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    ものみの塔 1961 | 4月1日
    • 平和と救いに召された既婚の信者たち

      「兄弟も姉妹も,こうした場合には,束縛されてはいない。神は,あなたがたを平和に暮させるために,召されたのである」。―コリント前 7:15,新口

      1 アダムが一人だけでいるのは良くないということからみて,結婚は人にとってどういうものになるべきでしたか。

      結婚は,人間に始めて紹介されたときには,平和にみちる取り極めでありました。それは人間に幸福と善を与えるはずでした。なぜなら,最初の人間アダムの天的な創造主は,人がひとりでいるのは良くないと見られたからです。

      2 アダムとエバにとって結婚はどんなに恵まれた条件のもとに出発しましたか。そしてどのようにそれが平和と幸福のうちに続くはずでしたか。

      2 一切のものは,結婚を幸福なもの,調和あるものにするために,計画されました。その男と結婚した者は,完全につくられた一女性で,彼女は男の援助者,男を助ける者でありました。彼女は彼の最も親密な一部でした。なぜなら,彼女は男が語ったごとく,実際には彼の骨の骨,肉の肉だったからです。非常に大切なことは,その男と妻は,同じ宗教的な信仰を持っていました。彼らは両方ともエホバ神の子供で,エホバ神と交わりを持ち,エホバ神を崇拝しました。彼らは天の御父の祝福をいただき,その楽園の住居内で何を行なうべきかを明白に告げられていました。彼らの義務は,矛盾したものではありませんでした。彼らは神の御こころにしたがい,共通の目的を成し行ないました。このためには,平和にみちる協力が必要だったのです。彼らはたがいに愛し合う能力を持っていました。両人が互に愛し合ったのも当然です。ことに,彼らは,肉眼では見ることのできない彼らの神なる父を愛したにちがいありません。彼らは愛の気持をこめて神の御心に従いました。それで,かくも恵まれた出発を持つ彼らの結婚は,平和と幸福にみちた様子で続くことができたはずです。―創世 1:26から2:25まで。

      3 結婚を禁ずることは何から離れることですか。そしてキリストの使徒の例は,聖書がなんらかの地位にあるクリスチャンの結婚を禁じるか否かについて,どう示していますか?

      3 信者の結婚について権威者であったクリスチャン使徒パウロは,結婚についての重要な事がらをたくさん書きました。パウロは,クリスチャン会衆の監督あるいは管理者に宛てて次のような言葉を書きました,「霊感の言葉は明らかに言う。後の時代になってある者は……信仰から離れさるであろう。……彼らは結婚を禁じ……」(テモテ前 4:1-3,新世)しかし,聖書自体は結婚を禁じません。クリスチャン会衆の12の基礎である12人の使徒にさえも結婚は禁じられていません。イエスは,夜を徹しての祈りを神にささげた後に,御自分の12人の使徒を選びました。彼はその中にペテロまたはケパとも呼ばれたシモンを入れました。当時のペテロまたはケパは妻帯者であって,義理の母親といっしょに生活していました。イエスは彼女の病気をいやされました。(ルカ 6:12-16。ヨハネ 1:42。マタイ 8:14,15)パウロは,信者である姉妹と結婚できる使徒の権利を弁護して,次のように書きました,「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。……わたしの批判者たちに対する弁明は,これである。わたしたちには,飲み食いをする権利がないのか。わたしたちには,ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように,信者である妻を連れて歩く権利がないのか」。(コリント前 9:1-5,新口)神の御言葉は,その権利があると述べています。

      4 テモテとテトスにあてたパウロの助言はいわゆる「司教」,「執事」,そして「司祭」が聖書的にいって結婚してもよいということを,どのように示していますか。

      4 パウロはテモテとテトスに手紙を書送り,キリスト教国内で「司教」「執事」「司祭」と呼ばれる者たちも結婚できると告げました。ローマ・カトリックのドーエイ訳聖書のテトス書 1章5-7節を引用してみましょう,「なんじは……余がなんじを任じたごとく,あらゆる町に司教を任ずべきである。その者は,犯罪のなき者,ひとりの妻の夫にして,その子供たちは乱暴者とか手に負えない者というそしりをうけず,親孝行の者であるべし。司教は,神の執事として,犯罪なき者であるべし」。また,テモテ前書 3章2-4,12節(ドーエイ訳)は次のように述べています,「司教が,ひとりの妻の夫で,非の打ちどころがないのはふさわしきことである。……彼は自分の家を良く治め,子供たちを抑えてうやうやしく服従させよ。執事はひとりの妻の夫にして,自分の子供たちおよび自分の家を良く治めるべきである」。

      5 「一人の妻の夫」という表現はある聖書翻訳者や注釈者によると,どのような意味にとられていますか。それでだれが会衆内の責任ある地位につくことができないことになりますか。

      5 「ひとりの妻の夫」という資格についての言葉が繰り返されているのに気をつけなさい。幾人かの聖書翻訳者と注解者たちは,この言葉の意味は「一度だけ結婚した」,つまり一度以上結婚したことのない者である,と主張し,再婚した離婚者と再婚した男やもめを排斥しています。しかし,ユダヤ人の翻訳者エッチ・ジェイ・ションフィールドは,テモテ前書 3章12節を次のように訳しています,「管理者〔執事〕はひとりの妻だけと結婚し,子供たちと自分の家を良く治める者でなければならない」。そしてアラミヤ語の翻訳者ジー・エム・ラムサは,同じ節を次のように訳しています,「一夫多妻者でない者の中から執事たちを任命しなさい。彼らは子供たちと自分の家を良く治める者でなければならない」。ローマ・カトリックのアール・エイ・ノックス卿は,その重大な意味を持つ言葉を「ひとりの妻に貞節を保ち」と訳し,この表現について次のような脚注をつけています,「『ひとりの妻に貞節を保つ』ということから,初期教会の規定の中には再婚した男やもめは監督職につけられない,という意味があるかも知れぬ。しかし,必ずしもそういう意味に取る必要はない」。

      6 この資格は使徒時代に適当なものでしたか。

      6 根本的には,「ひとりの妻の夫」というギリシャ語の表現は,ひとりの生ける妻の夫という意味です。使徒時代には,一夫多妻はクリスチャン以外の人々,およびヘブル人であるユダヤ人のあいだで行なわれていました。(クリスチャン会衆の最初の成員は,ユダヤ人の中から取られました)一夫多妻の著しい例がありました。

      7 イスラエルとアフリカにおいて,一夫多妻の著しいどんな例がありますか。御自身の民と結ばれた神の新しい契約にはいっているクリスチャンの結婚の標準は,何ですか。

      7 多くの妻をもつ人は,会衆の監督になることができません。またそのような監督の補佐になることもできません。多くの妻をもつ人は,クリスチャンになることもできません。それで,神に献身して,洗礼をうけているクリスチャン会衆の一員になることもできません。神がユダヤ人とむすばれたモーセの律法契約の下では,一夫多妻は許されました。しかし,それはキリスト教前のイスラエルの国民の中で厳格に規定されていたのです。イスラエルの全歴史中,一夫多妻のもっとも顕著な例は,エルサレムのソロモン王の場合です。彼は700人の妻と300人の妾を持ちましたが,遂にこれが原因になって彼は宗教的に堕落しました。(列王紀略上 11:3),前世紀のアフリカの二人の酋長がした一夫多妻は,ソロモンよりはるかに大規模なものでした。ロアンゴ(いまのコンゴ共和国)の酋長とウガンダのムテサの酋長はそれぞれ約7000人の妻を持ちました。(1960年4月24日,ニューヨーク・タイムス誌,114頁)しかし,キリストの犠牲の死により,イスラエルとむすばれていたモーセの律法契約は廃止されました。そして,エホバ神は仲保者なるイエス・キリストにより,キリストの弟子たちの会衆と新しい契約を結びました。この新しい契約下では,献身して洗礼をうけたクリスチャン会衆内で重婚や一夫多妻は許されません。最初の男と彼のひとりの妻という楽園における型は復旧されました。会衆の監督は,このことにおいて模範でなければなりません。

      8 新世社会の洗礼を受けた一員になるために,多くの妻をもつ人は,どうすべきですか。

      8 多くの妻をもつ人は,どのように献身して,洗礼をうけたクリスチャンになり,それからエホバの証者の新しい世の社会と交わることができますか。ひとりの結婚配偶者以外のものすべてを断念することによります。しかし,後に彼は解放した配偶者やその子供たちの生活の世話をしなければならないでしょう。しかし,彼は妻として,あるいはめかけとして彼らと性関係を持つことができません。彼はただひとりの配偶者だけを自分の真実の妻と認め,彼女だけに結婚の分を与えねばなりません。

