうちに悪を終わらせ,望む者が永遠に生きられるような状態を地にもたらすことを意図されている時でもあります。―黙示 11:18。

      神はどのようにそれをなさるでしょうか。神に来て,神のことばを学ぶならば,人間に永遠の命を得させるために神がなさったご準備を知ることができます。

      対応するあがないの必要

      イエス・キリストは,人間に永遠の命を得させるために人間の世界に来た,と言われました。(ヨハネ 3:16,17)しかし,全人類がアダムから罪と死を受け継いでいるのに,どうして永遠の命が得られますか。イエスはつぎのように説明されました。「人の子が,仕えられるためではなく,むしろ仕え,多くの人と引き換えるあがないとして自分の魂を与えるために来たのと同じです」。(マタイ 20:28,新)そしてイエスの使徒パウロは,神の御子は「すべての人のために,対応するあがないとして,ご自分を与えられた」と言いました。(テモテ前 2:5,6,新)ご存じのように,あがなうとは,捕虜とか奴隷の身分から人々を買い取ることです。キリスト・イエスは,罪と死への奴隷状態から人間を連れ出すために,人間としてのご自分の命をあがないとして与えられたのです。(ロマ 5:21)その犠牲は,命の授与者である神との正しい関係を取りもどすという,重要な事柄のための基礎を備えます。それにしても,イエスの犠牲はなぜ「対応するあがない」と呼ばれるのですか。またそれはどのようにして,必要な解放を人間にもたらすのですか。

      アダムの子孫の場合,どんな種類のあがないでもよいというわけにはいきません。それは,「対応するあがない」でなくてはなりません。どのように対応していなければなりませんか。それです。アダムは,自分自身の,そして子孫全部のどんな貴重な持ちものを失いましたか。それは人間の完全性です。ですから,真のあがないの犠牲は,その完全なアダムに対応するもの,人間として完全なものでなくてはなりません。そのときにのみ,あがないの犠牲は,同様のもの,つまり『魂には魂を』求められる神の完全な義を満足させることができるのです。―出エジプト 21:23-25。申命 19:21。

      動物はあがない代になりません。人間よりも低いからです。動物は人間と同等の価値のあるものではありません。ですから聖書が言うように,「雄牛の,そして山羊の血が[実際に]罪を取り去ることは不可能」なのです。(ヘブル 10:1-4,新)また,アダムの子孫である人間も,だれひとり「対応するあがない」を支払うことができません。なぜですか。人間はみんな不完全だからです。みな罪と死を受け継いでいます。―ロマ 5:12-14。詩 49:6-9。

      それで完全な人間が必要でした。神は大きな犠牲を払ってこの必要なものを備えられたのです。イエスが言われたとおりです。「神は,ご自分のただひとりもうけられた子を与えるほどに世を愛され(た)……というのは神は……世が彼を通して救われるために,ご自分の子を世に遣わされたからです」。(ヨハネ 3:16,17,新)これによって神の愛ははっきりと表わされています。神は,「彼の愛の御子」であり,「ただひとりもうけられた子」であるご自分の御子の命を与えて,あがない代を備えられたからです。―コロサイ 1:13,新。ロマ 5:6-8。

      このためには,御子が,完全な人間アダムに対応する人間となる必要がありました。神は,御子の命を天からユダヤ人の処女マリヤの子宮に移すことによって,それをなし遂げられました。(ルカ 1:26-37。ヨハネ 1:14)イエスは,罪人アダムの子孫を父として命を得たのではありませんから,罪を受け継ぐことなく生まれました。彼は,いわば「きずなく汚点なき羔羊の如き」もので,その血は受け入れられる犠牲を備えることができました。―ペテロ前 1:18,19。

      イエス・キリストをとおして新しい命を受け継ぐ

      わたしたちは不完全な家族に属し,死を受け継いでいます。この法則は科学的にも真実であることが認められています。短命の,または病身の親は,健康な親が伝えうるような生命力を子どもに伝えることはできません。わたしたちは新しい命を受け継ぐ必要があります。わたしたちは再生を必要としています。イエスはまさにそのために地にこられたのです。しかし,新しい命を受け継ぐことはどのように備えられますか。

