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  • エホバとそのみことばに対して忠節を表わす
    ものみの塔 1970 | 5月15日
    • 困難な下でも忠節を示す

      21 クリスチャンの若者の多くは,困難な下でもどのように神のみことばに対する忠節を示していますか。

      21 忠節であるか,あるいは忠節が欠如しているかは,特につらい目に会ったり,困難な条件の下におかれたりすると明らかになります。そしてそれは,イエス・キリストの足跡に従って歩むだれもが経験することです。(テモテ後 3:12)あなたと同じ意見を持つ人たちの間で,神のみことばにのっとった話をするのはむずかしいことではありません。しかし,聖書をけなす人に会ったらどうしますか。たとえば,学校に通っているかたならば,先生か生徒が聖書の記録を軽んずる発言をした場合どうしますか。神のことばに対する忠節を示しますか。地上のいたるところで若いクリスチャンはそのことをしています。そういう機会を捕えては,真理について大胆に語るのです。そうすることによって,学友から嘲笑されることもあります。(ペテロ前 2:19,20)反対に,信じている事柄の理由について十分に説明をする機会が開かれ,その結果エホバとその目的に関してりっぱな証言が行なわれたこともあります。

      22 古代バビロンで3人のヘブル人の若者は,エホバとその律法に対する忠節をどのように表明しましたか。

      22 エホバの忠節なしもべはいつの時代でも,エホバに対する献身をしっかりと保ちました。古代のバビロンでヘブル人の若者は,エホバの律法を破って偶像崇拝をするように命令され,苦境に立たされました。その帝国の支配者ネブカデネザルは,自分の建てた非常に高い偶像の前で頭を下げよとの勅令に彼らが従わなかったという知らせを受けて憤りました。王がユダヤ人の宗教を全然認めなかったというのではありません。(ダニエル 2:46-49)しかし,誇りを傷つけられて理性を失った王は,自分の命令に服することをそれらの若者に要求しました。シャデラク,メシャクそしてアベデネゴは,王に対して敬意を欠いていたのではありません。エホバの律法が偶像崇拝を禁じていることを知っていたのです。エホバが至上者であられることを知っていました。したがって,彼らが忠節を負っているかたはエホバにほかなりません。バビロンの王が死のおどしをもって迫ったときでさえ,彼らは神の律法に忠実に従い,忠節を示しました。―ダニエル 3:13-24。

      23,24 エホバの証人は今日,人間の政府の要求があっても,どのようにエホバに対する忠節を実証しますか。

      23 イエス・キリストの使徒たちも,忠節に関する同様な試練に会いました。エルサレムの高等法廷に引き出され,イエスの名によって伝道することをやめるように命じられました。聖書をいっさい読んではならないとか,他の人に聖書について語ってはいけないなどと告げられたのではありません。しかし,役人が問題にしたのは,ただこの一事だったのです。(使行 4:15-18)同様に今日でも,ある国々の政府の役人は,エホバの証人が聖書を読んだり,エホバの証人同志が聖書について討議したりすることに関してはなにも反対しない,と言います。しかしエホバの証人が,「あなたが崇拝しなければならないのは,あなたの神エホバであり,あなたが神聖な奉仕をしなければならないのは彼だけである」,と伝道することを彼らは好みません。(マタイ 4:10,新)エホバの証人が,イエスと同じように,真のクリスチャンは「世のものではない」と人々に告げるのを彼らは望まないのです。(ヨハネ 17:14)国民がこの世の事柄に深いかかわりを持ち,国家に対する献身を,規定された行為によって積極的に表明することを,それらの役人は望んでいます。

      24 政府がそのような要求を課したとき,エホバの証人はどうすべきですか。この世の指導者を喜ばすために,聖書のある部分を一般の人々の目に触れないようにするのは正しいことですか。あなたなら,どうなさいますか。イエス・キリストの使徒であったペテロとヨハネは,ユダヤの法廷で証言した際,なにが忠節な行ないであるかを明らかにしました。「神に聴くよりも汝らに聴くは,神の御前に正しきか,汝らこれを審け。我らは見しこと聴きしことを語らざるを得ず」。そして2度目に法廷の前に引き出されたときも,使徒たちは自分の立場を次のように明白にしました。「わたしたちは,支配者として,人間より神に従わねばなりません」。―使行 4:19,20; 5:29(新)。

      聖書に示されている道徳規準を忠節に擁護する

      25-27 僧職者が聖書の道徳規準を忠節に擁護していないことを示す,どんな証拠がありますか。

      25 使徒たちとは対照的に,エルサレムには神の祭司と唱えながら,人の教えをもって神のいましめに代用させて平気な者がいました。(マタイ 15:1-9)キリスト教世界の現代の僧職者たちは,同じ意向を示しています。彼らが,いろいろな事柄に関する聖書の見解を公に否認しているのをしばしば耳にしますが,なかでも特におおっぴらに取り上げられる話題のひとつに性道徳があります。