      9 ハルマゲドンを生き残って神の新しい世に入るために,多くの妻を持っている人は何をしなくてはなりませんか。そして多くの信者はどこでこの試験に通過していますか。

      9 正義の新しい世という聖書の音信を楽しむ多妻者にとって,これはたいへんむずかしい試験になります。その正義の新しい世では,神の御国は楽園の地上においてただひとりの妻との結婚を許すでしょう。しかし,多くの妻をもつ者は,神の来たるべきハルマゲドンの宇宙戦争を生きのこり,キリストによる神の御国,「新しい天」の下の「新しい地」にはいって生存しつづけたいとのぞむなら,この試験を通過しなければなりません。そのような試験があるからこそ,アフリカでは回教の方がキリスト教国の宗教よりもずっとひろまっていることも納得できます。回教は,ある程度まで一夫多妻を許します。それで,最近アフリカでの伝道旅行から戻ったキリスト教国の一福音伝道士は,次のように語りました,「キリスト教に改宗する者が3人いるなら,回教に改宗する者は7人いる」。(1960年3月30日,ニューヨーク・タイムス紙)しかし,多くの場合,一夫多妻を断念しなければならなくても,毎年幾千人という大ぜいの土着のアフリカ人たちはエホバの献身して洗礼をうけた証者になっています。

      10 パウロは,配偶者を失ったクリスチャンが再び結婚してもよい,ということを証明するどんな願いと助言を述べましたか。

      10 さて,ひとりの生ける結婚配偶者を持つということについて,キリストとその使徒たちがやもめのクリスチャンたちの再婚を禁じなかったのは明白です。性欲で身を焦がす若い女やもめについて,パウロは監督のテモテにこう言いました,「若いやもめは結婚して子を産む……ようにしてほしい」。(テモテ前 5:14,新口)情欲に駆られて淫行をするよりも再婚する方が良かったのです。したがって,パウロはさらにこう語りました,「次に未婚者たちとやもめたちとに言うが,わたしのように,ひとりでおれば,それがいちばんよい。しかし,もし自制することができないなら,結婚するがよい。情の燃えるよりは,結婚する方が,よいからである」。―コリント前 7:8,9,新口。

      11 若い女やもめが再婚することはなぜよいことですか。そしてなぜ再婚した男やもめが監督になるのは不適当ではありませんか。

      11 それで,結婚は神に効果的に仕えることから心がみだされるのをふせぐでしょう。結婚は「反対者に」とって,クリスチャン会衆が「そしられるすき」になる不身持から彼らを守ります。情の燃えたやもめたちは,このクリスチャン会衆に属していたのです。女やもめに許されることは,当然男やもめにも許されるでしょう。このことが不道徳ということはありません。パウロは次のように説明しているのです,「夫の生存中に,〔女が〕他の男に行けば,その女は淫婦と呼ばれるが,もし夫が死ねば,その律法から解かれるので,他の男に行っても,淫婦とはならない」。(ロマ 7:3,新口)それで,再婚した男やもめが監督になる資格を持てないなどということはありません。

      高貴な責任

      12 各自は召された時の特定な状態でいるべきである,とパウロが言ったとき,独身でいるようにと言ったのですか。あるいは一般的に言って何にとどまることに言及したのですか。なぜ?

      12 パウロの次の言葉を読むとき,前述の事がらを考慮しなければなりません,「兄弟たちよ。各自は,その召されたままの状態で,神のみまえにいるべきである」。(コリント前 7:24,新口)召されたときに未婚者あるいはやもめであった人は,そのまま結婚しないで独身を保たねばならぬ,とパウロは意味したのではありません。クリスチャンである彼らが独身を保つのは良いと,パウロは言います。しかし,特定な状態あるいは発展のゆえに,彼らが道徳上の理由から結婚する方が良いこともあるでしょう。それで,パウロが実際に言及していたものは,神が彼らを召してキリストの弟子にならせたとき,信者たちが有している変えることのできぬ特定な状態,立場,あるいは職のことです。もし神御自身が,信者についてのそのような変更不能の事がらを無視されるなら,信者はそのような状態にとどまることについて心配する必要はありません。もし神の選びに従い,彼がそのような状態,立場あるいは召しのうちにクリスチャンになり始めたなら,その状態の中にずっとクリスチャンであり得ます。

      13 パウロはコリント前書 7章17節-23節で,どのような特定の地位,状態あるいは職に言及していますか。

      13 そのことを明白にするため,パウロは次のように言っています,「ただ,各自は,エホバから賜わった分に応じ,また神に召されたままの状態にしたがって,歩むべきである。これが,すべての会衆に対してわたしの命じるところである。〔ユダヤ人,サマリヤ人,ユダヤ教に改宗した人,あるいはエジプト人である故に〕召されたとき割礼を受けていたら,その跡をなくそうとしないがよい。また,召されたとき割礼を受けていなかったら,割礼を受けようとしないがよい。割礼があってもなくても,それは問題ではない。大事なのは,ただ神の戒めを守ることである。各自は,召されたままの状態〔あるいは職〕にとどまっているべきである。召されたとき奴隷であっても,それを気にしないがよい。しかし,もし自由の身になりうるなら,むしろ自由になりなさい。主にあって召された奴隷は,主によって自由人とされた者であり,また,召された自由人はキリストの奴隷なのである。あなたがたは,代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない」。―コリント前 7:17-23,新世,欄外。

      14 コリント前書 7章25-28節で,パウロは結婚している者と,未婚の者にたいして,何と言いましたか。

      14 しかし,パウロよ,召されたとき結婚していた人,あるいは未婚の人々についてはどうですか。「処女のことについては,わたしは主の命令を受けてはいないが,主のあわれみにより信任を受けている者として,〔したがって,あわれみ深く忠実な〕意見を述べよう。わたしはこう考える。現在私たちの持つ必要のゆえに,人は(結婚については)現状にとどまっているがよい。もし妻に結ばれているなら,解こうとするな。妻に結ばれていないなら,妻を迎えようとするな。しかし,たとい結婚しても,罪を犯すのではない。また,処女が結婚しても,罪を犯すのではない。ただ,それらの人々はその身に苦難を受けるであろう」。―コリント前 7:25-28,新世。

      15 結婚はどの程度まで問題を解決しますか。

      15 誉ある結婚をすることは罪ではありません。その結婚によって淫行を避けることもできるでしょう。しかし,エデンの楽園外では「私たちの持つ必要のゆえに」結婚すると「その身に苦難を受ける」でしょう。結婚は人の問題をことごとく解決するものではありません。結婚はひとつの問題を解決しますが,現在では別の問題をつくり出します。

      16 「各自はその召されたままの状態で」という表現は,未婚の状態あるいは不道徳で不正な生活に,言及しますか,それとも言及しませんか。なぜ?

      16 人は,割礼を受けた者とか,割礼を受けない者,または奴隷か自由人か,というように自分の状態,立場あるいは職を変えずに,そのままでいながら自分の童貞の状態すなわち未婚の状態を変えることができます。神による召は,人が召された時にいた状態あるいは職にとどまることができるかどうかを決定します。パウロの次の言葉に気をつけなさい,「兄弟たちよ。各自は,その召されたままの状態で,神のみまえにいるべきである」。(コリント前 7:24,新口)真理すなわち御国のたよりに接したときの状態がどんなものでも,人はその中にいなければならない,とパウロは述べていません。もしそうなら,真理が最初に伝えられたとき淫売婦,圧制的な収税人(税金取立人),合意結婚や不文法結婚をしている人々はその状態にとどまることが許され,しかも真のキリスト教を実践しているということができるでしょう。

      17 取税人や遊女は宗教的な祭司や指導者たちより先に神の国にはいるというイエスの言葉を,パウロはどう説明しましたか。

      17 たしかにイエスはエルサレムの祭司長や宗教指導者たちにこう言われました,「取税人や遊女は,あなたがたより先に神の国にはいる」。しかし,彼らは貪欲で,略奪をする税金取立人,あるいは遊女のままで御国にはいったのではありません。なぜなら,パウロは次のように述べているからです,「不品行な者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,男娼となる者,男色をする者,盗む者,貪欲な者,酒に酔う者,そしる者,略奪する者は,いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には,以前はそんな人もいた。しかし,あなたがたは,主イエス・キリストの名によって,またわたしたちの神の霊によって,洗われ,きよめられ,義とされたのである」。(コリント前 6:9-11,新口)神から召される前に,それらの淫売婦や税金取立人は,汚れた状態からまず身を清めて,キリストを通し神に献身し,それから洗礼をうけることが必要でした。