      これを成し遂げる方法についての聖書の説明は簡単でもあり,深遠でもあります。それはちょうど,人間の死にゆく状態にかんする問題を言うことは簡単でも,それを克服するのが非常にむずかしいのと同じです。まず認めねばならないのは,アダムが罪を犯し,死の宣告を受けたとき,彼の子孫すなわち類は,みな彼の腰にあって生まれていなかったため,彼とともに死んだということです。(ヘブル 7:4-19。ロマ 7:9と比較してください)「終わりのアダム」である完全な人間イエスは,まだ生まれてはいなくても,その可能性のあるイエスの類の子孫をその腰に宿していました。イエスが完全な人間の犠牲として無実の罪で死なれたとき,存在の可能性があったその人類も彼とともに死にました。イエスは,結婚して自分自身の家族をつくることを自ら避けられました。イエスが子なくして死なれたので,彼の腰にあった人間の子孫は,アダムが今までに生み出した全人類とつりあうことになりました。―コリント前 15:45。ロマ 5:15-17と比較してください。

      それでイエス・キリストは,ご自分の人間の命を,自分の子どもをもつ可能力もろとも与えることによって,アダムが失ったところの,命にかんする“親”権を買い取られたのです。イエスは,アダムの家族の者の中で,引き出すことを望んでいる人々のために,いわば“預金”をもっておられるのです。

      このことがどのように正義を満足させるかを示すたとえとして,不動産を抵当にした大きな借金を残して死んだ人の場合を考えてみましょう。その人の子どもたちは,その借金を払う能力がありません。しかし,金持ちの友人が,死んだ人の債権者からその不動産を請け出し,それを受けるにふさわしい子どもたちに遺産として分配してやります。もちろんイエスの場合は,土地とか他の物質の財産を請け出してふさわしい者に与えるのではなく,命,つまり完全な人間の命を与えるのです。

      イエスは「対応するあがない」を備えることによって,アダムの子孫である全人類がご自分の家族となれるように,彼らを買いもどされました。イエスは,そのあがないの犠牲の完全な価値を,天におられる義の全き神にささげることにより,それを行なわれました。彼は「天そのものにはいられ……そして今」人類の世のために「神の御前に現われてくださる」のです。―ヘブル 9:24,新。

      したがってイエス・キリストは,自然の生殖によるのでなく,アダムの子孫を買いもどすことによって,地上に子どもたちをもつことができます。このことは,メシヤにかんする預言の中で予告されていました。その預言は,イエスが「とこしへのちち」として「子孫」をもつことを示しています。(イザヤ 53:10-12; 9:6,7)もし地上の子たちが死ぬなら,イエスは彼らの「とこしへのちち」とはなれません。それでこれが彼の真実の称号となるために,あがないをとおして彼を父とするようになった地上の子らは,地上で永遠に生きる機会を与えられるでしょう。

      そういうわけで,死んだアダムの死にゆく子らは,イエス・キリストに対する信仰により,永遠に生きる父の家族に移ることができるのです。「このとこしへのちち」は,彼らの精神と肉体に新生命を与えることができ,以後,その生命力を彼らの中に維持することができます。(ロマ 6:23),そうです,イエス・キリストに対する信仰により,あなたは新しい命を受け継げるのです。そして,この新しい命を受け継ぐことにかんする取り決めのすべては,すばらしい方法で,エホバ神の知恵とその義を示します。なぜですか。エホバ神は,義のはかりの平衡を完全に保ちながら,同時に過分の恵みを示し,罪のゆるしを与えておられるからです。―ロマ 3:21-26。

      義の支配もイエス・キリストをとおして行なわれる

      地上で幸福な永遠の命を享受するためには,新しい命を受け継ぐだけでは足りません。人間は新しい政府を必要としています。神はイエス・キリストをとおしてそれをも準備されました。この新しい政府とは神の王国のことです。イエスはこの王国を祈り求めることを弟子たちに教えられました。「あなたの王国を来させてください。あなたの御意志を天におけるように地にも行なってください」― マタイ 6:10,新。

