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神の忍耐は人類にとって永遠の祝福ものみの塔 1966 | 10月15日
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神の忍耐は人類にとって永遠の祝福
「愛は寛容であり……」― コリント第1 13:4。
1 (イ)聖書はエホバをどのように描いていますか。(ロ)エホバはなぜ忍耐されますか。
神の忍耐については聖書全巻にしるされています。聖書の中でエホバはやさしい,そして罰するよりも祝福する神として描かれています。人が罪を犯し,そのために刑罰が求められている時にも,神の忍耐は刑罰を下すことをさしひかえます。エホバの忍耐は,人間と天使のたびかさなる挑発をも忍びます。エホバは「怒ること遅く」と詩篇に述べられています。(詩 103:8)エホバは神であり,愛であるゆえに長く忍ばれます。「神は愛である」― ヨハネ第一 4:16。
2 (イ)忍耐を定義しなさい。(ロ)ヘブル語聖書中の多くの句の中で,忍耐という語はどのように訳されていますか。
2 忍耐とは,いらだったり,報復したりせずに不当な待遇に耐えることです。人を怒らせ,憤慨させる言動をする者にもがまんする心を持つことです。「忍耐」と訳されるギリシア語は文字どおりには「気が長い」という意味で,よく使われる「気が短い」ということばの反意語です。ヘブル語聖書中の三つの句の中で(出エジプト 34:6。民数 14:18。詩 86:15),新世界訳聖書は欽定訳の「忍耐」のかわりに「怒るに遅く」という表現を用いています。それは「怒りの燃えあがる顔あるいは鼻の長さ」というヘブル語の表現をなるべく原語に忠実に訳したものです。しかしネヘミヤ記 9章17節,詩篇 103篇8節,145篇8節,エレミヤ記 15章15節,ヨエル書 2章13節,ヨナ書 4章2節,ナホム書 1章3節などの多くの聖句において,二つの訳語は互いにおきかえることができます。ゆえに「忍耐」および「怒るに遅い」という二つの表現は,同じ意味です。
3 「忍ぶ」という意味の英語のことばは何を意味しますか。それは聖書の用語法とどのように一致していますか。
3 「忍ぶ」という意味の英語は,許す,容赦する,止める,あるいはさばきの執行を延ばすという場合の延ばす等,いろいろな意味に用いられます。「忍ぶ」ということばの聖書における用語法も,だいたいこれと同じです。それは怒りを表わすのに遅いこと,忍耐すること,延ばすこと,すなわち神の定めの時までは悪人がほしいままに行なうのを許す気持ちを持つことを意味します。
4 忍耐は何を意味するものではありませんか。なぜですか。
4 忍耐は善悪に関する正義の標準を下げることではありません。預言者モーセがエホバについて書いた次のことばからも,それは明らかです。「主は岩であって,そのみわざは全く,その道はみな正しい。主は真実なる神であって,偽りなく,義であって,正である」。(申命 32:4)神の忍耐を軽んずる者は,忍耐の示されている理由を知らないのです。忍耐を弱さ,不義あるいは無関心の表われと見る者の心は盲目です。
5 忍耐はなぜ平和主義ではありませんか。
5 神の忍耐は平和主義ではありません。それは悪また悪行にとどめをさす戦いを伴うことがあります。霊感の下にしるされた箴言は次のように述べています。「暴虐な人を,うらやんではならない,そのすべての道を選んではならない。よこしまな者は〔エホバ〕に憎まれるからである,しかし,正しい者は主に信任される。〔エホバ〕の,のろいは悪しき者の家にある,しかし,正しい人のすまいは主に恵まれる」。(箴言 3:31-33,〔文語〕。出エジプト 20:5,6)エホバは悪人と妥協しません。ただ,「ひとりも滅びることがなく,すべての者が悔改め」て生きるように,悪人を忍ばれているのです。―ペテロ第二 3:9。テモテ第一 2:4。エゼキエル 3:17-21。
6 どんな意味において,忍耐はがまん以上のものですか。そのことはイスラエルの場合にどのように明らかですか。
6 ゆえに忍耐は,単なるがまんではありません。このことばが意味するのは,挑発に直面して単にがまんするだけでなく,悪化した関係をよくする望みを捨てないということです。預言者イザヤをとおして昔のイスラエルに告げられたエホバのことばは,忍耐のこの面を示しています。「よからぬ道に歩み,自分の思いに従うそむける民に,わたしはひねもす手を伸べて招いた。この民はまのあたり常にわたしを怒らせた」。それでも神は彼らを否認せず,また滅ぼしませんでした。なぜですか。預言者イザヤは次のように述べています。「〔エホバ〕はこう言われる,『人がぶどうのふさの中に,ぶどうのしるのあるのを見るならば,「それを破るな,その中に祝福があるから」と言う。そのようにわたしは,わがしもべらのために行って,ことごとくは滅ぼさない。わたしはヤコブから子孫をいだし,ユダからわが山々を受けつぐべき者をいだす。わたしが選んだ者はこれを受けつぎ,わがしもべらはそこに住む……しかし〔エホバ〕を捨て,わが聖なる山を忘れ(る)……あなたがたよ,わたしは,あなたがたをつるぎに渡すことに定めた。あなたがたは皆かがんでほふられる。あなたがたはわたしが呼んだときに答えず,わたしが語ったときに聞かず,わたしの目に悪い事をおこない,わたしの好まなかった事を選んだからだ』」。(イザヤ 65:2-12,〔文語〕)それでエホバは,忠実を示す人々のために特別に忍耐を示されました。これらの人々は貴重なものを受けついで祝福されますが,悪人は最後には滅ぼされます。エホバはそのことを約束されました。
人類に対して示された忍耐
7 エホバの忍耐は人類にとってなぜ良いことですか。エホバの忍耐にはどんな目的が見越されていますか。
7 エホバが忍耐強く,怒るに遅い神であることは人類にとって幸いです。人間に対して神のされることが人間の功過にのみ基づいているとすれば,わたしたちはどうなりますか。最初の人間夫婦が神にそむいた時,神の正義の見地からのみ厳格に事が選ばれたならば,人類はそのときに絶滅していたにちがいありません。(創世 2:17)神の愛および愛の実である「忍耐」によって,人間はそのとき絶滅を免れました。神の忍耐は,神の約束のすえによって神に栄光が帰せられることを見とおしていました。―創世 3:15。ヨハネ 3:16。ガラテヤ 5:22。
8 (イ)どのように,そしてなぜエホバは洪水前に忍耐を示されましたか。(ロ)エホバの忍耐はどんな重要な目的をはたしましたか。