      18 先礼者のヨハネに関するイエスの言葉に示されたように,神は遊女や取税人を召しますか。どんな状件にもとづいて,不道徳な者でも召される機会がありますか。

      18 そのわけでイエスは次のような言葉をつけ加えたのです,「というのは,ヨハネがあなたがたのところにきて,義の道を説いたのに,あなたがたは彼を信じなかった。ところが,取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに,あとになっても,心をいれ変えて彼を信じようとしなかった」。(マタイ 21:31,32,新口)神は遊女や取税人のような者たちを召しません。しかし,神は以前そのような者であったが,その状態にとどまらなかった者たちを召しました。それで,今日,淫行,姦淫,合意結婚,不文法結婚の生活をしている人々は,まずそのような状態から脱するか,合法の結婚をしなければなりません。それから,それらの人々は神にうけいれられる献身をして,洗礼をうけてから神の奉仕に召されます。

      19 独立とかしらの地位ということに関して,女は結婚するとどういう状態にはいりますか。

      19 結婚すると,人は重大な制束と義務を持つようになります。気品のある仕方でそれらの責任を果たさねばなりません。婦人が結婚すると,彼女は自分の両親からは独立した立場にはいりますが,こんどは自分の夫に従属します。彼女は,夫のかしらの地位に服します。

      20 クリスチャンの妻となるために,パウロがコリント前書 11章3,7-12節で強調したように,結婚する女は何を認めるべきですか。

      20 彼女は結婚前にこのことをよく考えるべきであって,結婚してから後になってそれに反抗すべきではありません。彼女は夫のかしらの地位を無視したり,それに無関心であってはなりません。使徒パウロは次のように述べています,「あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり,女のかしらは男であり,キリストのかしらは神である」。神のかしらはありません。このわけで,特定な場合のとき特定な状況の下で,特定なはたらきをするとき,婦人は男の権威の下にいるしるしとして,ある種の覆いを頭につけねばならないのです。「男は,神のかたちであり,栄光であるから,かしらに物をかぶるべきではない。女は,また男の光栄である。なぜなら,男が女から出たのではなく〔男が最初創造された〕,女が男から出たのだからである。また,男は女のために造られたのではなく,女が男のために造られたのである。それだから,女は,かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。……女が男から出た」。(コリント前 11:3,7-12,新口)それで,娘が自分の父以外の他の男性のかしらの地位をのぞまないなら,彼女は結婚すべきではありません。クリスチャンの妻になるためには,彼女は夫のかしらの地位を認めねばなりません。

      21 なぜヘブル語聖書は妻を「ベウラ」,また夫を「バアル」とよんでいますか。

      21 聖書によると,妻は夫の所有物です。特に花嫁料が彼女のために支払われるときはそうです。そのわけで,既婚の婦人は,聖書的に「ベウラ」と呼ばれます。この言葉は,実際には,妻として「所有される」という意味です。この言葉の男性形は,「バアル」で,この言葉は現代のイスラエルでも「夫」というヘブル語として用いられています。その称号は,実際には「所有者,主人,主」という意味です。

      22 夫を所有者,また妻を所有された女と述べているどんな聖書の例がありますか。

      22 それで申命記 22章22節(新口)は次のように語っています,「夫〔バアル〕のある女〔ベウラ〕」。箴言 30章23節(新世)は「妻として所有される時の女」のことを述べています。出エジプト記 21章3節(新口)は,「妻を持っていた者〔バアル〕と述べています。昔のイスラエルの国民に向かってエホバは次のように述べました,「私は,夫としてあなた方の所有者〔バアル〕である」。(エレミヤ 3:14,新世)約束されたメシヤなるすえの母であるこの象徴的な女にむかって,エホバは次のように言われています,「汝をヘフジバ(わが悦ぶところ)ととなへ,なんぢの地をベウラ(配偶)ととなふべし,そはヱホバなんぢをよろこびたまふ,なんぢの地は配偶をえん。わかきものの処女をめとる如くなんぢの子らはなんぢをめとらん(バアル)」。(イザヤ 62:4,5)この理由の故にダビデの曽祖父にあたるボアズは,ベツレヘムの証者たちの前でこう語りました,「わたしは……ルツをも買って,わたしの妻としました」。―ルツ 4:10,新口。また出エジプト記 20章17節をも見なさい。

      23 パウロによって示されたごとく,結婚する女は新しいどんな法律のもとにきますか。

      23 結婚する女は,新しい律法に服します。何の律法ですか。または誰の律法ですか。使徒の答は,次の通りです,「夫のある女は,夫が生きている間は,律法によって彼につながれている。しかし,夫が死ねば,夫の律法から解放される。……もし夫が死ねば,その律法から解かれる」。(ロマ 7:2,3,新口)権威を持つ同じ使徒はこの取り極めに一致している次の命令を与えています,「妻は主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストも会衆のかしらであって,このからだの救主であられるように,夫は妻のかしらである。そして,会衆がキリストに仕えるように,妻もすべてのことにおいて夫に仕えるべきである。……妻は夫に深い尊敬の気持を持つべきである」。―エペソ 5:21-24,33,新世。

      24 キリストにあっては女も男もないという事実にもかかわらず,夫に対する妻の服従というこの規則はなぜ適用しますか。

      24 妻はキリストをおそれてこのことをするべきです。その神権的な規則は,次のすばらしい真理とともに適用します,「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは,皆キリストを着たのである。もはや,ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男も女もない。あなたがたは皆,キリスト・イエスにあって一つからだである。もしキリストのものであるなら,あなたがはアブラハムの子孫であり,約束による相続人なのである」。(ガラテヤ 3:26-29,新口)彼らがみな同じようであるということは,新しく発展した人格について言えるものです,「新しい人格を着なさい。……そこには,もはやギリシャ人もなければユダヤ人もなく,割礼もなければ無割礼もなく,外国人,スクテヤ人,奴隷,自由人もない。キリストがすべてであり,すべてのもののうちにおられる」。これは結婚関係を解消させるものでなく,夫に対する妻の適切な調節を変えるものではありません。パウロは後に次の言葉をつけ加えています,「妻たる者よ,夫に仕えなさい。それが,主にある者にふさわしいことである」。―コロサイ 3:10,11,18,新世。

      かしらの地位の正しい行使

      25 夫のかしらの地位と律法から見て,結婚するクリスチャンの女はどのようにして霊的に自分自身を守ることができますか。なぜそうですか。

      25 献身して洗礼をうけたクリスチャンの婦人が賢明で,かつ神権的であり,そして「主にある者とのみ」結婚せよという使徒の助言に従うなら,彼女は自分の霊的な福祉を守ります。彼女は,妻としての自分の生活を楽なものにします。なぜなら,彼女は「主にある」男子と結婚するからです。その男子は,夫なる所有者の地位を守り,クリスチャンの「新しい人格」にしたがい,彼のかしらの地位と律法を保つからです。彼は彼女を所有します。しかし,クリスチャンである彼は,このクリスチャン所有物を濫用したり,悪用したりしません。それもキリストに属するものだからです。キリストは御自分の完全な人間の生命という価でもって,彼女を買われました。このゆえに彼女は夫とともに神の新しい世における永遠の生命という約束を共にうけつぐ者です。それで,彼女の夫は彼女をさまたげてその貴重な相続を得させず,彼女が将来にいただく永遠の生命をくだいてしまうなら,大悪をなしていることになります。