      神のご意志が地になるためには,現在の事物の体制は終わらねばなりません。聖書の示すところによると,間もなく神の王国は,今大きな苦悩の原因となっている,人間のあらゆる体制を打ち砕いてあとを絶ち,それに代わって支配を行ないます。(ダニエル 2:44)その滅びのときをイエスは,「その時,世のはじめ以来今に至るまで起きたことがなく,否,二度と起きないような大かん難があるからです」と描写されました。(マタイ 24:21,新)この邪悪な体制が全壊したあと,神の王国は天から支配し,地球の物事すべてを管理するでしょう。

      この天の王国は,今の邪悪な体制が滅びたのち,地が持つ唯一の政府となります。その統治は,人間の案出したどんなものよりもはるかにすぐれているでしょう。公平と正義とをもって支配が行なわれるため,少数者だけにとどまらず,すべての人に益がもたらされるでしょう。

      支配者イエス・キリストが,高いところにおける腐敗を決して許さないという,どんな保証がありますか。それはイエスが,創造者に対する服従を証明されたことにあります。それにイエスは,ご自身の栄光のためではなく,神の栄光と,地の住民の益のために支配されるのです。彼については,「義を愛し,不法をにくむ」と書かれています。(ヘブル 1:9)聖書は,イエスの忠誠と,彼に与えられた高い地位について語り,つぎのように述べています。「[キリスト・イエス]は神の形で存在しておられたが,捕えること,すなわち神と同等であるべきだとはお考えにならなかった……そのうえ,人のさまであられたとき,彼はへりくだり,死にいたるまで,しかも刑柱上の死にいたるまで従順になられた。まさしくとの理由で,神はまた,彼をすぐれた地位に高め,かつ,親切にも,他のあらゆる名にまさる名を彼に与えられたのである」― ピリピ 2:5-11,新。

      王国の支配のもとで行なわれる再創造のわざ

      この事物の体制が終わったあとでも,「大かん難」の生存者のからだは依然として不完全でしょう。なかには,病んだ器官や失った器官を取りもどす必要のある人もいるでしょう。この全人類のいやしは,イエス・キリストの千年統治期間に行なわれます。イエスはこのときを,「再創造において,人の子が自分の栄光ある王座に座する時」と言われています。―マタイ 19:28,新。黙示 20:1-6。

      そういうわけでイエスは天から再創造のわざを行なわれます。わたしたちは,イエスが地上におられたとき,あらゆるやまいをいやし,なえた手をなおしたり,生まれつきの盲人に視力を与えたりして,器官や機能を回復させられたのをおぼえています。死んで4日もたった人間を復活させたことさえあります。いくつかのいやしの奇跡は,遠いところから行なわれました。ですからイエスは,天からでも,地上における再創造のわざを,完全に行なうことができます。―マルコ 3:1-5。ヨハネ 9:1-7; 11:38-44。

      人類は徐々に完全にされていきます。望む人すべての命を完全にするには時間がかかるでしょう。このわざと平行して,環境を完全な人間に適したもの,喜びの場所とする仕事も行なわれるでしょう。

      そうです,神の幕屋は「人とともにあり,神は人とともに住み,人は神の民となるであろう。こうして,神みずから人とともにおられるであろう。また,彼は彼らの目から涙をことごとくぬぐい去られ,そして,もはや死はなくなり,嘆きも,叫びも,苦痛ももはやなくなるであろう。以前の物事は過ぎ去った」。神のことばが描写する将来の状態が,今非現実的に思えるかもしれないように,そのとき,問題の多い以前のものは,場違いなものにおもえるでしょう。―黙示 21:3,4,新。

      それで,永遠の命は,得ることのできるものです。それは,死にゆくアダムの家族から,「霊妙なる議士,大能の神,とこしえの父,平和の君」イエス・キリストを通じて新しい命を受け継ぐ道へ移ることによってのみ得られるのです。―イザヤ 9:6,口。

      あなたは科学著述家が,「最善の長寿保険」と呼んだもの,つまり新しい親 ―「とこしえの父」イエス・キリストを選ぶことができます。イエスはあなたの中に真の命を注ぎこむことができます。今その機会があなたに与えられているのです。しかし,イエスの支配下で永遠に生きるためには,その準備として,何かしなければならないでしょうか。