8 人間がエデンから追放されてまもなく,エホバはなお人類に対して忍耐を示さなければなりませんでした。エノスの時代に人々は不敬虔な仕方で「エホバの名を呼こと」をはじめました。(創世 4:26,文語)人口の増加とともに悪は増し加わり,人間と天使が神を汚し,ついに「(人が)すべてその心に思いはかることが,いつも悪い事ばかりである」に至りました。「時に世は神の前に乱れて,暴虐が地に満ちた。神が地を見られると,それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」と神のことばに記録されています。(創世 6:5-12)地のため,またわずかな人間(全部で8人)のために,神は洪水によって悪人を滅ぼし,悪を終わらせました。(ペテロ第一 3:20。創世 7:17-23)神の忍耐は極限に達したのです。それでもなお神の忍耐は大切な目的をはたしました。それは地をぬぐって清めるのが正しいことを示しました。洪水を生き残った人々は,エホバの行なわれた力あるわざが知恵の行ないであることを一瞬といえども疑いませんでした。神の忍耐を考えれば,洪水が正当なものであったことを疑う余地はありません。
9 エホバの忍耐は洪水後の人類にとってどのように祝福でしたか。人々はそれをどう見なしましたか。
9 エホバの忍耐の結果,人間は新たな出発をすることになりました。人類は存続したのです。洪水は,救い主であるエホバに対する恐れと敬虔を人間の心に深く刻みつけるはずでした。しかしそのような結果にはならず,洪水を生き残った人々の子孫は,神の忍耐を誤解して,神は無関心であると考えるようになりました。詩篇のことばで言えば,人々は心の中で次のように考えたのです。「神は忘れた,神はその顔を隠した,神は絶えて見ることはなかろう。なにゆえ,悪しき者は神を侮り,心のうちに『あなたはとがめることをしない』と言うのですか』」。(詩 10:11,13。伝道の書 8:11-13)アブラハムの時代に悪は再び頂点に達しました。
10,11 (イ)ソドムとゴモラの町に関連して,エホバの忍耐はどのように示されましたか。(ロ)これはわたしたちに警告を与えるどんな実例となっていますか。
10 エホバの忠実なしもベアブラハムは,ソドムとゴモラが滅ぼされないようにマムレにおいて神に懇願しました。しかしエホバはアブラハムに対し,これらの町が全く腐敗していると告げられました。「ソドムとゴモラの叫びは大きく,またその罪は非常に重い」。(創世 18:20)それでもなおアブラハムはこれらの町が救われるようにと神に願いました。アブラハムには,これらの町が救いの不可能なほど全く腐敗しているとは考えられなかったのでしょう。それで「まことにあなたは正しい者を,悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」と訴えています。(創世 18:23)アブラハムは,正しい者がソドムになお残されており,町を滅ぼすならば,正しい者が不正な仕打ちを受けることになると考えました。それで神に次のように訴えたのです。「たとい,あの町に五十人の正しい者があっても,あなたはなお,その所を滅ぼし,その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを,あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも,あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」― 創世 18:24,25。
11 そこでエホバはアブラハムに答えて,「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら,その人々のためにその所をすべてゆるそう」と言われました。しかしアブラハムは,45人,40人,30人,20人あるいは10人の正しい者がいたらどうですかと述べて懇願しつづけました。正しい人が10人に満たないとすれば,ソドムの滅びは当然であると,アブラハムも考えたにちがいありません。しかし正しい人は10人いなかったのです。それは4人だけでした。今日,世の中はエホバの証人の言うほど,道徳的また霊的に悪くないと考える人が大ぜいいます。人々はこの世に希望があるかのように語ります。しかし,聖書の中でこの世は,さばきの日に10人の正しい人を出せなかったソドムとゴモラにたとえられているのです。これらの町は火と硫黄によって燃えつきました。そのことはイエス・キリストのことばからも,考古学からも確証されています。神のことばによれば,この世もまた終わります。―創世 18:26-33; 19:1-29。ルカ 17:29,30。ペテロ第二 3:7。
12 これらの町に関連して,エホバの忍耐はどんな良い目的をはたしましたか。
12 ソドムとゴモラが火で滅びた時,アブラハムは神に不平を言いませんでした。その町で滅びた物を惜しまず,滅びた生命のために嘆かなかったのです。不敬虔な者は当然の報いを受けました。神が忍耐を示された以上,神のしもべは,執行された神の正義に満足しなければなりません。悪人が当然の報いを受けたこと,エホバが怒るに遅く,恵みと真理に満ちた神であることに疑問の余地はありません。神のしもべは次の事を十分に理解しています。「ただしき者の救はエホバよりいづ,エホバはかれらが辛苦のときの保砦なり,エホバはかれらを助け,かれらを解放ちたまふ,エホバはかれらを悪しき者よりときはなちて救ひたまふ,かれらはエホバをその避所とすればなり」― 詩 37:39,40,文語。
神の忍耐とイスラエル
13 エホバは昔のイスラエルに対して,どのように忍耐を示されましたか。それはどのように受けとられましたか。
13 聖書にしるされた事柄の中でも,神がむかしイスラエル民族と交渉を持たれた時の出来事は,神の忍耐を最もよく示しています。イスラエル民族はエホバのみ手によってエジプトの奴隷のくびきから解放され,強い国民になりました。彼らは他のどの民よりも恵まれた,特異な国民でした。何世紀にもわたって,神は彼らに物質的,霊的な祝福をそそがれたのです。そしてついには独り子を彼らの中につかわされました。彼らがみ子を苦しみの杭にかけて殺したにもかかわらず,無限のあわれみを持たれるエホバは,福音がまず彼らに宣べ伝えられるべきことを命じ,み子イエス・キリストによる神の救いを受け入れるように,預言者,使徒,宣教者を通して勧めることをされました。それでもなお彼らは神の勧めを受け入れなかったのです。不可解なことに,彼らは神の恵みの意図を誤解しました。彼らは,残れる者のように悔い改めに導かれるべきでした。しかしほとんどの者は神のご親切に対して怒りを感じ,極端に恩しらずな態度をとりました。神の大きなあわれみと忍耐を示された人々は,たとえ恩を忘れて神にそむいても神の恵みを失うことはないと考えるに至りました。しかし彼らの考えがまちがっていたことは,歴史にみて明らかです。―ネヘミヤ記 9:4-35,使徒行伝 2:14-47; 7:51-53をごらん下さい。