      26 ペテロは夫に対して,妻をどんな器として尊ぶようにと言っていますか。それでクリスチャンの夫はどのような思いやりを妻に示しますか。

      26 結婚していた使徒ペテロ(ケパ)は,それぞれの妻についてクリスチャンの男子にこう告げています,「夫たる者よ。あなたがたも同じように,女は自分よりも弱い器であることを認めて,知識に従って妻と共に住み,いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として,尊びなさい。それは,あなたがたの祈が妨げられないためである。最後に言う。あなたがたは皆,心をひとつにし,同情し合い,兄弟愛をもち,あわれみ深くあり,謙虚でありなさい」。(ペテロ前 3:7,8,新口)もし夫が,肉体的に弱い器,女性としての妻を尊ぶなら,彼は注意深く,そして愛情をもって彼女を扱います。それは彼女が彼にとって,ずっと有用な価値あるものであってほしいからです。彼は彼女をこなごなに砕いてしまい,彼に対するその貴重な有用さを駄目にしたいとはのぞみません。彼は彼女の生命を守ろうとつとめます。この世における彼女の現在の生命だけでなく,さらに大切なのは将来の正義の新しい世における生命の相続を守ろうとつとめます。彼は彼女とともに祈り,また彼女のために祈ります。

      27 家でかしらの地位を行使する際,夫は「神のかたちであり栄光」であり,また妻は「男の光栄」であるゆえに,クリスチャンの夫は自分の妻をどのように扱うべきですか。

      27 クリスチャンの夫は,聖書の知識と理解および実際的な知恵においては,妻が自分と同じ考えを持つようにします。彼は,彼女が仲間であるという感情を示すでしょう。彼は,家庭内でかしらの地位を行使しますが,ごうまんにならず,むしろ「謙虚」です。男は「神のかたちであり栄光であるから」頭に覆いをかけてはなりません。しかし彼は神がそのかしらの地位を行使するのと同じように,自分のかしらの地位を妻に対して行使するにあたっては注意を払います。彼は,このかしらの地位において神にならい,神をあがめるためです。「女は男の光栄である」故,夫は彼女を光栄のない状態にひくめることを避けるでしょう。そのような状態の妻は,彼の名誉にも,光栄にもなりません。そして,家庭と会衆の両方で彼を敬虔なすぐれた夫であることを反映しません。もし彼が会衆の監督あるいは奉仕の僕であるなら,彼は特に彼女が霊的な「光栄」になって彼を反映してもらいたいと欲するでしょう。

      28,29 (イ)自分の妻に関することで,どのようにクリスチャンは自分の霊的なかしらに対し,光栄になろうとつとめますか。(ロ)エペソ書 5章25-33節でパウロは,救いの助けとなるように妻を取りあつかうようにと,どのように信者をはげましていますか。

      28 「すべての男のかしらはキリストであり」そして夫は『そのかしらなる者をはずかしめ』ないように気をくばります。(コリント前 11:3,4,新口)それで,彼は自分の霊的なかしらなる者に光栄をもたらすよう努力します。夫である彼は,自分の妻,特に献身して洗礼を受けている妻に対して,ちょうどイエス・キリストが御自分の会衆を婚約中の処女をあつかわれたのと同じようにあつかいます。使徒パウロは,この対照を使用して,信者の男子が救いをはかる仕方で妻を扱うようにすすめ,次のように述べています。

      29 「夫たる者よ,自分の妻を愛しつづけなさい。キリストも会衆を愛して,そのためにご自身をささげられた。それは,会衆を清め,御言葉によって水で洗い清めるためである。しみも,しわも,そのたぐいのものがいっさいなく,清くてきずのない栄光に輝く会衆を御自分に迎えるためである。夫は自分のからだのごとく妻を愛すべきである。妻を愛する者は,自分自身を愛する。自分自身のからだを憎んだ者はひとりもおらず,キリストが会衆になしたと同じく,自分のからだを養い大事にする。私たちはキリストのからだの成員である。『それで人はその父母をはなれて妻につき,二人は一つの肉になる』。この聖なる奥義は大きい。私はキリストと会衆について語っている。おのおのみな自分自身を愛するように妻を愛しなさい」。―エペソ 5:25-33,新世。

      不釣合なくびきを負う

      30 どのように夫と妻は結婚の分を果たすべきですか。そしてこの点に関して,既婚の信者たちに対して,パウロは譲歩のつもりで何といいましたか。

      30 夫がクリスチャン的な仕方で自分の妻を愛して,誠実と貞節を守り,また彼の妻が自分の夫に対して深い尊敬を示すとき,家庭内には平和,調和そして幸福がつくり出されます。品位と誉のある仕方,健全な仕方のうちに両人は,一つのからだとして愛の心をもって,互に結婚の分を果たすでしょう。「夫は妻にその分を果し,妻も同様に夫にその分を果すべきである。妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である。互に〔結婚の分を〕拒んではいけない。ただし合意の上で祈に専心するために,しばらく相別れ,それからまた一緒になることは,さしつかえない。そうでないと,自制力のないのに乗じて,サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない。以上のことは,譲歩のつもりで言うのであって,命令するのではない」。(コリント前 7:3-6,新口)パウロは譲歩のつもりでそう言いました。なぜなら,淫行は異教の世界でひろく行なわれていたからです。

      31 別れるかわりに,結婚したクリスチャンはつとめて何をすべきですか。しかし同意して別居している間,各自はどのような生活をすべきですか。

      31 献身して,洗礼をうけている夫婦は,ひとつの心,ひとつの思い,そしてひとつの目的をもって互に寄りそうよう一生懸命に努力すべきです。パウロは,さらにつづけて次のように言っています,「結婚している者たちに命ずる。命じるのは,私ではなく,主であるが,妻は夫から別れてはいけない。しかし,万一別れているなら,結婚しないでいるか,それとも夫と和解するかしなさい。また夫も妻を捨ててはならない」。夫からはなれて別居生活する妻は,神の次の律法をおぼえていなければなりません,「妻は夫が生きている間は,その夫につながれている。夫が死ねば,望む人と結婚してもさしつかえないが,それは主にある者とに限る」。(コリント前 7:10,11,39,新世)夫の律法にしばられている彼女は,未婚の婦人がするように異性と自由に交際できるなどと思ってはいけません。そうすることは,彼女の道徳的な清い立場を危険なものにします。もしよくよく判断してから後,彼女は自分の生ける夫と和解して,彼のもとに返る理由や道を探すかもしれません。彼女は彼と別居しているあいだ,放縦な行いや不道徳な行いをしないよう注意を払うでしょう。そのような行いは,彼に謙悪の気持をおこさせ,彼は彼女がもどってくるのをすこしも望まない,あるいは切望しないでしょう。そして,彼女を非難するか,または彼女に疑惑をもつでしょう。同様な規則は合法の離婚をせずに自分の妻からはなれる夫にも適用します。

      32 別居しているクリスチャンは,彼らがより高いどんなものを代表しているということをおぼえているべきですか。それでどんなコースを避けるべきですか。

      32 この面において,別居した配偶者たちは,自分たちが結婚の結合よりもさらに高いもの,大きいもの,そしてもっと重要なものを代表していることを記憶すべきです。これはクリスチャン会衆です。彼らはこのクリスチャン会衆と交わり,その中で彼らは神の御言葉の活発な奉仕者でなければなりません。それで,彼らは神の誉ある制度に非難と罵言をもたらすような行いを,ぜったいにさけるべきであります。

      33,34 (イ)宗教的に夫婦が不釣合なくびきを負っているばあい信者は不信者からはなれなくてはなりませんか。(ロ)信者は自分が真理を受け入れ,また献身したことの影響について,何をおぼえていなくてはなりませんか。

      33 しかし,夫婦が宗教的に不同のくびきのもとにいる場合はどうですか。すなわち,ひとりは献身して洗礼をうけている信者で,エホバ神の任命された奉仕者ですが,もうひとりは無神論者かあるいは他の宗教を信じているためにエホバの証者の新しい世の社会に対して不信者である場合です。そのような宗教的な不平等は,たいていの場合に不和をつくり出すでしょう。

      34 平和を追い求めるために,信者は不信者から去らねばなりませんか。かならずしもそれは必要でありません。また,信者は,自動的に不信者を捨てても良いということではないのです。私たちは次のことに留意すべきです。つまり,人は真理をうけいれて,神に献身し洗礼をうけても,以前の結婚のきずなを切る,あるいはやぶることにはなりません。御国の真理を信じて受けいれると,イエス・キリストがマタイ伝 10章34-36節で預言したように,家庭内に分裂を生じさせるかもしれません。しかし,それは結婚をやぶるという意味ではないのです。イエスは結婚の破壊者ではありません。不釣合なくびきを取りあつかう賢明にして楽観的な仕方は,パウロにより信者たちにこう述べられています。