      26 聖書を研究したことのある人ならだれでも,聖書がこの点についてなんと述べているかを知っています。「姦淫するなかれ」。(ロマ 13:9)「淫行を避けよ」。(コリント前 6:18)「男娼となるもの,男色を行う者……みな神の国をつぐことなきなり」。(コリント前 6:9,10)これらの聖句にあいまいな点はまったくありません。神は姦淫,淫行,同性愛を非としておられます。しかし僧職者は神のみことばの述べることを支持しますか。聖公会神学校のジョーゼフ・フレッチャーは,いわゆる「新しい道徳」を論じて,このように語りました。「この倫理観において,結婚関係外の性交を非とするものは何もない。むしろそれが良い場合もある」。(「コモンウィール」誌,1966年1月14日号)この発言にもあきたらず,長老派教会の牧師ゴードン・クラントンは「クリスチャン・センチュリー」誌(1969年1月8日号)の中で次のように述べています。「今われわれはこれより一歩進み,正しい理解の上に立ち,愛をもって実践されるなら,結婚関係外の性交も現実の善であると言わねばならない」。さらに彼は,これよりきびしい道徳律がまだ社会に及ぼしていると思われる影響力をことごとく弱体化することこそ,教会の義務であると信じている旨を公にしました。しかし,この傾向はそれでも満足する様相を示しません。

      27 「ニューヨーク・タイムズ」紙(1966年2月12日付)は,成人間の合意に基づく同性愛行為に対する刑罰を廃止するための,英国の立法措置について次のように伝えています。「先頭に立って改革を要求してきたのは教会である。英国国教会,ローマ・カトリック教会およびメソジスト諸派などはこぞって〔廃止〕案の採用を求めてきた」。1967年ニューヨークに集まった聖公会の牧師90人は,同性愛が「善となる場合のある」ことを教会は認めるべきであると表明しました。さらに,オランダでは同性愛関係にあるふたりの男が,ローマ・カトリックの司祭のもとで「結婚」しました。うんざりさせられるのは,ここにあげたようなことをする人々が,クリスチャン奉仕者と名のることです。―テトス 1:16。

      28 わたしたちはどうすれば自分が聖書の道徳規準の忠節な擁護者であることを実証できますか。

      28 聖書を読む人なら,そうした僧職者たちのしていることが誤りであり,神のことばと調和しておらず,それにより彼らが非難される立場を取っていることがわかります。(ロマ 1:32)しかし彼らが誤っているということを信じている人でも,それを証明するにはことば以上のものが要求されます。口でなんと言おうと,当人が,人目の届かないところで,淫行,姦淫,同性愛,あるいはそうしたものに発展していく不品行にふけるならば,その人も神の目には汚れたものと映ります。自分のことをなんと言おうが,また他人にどう思われようが,そうした行為にふける人は神に忠節ではありません。―テサロニケ前 4:7,8。ホセア 4:12。

      29,30 道徳に関する心の状態は,エホバへの忠節とどんな関係にありますか。

      29 忠節は心に関係があり,心は人の奥深くにあるものを表わします。(ルカ 5:22)エホバはわたしたちの外見だけではなく,心をも見られます。「人の道はおのれの目に正しとみゆ されどエホバは人の心をはかりたまふ」― 箴言 21:2。

      30 神があなたの心をはかられるとき,神はなにを見いだされますか。心の状態は良いものですか。(イザヤ 65:14)みことばを宝のようにたくわえ,律法に喜びを覚える心を見いだされるでしょうか。(詩 119:11,97)不道徳な行為に対して心の底から純粋に神と同じような見方をしている自分を神に見ていただけますか。あなたは悪い事柄をほんとうに憎んでいますか。聖書の詩篇作者は,そうすることを勧めてこう述べています。「エホバを愛しむものよ悪をにくめエホバはその〔忠節な者〕のたましいをまも(られる)」。(詩 97:10〔新〕)この助言に聞き従うなら,わたしたちの忠節を明らかにすることになり,わたしたちのたましいがエホバの目にとうといことを確信できます。

      エホバの忠節な者とともに立場を取る

      31 聖書にしるされていることをほんとうに信じているなら,それはどのように明らかになりますか。

      31 エホバ神とそのみことばに関して,だれが見ても明らかなように自分の立場を定めるのは今です。あなたは,神がご自分のみことばである聖書に述べられていることをほんとうに信じていますか。そうであれば,あなたの話す事柄にそのことが表われるはずです。あなたの行ないに示されるはずです。あなたの選ばれる交際からも明らかになるはずです。詩篇 149篇1節の次のことばに一致した行動をするようになられるでしょう。「エホバをほめたゝへよ エホバに対ひてあたらしき歌をうたへ〔忠節な者の会衆〕にてエホバのほまれをうたへ」。〔新〕