14,15 (イ)エホバの忍耐は無駄になりましたか。(ロ)神の忍耐に関して,さらにどんな教訓を学びますか。
14 ユダヤ人に示された神の忍耐は無駄になりませんでした。その目的ははたされたからです。それは残れる者に悔い改めの機会を与えました。残れる者にとり,神のあわれみを見いだしたことは,今までの悪を離れて正しいことを行なう動機となり,励みとなったのです。こうして彼らは神の恵みを受ける者となり,かしらであるキリストと共に天国において神の霊的な子になる道にはいりました。
15 しかし神の忍耐をないがしろにしたことは,ユダヤ人にとって損となりました。彼らの損は異邦人にとって得となり,天国の成員となる機会が,ユダヤ人の不信仰のゆえに異邦人に開かれました。かたくなな心を改めなかったユダヤ人は遂にエホバの恵みを失い,その結果,エホバの保護と祝福を失いました。西暦70年,エルサレムの町がローマ軍に滅ぼされたことは,それを物語っています。―ローマ人への手紙 第11章。
神の忍耐の背後にあるもの
16 使徒パウロによればエホバが忍耐されるのはなぜですか。
16 しかし神はなぜ忍耐されますか。神が人間の無礼を忍ばれたのは単に人間の救いのためですか。イエス・キリストの使徒となったパウロは答えています。「もし,神が怒りをあらわし,かつ,ご自身の力を知らせようと思われつつも,滅びることになっている怒りの器を,大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば,かつ,栄光にあずからせるために,あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば,どうであろうか。神は,このあわれみの器として,またわたしたちをも,ユダヤ人の中からだけではなく,異邦人の中からも召されたのである。それは,ホセアの書でも言われているとおりである,『わたしは,わたしの民でない者を,わたしの民と呼び,愛されなかった者を,愛される者と呼ぶであろう。あなたがたはわたしの民ではないと,彼らに言ったその場所で,彼らは生ける神の子らであると,呼ばれるであろう』」。(ローマ 9:22-26)言いかえれば,神はご自身の忍耐により,御名を負う民を取り出されているのです。この民によって,神はご自身を全地に崇められます。―コリント第一 3:9,16,17。コリント第二 6:16。使行 15:14。
17 神の忍耐のゆえに,どんな祝福が人類に及びましたか。
17 この人々はエホバの証人となります。彼らはエホバ神の誉れを広く宣べ伝えるわざに任命されました。この人々について使徒ペテロは次のように書いています。「あなたがたは,選ばれた種族,祭司の国,聖なる国民,神につける民である。それによって,暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを,あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは,以前は神の民でなかったが,いまは神の民であり,以前は,あわれみを受けたことのない者であったが,いまは,あわれみを受けた者となっている」。(ペテロ第一 2:9,10)神のあわれみと忍耐によってこれらの人々は神の子すなわち神の民となることができたのです。パウロも次のことをしるしています。「もし子であれば,相続人でもある。神の相続人であって,キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上,キリストと共同の相続人なのである。わたしは思う。今のこの時の苦しみは,やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると,言うに足りない」。(ローマ 8:3,4,14-18。コリント第二 5:17。ガラテヤ 6:15)なんとすばらしい前途ではありませんか。これらの人はキリストと共に天国を構成するのです。そしてキリストとともに1000年のあいだ地を治め,人類に永遠の祝福をもたらします。エホバは書きしるされたご自身の約束に従い,神の足台である地をその人々によって栄光の場所にします。(イザヤ 60:13)それで神の忍耐の背後には,キリストとその国によって神の御名とみことばを立証するという目的があるのです。
イエス・キリストは忍耐の手本を示された
18 エホバの忍耐はだれによって表わされましたか。どのようにですか。
18 エホバの忍耐はイエス・キリストの地上の生涯によく表わされています。使徒パウロは次のように書きました。「信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか。彼は,自分の前におかれている喜びのゆえに,恥をもいとわないで,〔刑柱〕を忍び,神の御座の右に座するに至ったのである」。(ヘブル 12:2,〔新世訳〕)病める者,貧しい者に対して,イエスは大きな忍耐を示されました。ピラトやヘロデに対しても同様です。イエスを杭につけた者たちに関して,「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです」と述べたイエスのことばは,彼らに対する大きな忍耐を示しています。(ルカ 23:34)預言者イザヤはイエス・キリストについて次のことを述べました。「彼はしえたげられ,苦しめられたけれども,口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように,また毛を切る者の前に黙っている羊のように,口を開かなかった」。(イザヤ 53:7)イエスは不平を言わず,つぶやかず,喜んで苦しみを忍びました。ご自分の前におかれている喜びを考えたからです。
19 イエス・キリストの忍耐はどのようにわたしたちの手本ですか。
19 真の威厳をもって忍耐することをイエスは人々に教えました。イエスはその手本によって,仲間の人間の弱さを忍ぶことを追随者に教えました。ペテロ,トマスその他の使徒をイエスが忍ばれたこと,また復活後に使徒たちを励まされたことを考えてごらんなさい。(ヨハネ 20:24-29; 21:15-17)イエスは,酒飲み,らい病人,遊び女のあやまちと弱さを忍ぶことをみずから示されました。イエスは,無知な問いをする者の暴言,悪人の敵意を忍び,しかもぐちをこぼしたり,いらだったり,報復しようとしたりせずに忍ばれたのです。わたしたちはこのような手本にならわねばなりません。