      35 不釣合なくびきのばあい,それを取り扱うためにパウロは,賢明で楽観的などんな道を示していますか。

      35 「そのほかの人々〔結婚している人々〕に言う。これを言うのは主でなく,私である。ある兄弟に信じない妻があっても,もしその妻が共に生活していたいというのであるならば,夫は妻から別れてはならない。もしある女が不信者の夫を持っていて,彼が彼女と共に住んでいたいというのであるなら,女は夫から別れてはならない。なぜなら,不信者の夫はその妻によってきよくされ,また不信者の妻はその夫によってきよくされるからである。そうでなければ,あなたがの子供たちはたしかにけがれたものであるが,彼らはいまではきよい。しかし,もし不信者の方がはなれて行くなら,離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も,こうした場合には,束縛されてはいない。神はあなたがたを平和に暮させるために,召されたのである。なぜなら,妻よ,あなたが夫を救いうるかどうか,どうしてわかるか。また,夫よ,あなたも妻を救いうるかどうか,どうしてわかるか」。―コリント前 7:12-16,新世。

      36 結婚配偶者に及んだ真理の影響のゆえに,不信者はむしろ何をのぞむべきですか。

      36 その宗教あるいは信仰ということをのぞいては,献身して洗礼をうけている神の崇拝者は,不信者の妻に分かれさせたいという気持をいだかせるようなことをしてはなりません。夫が信仰を持ったために良い影響が示され,かえって妻は夫が神の任命された奉仕者になる前のとき以上に,いっしょに生活をつづけて行きたいとのぞむようにするべきです。信者の妻と不信者の夫という場合でも,同様なことが言われなければなりません。

      37 テモテの母親,ユニケは自分の異教徒の主人に対してどのように尊敬を示しましたか。しかしどのように彼らの息子に対して宗教的な責任を果たしましたか。

      37 ユダヤ人である妻ユニケと異教を信じていたそのギリシャ人の夫の例を考えてごらんなさい。この両人にはテモテという名前の息子がいました。時経て西暦44年頃,使徒パウロとバルナバは彼らの町で伝道し,ユニケと彼女の母親ロイスは信じてクリスチャンになりました。ユニケの夫はギリシャ人で,異教を信じていたので,彼女は彼と別れましたか。いいえ,彼は彼女と共に生活するのをよろこんでいたのです。ユニケは彼に服従しました。そして,彼が反対したため,彼女は息子のテモテに割礼を施させませんでした。父親がテモテを異教の崇拝の宮につれて行ったか,どうかは記録されていません。しかし,テモテの母親ユニケと彼の祖母ロイスは,彼に聖書的な宗教教育を施し,両人は家でテモテを教えました。それで,幼少の時から親のひとりがユダヤ人でなかったテモテは,聖なる書を知っていました。この書は,メシヤに対する信仰により救いにいたらせる知恵を彼に与えたのです。(テモテ後 3:14,15; 1:5。使行 14:4-18)テモテは,家庭でこのような宗教教育をうけたので,ギリシャ人の父親の異教的な影響に屈しませんでした。それで,パウロがはじめて町に来たとき,テモテはユダヤ人である母親と祖母に加わり,クリスチャンになりました。それで,パウロはテモテのことを「信仰による……真実な子」「愛する子」と語ることができたのです。―テモテ前 1:1,2。テモテ後 1:1,2,新口。

      38 テモテに対して宣教者の生涯がひらかれたとき,ユニケの態度はどうでしたか。その時なぜはじめてテモテは割礼をうけましたか。

      38 パウロがその町を再び訪問したとき,彼は「テモテという名の弟子がいた。……ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で,評判のよい人物であった」ということを知りました。息子が宣教者の生活をすることにたいして,テモテの母親ユニケはもちろん賛成し,異教を信じていた父親も格別反対しませんでした。それで,パウロはシラスとともにテモテも同行させることにしました。彼らが伝道する地方のユダヤ人にたいしてつまずきの石をとりのぞくため,パウロは青年テモテに割礼を施しました。「彼の父がギリシャ人であることは,みんな知っていたからである」。(使行 16:1-3,新口)彼の母親ユニケが,ギリシャ人で異教を信じていた夫と ― 彼が共に生活するのをよろこんでいたかぎり ― 一緒に生活して,ついに彼をキリスト教に入れたかどうかは分かりません。しかし,パウロは殉教の死をとげるすこし前に,テモテに最後の手紙を書きおくり,彼の母親ユニケに宿った信仰のことを語りました。―テモテ後 1:5。

      39 ユニケはどんな特定なクリスチャンの婦人の例ですか。そして信者は,相対的にきよめられたものとして,どのように不信者を扱うべきですか。またきよい者とみなされる子供を,どのように扱うべきですか。

      39 それで,ユニケは異教を信じる人,あるいは異なる宗教制度に属する人と結婚している献身したクリスチャン信者たちの手本です。不信者の配偶者がエホバの献身したクリスチャン証者と生活をつづけるということは,信者にすばらしい機会を与えます。すなわち,最も親密な隣人関係のうちに結婚配偶者を「救う」ために努力することになります。それで信者は,積極的な道を取らねばなりません。すなわち,不信者である配偶者は,信者により「きよめられた者」として取りあつかわれるべきです。すると,信者は,主に対するように,不信者なる配偶者に対してあらんかぎりのことをしなければなりません。主なる神は,きよめられた御方です。(エペソ 6:7。コロサイ 3:22-24)また,その結婚から生まれた小さな子供たちは,「聖なる者」と見なされます。それで彼らはきよい者として取りあつかわれねばなりません。信者はユニケの例にしたがい,そのような「きよい」子供たちに聖書教育を与えるように努力するでしょう。それは,彼らが聖なる状態を保って,ついにはキリストを通して神に献身するようになるためです。子供たちの救いだけでなく,不信者である結婚配偶者の救いも,危急存亡の状態です。それで,彼と共に生活することは適当なことです。

      40,41 (イ)不信者がよろこばしにくい人であるばあい信者はどうすべきですか。(ロ)この原則と一致し,不釣合なくびきをともにしているクリスチャンの妻に対して,ペテロはどのように助言していますか。

      40 たとえ結婚配偶者が反対して,よろこばしにくい場合でも,信者は分かれねばならないと感ずるべきではありません。信者は,区域内で家から家に伝道するとき迫害や反対に耐え忍ばねばならないのと同様に,迫害や反対を耐え忍ぶべきです。この行いによって不信者なる配偶者の救いは可能になります。使徒ペテロは,迫害をうけていたクリスチャンに次のような言葉を書きおくって,そのことを論じています。彼はこう述べています。

      41 「僕たる者よ。心からのおそれをもって,主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく,気むずかし主人にも,そうしなさい。……善を行って苦しみを受け,しかもそれを耐え忍んでいるとすれば,これこそ神によみせられることである。あなたがたは,実に,そうするよう〔不当の苦しみをうける〕にと召されたのである。キリストも,あなたがたのために苦しみをうけ,御足の跡を踏み従うようにと,模範を残されたのである。……同じように,妻たる者よ。夫〔ヘブル語聖書でバアルズ〕に仕えなさい。そうすれば,たとい御言に従わない夫であっても,あなたがたの〔夫たちに対する〕うやうやしく清い行いを見て,その妻の無言の行いによって,救に入れられるようになるであろう。あなたがたは,髪を編み,金の飾りをつけ服装をととのえるような外面の飾り〔外面の飾りは,神の御言葉に従わない夫たちを救いに入れません〕ではなく,かくれた内なる人,柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾りを,身につけるべきである。これこそ,神のみまえに,きわめて尊いものである。むかし,神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも,このように身を飾って,その夫に仕えたのである。たとえば,サラはアブラハムに仕えて,彼を主と呼んだ。あなたがた〔妻たち〕も,何事にも〔あなた方の夫に対して〕おびえ臆することなく善を行えば,サラの娘たちとなるのである」。―ペテロ前 2:18から3:6まで,新口。

  • 平和のために別居と離婚
    ものみの塔 1961 | 4月1日
    • 平和のために別居と離婚

      1 もし,最善をつくしても,不信者がはなれて別居することを選ぶなら,信者の配偶者はそれについてどうすべきですか。

      献身して洗礼をうけた信者たちが使徒パウロの助言に従い,ついに結婚配偶者を『救う』というよろこびを持つために不信者の配偶者と生活を共にしているという例はたくさんあります。しかし,信者が結婚生活をつづけて行くため神の御霊を用いて迫害や反対を耐え忍んでも不信者である配偶者が共にいることをよろこばず,ついにはなれて行って,別のところでひとりで独立の生活をする,あるいは離婚するとか合法的に別居するような場合にはどういうことになりますか。パウロは答えています,「しかし,もし不信者の方がはなれて行くなら離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も,こうした場合は,束縛されてはいない。神はあなたがたを平和に暮させるために,召されたのである」。―コリント前 7:15,新世。