      [24ページの図版]

      現在のような状態のもとで永遠に生きることには魅力は感じられないかもしれない。しかし楽園での永遠の生命は,限りない喜びではないだろうか

      [25ページの図版]

      死からよみがえる愛する者を迎えるのはすばらしいことではないだろうか

  • 終わりのない将来のために,今準備してください
    目ざめよ! 1971 | 4月22日
    • 終わりのない将来のために,今準備してください

      あなたは,ほんとうに幸福な生活が営めるように,状態が真の意味で正しくなったとき,この地上で住みたいとおもいますか。そのような世界で永遠の命を得たいと,ほんとうにおもいますか。もしそうならば,今そのための準備をしなければなりません。

      しかし,なぜ今でなければならないのですか。少し待って,なりゆきを見てからではいけないのですか。

      機会の時は限られている

      ただ時間が待つことを許さないのです。その理由は,寿命がすでに短いというだけのことではありません。むしろ,大多数の人間の命が,世界的規模の災厄によって,突如短くされ,切断される危険にさらされているからです。

      この地球を人の住めない場所にする核戦争の危険の増大を,世界の指導者たちが公に認めていることは,あなたもご存じでしょう。空気,水,土地などの汚染は,核戦争と同様,大きな脅威である,という科学者たちの警告も,きっと新聞などでお読みでしょう。しかし,これらの危険にまして,機敏な行動を要求する最重要な要素は,神が行動に移られる予定の時が来た,ということです。

      聖書の年代表および聖書の預言の成就によると,現在地上で運営されている邪悪な体制に残された時は急速に縮まっています。聖書によると,きたるべき神の戦いハルマゲドンは回避できないものです。人間や諸国家が,かたくなに不義の道を歩むことが,それを避けられなくしているのです。(マタイ 24:14,21,37-39。黙示 16:16)しかし個人としてのあなたには,その論争において今神の側にしっかり立ち,そうすることによって,生き残る希望をもつ機会が与えられているのです。生き残る正しい人々は,新秩序のもとで生活します。その秩序は,神が,その御子であり,任命された王であるイエス・キリストをとおして設けられる,命のための備えを基礎として立てられます。その秩序においては,エホバ神を命の授与者として尊敬し,エホバ神に献身し,そしてエホバ神に服従することが,人を導く原則となるでしょう。―ペテロ後 3:8-13。

      あなたはどうしますか。これはあなたが,エホバの約束に信仰をもつか否かにかかっています。樹木やカメが知性のある人間より長生きすることの不合理をたとえ認めたとしても,それだけでは足りないのです。また,人間がたしかにその性質に霊的な面をもつこと,そして聖書が老化と死の原因として先祖から受け継いだ罪と不完全さに焦点を定めていることを,この問題にかんする唯一の満足いく説明として認めるだけでも不十分です。それどころか,御子による神の義の政府のもとでの永遠の命という,聖書中にさし伸べられている希望を,心臓の正しい人々の正当な願いをほんとうの意味で満たす,唯一の真の手段と認めることでさえ,十分ではないのです。ここまできてそれ以上進もうとしないならば,永続する益は得られません。

      イエスの弟子のヤコブは,生命力,すなわち霊のないからだが死んだものであるのと同様に,「行ないのない信仰もまた死んでいる」と述べています。(ヤコブ 2:26,新)聖書が述べることの論理と合理性をただ認めるというだけでは,生きた信仰を持っていることにはなりません。人の信仰は,行動や行ないに現われてこなければなりません。それによって人は,永遠の命にかんする神の約束を,頭だけに受け入れているのではなく,神の約束がその心臓に達し,その人を動かしていることを示します。

      最近,大地震がペルーの広い部分を破壊し,あっという間に何万という人々の命を奪いましたが,そのような大地震が起こるという警告を受ければ,自分の命を救うべく行動を起こすことができます。今日,地震よりもさらに危険なものが,全世界の住民をおびやかしています。それはキリスト・イエスが警告しておられた「大かん難」です。(マタイ 24:21,新)その時について使徒パウロはつぎのように書きました。「エホバの日が,夜間の盗人とまったく同じように来(て),妊娠した女に〔臨む〕産みの苦痛と同じように,そのとき突然の滅びがただちに彼らの上に臨むであろう。そして,彼らはけっしてのがれることはないであろう」(テサロニケ前 5:2,3,新)逃れ道はまだ開かれています。あなたは,その道が堅くとざされないうちならば,逃れることができます。