20 忍耐することからどんな教訓を学ばなければなりませんか。
20 苦しみを受けることから教訓を学ばなければなりません。完全な人であったイエスでさえもその教訓を学ばれました。聖書は次のように述べています。「キリストは,その肉の生活の時には,激しい叫びと涙とをもって,ご自分を死から救う力のあるかたに,祈と願いとをささげ,そして,深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず,さまざまの苦しみによって従順を学び,そして,全き者とされたので,彼に従順であるすべての人に対して,永遠の救の源とな……られたのである」。(ヘブル 5:7-9)救いを得る人すべては,従順の教訓を学ばなければなりません。―サムエル上 15:22,23。
現代における神の忍耐の必要
21 現代においても,エホバの忍耐はどのように示されましたか。
21 イエス・キリストの次のことばは,現代における神の忍耐の必要をはっきり示しています。「まして神は,日夜叫び求める選民のために,正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが,神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし,人の子が来るとき,地上に信仰が見られるであろうか」。(ルカ 18:7,8)即位した王であるみ子を伴ってさばきのため宮に来られた時,エホバ神は,キリスト教を奉ずると主張する人々に対して大きな忍耐を示すことが必要でした。神に献身した人々もバロビン的な宗教に染まっていたのです。その衣は宗教的な偽善と政治との妥協で汚されていました。神は彼らの弱さを長く忍ばれました。やがて,心の正しい人々は神の忍耐に気づき,自分たちの罪を悔い改めて生活を正しく改めました。そしてエホバは彼らを祝福し,全世界においてエホバの証人となる特権を彼らに授けられたのです。彼らは,設立された神の国と,ハルマゲドンにおける全能の神の大いなる日の戦いの近いことを緊急に宣べ伝える,栄光ある奉仕の特権を与えられました。―マタイ 24:14。黙示 16:16。
22 エホバの忍耐はどんな面において人類を益するものとなりましたか。
22 神の忍耐は確かに大きな報いをもたらしました。それは神への栄光を増し加えました。それは人類にとってあがない主を意味し,永遠の生命の新たな希望を意味しました。(テトス 1:1,2。ヨハネ第一 2:25)多くの霊的な子をその中に迎え,また人類を祝福する御国政府も,エホバの忍耐によって可能になったのです。今の終わりの時代にも,エホバの忍耐によって,御国の成員の数が満たされたにとどまらず,神のあわれみにこたえて神の救いにあずかる道が大いなる群衆のために開かれました。加えて,真の崇拝が地に確立され,神の目的のために献身した,霊的に清い人々の社会が生まれたのです。これはわたしたちの目にすばらしく映ります。エホバの忍耐が示されなかったとすれば,救われる者はひとりもなかったに違いないからです。(マタイ 24:22)しかし100万人以上の人々がエホバを賛美しているいま,神の忍耐の貴重な実を見ることができます。たしかにエホバは忍耐によってご自身の栄光をさらに輝かされました。
23 (イ)神の忍耐に関して,どんな警告が与えられていますか。(ロ)神の忍耐の目的を無駄にしないように,クリスチャンは何を常に心に留めるべきですか。
23 しかしこの福音とともに警告も発せられています。それは,わたしたちが個人的にも集団的にも,エホバの忍耐の目的を無駄にしてはならないということです。使徒ペテロはこの賢明な警告をはっきり述べています。「ある人々がおそいと思っているように,〔エホバ〕は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ,ひとりも滅びることがなく,すべての者が悔改めに至ることを望み,あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。そして使徒は次のことばを加えています。「しかし,〔エホバ〕の日は盗人のように襲って来る」。悪人は滅ぼされます。次のことを常に確信し,心に銘記しておかなければなりません。すなわちエホバの日が来ることと,悪人が滅びることです。ゆえに「主の寛容は救のためであると思いなさい」。それで主の寛容から益を受けてください。そうする人々の前途には,キリストの治める,神の新しい秩序の永遠の祝福があります。その祝福は神の忍耐に由来するのです。―ペテロ第二 3:9-18,〔新世訳〕。ガラテヤ 6:9。
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すべての人に対して寛容でありなさいものみの塔 1966 | 10月15日
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すべての人に対して寛容でありなさい
「すべての人に対して寛容でありなさい」― テサロニケ第1 5:14。
1 忍耐はだれの間に見られますか。なぜですか。
地球上の生物の中でも,忍耐という神の性質を持っているのは人間だけのようです。それはおもに,忍耐が神のみたまの実であるためです。(ガラテヤ 5:22)ゆえにそれは神のみたまの働きを受けている人々の間におもに見られる特質です。この実を持つことは,忍耐を示す人自身と周囲の人々にとって大きな祝福となります。忍耐のない,利己的な今の世に住む人々は,互いに忍耐を示さなければなりません。
2 (イ)世の中にこの資質が欠けていることは,どんな事実から明らかですか。(ロ)どんな事のゆえに,忍耐は望ましい性質ですか。
2 忍耐とは不当な仕打ちを忍ぶことであり,いらだったり,しかえしをしたり,ぐちをこぼしたりせずに忍ぶことです。また忍耐の背後には人類の救いという無私の目的があります。それを思えば,この神の性質が人間に欠けていること,それが大いに必要なことが痛感されます。すべての人が罪の中に生まれ,また神から離れて腐敗した世に生まれたことを考えると,その必要はさらに明白です。(詩 51:5。ヨハネ第一 5:19)この世の中で毎日生きて行くうえにも,ある程度の忍耐,小さなとがや不正を忍ぶことが必要です。自分の至らないことを知る人は,他の人から忍耐を示されるとき,いつも感謝します。また他の人の思いやり,同情,あわれみを求めます。あわれみや理解を示されることがなければ,人は失意落胆に陥ります。自分は価値のない者であるという考えに打ちひしがれた人は,決して少なくありません。それで忍耐を示されるならば,心の重荷がおりて生気がよみがえります。忍耐はその人々にとって祝福であり,忍耐によって世の中は明るく,住みやすいところになります。それは愛のすぐれた道です。「愛は寛容であり」― コリント第一 12:31; 13:4。