      2 もし別居することになったばあいあとで再婚できる,離婚の聖書的な基礎がありますか。

      2 信者は,自分自身のクリスチャン平和のため,不信者の結婚配偶者がはなれて,別のところで生活するなら,そのようにさせます。のこされたクリスチャン信者が再婚しないのと同じように,分かれていった不信者も再婚しないでしょう。「しかし,万一別れているなら,結婚しないでいるか,それとも夫と和解するかしなさい」。(コリント前 7:11,新口)不信者の配偶者から分かれた信者は,配偶者から捨てられた,あるいは宗教が合わないという理由だけでは合法の離婚をする聖書的な根拠はありません。それで,たとえ離婚するにしても,彼は再婚することによって不満足な合法的な独身生活をやめる聖書的な自由はありません。イエス・キリスト自身は,その聖書的な自由がないと,次のように述べています。

      3 マタイ伝 19章3-9節によるとイエスはこのことについて何と言いましたか。

      3 「パリサイ人たちが近づいてきて,イエスを試みようとして言った,『何かの理由で,夫がその妻を出すのは,さしつかえないでしょうか』。イエスは答えて言われた,『あなたがたはまだ読んだことがないのか。「創造者は初めから人を男と女とに造られ,そして言われた,それゆえに,人は父母を離れ,その妻と結ばれ,ふたりの者は一体となるべきである」。彼らはもはや,ふたりではなく一体である。だから,神が合わせられたものを,人は離してはならない」。彼らはイエスに言った,『それでは,なぜモーセは,妻を出す場合には離縁状を渡せと定めたのですか』。イエスが言われた,『モーセはあなたがたの心が,かたくななので,妻を出すことを許したのだが,初めからそうではなかった。そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて,自分の妻を出して他の女をめとる者は,姦淫を行うのである』」。―マタイ 19:3-9,新口。申命 24:1-4。

      4 イエスの言葉は離婚を全面的に否定するような法律を通すことを,支持していますか。合法の離婚の件数を減少させる,あるいは防止するもっとも効果的な方法は何ですか。

      4 それで,国家の法律により,その理由がどんなものでも,たとえ姦淫が行なわれたにしても,離婚は禁ぜられるべきである,とイエスは言われていません。離婚をゆるさぬそのような法律の施行を主張する今日の牧師たちは,罪のない結婚配偶者を姦淫をしている配偶者に束縛しようとのぞんでいます。そのような法律により,彼らは姦淫を行なう配偶者を守ります。また罪のない配偶者に対する救助を許さぬことにより,彼らは夫婦の不貞をはげましたり,すすめています。もし罪のない配偶者が姦淫を行なっている者を離婚することを許可するなら,姦淫を行なっている者が司祭たちに告白して,司祭からいただく許しというものは効力がなくなるでしょう。そのような場合には,姦淫を行なっている配偶者は,司祭からさしのべられる罪のゆるしによって保護されないでしょう。この者は告白だけしても,改善しようとしない者です。合法の離婚を減少させる,あるいは防止する聖書的な仕方,そしてもっとも効果的な方法は,聖書とその道徳を教え,クリスチャン会衆を姦淫を行なう者から清く保つことによるのであり,全面的な反離婚法によるのではありません。そのような法律は,姦淫を中止させませんでした。

      5 どんな離婚は聖書的な基礎の上にたっていますか。それは罪を犯さぬ離婚者にどんな特権を許しますか。

      5 前述の言葉のなかでイエスが述べたごとく,新しい契約における神の律法は,正しい根拠にもとづく離婚をたしかに許しています。その聖書的な新しい契約の根拠は姦淫です。その根拠にもとづく離婚によれば,罪のない配偶者は再婚することができ,しかもその再婚によって姦淫を行なうことにはなりません。それ以外の根拠による離婚においては,合法的に分かれた者が再婚するなら,神の御前で姦淫の罪を持つ者になり,キリストの支配する神の会衆内にいるのにふさわしくない者になります。これこそ,山上の垂訓の中で述べたイエスの言葉の意味です。彼は預言者モーセが申命記 24章1節に記録した離婚の法律に言及して,次のように述べました,「『姦淫するなと言われていたことは,あなたがたの聞いているところである。………また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。しかし,わたしはあなたがたに言う。だれでも,不品行以外の理由で自分の妻を出す者は,姦淫を行なわせるのである。また出された女をめとる者も,姦淫を行うのである」。―マタイ 5:27-32,新口。

      6 聖書的な離婚と非聖書的な離婚は共に,女に姦淫を行なわせることになりますか。その両者のあいだには,どんな相違がありますか。

      6 もし献身したりクリスチャンが,姦淫を行なった妻を離婚するなら,彼女に姦淫を行なわせることになりますか。彼女はすでにその行いと選択により,姦淫を行なっている者です。離婚したから彼女が姦淫を行なうようになるのではありません。しかし,夫がそれ以外の理由によって,また国家の法律により認められている理由によって,すなわち淫行か姦淫以外の理由によって,妻を離縁するなら,彼女を将来の姦淫にさらすことになります。どうしてそうですか。なぜなら,神の律法によると,姦淫を行なわない妻は,そのような非聖書的な離婚では,その夫から全くはなれていることになりません。彼女はなお彼の妻であり,したがって再婚の自由を持たず,別の合法的な夫と性関係をむすぶことができません。

      7 それではイエスが出された女をめとる者は,姦淫を行なうと言った時,どんな種類の離婚者を意味しましたか。

      7 それで,「出された女をめとる者も,姦淫を行うのである」とイエスが言われるとき,彼は離婚された女の全部を意味していません。彼は「不品行以外の理由で」合法的に離婚された女を意味しています。その女とは,姦淫を犯さなかったのに離婚された者です。この同じ原則は,姦淫を行なわなかったが妻により離婚された夫にもあてはまります。彼と結婚する女は,彼を姦淫の行為にみちびき,そして彼女自身も姦淫を行なう女になります。

      8,9 (イ)マルコとルカの言葉はそれだけをとりあげると,すべての離婚者にとってどういう意味になりますか。(ロ)マルコとルカの言葉は,何と一致して説明されるべきですか。なぜ姦淫は結婚のきずなを破り,聖書的な離婚への道を開きますか。

      8 マルコ伝 10章11,12節にある離婚についてのイエスの言葉は次のようです,「だれでも,自分の妻を出して他の女をめとる者は,その妻に対して姦淫を行うのである。また妻が,その夫と別れて他の男にとつぐならば,姦淫を行うのである」。ルカ伝 16章18節も同様な言葉を記録しています,「すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は,姦淫を行うものであり,また,夫から出された女をめとる者も,姦淫を行うものである」。

      9 それらの節は,離婚を禁じていません。しかし,それらの節だけを取りあげると,離婚した配偶者が死なないかぎり離婚しても再婚はできない。そして,離婚した配偶者の生存中に再婚することは姦淫を禁ずる神の律法を破ることになる,という意味になります。しかし,離婚についてのイエスの言葉は,使徒マタイの記録した詳細な言葉に照らし合わせて説明されねばなりません。マタイの示すところによると,離婚についてマルコとルカの書いた事柄は,離婚する理由が不貞な配偶者の姦淫以外のものであるなら,真のことであります。遊女と淫行をする独身者は,自分の妻でない女と「ひとつのからだ」になります。同様に,姦淫をする者は自分の合法の妻と一体にならず,不道徳な者と一体になります。彼はその者とともに不法にも寝るのです。それで,姦淫をする者は,自分自身の肉に対して罪を犯します。まったくのところ,自分個人の肉に対して罪を犯すだけでなく,彼の合法的な妻に対しても罪を犯します。彼女はその時まで彼と「ひとつの肉」でありました。(コリント前 6:16,17)その理由の故に,姦淫は実際に結婚のきずなをやぶります。このわけで,姦淫が理由でなされる離婚は,合法の結婚のきずなを正式にそして最終的に解消します。その離婚によれば,罪を犯さなかった配偶者は誉の中に再婚することができます。しかも,離婚された有罪の配偶者の生存中でも,良い道徳にすこしの汚れなしに再婚できます。