      あなたがどんな立場の人でも,ひとりでないことはたしかです。親せきのかたや,たぶん配偶者やお子さん,そして友だちがおありでしょう。あなたには今,新しい秩序に生き残るための神のご準備を,ご自分が知るだけでなく,その人たちにも知らせる義務があります。そして,目先のことだけを考える自己中心的な道を歩むかわりに,ほんとうに幸福な,終わりのない将来に向かって進むよう,その人たちを援助することができます。もちろんあなたは現在,衣食住,医療その他必要なものを備えて,その人たちの命に関心を示しておられるかもしれません。しかしそれは,老死できる程度の ― たぶん案楽な ― 長生きをするのを助けられるくらいのものです。真の愛は,もし得られれば,さらによいものをその人たちのために探し求めることを要求します。しかも,それは得られるのです!

      また,あなたは,命の根源であるかたに感謝の負いめを感じますか。遊星であるこの地球とその喜ばしい特徴とを含む宇宙の創造者の誉れのために,奉仕したいと思いますか。もしそうであれば,あなたは神の正しいご要求を熱心に学ぶでしょう。

      では,残された機会を浪費しないためには,何をしなければなりませんか。

      命を与える知識を取り入れる

      神のことば聖書を調べる必要があります。聖書を研究して,地球と人間に対する神の目的が何であるかを知り,今の時代の,つまり現在のわたしたちに対する神のご意志が何かを学ばねばなりません。神の御子は,父にささげた祈りの中で,つぎのように言われました。「これが永遠の命を意味しています。彼らが,唯一のまことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになった者イエス・キリストとの知識を取り入れることです。」― ヨハネ 17:3,新。

      ですから永遠の命は,魔法の薬を飲むことや,神秘な儀式を行なうこと,あるいは奇妙な体操をすることなどによってくるのではなく,聖書の教育をとおしてくるのです。今日エホバの証人は,200以上の国や島で,世界的な聖書教育の活動を行なっています。そして120万以上の家庭で,聖書に関心をもつ人々,つまり男の人,女の人,または家族と,無料の聖書の勉強を毎週行なっています。この勉強では,「わたしたちが老いて死ぬ理由」,「死んだ人はどこにいますか」といった事柄を考えるだけなく,「神はなぜ今日まで悪を許してこられましたか」,「今の邪悪な事物の体制の終わりの日」,「正義の支配は地上を楽園にする」,「真の宗教をどのように見分けるか」,「どうすれば神に祈りを聞いていただけますか」,「幸福な家庭生活を築く」,「真の崇拝 ― 生活の道」といった主題についても調べます。教える人と1週間に約1時間すごせば,聖書全体の基礎的な教理を6か月で調べることができます。

      勉強したいということを,近くに住むエホバの証人にお話しになるか,またはこの雑誌の発行者に手紙でお知らせいただければ,あなたも自宅で,このような聖書研究をなさることができます。必要なのは,いくらかの時間と,前もってよく読んで準備することだけです。結局は,あなたの命と,あなたの愛する人たちの命が関係しているのですから,真剣な努力をするだけの価値はたしかにあります。聖書の記述者ヤコブは,「魂を救い得ることばが植えられること」について述べています。(ヤコブ 1:21,新)そのことばの植え付けは,あなたが,あなたの分を行なうことなくしては,成し遂げられません。神のことばは,あなたがその真理を思いと心臓に受け入れ,それにもとづいて神のご意志を行なうようにしないかぎり,あなたに命をもたらすことはできません。イエスは言われました。「神は,ご自分のただひとりもうけられた子を与えるほどに世を愛され,だれでも,彼に信仰を動かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされたからです」。(ヨハネ 3:16,新)イエスに信仰をもつということは,「私はイエスを信じます」と言うだけのことではありません。それは行動を要求します。