3 忍耐について,ほかにどんな事柄を心に留めるべきですか。
3 神のしもべは不正な仕打ちを受けてもそれを忍び,しかも正しい態度すなわち不平を言わないで忍ぶことを命ぜられています。その忍耐は神とキリストにならうものでなければなりません。エホバは敵対者に対しても恨みや悪意を抱きません。価値があるのはこのような忍耐です。イエスは次のように言われました。「それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」― マタイ 5:48。
4 苦しみを受けても耐え忍ぶようにクリスチャンを助けるものは何ですか。聖書はそのことをどのように裏づけていますか。
4 エホバの忍耐というすばらしい手本に加えて,クリスチャンには苦しみを忍ぶ力となり,励みとなるものがあります。忍耐するのは容易なことではありません。それでこのような力と励ましが必要です。イエス・キリストは,有名な山上の垂訓の中でそれが何であるかを簡単に示されました。「義のために迫害されてきた人たちは,さいわいである,天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり,また迫害し,あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には,あなたがたは,さいわいである。喜び,よろこべ,天においてあなたがたの受ける報いは大きい」。(マタイ 5:10-12)イエスは,悪い仕打ちを忍ぶことの報いを述べています。耐えなければならない苦しみも天国の富また永遠の生命とくらべるならば,義のために苦しめられることは苦になりません。神の約束に信仰を抱きさえすれば,大いに喜ぶことができるのです。主イエス・キリストの兄弟であった弟子ヤコブは次のように書きました。「兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては,〔エホバ〕の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。忍び抜いた人たちはさいわいである,わたしたちは思う。あなたがたは,ヨブの忍耐のことを聞いている。また,〔エホバ〕が彼になさったことの結末を見て,〔エホバ〕がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが,わかるはずである。試錬を耐え忍ぶ人は,さいわいである。それを忍びとおしたなら,神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」。(ヤコブ 5:10,11; 1:12,〔新世訳〕)正しい事をしたために試錬にあう時,神の約束を信じなさい。そうすれば,苦しみを受けても喜ぶことができます。
5,6 (イ)使徒パウロはコロサイ人に対し,苦しみを受けることについてなんと述べましたか。(ロ)苦しみを受けることが特権であり,賜物であると言えるのはなぜですか。
5 使徒パウロも,試錬にあってなお喜ぶことについて,コロサイ人への手紙に次のように書きました。「何事も喜んで耐えかつ忍び……聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さった父なる神に,感謝することである」。(コロサイ 1:10-12)クリスチャンの忍耐には喜びが伴っていなければなりません。クリスチャンとして苦しみを受けることを特権と考え,忍耐が是認を,是認が生命の冠をもたらすことを理解すれば,そうでなければなりません。
6 苦しみを受けることが特権なのですか。そうです。キリストのために苦しみを受けることは賜物でさえあります。ピリピ人にあてられた使徒パウロの手紙の中で,この点が述べられていることに注目してください。「あなたがたはキリストのために,ただ彼を信じることだけではなく,彼のために苦しむこと〔特権〕をも賜わっている」。(ピリピ 1:29,〔新世訳〕)。信仰のある人ならば,キリストへの信仰が貴重な特権であることを否定しません。しかしパウロはそれをさらに一歩すすめ,キリストのために苦しむことがまさに特権であり,賜物であると述べています。与えられたものは賜物です。また程度に差こそあれ,「いったい,キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は,みな,迫害を受ける」のです。(テモテ第二 3:12)このことを理解すれば,すべての人に対して寛容でなければならないわけを知るでしょう。
7 パウロはどんな苦難を経験しましたか。パウロは忍耐することを,なぜ他の人々にすすめることができましたか。
7 使徒パウロは忍耐また忍耐することについて書いただけでなく,自分自身大きな苦難に耐えました。コリント人への第二の手紙(11:23-29)の中で,パウロはキリストのために自分が耐え忍んだ事柄を述べています。彼は何回も投獄され,打たれて死にそうになりました。むちで39回打たれたことが5度,石で打たれたこともあり,3度破船にあっています。また飢え,眠れない夜,危険を経験しました。しかもパウロは,すべての人に対して寛容であれと,クリスチャンの兄弟たちにすすめているのです。クリスチャンの忠実にかかわる問題を知り,また耐え忍んだ者が神から受ける,栄光ある生命の報いを確信したゆえに,パウロはそうすることができました。また何事もエホバの許しがなければ,クリスチャンの身にふりかかることがないという確信も,パウロを強めました。もし神がそれを許したのであれば,パウロは神のしもべとして,たとえどんな犠牲を払おうとも喜んで奉仕したのです。―コリント第二 6:3-10。テモテ第二 4:6-8。
忍耐の手本
8 迫害する者に対して,ヨセフが忍耐を示すことができたのはなぜですか。