      10 姦淫を行なった配偶者を離婚することはその者に何の自由を与えますか。そしてまた罪のない配偶者は自由に何をすることができますか。

      10 姦淫を行なった配偶者を離婚することは,その離婚された非行者を姦淫にさらすものではありません。むしろ,つづけられてきたその合法の結婚は,不貞の者を不道徳から守るのに失敗しました。それで,姦淫をして離婚された者と結婚するものは,不道徳な記録を持つ汚れた者と結婚するだけです。それで,この再婚は,姦淫を行なった者が初めて姦淫をするわけではありません。罪を犯さなかった結婚配偶者が,姦淫を行なった者を離婚するなら,罪を犯さなかった者は自由に再婚することができます。聖書的に離婚する者は,もはや愛情を感じなくなった不貞の配偶者,あるいは一緒に生活して性交をすることが身体的に安全でない者から逃げるために離婚するのではありません。聖書的な離婚をする人は,実際には再婚するため自分の身を自由にしているのです。貞節で献身している生涯の配偶者を持つ必要を感じ,再婚が適当と思われるかも知れません。離婚をする人は,姦淫を犯した配偶者を離婚することにより,その姦淫者に望む通りの生活,すなわち不道徳な生活をさせることになります。

      不道徳な者に対するさばき

      11 特にエホバが彼の宮に来ている今,合法的な結婚ということのほかに,より重大などんなことがらに,姦淫はわざわいを及ぼしますか。

      11 姦淫をするなら,離婚という結果が出じて,合法の結婚のきずなは災をうけます。しかし,それが神との関係に災をもたらすことはたしかです。神はさばきをするために,さばき主なる使者イエス・キリストとともに御自分の霊的な宮にいま来ておられるのです。エホバは次のように警告しています,「われ汝らにちかづきてさばきをなし巫術者にむかひ姦淫を行ふ者にむかひ……我を畏れざる者どもにむかひて速に証をなさんと万軍のヱホバ云いたまふ」。―マラキ 3:1,5。またヘブル 13:4。

      12 このような不道徳な人に関してなされた,公正な決定は何でしたか。不道徳な者が永遠の滅びから救われる唯一の道は何ですか。

      12 この神の裁きは,その姦淫を行なった者を会衆から追い出すことにより,排斥することにより示されます。次の裁定が会衆に伝えられています,「兄弟と呼ばれる人で,不品行な者……そんな人と交際をしてはいけない。食事を共にしてもいけない。……その悪人をあなたがたの中から除いてしまいなさい」。(コリント前 5:11-13,新口)道徳の正しい神の制度外には,永遠の生命がありません。それで,淫行者や姦淫者を除いてしまうことは,最初のさばきの行いです。それは永遠の滅びに通ずる道を示します。有罪者が神に対し心からの偽善的でない悔い改めを示そうとせず,また道徳的に清い状態を保って神の会衆に汚れをもたらさず。それに非難をもたらすまいという誠実な決意のうちに変化しないなら,彼は永遠の滅びをうけます。神は,悔い改めて,改善向上した罪人を復帰させる権限を会衆に与え,彼が清い会衆内で信頼をうける時にいたるまで,彼を試験にかけます。

      13,14 (イ)配偶者が姦淫をおかした時,結婚のきずなはどのようにして保たれ,夫婦がひきつづき共に住むことができますか。(ロ)どのような手段により会衆は,罪をおかさない許しを与えた配偶者が,排斥された配偶者と共に住まなくてもよいようにすることができますか。(ハ)姦淫をおかした者が許されたとしても,その人が会衆で持っている責任ある地位はどうなりますか。そしてなぜ?

      13 姦淫を犯した結婚配偶者が告白して,真心からの悔い改めを示し,今後は結婚の誓いを必ず守ると決意し,そしてゆるしを願い求めるなら,罪を犯さぬ配偶者は,その者をゆるして結婚関係をつづけ,その姦淫を行なった者を離婚しなくてもすむでしょう。特定の状況下では,これは結婚のきずなを守るだけでなく,罪のない配偶者が排斥された配偶者といっしょに生活し,食べ,そして寝なくてもすみます。どちらの方が霊的にむずかしい状態でしょうか。どのように?

      14 不道徳は,会衆内で持っている特権に影響します。このわけで,姦淫を犯す配偶者は,会衆の代表者にも告白しなければなりません。会衆の責任の地位についている僕たちは,罪を犯した者の悔い改めと改悛,およびそれが最初の非行かどうかを考慮に入れます。そして,罪のない配偶者が,悔い改めて,正しく生活をしようとしている配偶者をゆるしていることについて,あわれみの気持をもって尊重します。そして,夫婦の霊的な一致を保たせるために彼らは姦淫を犯した者を排斥しないでしょう。彼らは,ゆるされた罪人を試験にかけます。その実施については,彼らは罪のない配偶者に責任を持たせるでしょう。その試験期間は,罪を犯した者が正しい道徳生活をするようになったことをたしかめるのに十分の長さでなければなりません。そして,その人を援助して向上させるため丸1年のあいだ毎月その罪を犯した者について調べます。しかし,罪を犯したその人が会衆内の責任のある職務を持ち,奉仕の任命を持っているなら,会衆の代表委員は,その罪を犯した人からそのような職務や任命を取りのぞかねばなりません。なぜ? なぜなら,会衆内の責任の地位と特別な奉仕の地位を保つ聖書的な資格によると,それを保つ者は模範になる者,非難の打ちどころがない人,清い良心を持つ者,悪魔の手先たちから非難されないような者でなければなりません。(テモテ前 3:1-9。テトス 1:5-9)それで,行いを改めた姦通者が罪を犯さなかった結婚配偶者や会衆の代表委員によりゆるされたにしても,彼は職務や特別な奉仕をするのにふさわしいものではありません。

      15 どのような状況のばあい,罪をおかさない方の配偶者が許しても排斥をまぬかれませんか。

      15 多くの場合,罪を犯さなかった配偶者のゆるしは,その力においてごく限られたものです。それで,姦淫を行なった者から不道徳の重大な結果をことごとく取りのぞくことはできないでしょう。もしも不道徳な配偶者が,会衆外の人,たとえば淫行者や遊女のような者と姦淫をするなら,会衆はその外部の不道徳な者に対して処置を取る必要はありません。外部の淫行者あるいは遊女のゆるしを願う必要もなく,そのような不道徳な外部の者とのあいだの問題を解決する必要もありません。しかし,もし自分の会衆内で,あるいは他のクリスチャン会衆内で性的な不品行をするなら,罪を犯さぬ配偶者が許しても,排斥をまぬがれないでしょう。

      16 自分の会衆,あるいは他の会衆内で姦淫をおかすばあい,罪をおかさなかった配偶者が彼を許したとしても,なぜ罪をおかした者の属する会衆では彼を排斥しなくてはなりません。

      16 たとえば,同じ会衆内または別の会衆内の夫との姦淫,あるいは別の夫婦の妻との姦淫が行なわれたなら,または両親か後見人の監督をうけている若い年齢の者と姦淫が行なわれたとしましょう。すると,この道徳的な非行のために重大な影響をうける他の人々が,その件にはいってきます。自分の妻が犯された夫,他の妻と罪を犯した夫を持つ妻,自分の子供が汚された両親 ― 彼らはゆるしますか。あるいは,その不道徳な既婚者に対して懲罰の処置をとることをのぞみますか。罪を犯さなかった結婚配偶者は,自分ひとりの個人的な理由の故にゆるすかも知れません。しかし,その人は,傷つけられたこれら他の人々を許すことができません。個人的に,家庭的に許しても,その有罪者の外部の事を清算することができません。それは,会衆の懲罰の処置を求める外部の要求,あるいは国家の裁判所における合法処置による外部の弁償要求を,つぶすことができません。罪を犯さなかった配偶者が個人的にその非行者を許しても,会衆はその者の排斥を決定するでしょう。

      17,18 (イ)たとえば,どのようにして正式な役について旅行している男の人が,ほかの会衆を訪問し,誘惑にのる女たちを何人か堕落させ,そしてまちがった考えのもとに祈ることがありますか。(ロ)ユダはこのような人のことをどのように述べていますか。

