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不親切な考えをいだくことのないようにしなさいものみの塔 1973 | 11月1日
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邪悪な道を歩み始め,結果として創造者を中傷することになりました。(創世 3:1-5)後に,悪魔は神のしもべすべての動機に疑いを投げかけました。それはどんな結果を招きましたか。今や,悪魔は自分の疑いの正しかったことを証明するために,あらゆる手をつくしています。そしてこのこともまた,過度に疑い深くあってはならない理由のひとつであることに注意しなければなりません。さもなければ自分の疑いを証明しようとして自分を他の人の敵にする危険が常にあります。―黙示 12:10。
また,不親切な考えは他の人に対してあまりに批判的であったり,多くを期待しすぎたりする結果生じることもあります。わたしたちには取るに足りない,さほど重要でないように思えるものが,他の人にとって偉大な勝利もしくは成果であることを表わす場合があるのを知っておくのは良いことです。いわゆる“世代の断絶”のみられる家庭の場合,親が子どもに対して,また子どもが親に対して批判的にすぎることが大きな原因になってはいないでしょうか。家族の各人は,「欠点のない友を求める人はひとりの友も得られない」というトルコの格言から教訓を学び取るとよいでしょう。
特に,外国を旅行する人は不親切で過度に批判的な考えをいだかないように注意する必要があります。不思議な光景や習慣を見て,自分の国の情況とそれとを比較して良くない結論を下しがちです。しかし,そうする代わりに,感情移入の態度を示す,つまり他の人の立場になってみるほうがよいのではないでしょうか。そうするなら,人びとが環境にどの程度犠牲になっているかがわかり,寛大な見方をすることができます。正しい見方をするなら,その土地の人びとが現在の環境のもとで成し遂げている事柄を心からほめることができます。
人の欠点ばかりをむやみに意識するのではなく,良い点に注目して他の人びとの行なう事柄を楽しむようにしてください。講演者がある表現を何回も用いることに気づいて,その表現が何度用いられるかを数えた愚かな人のようであってはなりません。その人がもし,話されている論議に注意を集中し,講演者の誠実な態度に感謝の念をいだいたなら,その話からはるかに多くの益を得ていたでしょう。
ですから,あなた自身のために,また他の人との良い関係を保つために,不親切な考えをいだかないよう警戒してください。そのような考えをいだく代わりに,霊感を受けた次の助言に従ってください。「終わりに,兄弟たち,なんであれ……愛すべきこと,なんであれよく言われること,またなんであれ徳とされることや賞賛すべきことがあれば,そうしたことを考えつづけなさい」― ピリピ 4:8,新。
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現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本ものみの塔 1973 | 11月1日
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現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本
先回の記事では,1949年に東京と神戸で最初の宣教者の家が設けられたことが説明されました。今回の報告は,神戸の家から行なわれた活動に関する記録から続けられます。
神戸の初期の家庭聖書研究の幾つかはすぐれた実を結びました。メルバ・バリーは,日本で初めて証言をした朝,ほんの数軒訪問した後に高木美代という婦人に会い,親切に迎え入れられた,と語っています。高木婦人は,宣教者たちがぬかるみの原っぱを通って自分の家に来てくれたことに感激しました。再訪問の時,ふたりは和英辞典と首っ引きでお互いの話を理解しようと懸命でしたが,やがてそれは非常にすぐれた研究になりました。今日では,いっしょに聖書研究に参加していた隣人と高木美代のふたりは王国奉仕者として働いており,そのうちのひとりは10年以上も正規開拓奉仕に携わっています。