      32,33 エホバとそのみことばに対するそうした忠節な者から成る会衆を捜そうとする人は,キリスト教世界の諸教会に関するどんな事実を知らねばなりませんか。

      32 すでに気がつかれたように,崇拝のためにつどう会衆がすべて,エホバとそのみことばに対して忠節な者から成っているわけではありません。聖書を持って教会に通う人もあるでしょう。説教中に聖句が1節引用されるかもしれません。しかし,教会の教義や慣行のなかには,神のことばと調和していないものが数多くあります。事実,キリスト教世界が著しく神の教えから迷い出たために,「クリスチャン・センチュリー」誌(1962年9月5日号)は次のように述べています。「ほんとうに正直に言うならば,閉じた聖書,しかもほこりがたまり,色あせた死亡告知書のいっぱいはさまった聖書こそ,新教の現状にふさわしいシンボルと言えないだろうか」。カトリック系の新聞「ルクセンブルガー・ボールト」(1965年1月16日)は,ルクセンブルグの実情を評して次のように述べています。「司祭をも含む我々カトリック教徒の大多数が,聖書の全体はおろか,新約聖書をさえ全部読んでいないことは……いかにも悲しい現状ではないか」。

      33 これは最近始まったことではありません。1929年,バプテスト,組合教会,聖公会,福音教会,ルーテル派,メソジスト派,長老派などの神学生500人を対象に調査が行なわれました。「聖書には神話や伝説は全くないと思いますか」,という質問がされましたが,答えた者の95パーセントは,「そうは思わない」と述べました。彼らが聖書を神のことばとして受け入れていないのは明らかです。

      34 全地の何十万という人々は,エホバとそのみことばに対する忠節を実証したいという意欲を,どのように表明していますか。

      34 もしあなたが彼らの立場に同意しないなら,それを示すことが必要です。そして,そのとおりのことをした人は,地上のいたるところに何十万人もいるのです。彼らは,エホバ神とそのみことばである聖書に不誠実な宗教組織とは,どんなものであれ,かかわりを持つことを望みません。(コリント後 6:14-17。黙示 18:4)彼らが教会から脱退したのはそのためです。しかし,神を崇拝することはやめていません。全地の,2万5,000を越えるエホバの証人の会衆で彼らは崇拝のために定期的に集まります。彼らは聖書にしるされていることを信じています。またその道徳規準を擁護します。近所の家々を尋ねては聖書を調べるように隣人を励ましている彼らの姿を,ほとんどすべての市町村で毎週見ることができます。そして誠実な人に,聖書が神のことばであることを示す圧倒的な証拠を喜んで提供しています。そればかりか,無料の家庭聖書研究の奉仕を喜んで行ない,誠実な人々が神のみことばの正確な知識を得,それに従って生活するのを援助しています。

      35 エホバに対する忠節を実証する者には,どんな将来が約束されていますか。

      35 エホバのそうした忠節なしもべたちには,なんというすばらしい将来が待っているのでしょう。霊感を受けた,神のみことばは次のように明言しています。「エホバは……その〔忠節な者〕をすてたまはざればなり かれらは永遠にまもりたすけらるれど 悪きもののすえは断滅さるべし ただしきものは国をつぎ その中にすまひてとこしへに及ばん」。(詩 37:28,29〔新〕)

  • あなたは人生から何を得たいと考えていますか
    ものみの塔 1970 | 5月15日
    • あなたは人生から何を得たいと考えていますか

      十代のみなさん,あなたはこの問いにどう答えておられますか。あなたは人生から何を得たいと考えていますか。自分で気づいていようといまいと,あなたはこの問いに答えているのです。自分のしていること,つまり自分の行動によって答えているのです。今日の行動は明日の生活に影響を及ぼすことになります。それを避けることはできません。今日まくものを将来必ず刈り取ります。人は,『自分の行いの実を食らう』のです。―箴言 1:31,口語。ガラテヤ 6:7。

      人の一生からすれば十代の時期は短いものですが,この人格形成期に何を行なうかによって,人生から何を得られるかが大きく左右されるのです。この点であなたを若い木にたとえることができるでしょう。若い木はその早い時期の何年かのあいだにまっすぐ成育しないと,曲がったまま老木になってしまいます。それで,あなたはどんな方向を目ざしていますか。将来の生活に備えて,どんな土台を築いていますか。いったいあなたの行動は,あなたが人生から何を得ようとしていることを示していますか。

      “楽しい生活”を求めて

      今日の多くの若い人々が行なっていることを見ると,彼らには目ざすべき確かな将来がないようです。それらの若者は,『明日のことはわからないんだから,今日,好きなことをして暮らそうじゃないか』という態度を取っているようです。しかも多くの若い人々にとって明日が実際に失われることがあります。自らそうした道を選ぶ場合があるのです。それも,ただ一度の悔やむべき行為をしたばかり

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