      生きるために正しい環境を求める

      空気,土地,水の汚染。汚れた,または不適当な食糧。混雑し,不潔で,ばい菌のいっぱいいる状態など,悪い自然環境は人の命を縮めます。人々はそれを認めます。しかし,悪い精神的環境も同じであることに気づくほど,深くものを考える人は少ないのです。終わりのない将来のために備えるには,健全な清い霊の食物で,思いと心臓を定期的に養うことが必要です。また,会話を通して,建設的で,健康で,神への信仰を強め,正しいものへの欲望をつちかい,正しい規準を堅く守る決意を強めるような話をする人々と交わる必要があります。神がお立てになる新しい秩序には,そういう人々が住みます。

      しかし,わたしたちは今でも,そのような交わりが必要です。そしてそれを見つけることができるのです。どこで?

      キリスト教世界にたくさんある教会の中ですか。では,今日教会ではどんなことが行なわれていますか。牧師が聖書を格下げしているとか,同性愛をも含めてあらゆる型の性の乱行を大目に見る傾向が強くなったとか,官憲に反対する大衆デモを牧師が支持しているとかいったことをよく聞かされます。あなたは,教会で,明らかな偽善を直接目にしたことがおありかもしれません。また,あらゆる国で,教会が衰微しつつあることも,何かで読まれたことがあるかもしれません。いったいこれは何の証拠でしょうか。彼らが神に祝福されている証拠でないことはたしかです。そのような教会の不健康なひん死の状態を見ても,神を責めることはできません。彼らは,哲学や政治や人間の言い伝えをもって命のことばに替え,その結果を経験しつつあるのです。

      非キリスト教の場合は少しはましですか。そうではありません。キリスト教以外の宗教をもつ人々も,キリスト教世界の教会に見られるのと同様の騒ぎ,不一致,感化力と活力の全面的な低下を経験しつつあるからです。偽りの宗教は,人をまどわし,人に満足感を与えないばかりか,死の危険をはらみます。また,神と人とに対する真の愛と,真の正義の標準に対する純粋の献身とに欠けた,不健康な精神的風潮を生み出します。そのために聖書は,すべての偽りの宗教を,汚れに満ちた帝国の首都,「大いなるバビロン」という象徴的なことばで描写しています。黙示録 18章4節(新)は,「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災いの一部をこうむりたくないなら,彼女から出なさい」と警告しています。すべてのバビロン的宗教とそれを支持する者たちは,きたるべき「大かん難」において滅ぼされます。その不健康な考えかたが,神の新秩序に生き残れる人々を汚さないようにするためです。

      ではあなたはどこに行きますか。だれと交わりますか。「主を清き心にて呼び求むる者とともに義と信仰と愛と平和を追求めよ」と聖書は述べています。(テモテ後 2:22)エホバの証人は,あなたが証人たちと友だちになられるように,そして証人たちの王国会館で開かれる会衆の集会に出席されて,証人たちといっしょに聖書を勉強なさるようにご招待致します。そして,そこの霊的ふんい気を,あなたがご自分で経験なさることをおすすめします。スモッグにおおわれた場所から出て,新鮮な空気を吸い込むときのような,すがすがしさを感じられることと思います。神のことばから出る,混じりけのない明快な真理の水が,ほんとうにそこに流れているかどうか,ご自分でごらんになってください。

      神のことばに答え応ずる

      神のことばの知識を取り入れるにつれ,あなたはその知恵のすばらしさと,今でもそれが生活の質を大きく向上させ得ることを悟られるでしょう。そしてあなたは,たとえば,「古い人格」を捨てて「新しい人格」を身につけなさい,という神のご要求についても学ばれるでしょう。なぜですか。では,神の新秩序下の生活を望ましいものにするのは何でしょうか。そのひとつは世界的な平和です。どなり合い,けんか,口論などは,精神と肉体の健康に影響します。神の恵みのもとで生きることを願う人々に,聖書は今何をすべきかを告げています。