日本での証言には,一風変わった問題が伴います。宣教者は,できれば,聖書研究の際にちゃぶ台の前であぐらをかいて座わることに慣れるようにしなければなりません。家に上がる時には靴をぬがなければなりませんから,靴下はきれいか ― 穴があいていないか ― などに注意しなければなりません。宣教者のひとり,ロイド・バリーは,家庭聖書研究を終えて帰るために玄関に出たところ,泥棒に靴を持って行かれていた,ということもありました。
神戸に派遣された宣教者たちが到着してまもなく,日本で最初の神権的な大会が取り決められました。場所ですか。それは,広々とした幾つかの部屋と,4,000平方㍍以上の敷地を持つ神戸・垂水の宣教者の家でした。大会の間,40人以上の人びとが宣教者の家に泊まりました。庭とポーチは炊事場や簡易食堂となり,大きな居間は大会会場になりました。ドン・ハズレットは近くの風呂屋でバプテスマを施し,3人の新しい伝道者がバプテスマを受けました。日本人は非常に熱いふろに入ります。お湯があまりに熱かったので,ハズレット兄弟は中に入ったとたん飛び出てしまいました。兄弟の両足はまるでエビのように真赤になっていました。バケツで何杯も水を加えて初めて,ハズレット兄弟は新しい兄弟たちにバプテスマを施すため改めて湯船に入ることができました。
大会は,日本人にとって最も忙しい時期である12月30日から1月1日にかけて行なわれたにもかかわらず,非常に良い支持が見られました。1950年1月1日の日曜日に神戸の垂水小学校の講堂で行なわれた大会の公開講演を,合計101人の人びとが聞きました。この最初の大会に出席した人びとの何人かはその時以来引き続き進歩を遂げました。その中には東京の年若い一女学生が含まれていました。彼女は,前号の記事の中でふれた三浦勉の妻,つまり三浦康子夫人として現在日本支部で奉仕しています。
1950年の2月には,神戸の宣教者の家にいた5人のオーストラリア人宣教者に,ロイス・ダイア,モリ・ヘロン,モイラ・ウェルシー・スミス,グレース・バグナール,ノラ・ストラットンの5人のニュージランドおよびオーストラリアから来た姉妹たちが加わりました。これらの姉妹たちの経験をすべて書き記すなら,何冊もの本ができ上がるでしょう。西オーストラリア出身のロイス・ダイアの日本での証言の開始は危なっかしいものでした。自分では,「わたしは戸別に説教しています」と人びとに言っているつもりでしたが,発音が正しくないために,「わたしは戸別に咳をして回っています」となってしまいました。その時,彼女は実際に風邪を引いていました。
ことばの問題のため,神戸の集会は数か月間英語だけで行なわれました。しかし,1950年4月1日の記念式のさいには,ひとりの関心のある人に通訳をしてもらうことができました。そこで,すべての人を記念式に招待したところ,180人という予期していた以上の人が出席して,宣教者の家の3つの部屋と廊下は満員となり,窓越しに話を聞かねばならない人もいました。話のあと野外奉仕の取り決めが発表されました。翌朝,35人もの新しい人が野外奉仕に参加するためにやって来て宣教者たちを驚かせました。それぞれの宣教者が3,4人を伴って奉仕しました。しかし,このことは会う人びとに強い印象を与える点で役立ちました。
神戸における伝道のわざはよく進歩し,その結果,1950年4月に会衆を組織することが可能になりました。同奉仕年度の終わりまでには,この会衆は60人の伝道者を報告していました。それらの伝道者の幾人かは,今日に至るまで,特別開拓奉仕や巡回奉仕を行なっています。やがて集会の出席者はふえて,宣教者の家の居間に入りきれなくなったので,家の前の広々とした芝生の上で数か月間集会を行ないました。上は青天井で,瀬戸内海から吹き寄せる新鮮な微風は換気の役目を果たしました。奉仕会の出席は120人以上にもなり,神権宣教学校には20人以上の地元の男子が入学していました。
神戸会衆の最初の監督,パーシー・イズラブは勇敢にことばの問題に取り組みました。彼の話を聞いていた人びとすべてにとって忘れることのできない話のひとつは,ヨハネ伝 21章15-17節に基づいた話でした。文法学者でないイズラブ兄弟は,ことばの意味を少しばかり取り違えて,イエスはペテロに ―『わが羊を牧え』ではなく ―『わが羊を食え』と言われた,と3度述べて話を力強く最高潮にもってゆきました。聴衆は要点をつかみました!