8 忍耐することが神のみこころであるというこの事実は,神の忠実なしもべたちによって驚くほど何回も強調されています。一例としてヤコブの子ヨセフのことを考えてごらんなさい。ヨセフは兄弟たちの手でエジプトに売られましたが,それでも兄弟たちを恨みませんでした。また偽りの告訴を受けて投獄された時にも,その心はまっすぐでした。何年ものちに兄弟たちと再会して自分の身を明かした時,ヨセフはなんと語りましたか。「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも,悔むこともいりません。神は命を救うために,あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」。(創世 45:4,5)ヨセフは,起きたすべての事の背後に,神のみ手の働きを認めました。それで悪い仕打ちをした者に対しても,寛容を示すことができたのです。
9 ダビデ王は侮辱にどう応じましたか。なぜですか。
9 ダビデ王はある時,悪口雑言を吐くシメイという人からあなどりを受けました。ゲラのこのむすこはダビデにむかって石を投げ,「血を流す人よ,よこしまな人よ,立ち去れ,立ち去れ」と叫びました。ダビデの家来アビシャイはシメイを殺させようとしましたが,ダビデは「彼をゆるして詛はしめよエホバ彼に命じたまへるなり」と述べています。(サムエル下 16:5-13,文語)ダビデは,神のみこころと考えて,はずかしめを忍びました。権力の地位にある人で,ダビデのしたようにふるまう人は少ないことでしょう。ダビデの願いは自分ではなくエホバを喜ばせることでした。それがダビデの忍耐を助けたのです。
10 イエスはポンテオ・ピラトにむかってどんな事実を強調されましたか。その事実は,イエスが忍耐するうえにどのように助けとなりましたか。
10 イエス・キリストがあなどられ,むち打たれ,狂気の群衆がイエスの死を叫び求めていた時,総督ポンテオ・ピラトは好奇心をもって「あなたは,もともと,どこからきたのか」と尋ねました。しかしイエスが何の答えもされないので,次のように言いました。「何も答えないのか。わたしには,あなたを許す権威があり,また〔杭〕につける権威があることを,知らないのか」。苦しみを受けたことのある神のしもべは,ピラトのことばに対するイエスの答えをよく知っています。「あなたは,上から賜わるのでなければ,わたしに対してなんの権威もない」。(ヨハネ 19:1-11,〔新世訳〕)イエスは,事態をごらんになった時,それが神のみこころであることを認められました。もしそれが苦しみを受けることであれば,イエスは苦しみを受けることをいといません。―詩 40:8。ヘブル 10:5-10。
11 イエスの追随者にはどんな精神が見られますか。例をあげなさい。
11 今日に至るまで,この同じ精神がキリストの追随者に見られます。ペテロをはじめ,キリストの他の使徒たちがキリストの名によって語ったためにむち打たれた時,彼らは「御名のために恥を加えられるに足る者とされたこと」を喜びました。(使行 5:41)多くむち打たれたのち投獄されたパウロとシラスは,神を賛美する歌を歌っています。(使行 16:22-25)獅子の中に投げ込まれ,杭につけられて焼かれながらも神を賛美したクリスチャンのことが歴史に多くしるされています。現代のクリスチャンであるエホバの証人も,ギロチン,ガス室,銃殺刑,強制収容所,刑務所,岩塩坑などを恐れませんでした。彼らは神に忠実を保つことを心に刻みつけていたのです。彼らは苦しみを受ける理由を知っていました。また忠実を保つ人に対して,どんな栄光が約束されているかも知っていたのです。それで苦しみを受けても喜ぶことができました。―ヨハネ 15:18-21。
忍耐の実をつちかう
12 生活の中でどのように忍耐をつちかうことができますか。神のみたまを受けるのに必要な,四つの根本的な事柄をあげなさい。
12 どうすれば,神のみこころに対してこの同じ認識を持つことができますか。どのようにして生活の中で忍耐をつちかうことができますか。忍耐は神のみたまの実です。ゆえにこの資質を持つには神のみたまを持たなければなりません。それを得るためにしなければならないのは,おもに次の四つのことです。(1)みたまに満たされた神のことば聖書を学ぶことが必要です。(テモテ第二 3:16,17。ヘブル 4:12)聖書の原則を生活において実行するとき,神のみたまは,新しい生活のしかたとなって表われ,人は創造者エホバとの関係,また自分がかかわりを持つ,神への忠実の問題を理解するようになります。(ヨブ記 1,2章)(2)つぎには,神のみこころを行なうことに関心を持つ人々と交わらなければなりません。このような交わりは忠実を励まします。それは「ただ聞くだけの者」ではなく「御言を行う人」になることを助けるでしょう。(ヤコブ 1:22)(3)神のみたまを受け,それを保つために,祈りもまた肝要です。ゆえにエホバに祈ること,また「常に祈」ることを学ばなければなりません。(ローマ 12:12。テサロニケ第一 5:17)エホバの民は,「義人の祈は,大いに力があり,効果のあるものである」ことを知っています。(ヤコブ 5:16)(4)以上のすべてに加え,聖書から学んだ良い事柄を毎日実行しなければなりません。すべての人に対して寛容を示すことも必要です。(ピリピ 4:9)この教えを実行するならば,エホバのみたまと,そのもたらす祝福を受ける者になることでしょう。
すべての人に対して寛容を示す
13,14 クリスチャンは何をするようにさとされていますか。どんな手本にならうべきですか。これはどのように役だちますか。
13 クリスチャンは,「すべての人に対して寛容であり」,「寛容を身に着け」,「召されたその召しにふさわしく歩き,できる限り謙虚で,かつ柔和であり,寛容を示し,愛をもって互に忍びあい,平和のきずなで結ばれて,聖霊による一致を守り続けるように努め」るべきことを教えられています。(テサロニケ第一 5:14。コロサイ 3:12-14。エペソ 4:1-3。コリント第一 13:4)このことをする最善の方法はなんですか。
14 イエス・キリストはわたしたちの手本です。イエスは罪人を救うため,世に来られました。それでわたしたちがイエスの手本にならうのは良いことです。イエスの忍耐は,タルソのサウロの場合によく示されています。サウロはみずからも認めているように,神をけがした者,クリスチャンを迫害した者,不遜な者,ステパノの殺害を是認した者です。それでもキリストは彼に手をさしのべ,彼をクリスチャンの特別な代表者である使徒にしました。これが使徒パウロです。パウロはテモテに次のように述べています。「わたしがあわれみをこうむったのは,キリスト・イエスが,まずわたしに対して限りない寛容を示し,そして,わたしが今後,彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」。(テモテ第一 1:12-16)互い同志どれだけの寛容を示すべきかに迷うことがあるならば,キリストの示されたこの寛容にならおうではありませんか。―マタイ 6:14,15; 18:21,22。詩 103:13,14。
