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  • 人々を動揺させているいろいろな変化
    目ざめよ! 1970 | 7月22日
    • 人々を動揺させているいろいろな変化

      諸教会は急速に衰退しています。教会が依然として最高の人気を博しているアメリカでさえ,世論調査を受けた人々は4人につきほとんど3人の割合で,教会が影響力を失っていると答えました。教会はなぜそれほど衰退しているのですか。

      一つには,自分たちの教会で起きている事柄のために信者が動揺しているからです。そうです,かつて救いに不可欠なものとして教わった事柄が今や自分たちの教会により誤りとされるに至ったことを知って,大ぜいの人々は深刻な衝撃を受けています。あなたも自分の教会で起きている事柄のために失意,あるいは絶望をさえ感じましたか。南米コロンビア,メジリンの一実業家は,そうした変化が多くの人に及ぼした影響のほどを述べました。

      「何かに確信を持つなどということが,どうしてできるでしょうか。聖書や神を信ずる,それどころか信仰を持つことさえ,どうしてできるのですか。10年ばかり前,私たちカトリック教徒には絶対的な真理があり,それを心から信じていました。ところが今や,教皇や司祭たちは,そうすることはもはやできない,われわれは“新しい事柄”を信じることになった,と言うのです。その“新しい事柄”が,5年たてば真理になるという保証がどこにあるのですか」。

      人々を動揺させているそうした変化の幾つかを取り上げてみましょう。

  • 金曜日に肉を食べてもかまいませんか
    目ざめよ! 1970 | 7月22日
    • 金曜日に肉を食べてもかまいませんか

      何百年来,カトリック教徒は金曜日に肉を食べませんでした。それは教会の戒律だったのです。それは全能の神の律法である,と多くの信者はまじめに信じていました。ところが今それは変わりました。

      金曜日の肉食を禁ずる戒律が課せられたのは,実はわずか1,100年ばかり前のことで,その制定者は教皇ニコラス1世(858-867年)です。カトリック教徒がそれを守るのはどれほど大切なことでしたか。

      カトリック教会の公認を意味する出版許可の付されたある出版物はこう述べています。「カトリック教会によれば,カトリック教徒が十分にゆゆしく,かつ容赦すべき理由なしに,知ってのうえで金曜日に故意に肉を食べるのは大罪である」。そして,同「教会によれば,大罪を犯して悔い改めずに死ぬ者は地獄に落ちるとのことである」とつけ加えています。―ランブル,カーティー共著「ラジオ問答」(1938年版)。

      それで敬虔な信者は金曜日の肉食を注意深く避けました。そうしないならば火の燃える地獄で永ごうの刑罰に処される,ということをまじめに信じていたのです。

      ところが1966年の初め教皇パウロ6世は,国情に応じて必要であればこの戒律を緩和してもよいとの許可を各国の教会当局者に与えました。教皇のこの処置は,その少し前に終わった第二バチカン公会議の勧告に応ずるものでした。こうして,金曜日に肉食を慎む戒律は,フランス・カナダ・イタリア・メキシコ・アメリカその他の国々で次々に事実上廃止されました。

      その影響

      多数の敬虔なカトリック教徒に与えたその影響には壊滅的なものがあります。アメリカ中西部の一主婦は述べました。「私は今までずっと,金曜日に肉を食べるのは罪だと考えていましたが,今度突然,そうでないことを知りました。こんなこと,とても理解できませんわ」。

      もしあなたがカトリック教徒なら,教会が“大罪”とみなしていた行ないがどうして突然許されることになったのか理解できますか。5年前に罪とされていたことが,どうして今では罪ではないのですか。カトリック教徒の多くは理解に苦しんでいます。

      自分の教会のいろいろな変化をどう思うかと尋ねられたカナダの一婦人は答えました。「わかりませんわ。あなたに教えていただけませんか。金曜日に肉を食べたばっかりに地獄に落ちた人々すべてを,教会はどうするつもりかしら」。

      こうした疑問を発しているのは,決して少数のカトリック教徒だけではありません。教会の教えに関するこうした変化のため,教会に対する信者の信頼は揺らいでいます。救いを得るのに不可欠なものとして日ごろ教えられてきた事が突然無用とされるなら,だれしもそうした気持ちになるのではありませんか。