朝鮮戦争が勃発したために,1950年の6月に朝鮮から空路日本にやって来た8人の宣教者が,突然神戸の宣教者の家に現われました。そうです,神戸の宣教者の家には18人の宣教者の家族を収容するに足る部屋が備わっていたのです。また,神戸はなんとよく伝道されたのでしょう。広大な市街地は第二次世界大戦中の空襲で石とがれきの原と化していましたが,主の「ひつじ」は防空壕の中から,掘っ立て小屋の中から,そして再建された家々の中から見いだされました。1950年8月には,神戸に留まっていた16人の宣教者は合計359件の家庭聖書研究を報告しました。
1950年に神戸地方を襲った最初の台風は,それまでに経験した最悪のものとして宣教者たちの記憶に残っています。日曜日の朝,宣教者はみな戸別伝道に出かけていました。しかし,風がますます大きなうなり声を上げ始めたので,全員は各自の区域から家に帰り始めました。何人かは家に帰ることができましたが,他の宣教者たちは深夜過ぎにずぶぬれになって帰ってきました。ひとりの姉妹は7時間も電車の中に閉じ込められていました。また,他の宣教者たちは強風に耐えそうながっちりした構えの駅の構内に避難していました。宣教者の家では40枚以上の屋根瓦が吹き飛ばされ,さらに波状の鉄板の屋根覆いが強風にあおられて幾枚か外を飛んで行くのが見えました。階段のところにあった窓からは風が吹き込んできました。滝のように流れ込む水を防ぐために,それらの窓に急場しのぎの板が打ちつけられました。嵐が去り,最後の宣教者が無事に家に帰ってきた時はほんとうにほっとしました。
イルマ・イズラブは宣教者の家の近くの,ある医師の家族と聖書を勉強しました。宣教者のひとりノラ・ストラットン姉妹が病気になった時,その医師は,彼女が死ぬまで1年以上にわたり医療を施してくれました。しかも,その医療費を全額協会に寄付しました。そして同医師は,宣教者の家の海を隔てた向い側にあって,昼も夜も光り輝いている灯台を指さし,「この宣教者の家は,ちょうどあの灯台のように,このあたりの人びとの霊的な光のみなもととなるでしょう」と言いました。彼の言ったことはなんと真実だったのでしょう! 仏教の迷信的な慣行を突破して,真理は神戸地方で驚くほどの拡大をみました。そしてこのような拡大の中で,宣教者の家は1954年4月に市のさらに中心部に移りました。神戸の宣教者の家から証言が行なわれた区域には,今では11の会衆があり,1972年7月にはそれらの会衆は合計730人の伝道者を報告しました。そのうちの76人は全時間の開拓奉仕者でした。
宣教者のわざは名古屋で開始される
朝鮮から移ってきた8人の宣教者,つまりドンおよびアーリーン・スティール,スコットおよびアリス・カウンツ,グラディスおよびグレイス・グレゴリー,ノーリン・ミラー,そしてフロー・マンソは1950年10月以降,神戸市から160㌔ほど離れた名古屋市で新たに購入された宣教者の家に住むことになりました。この広々とした宣教者の家は畳やふすまなどのある典型的な日本家屋でした。ふすまや障子で仕切られた日本家屋の各部屋では,近くにいる人を無視する,あるいはそこに人がいないと思い込むという,一種の哲学理念を持つことによって初めてプライバシーが得られます。これに慣れるには幾らか時間がかかりました。宣教者たちはよく冗談に,「私の部屋のセミプライバシー(プライバシーが完全に保たれないこと)」について話したものでした。名古屋の宣教者たちも,彼らより先に来ていた他の宣教者たちと同様に,おもに野外における苦しい経験や間違いによって日本語を学ばなければなりませんでした。
名古屋の宣教者たちは,人びとのあいだに封建的な家族制度が依然として非常に根強く存在していることを知りました。50歳を過ぎた男(もしくは女)の人が,聖書を勉強することを父親,あるいは母親が許してくれない,と言いました。80歳から90歳の全く力のなくなった老人が依然として家族を治めている場合もありました。婚家に嫁いだ娘は事実上しゅうとめの奴隷になりました。ある年配の姉妹はこの習慣を実際的に,また親切な方法で活用し,自分が正規開拓奉仕をしている間,嫁に家事をしてもらいました。こうして,その年配の姉妹は今では15年以上も開拓奉仕を続けています。やがてその姉妹の夫,息子,そして息子の嫁,つまり家族の全員が真理を受け入れ,真に一致した家族になりました。
グラディス・グレゴリーは宣教者の家のすぐ近くに住んでいたある家族との聖書研究について次のように述べています。戦時中,その家の主人は軍隊におり,母親は近くの小さな畑で野菜を栽培していました。また,彼女は赤ん坊を背中におんぶし,ふたりの子どもの手を引いて,何㌔も離れたいなかに歩いて米の買い出しに行ったものでした。着物を着,髪をうしろに束ね,ひやけした顔のその母親は,30過ぎとは思われないほどふけて見えました。宣教者たちが訪問した時,家族全員がそれを待っていたことがわかりました。そして,家族の聖書研究が始まりました。その家族は名古屋における最初の伝道者のグループにはいります。その家の母親とグレゴリー姉妹は非常に親しくなりました。母親はグレゴリー姉妹から真理を学び,グレゴリー姉妹は母親から日本語を学びました。初めのうちは,グレゴリー姉妹の日本語はその婦人の発音に似ていると言われましたが,後には,彼女の日本語のほうがグレゴリー姉妹の発音に似てきて,英語の鼻声がまじるようになりました。この家族は仏教
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