15,16 (イ)家庭においても忍耐が必要なのはなぜですか。(ロ)夫と妻はどのように忍耐を働かせますか。(ハ)忍耐の益を示すどんな例がありますか。
15 わたしたちは,忍耐という資質が常に要求される苦難の時代に住んでいます。(テモテ第二 3:1-5)たとえば家庭においても,忍耐と寛容を示すことがなければ,家族は喜びを失うでしょう。その家は栄えません。忍耐は熱やまさつをへらす油のようなものです。それは一致や幸福を目ざすものです。使徒ペテロはこの点で良い助言を与えています。ペテロは妻に対し,夫に服従することをすすめました。「そうすれば,たとい御言に従わない夫であっても,あなたがたのうやうやしく清い行ないを見て,その妻の無言の行ないによって,救に入れられるようになるであろう。あなたがたは……かくれた内なる人,柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾りを,身につけるべきである。これこそ,神のみまえに,きわめて尊いものである」。ついで夫に対しては次のように述べています。「夫たる者よ。あなたがたも同じように,女は自分よりも弱い器であることを認めて,知識に従って妻と共に住み,いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として,尊びなさい。それは,あなたがたの祈が妨げられないためである」。(ペテロ第一 3:1-7)使徒はそれぞれの配偶者に対し,生活の霊的な面を第一にすべきこと,自分だけでなく配偶者も救いを得ることを目ざして互いに弱さを忍ぶようにと,さとしています。
16 忍耐は安易なのがれ道ではありません。それはみをもって辛抱づよく待つことです。それは祈りであり,祈りの聞かれることを願って努めることです。不信者の夫のひどい仕打ちを10年,12年,16年あるいはもっと長い間耐えて,ついに夫を生命の道に導いた妻がいます。ある人は次のように書いてきました。「12年ものあいだ,わたしは自分の妻にはげしく敵対してきました……妻が真理を学んだためです」。そして妻を打ち,やけ酒を飲み,ありとあらゆるひどい仕打ちをしました。「こうして12年のあいだ,わたしは真理と妻と子供を相手に戦いました。最近わたしはひとりすわって12年間の生活をふり返ってみました。いろいろ考えているうちに,わたしは心の砕かれる思いをし,自分が妻に対してどんなにひどいことをしたかを悟りました。妻はけんそんにわたしの仕打ちを忍んでくれたのです……わたしがひどい仕打ちをすればするほど,妻は愛とあわれみを示してくれました。わたしは今になってそのことを悟ったのです……2週間前にわたしはバプテスマを受け,唯一のまことの神,わたしが狂気のふるまいをしていた間,妻と子供をそんなにもすばらしく導かれた神への献身を表わしました」。12年間の忍耐は大きく報われました。この例に励まされ,家族の中の不信者に忍耐を示してください。
17 (イ)なぜ,またどのように子供に対して忍耐を示すべきですか。(ロ)子供はどのように忍耐を示すことができますか。(ハ)親も子供もどんな教えに従いますか。
17 家庭において,子供に対しても,忍耐という資質を働かさなければなりません。おとなでも,いつもりっぱな行ないをするとは限りません。ですから子供にそれを期待するのは無理です。子供のふるまいを見ると,人間は罪を受けついだ者であることをしばしば感じさせられます。ゆえに人間の弱さを持つわたしたちが他の人から忍耐を期待するのと同様,子供に対しても同じ忍耐を示さなければなりません。一方,子供は強い正義感を持ち,おとなに対して円熟さを期待していますが,両親もまた不完全であることを認めなければなりません。したがって子供も親に対して忍耐を示すことが必要になります。親と子供の両方が,エペソ人への手紙 6章1節から4節にしるされた聖書の教えを守る時,それは最もよくはたされるでしょう。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母とを敬え』。これが第一の戒めであって,次の約束がそれについている,『そうすれば,あなたは幸福になり,地上でながく生きながらえるであろう』。父たる者よ。子供をおこらせないで,〔エホバ〕の薫陶と訓戒とによって,彼らを育てなさい」。〔新世訳〕親と子供の両方が忍耐を示す時,この戒めを行なうことが可能となります。そして皆は祝福され,神は栄光を受けます。
18 クリスチャンは親類縁者に対して,なぜ忍耐を示すべきですか。
18 家族に関連して親類のことも思いおこされます。ここでも忍耐を示さなければなりません。クリスチャンにふさわしい親切を示される時に,人は心をやわらげます。それは世の人に良い印象を与えます。不信者の親類はわたしたちのキリスト教が口さきだけのものでなく,生き方であって,それが気持ちのよいものであることに気づくでしょう。こうしていつの日か,クリスチャンとなり,エホバの証人となるかもしれません。わたしたちはそれを目ざして忍耐すべきです。
会衆内で忍耐を示す
19 監督は会衆内の人々に対し,どんな面で忍耐を示しますか。
19 忍耐を働かせるべき別の場所はクリスチャン会衆内です。監督は,新らしい人も,長年,会衆と交わっている人も,すべての人に対して忍耐を示さなければなりません。監督は助言を与えても,威圧したり,忍耐をなくしたりしません。いつもおくれて来る人に対しても,その習慣が改められることを期待し,その人々の弱さに忍耐を示します。監督は不活発な人が活発になることを願いつつ,その人の荷を負います。また補佐たちがその務めをじゅうぶんに果たしていなくても,それを忍ぶでしょう。おそい人がいても,集会への参加が弱くても,親の無関心のために子供の行儀が悪くても,監督は忍耐しなければなりません。監督は,自分に委ねられているすべての人が,いつかクリスチャンの宣教をじゅうぶんに認識し,みずからの生き方として専心それに励むようになることを願って忍耐します。―コロサイ 3:23。
20 補佐のしもべたちは,どんな場合に忍耐することが必要ですか。
20 補佐のしもべたちも,会衆内において忍耐を示さなければなりません。時に監督が少し無理なことを求めているように思われる時,またクリスチャンの兄弟たちが特権を正しく受け入れない時,忍耐が必要です。たとえば,宣教学校のしもべは割り当てのある人が来ない時,会計のしもべは寄付がなかなか集まらない時,文書のしもべは文書を注文した人がそれを取りに来ない時,奉仕中心地の司会者は奉仕に出る人が少ない時,あるいはひとりもない時,研究の予習が行なわれていない時,御国会館の掃除をする人手が少ない時,それぞれ忍耐を示さなければなりません。しもべはすべての人に対して寛容であることが必要です。