      とは言っても,金曜日に肉食を禁ずる戒律にかんする見解が完全に変わったわけではありません。カトリック教徒は今でも“聖金曜日”に肉を食べることは禁じられています。また,四旬節の時期の金曜日に肉食を禁ずるところもあります。

      しかし一年のうちの他の金曜日には許されていながら,“受苦日”に肉を食べるのはどうして悪いことなのですか。考え深い人はこのことに疑問をいだかざるを得ませんでした。

      多くの人はこの教えをはじめ,教会の他のいろいろな教えの根拠に関して質問するようになりました。しかし特に彼らを動揺させているのは,満足な答えが得られないことです。

      明らかにされた事柄

      カトリック教会がみずからの見解を聖書から説明できないということは,ある重大な事実を明らかにするものです。つまりカトリック教会の教えは,神のみことば聖書に基づいていないのです。むしろその信条また慣行の多くは,人間製の変わりやすい伝統に基づいているのです。

      このことは,金曜日の肉食を禁ずる戒律からもよくわかります。聖書のどこを捜しても,一年のうちのどの金曜日であれ,また他のどんな日にしても,クリスチャンがかつて肉食を禁じられたとすることばは一つもないからです。それは神のご要求ではありません。事実,カトリック・バルバロ訳聖書は,「感謝をもって受けさせようとして,神が創られた食物を断てと」命ずるのは,信仰からの逸脱の証拠であると述べています。―テモテ前 4:1-4。

      したがって,多くの真理探究者の目は開かれ,カトリック教会が神のみことばを堅持してきたのではないことを思い知らされました。それで,そのような教会は,はたして信頼し,支持するにふさわしいかどうかが疑われているのです。

      しかしほかにも人々を動揺させているいろいろな変化があります。

      [9ページの図版]

      金曜日に肉を食べたばっかりに地獄に落ちた人々はどうなるのかしら?

  • 人々を混乱させる落ちた聖人
    目ざめよ! 1970 | 7月22日
    • 人々を混乱させる落ちた聖人

      昨年5月,カトリック教会の典礼用公式カレンダーから多数の聖人が“落とされた”ことを報じた新聞の第一面の記事は,アメリカその他の国のカトリック教徒に大きな衝撃を与えました。“落とされた”という表現が,聖人の廃止を意味することは,多くのカトリック教徒にはっきりと理解されました。そのために広まった混乱と不満はいまだに跡を断っていません。

      アルゼンチンのある前校長は言いました。「何百年来,聖人を崇拝してきたにもかかわらず,つい最近になって,そうしてはならないと教会が言うのは,理解に苦しむことです」。

      オランダの一青年は,「われわれの先祖が絶えずだまされてきたのか,今度はわれわれがだまされているかのどちらかである」と評しました。

      なかでも,格下げされた聖ヤヌアリスが崇拝されているイタリアの,ある地区のカトリック教徒の動揺には著しいものがあります。問題のニュースに接した一婦人は叫びました。「まあ! なんということでしょう! もう何もかもわからなくなってしまいました。わたしは聖ヤヌアリスを信じていますから,あの聖人をこれからも守りますわ」。

      こうした変化は何を意味しますか。カトリック教会は今や聖人の崇拝を禁ずるのですか。宗教的なメダル類は廃棄されるのですか。

      行なわれている事柄に見られる矛盾

      何が行なわれているかは場所によって違います。なかには,教会堂から聖人の像が取り払われているところもあります。たとえばカナダのカトリックの一婦人は嘆きました。「何もかも変わりました。いろいろな像が取り去られ,私たちの教会では聖母マリアさまさえ運び出されてしまいました」。

      ところが,公式には,“落ちた”つまり格下げされたにもかかわらず,人気のある聖人が依然として崇拝されているなど,ほとんど変わりのないところもあります。南米のあるカトリック教徒は述べました。「教会の言明はあいまいです。なぜなら,教会は,町の守護聖人を崇拝するのは今後ともなんら悪いことではない,としているからです」。

      多くの人は首をかしげざるをえません。教会が,ある場所では像の使用としてそれを廃棄

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