      「実際に,それらすべて,憤り,怒り,悪,ののしりのことば,そして,あなたがたの口から出る卑わいな話を,あなたがたから捨て去ってください。互いに偽りを語ってはならない。古い人格を,その慣習とともに脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けなさい」。―コロサイ 3:8-10,新。

      新しい人格を身に着けるには,もちろん時間がかかります。しかしこの面で進歩すると,とりわけ家庭生活が非常に楽しくなります。ですからクリスチャンは,神のことばに答え応じることが必要なのです。

      うそをつくこと,ごまかすこと,酒に酔うこと,淫行,姦淫,同性愛などの不品行はみな「古い人格」に属します。そういうものは,人を肉体的に,精神的に,霊的に堕落させ,傷つけます。しかし神の助言と教えは,「これを得るものの生命にしてまた全体の良薬」です。(箴言 4:22)そして,あなたの時間と体力を,喜びと報いのある,建設的で有用な活動にどのように用いるかを教えてくれます。神のことばに答え応ずるとき,あなたは,「エホバを愛しむものよ悪をにくめ」という詩篇 97篇10節のことばを実行したいと思うでしょう。そうなれば,あなたは悪事を避けるでしょう。しかも,悪を行なう機会がない時ばかりでなく,正しいことを愛するがゆえに,常にそれを避けるでしょう。悪い考えや性向を退けて,「あなたの心臓を守(る)」でしょう。なぜなら,「命の源がそこに発しているから」です。(箴言 4:23)こうしたことは,永遠の生命を得る準備として,今しなければならない事柄です。

      あなたの創造者は,「耳をかたぶけ我にきたりてきけ,汝等のたましひは活くべし」と,あなたを招いておられます。(イザヤ 55:3)神から永遠の命への道を学ぶ今ある機会を軽視したり,むだにしたりしないようにしましょう。あなたの知力,感情,体力を今,あなたご自身と,あなたの愛するかたがたの永遠の福祉のために,神に従って正しく用いましょう。そうです,神の正しい新秩序のもとにおける,終わりのない将来のために,今準備してください。

  • 世界展望
    目ざめよ! 1971 | 4月22日
    • 世界展望

      聴力を冒す「ロック」音楽

      ◆ 「ロック」音楽を絶えず聞く十代の若者たちは,程度の差こそあれ,聴力を冒されることが医師たちによって発見された。音の専門家セオドール・バーランドは,「新しい音楽の響き[『ロック』]は,流行病学的に見て古いものよりもずっと危険である」と語っている。「注意! 現代音楽はあなたの聴力に危険です」というラベルを,「ハード・ロック」音楽のレコードすべてにはってはどうかという提案が,冗談抜きにしてなされている。

      疑問視される水銀化合物の使用

      ◆ アメリカのニューヨークで発行されている「メディカル・レター」誌の最近号は,腐制剤として水銀の化合物を用いることに関し,「そうした薬剤の使用には何ら正当な理由がない」と述べた。水銀化合物には細菌の生殖細胞に対するききめがないという。名前のあげられた水銀化合物の中には,マールブロミン(マーキュロクローム),ニトロメマーゾル(メタヘン),シマーロザル(マーシオレイト)がはいっていた。また,同誌は次のように述べている。「しかし,もっとよくきく感光性の少ない腐制剤があるのだから,皮膚や粘膜の腐制剤あるいは消毒剤としてそれらを用いるのには何ら正当な理由がない」。さらに,比較的清潔な皮膚にできた小さなすり傷や浅い切り傷は,石ケンと水で洗うのが最善の治療であることがしるされている。

      人気のない宗教関係のカード

      ◆ 宗教から遠ざかるという一般の風潮を反映するものとして,宗教関係のカードが一番不人気であると,あいさつ状を販売している多くの店が報告している。ある会社によれば,宗教関係のあいさつ状にそっぽを向く風潮はアメリカ全土にみられるという。

      カナダ統一教会の財政難

      ◆ 財政問題をかかえる教派が増加しているが,カナダ統一教会もその仲間入りをした。寄付金が激減したため,教会の活動範囲を縮小しなければならないことが発表された。根本的な問題は教会出席者が少ないことにある。その結果寄付金も集まらない。あるスポークスマンは,「わたしたちが人々を教会に

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