21 なぜ,またどのように,宣教者とベテルの奉仕者は忍耐しなければなりませんか。
21 外国の任命地にいる宣教者,また聖書や聖書の手引きが印刷されているベテルの家の奉仕者も忍耐しなければなりません。ある宣教者の区域では,設立された神の国の福音に答え応ずる人がなかなかいません。それで忍耐が必要です。全く新しい生活になれるにも,新しい言語を学ぶにも,自分自身に対して忍耐づよくしなければなりません。ベテルの家においては,大ぜいの人が比較的狭いところに生活しているため,容易でないこともあります。他の人の欠点をがまんし,見すごすことが必要です。計画にしたがって毎日の仕事をはたしてゆくため,生活を調節することと規律が必要です。しかし奉仕者は愛とその実である忍耐を身に着けます。―コロサイ 3:12-14。
22 他のどんな時に,しもべと会衆の成員は忍耐することが必要ですか。どのようにこの荷を負うべきですか。
22 奉仕者が道を踏みはずすならば,会衆に必ず重荷がかかります。非行やその他のあやまちを犯して試験期間を課せられた人は,しもべ全体に大きな負担をかけます。それらの荷は愛の心で負わなければならないものです。(ローマ 15:1-6)排斥された人は,会衆の成員だけでなく,多くの場合,家族をも悲しませます。しかしキリストの精神をもってこのような不面目に耐えなければなりません。
外部の人に対する忍耐
23 (イ)クリスチャンがクリスチャン会衆の外の人に対して忍耐を示すことは,なぜ必要ですか。どのようにそのことをすべきですか。(ロ)クリスチャンの親と子供はどのように忍耐を示してきましたか。(ハ)エホバの証人は,野外の宣教においてどのように忍耐を示してきましたか。それは注目されずに終わりましたか。(ニ)クリスチャンは苦しみを受けることに対して,どんな見方をしますか。なぜですか。
23 今日キリストのために忍ばなければならない大きな荷があります。悪いことばを口にし,うそをつき,欺き,盗み,悪行をほしいままにしている人々の間で働かねばならない事情にあるクリスチャンも少なくありません。それでもクリスチャンはそれらの悪に染まることなく,忍耐することが必要です。(ヨハネ 17:15-19。コリント第一 5:9–6:11)人種のゆえに受ける軽べつ,宗教上の憎しみ,国家的な偏見にも,クリスチャンは耐えなければなりません。エホバの奉仕者は,国家権力による迫害に長い間耐えてきました。ソ連,スペイン,ポルトガルその他の国の独裁者から憎しみを受け,それに耐えてきたのです。偶像崇拝を禁ずる神の律法を無視した熱狂的な愛国主義者のために,クリスチャンの親と子供たちは長い間にわたり苦しみを受けています。クリスチャンは,家から家の宣教においてはねつけられ,侮辱や無礼にも久しく耐えてきました。再訪問と家庭聖書研究の活動において,彼らはほとんど神にも似た忍耐を示してきました。しかも彼らは喜びを持っています。その忍耐が人の目にとまらないはずはありません。最近,ローマカトリックの一出版物はエホバの証人の長所として,「信仰のゆえに受けるそしりに喜んで耐える」ということをあげていました。クリスチャンは人と天使の前に見せものとなっています。熱心な運動選手と同じく,彼らは傍観することに満足せず,みずからの力量を発揮する機会を与えられた時に喜びを感じます。勝つために刻苦精励しない選手がいるでしょうか。どんな労苦を伴うにしても,競技に参加できることは特権です。永遠の生命という賞を目ざすクリスチャンも,同様に感じています。彼らの兄弟たちは声援を送り,耐え忍んだ者を幸いな者とします。「キリストの名のためにそしられるなら,あなたがたはさいわいである。その時には,栄光の霊,神の霊が,あなたがたに宿るからである」と,使徒ペテロは書きました。(ペテロ第一 4:14,16; 2:20)エホバの霊を宿す彼らは,喜びをいだいて忍耐します。
24 クリスチャンの忍耐はどんな面で特異なものですか。その報いはなんですか。
24 ゆえにクリスチャンの忍耐は特異なものです。それは平和と一致を促進します。それは悔い改めへの道を大きく開きます。それは従順をつちかい,信仰を強固なものにします。それはエホバに栄光を帰し,エホバの組織を前進させ,エホバの民を幸福にします。忍耐によってクリスチャンは自分と他の人が賞を得ることを確実にします。それは苦しみを受けても得る価値のある唯一の賞すなわち永遠の生命という賞です。すべての人に対して忍耐を示し,寛容であることをこれ以上に励ますものはありません。
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宇宙飛行士が見ることのできなかったしるしものみの塔 1966 | 10月15日
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宇宙飛行士が見ることのできなかったしるし
1 神に敵対し,神と神のことばに不信を抱かせようとする人の試みは,どのように絶望的ですか。
今日,神と聖書に不信をいだかせようとする試みが一般に行なわれています。神の代理者を自任し,神のことばを口にする牧師が,「神は死んでいる」と言うほど,現状は悲しむべきものです。5歳の子供でさえも言わないような愚かなことを,学問のある者が語っています。ソ連の宇宙飛行士が飛行中に神に出合わなかったと語ったのは,このような空しい試みのひとつであると言えるでしょう。このようなことばが如何に愚かで無意味なものかを,考えたことがありますか。ご自分の益のために,ひとつ考えてみてください。そうすれば,神を信ずるかどうかは別問題として,知らないでこのような考えに同調することを避けられます。
2 (イ)宇宙の広がりから見て,宇宙飛行士はどれほど遠くまで行きましたか。(ロ)その飛行中に神を見なかったからといって,無神論の考えが裏づけられたと主張するのは,なぜ愚かなことですか。
2 この宇宙飛行士の軌道は地表から200マイル(320キロ)に達していません。これは宇宙空間にどれだけ入り込んだことになるかをご存じですか。りんごを地球にたとえるならば,その距離はりんごの皮の厚みに相当するにすぎません。彼らはほとんど宇宙空間に飛び出していないのです。光が銀河の端から端にまで達するのは10万年を要します。しかも銀河は見える
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