      17 会衆の委員は,また非行の度をも考慮しなければなりません。それはどのくらい広がっていましたか。他の会衆は関係しましたか。彼らのそれぞれの制度は汚されましたか。たとえば,結婚している男子が数多くの会衆に定期的に訪問し,それら全部の会衆あるいはその中のいくつかの会衆内で,独身の婦人や妻たちに近づいて,不品行をしたとしましょう。それをのぞむ姉妹,あるいは誘惑に屈する姉妹がいるところで,彼は不品行をしたのです。彼は不道徳を行ないつづけており,しかも神の聖なる会衆内でしているのです。彼はいくつかの会衆で,神の制度をけがしています。彼は,それらの会衆に対してもっている責任ある地位を濫用しています。正式な奉仕にかこつけて,彼はひそかに自分の悪い欲望をみたしているに過ぎません。彼は,弱い,おく病な姉妹たちをおどして,彼の汚れた欲望に屈せしめてしまいます。彼はひそかに自分をゆるしてくれと神に祈るかも知れません。しかし,自分を制御して,自分を矯正しようという実際の努力は,すこしも払っていないのです。それで,彼は罪を犯しつづけます。そして,キリストを通して示される神のあわれみは,彼が犯している罪をとりのぞいてくれる,というまちがった考えを持ち,神の会衆の清さと名前については,すこしの考慮をも払いません。

      18 そのような人は,ユダ書 4節に言われている人々のひとりです,「不信仰な人々がしのび込んできて,わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え,唯一の君であり,わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは,このようなさばきを受けることに,昔から予告されているのである」。

      19 このような人は自分の妻に許され,また離婚されなかったにしても,なぜ排斥されねばなりませんか。

      19 神の定めたもう時が来て,この責任をになう旅行する人は見つけ出され,あばかれます。彼がその罪を認めると,彼の妻は彼をゆるします。しかし,彼女が彼をゆるしたことは役立ちますか。いいえ! そうしたところで,彼が当然の結果をまぬかれることはできません。彼は一晩のうちに変わることはできません。彼が己むを得ず,その悪を認めて,申し訳ないことをしたと言っても,それは彼が真実に矯正されたことを意味しません。彼は神の献身した民の会衆内にあって,危険な存在です。彼は群れ全部をふくらますことのできる強力なパン種であります。彼は,聖なるものを意識的に,たしかに汚す者であります。彼は信頼の置けぬ者,危険な者,私たちの中にいてはならない不適当な人です。聖書の原則によると,彼は排斥されねばなりません。たとえ彼の妻が彼をゆるして,彼を離婚しなくても,神の会衆は清められ,守られねばなりません。

      20 結婚していない成人の淫行者が自分の罪を告白したいばあい,どこに行くべきですか。そして会衆により彼はどのように扱われますか。

      20 しかし,成人の独身者が淫行をするなら,どういうことになりますか。彼は,その罪を告白すべき配偶者がいません。その悪事をしたことを悲しく思い,心から悔い改めるとき,彼は誰かのところへ行って,援助をうけることができますか。霊的な資格を持つ兄弟たちで成立つ会衆の奉仕委員は,全会衆に奉仕しています。もし独身者がエホバの律法を破るなら,彼はその罪を委員に告白することができます。そのとき,委員はそれぞれの場合に応じてどんな懲戒の処置を下すべきかを決定します。その者を排斥すべきか。または試験にかけるべきかを決定します。彼らは,会衆の福祉に対して責任を持っており,その決定は会衆の最善の福祉に役立つものでなければなりません。もしその独身者が早まった行いをしたなら,そしてそれが最初の悪行であり,彼の態度が真実の悲しみと悔い改めを示すなら,彼らはあわれみを施す義務をエホバの御前で負います。ちょうど,既婚の非行者に対する場合と同じく,彼らは彼に試験期間を課し,その期間中非行者は,彼の振舞と矯正の努力について奉仕委員に定期的に報告します。もし彼が僕なら,彼はもはや非のうちどころのない人とは言えないので,もちろんその職務を辞任しなければなりません。

      既婚者たちが平和を追い求める

      21 (イ)1958-1959年の奉仕年度中に,新世社会から何人の者が排斥されましたか。何人の者が復帰されましたか。排斥されたままでいる人は何人ですか。(ロ)排斥された者のパーセントが低いので無視されるべきですか。

      21 1958-1959年の奉仕年度中,6552名は,いろいろの理由の故にエホバの証者の新しい世の社会から排斥されました。その多くの理由は,淫行と姦淫,すなわち不道徳でした。適当で時機にかなう場合,あわれみが示されました。そして,かつて排斥された人のうち1597名は,敬虔な悲しみ,悔い改め,そして矯正されたことをはっきり証明したので,1958-1959年の奉仕年度中に復帰が許されました。これらの人々は,会衆内の全部の者の持つ一般的な特権を再び与えられる前に,相当の期間試験にかけられました。それで,同奉仕年度の終りの時において,最近の年月中に排斥された人々のうち,いまでも2万5143人はエホバの民の会衆から切り断たれていました。それらの人々を排斥せねばならなかったということは,極めて残念なことです。しかし,全地において伝道活動を報告している幾十万という人々のうち,わずか0.811パーセントの者だけが排斥されたということを知り,私たちは慰めをうけます。それは1パーセントの10分の8です。しかし,そのように少ない数であっても,それは私たち各人にたいする警告であります。

      22 結婚しているクリスチャンは何に召されましたか。そして彼らはどのようにこれを守るべきですか。

      22 排斥は,エホバ神との平和な関係から人を取りのぞきます。結婚しているクリスチャンたちは,神との平和がそのように破壊されることを恐れの念を持って避けねばなりません。神は結婚したクリスチャンたちを平和に召しました。(コリント前 7:15)その結婚状態において,彼らは神との平和を一生懸命に守らねばなりません。すなわち,それは夫と妻との間の家庭的な平和をでき得るかぎり守るということを意味します。この目的のために,彼らの生ばならず,また彼らと「一つの肉」になってい活は神とキリストに対して忠節なものでなけれる結婚配偶者に対して忠実でなければなりません。

      23 (イ)なぜ,特に今,昔のエデンにおけると同様,まちがった結婚の行為が許されませんか。(ロ)それでは,男と女に結婚を準備して下さった方を立証するために,結婚しているクリスチャンは何をすべきですか。

      23 いまや間近にせまったハルマゲドンの宇宙的な戦争後には,地的な楽園が復興されます。しかし,1919年以来の現在においても,大いなる耕作者にして栽培者なるエホバ神は,地上にいる彼の献身した証者たちを霊的な楽園にみちびかれました。彼らはそこで平和,よろこび,そして聖霊のむすぶ他のすべての実を楽しみます。そして,全世界にわたり御国の良いたよりを伝道する際に,良いわざの実をむすびます。この霊的な楽園では,完全なアダムとエバがいたときの最初のエデンの園の場合と同じように,一夫多妻とか,不正な結婚とか,夫婦の神権的な関係に対する無視というようなものをゆるす余地はありません。結婚している多数の信者たちは,この状態を十分に認識しており,愛する結婚配偶者の救いをはかるように働きます。その結婚の行いにより,彼らが神をあがめますように。彼らのうける報いは大きいでしょう。彼らの結婚は,神の目的を果たし,神が夫と妻というこの威厳に満ちた,誉ある平和な結合を愛の御心から供給されたことを立証する際その役割を果たすでしょう。

  • 真理はアフリカ人に自由を得させる
    ものみの塔 1961 | 4月1日
    • 真理はアフリカ人に自由を得させる

      かつてイエス・キリストは言われました,「真理は,あなたがたに自由を得させるであろう」。(ヨハネ 8:31,32,新口)つぎに述べる経験からイエスの言葉がいかに真実であるかが分かります。

      リベリアのある地域で,エホバの証者が大胆に伝道する聖書の真理と,村の中で「ひょう」という言葉を口にしたり,頭にのせる以外の方法で水を運んだり,日没後に米をついたり,やしの油を燃やしたり,町の中で木を割ったり,ぬれた魚をとる網を村にもちこんだりすることを禁ずる迷信深い村の法律とが対決しました。聖書の真理を学んだある村人たちは,そのようなばからしい法律のそくばくから抜け出しました。そういう場合,エホバの側にきた者には,たいへんな罰が下るということを宣告されるのが普通ですが,何事も起きないので,村人たちはみなそのようなばかげた拘束に徐々に背を向けはじめます。しばらくして村人たちはそのことに感謝します。過去長い間,習慣に従って死んだ夫にそなえ物をささげてきた老婦人は,うれしそうにエホバの証者に言いました,「私たちは自由になりました」。

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